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4 残された看板
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休み時間になると、さゆりはミサに話しかけようとした。
いつもならさゆりは、学校にいる間中、机を見つめたまま周りを見渡すこともない。ごく狭い視界の中で、一日を過ごし、息を吸う音でさえも誰にも聞かれないように気配を押し殺している。
自分から誰かに話しかける気になれたことは、さゆりにとって大きな変化だった。
(1時間目の数学のテスト、どうだった?)
だが、それは一文字も言葉にならず、さゆりの心の中だけで虚しく響いた。
(やっぱり、周りに他の友だちがいると話せない)
ミサは、ずっとうつむいている。さゆりの方を見ようとすらしなかった。
さゆりはあきらめて、次のテストの勉強を始めた。漢字のノートを出し、復習する。
「ギリギリまで、テスト勉強するなんて、さゆりちゃんえらいね」
ミサとは反対隣の席の、はるかが話しかけてくる。
だが、さゆりは漢字のノートから目を離さない。離せないのだ。
誰かに話しかけられるだけで、体が緊張してしまう。息がつまる。吸って、吸って。息を吸って。いつもどうやって呼吸をしていたのかわからなくなる。
「わたし、トイレ行ってこよー。今日寒いから、すぐトイレ行きたくなっちゃう」
はるかが席を離れると、ふーっとさゆりは息を吐いた。
(朝、やっぱり牛乳飲まなくてよかった)
さゆりは一度学校に来たら、教室に誰もいなくなるまで、席を立つことができない。
家に帰るまでトイレに行くこともできないから、学校に行く日はなるべく水分を取らないようにしているのだ。
2時間目まで、まだあと5分残っていた。さゆりは、両耳を手でふさいだ。テスト中はまだいいが、休み時間の雑音が、吐き気がするほど苦手だった。
◇
結局ミサと一言も言葉をかわさないまま、下校時間になった。
全員残らず教室を出るまで、さゆりは席にじっと座って待つ。きっとミサも先に帰るだろうと思っていたが、いつまでたってもミサは席を立たなかった。
さゆりとミサだけが教室に残された。
「帰らないの?」
さゆりは立ち上がりながら、ミサに声をかけた。
ミサもさっと立ち上がる。
「さゆりちゃん、一緒に帰ろ」
ミサがにっこり笑った。
さゆりはお湯につかった時みたいに、温かく全身の緊張がほぐれていくのを感じた。
「うん、帰ろ」
誰もがするような普通の会話なのに、さゆりにとっては一つ一つの言葉が新鮮だった。
昇降口へ向かう足取りが軽い。スキップを踏みたくなるのを我慢して、さゆりはミサの隣を歩いた。自然に早足になってしまう。
だが、靴箱の前まで来て、さゆりは足を止めた。
数人の生徒が、昇降口でおしゃべりをしていた。
「早く来すぎちゃったみたい」
さゆりは、ミサだけに聞こえる声でつぶやいた。
「あの子たちが帰るまで、ちょっとフラフラしてようよ」
ミサが、今来たのとは反対側の廊下を指さした。
さゆりがうなずくと、ミサは先導するように早足で廊下を歩いて行った。
「待って」
さゆりは慌ててミサの後を追った。
ミサが階段をのぼっていく。
「そんなに遠回りしなくても、あの子たちもう帰ったんじゃない?」
だが、ミサはどんどん階段をのぼっていく。
4階に上がって廊下の角を右に曲がると、元々冷えていた空気が一層冷たくなった気がした。そこは校舎の北側で、日光がほとんど当たらない。
「ねぇ、そろそろ戻ろうよ」
さゆりの声に、ミサが振り返った。
「そうだね」
ミサが立ち止まっている横の教室の扉が、さゆりの目に入った。傷だらけの古めかしい扉。授業を受けている校舎とは違い、北校舎は改築工事がされていない。
「ミサちゃんは、学校来てなかったから、あの噂知らないよね?」
さゆりはわざと低い声で聞いた。
(教えたら、怖がるかな)
ちょっとしたいたずら心が湧いてきたのだ。
「あの噂って?」
ミサが首をかしげる。
「そこの教室の看板見て」
さゆりが指をさした方をミサが見る。
教室の扉の横には、太い釘が1本ささっている。その釘には、紐のついた木の板がかけられていた。横10センチ、縦20センチ程度の長方形の板は黒ずんでいたが、そこに書かれた文字はかろうじて読める。
