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36.〔死〕
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感動の再会から、数日後。
信二は、救急病院で、死の淵にいた。
肺炎だった。
痰が気切から肺に流れ込み、炎症を起こしていた。
ある夜中に息苦しさを覚えた信二は、清子を起こそうと、足先に設置されたボタンを押そうとした。
……だが、足が動かない。
昨日までは、辛うじて、足を延ばすことはできた。
だから、清子の寝室で呼び出し音が鳴るように、足の少し先にボタンが設置されている。
そのボタンに、足が届かない。
昨日までできたことが、突然できなくなった。
信二は、愕然とした。
パニックになった。
呼吸が苦しくなり、恐ろしさが信二を襲う。
しかし、いかにパニックになろうが、恐怖に襲われようが、鳴らせないものは、鳴らせない。
呼吸器も正常な呼吸ができていないことを示す、アラーム音が鳴り始めた。
だが、看護疲れで、二階でぐっすり眠る清子の耳には、届いていない。
やがて、信二の意識は、薄れていった。
清子が、呼吸器のアラーム音に気づき、転げ落ちそうになりながら、階段を下りてきたのは、明け方だった。
慌てて、吸引を始める。
吸引をしながら、
「あなた!」
と、呼びかける。
だが、呼吸器は、正常な呼吸を認めず、アラーム音が鳴りっぱなしだった。
清子は、救急車を呼びに、電話へと走った。
信二は、夢を見ていた。
サバンナ奥地で、ハンモックに揺られ、寝ている夢だった。
傍らには、カゼが寝ている。
「カゼ」
と、声をかけた。
自分が、喋れることにびっくりした。
(今まで、なぜ喋らなかったのだろう)
とさえ、思った。
カゼが信二の足に、前足を乗せてきた。
「重いよ、カゼ」
と、笑いながらも、手を伸ばし、カゼの頭を撫でた。
不思議と、手も足も動く自分に違和感はなかった。
掌を通じて、カゼの温もりも、毛皮の柔らかさも伝わってくる。
すると、もう一頭、別のチーターが、ハンモックの反対側から顔を出した。
信二は、ランだ、とすぐに気がついた。
さらに、カゼの子供たちも両親の体を伝って、ハンモックに横たわる信二の胸に乗ってきた。
「はっはっはっはっ……。重いなあ、お前たち」
信二は、穏やかに、子供たちの頭を撫でた。
「そうか。カゼ。
……やっぱりお前は、家族が欲しかったのか」
信二は、カゼの額をつついた。
カゼは嫌がるように、体をねじって逃げる。
笑った信二が、ふと見ると、少し離れた場所に、ヒョウが横たわっていた。
ヒョウの口には、あの母ザルの死体がぶら下がっている。
カゼが振り返り、ヒョウを見た。
するとカゼは、子供たちを守るように、四肢を張り、唸り声をあげた。
すると、ヒョウの背後から、どす黒いものが現れた。
(〔死)だ!〕
と、信二は直感した。
そのどす黒い〔死〕が、ヒョウを包み、クロヒョウへと姿を変えた。
さらに、クロヒョウの姿が、巨大に膨らんでいく。
クロヒョウの目が光り、車のヘッドライトのように、こちらを照らした。
信二には、クロヒョウが〔死〕の権化のように見えた。
すると、大きなクロヒョウが立ち上がり、咆哮をあげた。
その時、クロヒョウの口にくわえられていた母ザルは、バキバキと音を上げて砕かれた。
とても凄まじい咆哮と、肌がザワつくような骨が砕かれる音は、信二を恐怖で包んだ。
(とても、こんなものにかなうわけがない)
その恐怖の先には、さらに別の感情があることを、信二はすでに知っている。
絶望、だ。
信二は、
(こんな巨大な〔死〕から、逃れられるわけがない)
(死ぬんだ。俺は死ぬんだ)
という、今まさに絶望を感じ、ガタガタと震えていた。
震える信二を見て、ランが身構える。
そして、ランはカゼとともに、クロヒョウに向かっていく。
その時、信二は確かに見た。
カゼとランの中から、命の光が輝き始めたのを。
そして、一歩、一歩、とクロヒョウに近づくにつれて、その輝きが強くなっていくのを。
その光を見て、信二の震えは、収まっていった。
優しくて、温かい光だった。
やがて、カゼとランの光に照らされた〔死〕は、悲鳴を上げ、ドロドロに溶け始めた。
「ああっ……」
思わず、信二はハンモックを降り、〔死〕の亡骸に近づく。
だが、すでに〔死〕は消え去り、そこにはサバンナの地が見えるだけだった。
振り返った信二は、何か違和感を感じた。
いつの間にやら、濃い白い霧が、信二の周りに漂っている。
カゼの子供たちの姿も濃い霧に隠され、見えない。
いや、子供たちだけではない。
先程まで信二の側に立っていたはずのカゼの姿も、ランの姿も、ない。
慌てて、信二は、
「カゼ―!ラーン!」
と、彼らを呼んだ。
だが、返事はなかった。
知らぬ間に、信二は、一人きりになっていた。
その時、初めて信二は、〔死〕が生み出す、絶望の先の、最後の感情を知った。
……それは、悲しみ、だった。
もう二度と、カゼたちにも会えない悲しみ。
オニャンゴやケムワ、友人にも会えない悲しみ。
いや。
何よりも深いのは、清子や紘一、愛する家族に、もう二度と会えない悲しみだった。
信二は、
「うあぁぁ…ああぁぁぁあぁぁ……」
泣き声をあげた。
赤子のように泣きじゃくっていた。
何もない空間に、信二の泣き声だけが響く。
……………。
それから幾時が経ったのだろう。
いまだ泣きじゃくる信二の掌に、何かが当たった。
信二が、涙目で見ると、そこにはカゼがいた。
カゼは、信二の掌に、自分の頭を押し付けていた。
まるで、
(ここにいるよ)
と、信二を慰めているようだった。
信二は、涙を拭くと、カゼを抱きかかえた。
そして、カゼを抱えたまま、サバンナに寝転がった。
すると、カゼは、じゃれるように、信二の胸に乗ってくる。
信二は言った。
「本当に、重いなあ、お前は。
息ができないよ」
信二は、病院で息を引き取った。
その死に顔は、恐怖で歪んだ顔ではなく、笑っているように見えた。
信二は、救急病院で、死の淵にいた。
肺炎だった。
痰が気切から肺に流れ込み、炎症を起こしていた。
ある夜中に息苦しさを覚えた信二は、清子を起こそうと、足先に設置されたボタンを押そうとした。
……だが、足が動かない。
昨日までは、辛うじて、足を延ばすことはできた。
だから、清子の寝室で呼び出し音が鳴るように、足の少し先にボタンが設置されている。
そのボタンに、足が届かない。
昨日までできたことが、突然できなくなった。
信二は、愕然とした。
パニックになった。
呼吸が苦しくなり、恐ろしさが信二を襲う。
しかし、いかにパニックになろうが、恐怖に襲われようが、鳴らせないものは、鳴らせない。
呼吸器も正常な呼吸ができていないことを示す、アラーム音が鳴り始めた。
だが、看護疲れで、二階でぐっすり眠る清子の耳には、届いていない。
やがて、信二の意識は、薄れていった。
清子が、呼吸器のアラーム音に気づき、転げ落ちそうになりながら、階段を下りてきたのは、明け方だった。
慌てて、吸引を始める。
吸引をしながら、
「あなた!」
と、呼びかける。
だが、呼吸器は、正常な呼吸を認めず、アラーム音が鳴りっぱなしだった。
清子は、救急車を呼びに、電話へと走った。
信二は、夢を見ていた。
サバンナ奥地で、ハンモックに揺られ、寝ている夢だった。
傍らには、カゼが寝ている。
「カゼ」
と、声をかけた。
自分が、喋れることにびっくりした。
(今まで、なぜ喋らなかったのだろう)
とさえ、思った。
カゼが信二の足に、前足を乗せてきた。
「重いよ、カゼ」
と、笑いながらも、手を伸ばし、カゼの頭を撫でた。
不思議と、手も足も動く自分に違和感はなかった。
掌を通じて、カゼの温もりも、毛皮の柔らかさも伝わってくる。
すると、もう一頭、別のチーターが、ハンモックの反対側から顔を出した。
信二は、ランだ、とすぐに気がついた。