「演劇部? うちの学校、演劇部ってないよね?」
さゆりはうなずいた。
「昔、そこの教室が演劇部の部室だったらしいの」
「そうなんだ」
ミサが興味なさそうに答える。
さゆりは、さらに声を低くした。
「噂なんだけどね、昔、演劇部の女の子が、そこで自殺しちゃったんだって」
ミサが息を飲む音が聞こえた。
「それで、演劇部は廃部になったから教室は片づけられたんだけど、その看板だけは残された」
「どうして?」
「看板を外したらね、不吉なことばかりが起きたの。その女の子の祟りだって、みんなが噂し始めて、それで看板だけは今も残されているの」
「不吉なことってなに?」
ミサは全く怖がっている様子はなかった。
もっと怖がると思っていたから、さゆりはなんだかがっかりした。
「知らない。だってただの噂だもん」
さゆりの返答に、ミサは怒ったような顔をした。
「噂なんて、嘘ばっかり」
ミサが突然手を上げた。
かと思うと、演劇部の看板を乱暴につかみ、外した。
「嘘ばっかり」
ミサが暗い顔をして、看板を床に放り投げた。
木の角の部分が床にあたって、鈍い音がした。
「えっ、ちょっとミサちゃん」
さゆりは慌てて看板を拾った。
「やだ、ヒビが入っちゃったじゃない」
演劇部の文字の部分に、縦に細く線が入っている。
「そんなの、元からでしょ?」
ミサが、笑いながら言う。
「笑ってる場合じゃないよ。こんなことして、なにか悪いことが起きたらどうするの?」
一度そう口にしたら、本当にそうなりそうな気がして、さゆりは慌てて看板を元の壁に戻した。手に持っているのも嫌だった。
「怖いの?」
ミサが挑発するように言った。
「怖いよ、怖いに決まってるじゃん」
さゆりの声は震えていた。
ミサを怖がらせるつもりだったのに、いつの間にか立場が逆転していた。
「大丈夫だよ。その噂、嘘だから」
ミサが勝ち誇ったように笑った。
「だけど……」
とまどうさゆりを尻目に、ミサがスタスタと歩き始めた。
「えっ、ミサちゃんどこ行くの?」
「帰るに決まってるじゃん。もう昇降口、誰もいないでしょ」
ミサは振り返りもせずに、どんどん歩いて行ってしまう。
「ちょっとミサちゃん待って」
こんなところに一人取り残されたくない。さゆりは慌ててミサを追いかけた。
いつもならさゆりは、学校にいる間中、机を見つめたまま周りを見渡すこともない。ごく狭い視界の中で、一日を過ごし、息を吸う音でさえも誰にも聞かれないように気配を押し殺している。
自分から誰かに話しかける気になれたことは、さゆりにとって大きな変化だった。
(1時間目の数学のテスト、どうだった?)
だが、それは一文字も言葉にならず、さゆりの心の中だけで虚しく響いた。
(やっぱり、周りに他の友だちがいると話せない)
ミサは、ずっとうつむいている。さゆりの方を見ようとすらしなかった。
さゆりはあきらめて、次のテストの勉強を始めた。漢字のノートを出し、復習する。
「ギリギリまで、テスト勉強するなんて、さゆりちゃんえらいね」
ミサとは反対隣の席の、はるかが話しかけてくる。
だが、さゆりは漢字のノートから目を離さない。離せないのだ。
誰かに話しかけられるだけで、体が緊張してしまう。息がつまる。吸って、吸って。息を吸って。いつもどうやって呼吸をしていたのかわからなくなる。
「わたし、トイレ行ってこよー。今日寒いから、すぐトイレ行きたくなっちゃう」
はるかが席を離れると、ふーっとさゆりは息を吐いた。
(朝、やっぱり牛乳飲まなくてよかった)
さゆりは一度学校に来たら、教室に誰もいなくなるまで、席を立つことができない。
家に帰るまでトイレに行くこともできないから、学校に行く日はなるべく水分を取らないようにしているのだ。
2時間目まで、まだあと5分残っていた。さゆりは、両耳を手でふさいだ。テスト中はまだいいが、休み時間の雑音が、吐き気がするほど苦手だった。
◇
結局ミサと一言も言葉をかわさないまま、下校時間になった。
全員残らず教室を出るまで、さゆりは席にじっと座って待つ。きっとミサも先に帰るだろうと思っていたが、いつまでたってもミサは席を立たなかった。
さゆりとミサだけが教室に残された。
「帰らないの?」
さゆりは立ち上がりながら、ミサに声をかけた。
ミサもさっと立ち上がる。
「さゆりちゃん、一緒に帰ろ」
ミサがにっこり笑った。
さゆりはお湯につかった時みたいに、温かく全身の緊張がほぐれていくのを感じた。
「うん、帰ろ」
誰もがするような普通の会話なのに、さゆりにとっては一つ一つの言葉が新鮮だった。
昇降口へ向かう足取りが軽い。スキップを踏みたくなるのを我慢して、さゆりはミサの隣を歩いた。自然に早足になってしまう。
だが、靴箱の前まで来て、さゆりは足を止めた。
数人の生徒が、昇降口でおしゃべりをしていた。
「早く来すぎちゃったみたい」
さゆりは、ミサだけに聞こえる声でつぶやいた。
「あの子たちが帰るまで、ちょっとフラフラしてようよ」
ミサが、今来たのとは反対側の廊下を指さした。
さゆりがうなずくと、ミサは先導するように早足で廊下を歩いて行った。
「待って」
さゆりは慌ててミサの後を追った。
ミサが階段をのぼっていく。
「そんなに遠回りしなくても、あの子たちもう帰ったんじゃない?」
だが、ミサはどんどん階段をのぼっていく。
4階に上がって廊下の角を右に曲がると、元々冷えていた空気が一層冷たくなった気がした。そこは校舎の北側で、日光がほとんど当たらない。
「ねぇ、そろそろ戻ろうよ」
さゆりの声に、ミサが振り返った。
「そうだね」
ミサが立ち止まっている横の教室の扉が、さゆりの目に入った。傷だらけの古めかしい扉。授業を受けている校舎とは違い、北校舎は改築工事がされていない。
「ミサちゃんは、学校来てなかったから、あの噂知らないよね?」
さゆりはわざと低い声で聞いた。
(教えたら、怖がるかな)
ちょっとしたいたずら心が湧いてきたのだ。
「あの噂って?」
ミサが首をかしげる。
「そこの教室の看板見て」
さゆりが指をさした方をミサが見る。
教室の扉の横には、太い釘が1本ささっている。その釘には、紐のついた木の板がかけられていた。横10センチ、縦20センチ程度の長方形の板は黒ずんでいたが、そこに書かれた文字はかろうじて読める。
「演劇部? うちの学校、演劇部ってないよね?」
さゆりはうなずいた。
「昔、そこの教室が演劇部の部室だったらしいの」
「そうなんだ」
ミサが興味なさそうに答える。
さゆりは、さらに声を低くした。
「噂なんだけどね、昔、演劇部の女の子が、そこで自殺しちゃったんだって」
ミサが息を飲む音が聞こえた。
「それで、演劇部は廃部になったから教室は片づけられたんだけど、その看板だけは残された」
「どうして?」
「看板を外したらね、不吉なことばかりが起きたの。その女の子の祟りだって、みんなが噂し始めて、それで看板だけは今も残されているの」
「不吉なことってなに?」
ミサは全く怖がっている様子はなかった。
もっと怖がると思っていたから、さゆりはなんだかがっかりした。
「知らない。だってただの噂だもん」
さゆりの返答に、ミサは怒ったような顔をした。
「噂なんて、嘘ばっかり」
ミサが突然手を上げた。
かと思うと、演劇部の看板を乱暴につかみ、外した。
「嘘ばっかり」
ミサが暗い顔をして、看板を床に放り投げた。
木の角の部分が床にあたって、鈍い音がした。
「えっ、ちょっとミサちゃん」
さゆりは慌てて看板を拾った。
「やだ、ヒビが入っちゃったじゃない」
演劇部の文字の部分に、縦に細く線が入っている。
「そんなの、元からでしょ?」
ミサが、笑いながら言う。
「笑ってる場合じゃないよ。こんなことして、なにか悪いことが起きたらどうするの?」
一度そう口にしたら、本当にそうなりそうな気がして、さゆりは慌てて看板を元の壁に戻した。手に持っているのも嫌だった。
「怖いの?」
ミサが挑発するように言った。
「怖いよ、怖いに決まってるじゃん」
さゆりの声は震えていた。
ミサを怖がらせるつもりだったのに、いつの間にか立場が逆転していた。
「大丈夫だよ。その噂、嘘だから」
ミサが勝ち誇ったように笑った。
「だけど……」
とまどうさゆりを尻目に、ミサがスタスタと歩き始めた。
「えっ、ミサちゃんどこ行くの?」
「帰るに決まってるじゃん。もう昇降口、誰もいないでしょ」
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