さらに、カゼの子供たちも両親の体を伝って、ハンモックに横たわる信二の胸に乗ってきた。
「はっはっはっはっ……。重いなあ、お前たち」
信二は、穏やかに、子供たちの頭を撫でた。
「そうか。カゼ。
……やっぱりお前は、家族が欲しかったのか」
信二は、カゼの額をつついた。
カゼは嫌がるように、体をねじって逃げる。
笑った信二が、ふと見ると、少し離れた場所に、ヒョウが横たわっていた。
ヒョウの口には、あの母ザルの死体がぶら下がっている。
カゼが振り返り、ヒョウを見た。
するとカゼは、子供たちを守るように、四肢を張り、唸り声をあげた。
すると、ヒョウの背後から、どす黒いものが現れた。
(〔死)だ!〕
と、信二は直感した。
そのどす黒い〔死〕が、ヒョウを包み、クロヒョウへと姿を変えた。
さらに、クロヒョウの姿が、巨大に膨らんでいく。
クロヒョウの目が光り、車のヘッドライトのように、こちらを照らした。
信二には、クロヒョウが〔死〕の権化のように見えた。
すると、大きなクロヒョウが立ち上がり、咆哮をあげた。
その時、クロヒョウの口にくわえられていた母ザルは、バキバキと音を上げて砕かれた。
とても凄まじい咆哮と、肌がザワつくような骨が砕かれる音は、信二を恐怖で包んだ。
(とても、こんなものにかなうわけがない)
その恐怖の先には、さらに別の感情があることを、信二はすでに知っている。
絶望、だ。
信二は、
(こんな巨大な〔死〕から、逃れられるわけがない)
(死ぬんだ。俺は死ぬんだ)
という、今まさに絶望を感じ、ガタガタと震えていた。
震える信二を見て、ランが身構える。
そして、ランはカゼとともに、クロヒョウに向かっていく。
その時、信二は確かに見た。
カゼとランの中から、命の光が輝き始めたのを。
そして、一歩、一歩、とクロヒョウに近づくにつれて、その輝きが強くなっていくのを。
その光を見て、信二の震えは、収まっていった。
優しくて、温かい光だった。
やがて、カゼとランの光に照らされた〔死〕は、悲鳴を上げ、ドロドロに溶け始めた。
「ああっ……」
思わず、信二はハンモックを降り、〔死〕の亡骸に近づく。
だが、すでに〔死〕は消え去り、そこにはサバンナの地が見えるだけだった。
振り返った信二は、何か違和感を感じた。
いつの間にやら、濃い白い霧が、信二の周りに漂っている。
カゼの子供たちの姿も濃い霧に隠され、見えない。
いや、子供たちだけではない。
先程まで信二の側に立っていたはずのカゼの姿も、ランの姿も、ない。
慌てて、信二は、
「カゼ―!ラーン!」
と、彼らを呼んだ。
だが、返事はなかった。
知らぬ間に、信二は、一人きりになっていた。
その時、初めて信二は、〔死〕が生み出す、絶望の先の、最後の感情を知った。
……それは、悲しみ、だった。
もう二度と、カゼたちにも会えない悲しみ。
オニャンゴやケムワ、友人にも会えない悲しみ。
いや。
何よりも深いのは、清子や紘一、愛する家族に、もう二度と会えない悲しみだった。
信二は、
「うあぁぁ…ああぁぁぁあぁぁ……」
泣き声をあげた。
赤子のように泣きじゃくっていた。
何もない空間に、信二の泣き声だけが響く。
……………。
それから幾時が経ったのだろう。
いまだ泣きじゃくる信二の掌に、何かが当たった。
信二が、涙目で見ると、そこにはカゼがいた。
カゼは、信二の掌に、自分の頭を押し付けていた。
まるで、
(ここにいるよ)
と、信二を慰めているようだった。
信二は、涙を拭くと、カゼを抱きかかえた。
そして、カゼを抱えたまま、サバンナに寝転がった。
すると、カゼは、じゃれるように、信二の胸に乗ってくる。
信二は言った。
「本当に、重いなあ、お前は。
息ができないよ」
信二は、病院で息を引き取った。
その死に顔は、恐怖で歪んだ顔ではなく、笑っているように見えた。
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