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第1章
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「河川敷を散歩しよう」
二十一時を回ったいたずらのような時間に秋葉はそう提案してきた。
「身体が冷えるからやめたほうがいいよ」と静止したが「着込んでいくからいいでしょ」とコートを羽織る彼女に僕はそれ以上意見ができず、家の鍵をポケットへ仕舞う。
風情を楽しめるゴールデンタイムにはいささか遅いとは思うが、秋葉の思い付きはいつものことであり、さらにそれは彼女にとっていつでも最優先かつ最重要事項だった
玄関を出て、エレベーターを五階まで呼ぶ。自分を抱きしめるようにしながら腕をさする秋葉に「だから冷えるって言ったのに」と言うと、彼女は「でもね、この寒さを待ってたんだよ」と笑った。
エントランスを抜けると、陰った木々を揺らす風が一層強く吹きつけてきたので手を繋いで歩き始める。夜空は明るく、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
彼女の提案は大抵満月の夜で、それは彼女の直観を僕が尊重する理由の一つでもあった。河川敷に沿って並ぶマンションの灯りに導かれながら歩く。
はるか遠くを走る電車の窓は煌々と光り、薄い鞄を抱きしめながら舟を漕ぐサラリーマンや、クラブ帰りなのか一様に青いジャージを着た少年達の笑顔などがはっきりと見えた。
「秋月くん、なんと良いことか。今日は満月だよ。未来が明るい日だよ!」
今気付いたとでもいうように彼女は空を見上げ、指を掲げた。
※
『未来は明るい!』
彼女がお色直し中にそう宣言したのは今から五カ月前、小雨降る六月のことだった。深い紫のカラードレスに身を包み、その時だけは僕と背丈が並んだ彼女が、ピースサインを高く掲げる。プランナーと着付け担当が『そうですよ! もうお二人は無敵です!』と合わせてくれたこともよく覚えている。
プロフィールムービーの中では、二十歳の僕たちが缶チューハイをもって笑っている写真が映し出された。新入生歓迎会のはずだったそれの名前は、文芸サークルとは思えない語彙力の無さが際立つ『今年からお酒を飲める二年生のための会』だった。
僕はその頃、眼鏡に掛かった前髪の奥からぎょろっとした目が覗く、評判がよくなることがない学生だった。瞼を撫でる髪をいなしている間にこの会が終わってはくれないかと、中央広場で花見酒をする部長たちを遠くから眺めていたら、秋葉が話しかけてきた。
『秋月君。君もやっとお酒が飲める年齢になったわけだ。めでたいねぇ』
部員は十名。本日のたった二人の主役であるはずの僕たちは、早々に空気になっていた。
『まさか、高坂さんも四月生まれだとは思わなかったよ』
二十歳を迎えた僕たちは、晴れて本日、呑みの口実になった。当時の僕は彼女の誕生日も、下の名前が秋葉だということもその日まで知らなかった。
サークル活動など学園祭前に各自が間に合わせで書きなぐった作品を印刷し、ホッチキスで製本する作業くらいしか参加していない。秋葉との会話は、本を借りる時に図書委員と話すほどの内容しかなかった。
『そうだねぇ。別に改めて自己紹介しあうような間柄でもないし』
くいっと缶を呷る秋葉の喉は、赤く染まっている。
『何本目?』と僕が尋ねると、
『一本目をやっと終わった』と秋葉が答える。
『まだ飲みたい?』
彼女が首を横に振ったので、僕は自販機で水を二本買い、一本の蓋を緩く開けて秋葉へ手渡した。彼女は支えを抜き取られたようにへなへなと微笑み、今度はペットボトルを呷る。口を離し一息ついてから、彼女は僕に言った。
『ねぇ、酔っ払いのたわごとだと思って聞いてもらっていい?』
『相手が酔っ払いでもよければ』
そう返すと、秋葉は帯を締めなおすようにきゅっと真剣な表情をつくって話し始めた。
『今日は夜空が明るくって、とても良いね』
『うん』
『こういう日はね、私、考えることがあるの。空がこのままどんどん高くなって、大気圏より外側の宇宙まで飲み込んで、月も空の中に取り込まれて、そのうち惑星まで地球の一部になっていったらどうしようって』
他の棟からも騒ぐ声が聞こえる中で、彼女の声は春風のように心地の良い温度ですんなりと耳に入ってきた。
『君は、そうなったらどうする?』
たわごとと片付けるには少し、重みがあった気がした。僕の目をまっすぐと見据える彼女の目を見返しながら、数刻のうち、僕は答えた。
『正直に言うと怖いね』
それはたとえば、右腕だけが何倍にも膨れ上がるという話ではないはずだ。
自分がどこまでも際限なく拡張される。ドライアイスが気体になり地を這うように広がるイメージが頭の中に浮かんだ。気が付けば口癖が、思考が、外見が、自分ではない何かを取りこんだかのように変化するという話に近い。
『怖いけど、そうなっていくものじゃないかなって諦めもある。だから、変化する地球を、その時々ですきになるしかないかな』
秋葉はその答えを聞くと、おもむろに夜空を仰いだ。瞼が落ちかけた目で、はるか先にある星を尊ぶように。
『そっか』
彼女はペットボトルを何度か振って、それから何度も何度も何度も振って、そのうち諦めたかのように手をだらんと下して僕に向き合って、言った。
『ねぇ、お酒を飲めるようになった記念に、これから仲良くしてくれない?』
※
「秋月くん?」
声を掛けられてはっとする。いつの間にか僕たちは立ち止まり、秋葉が心配そうに棒の顔を覗き込んでいた。
彼女はいまだに僕を名字で呼ぶ。式を終えた今でも入籍していないことが原因でもあるが、それはあくまで表向きの理由で、実のところお互いに呼称が変わることがピンと来ていないだけだった。
「ごめん、なんでもない。ちょっと結婚式とか新歓を思い出して」
そう伝えると、秋葉も「なつかしいねぇ」と目を細める。
「ねぇ、あの時私がした話、今でも覚えてる?」
「宇宙の話でしょ」
「そう、それ。いまならどう答える?」
「同じように答えるよ。怖いけれど、その時々で地球をすきになる」
「そっか」
彼女はそう言い、手をぶらぶらと揺らした。何度も振り子のように揺らして、だらんと腕を落とした後、ゆっくりと顔を上げて、言った。
「もしかしたら、赤ちゃん、いるかもしれないんだぁ」
来るべき日はいずれ来る。月がさっきよりもずっと大きく、近く見えた。
二十一時を回ったいたずらのような時間に秋葉はそう提案してきた。
「身体が冷えるからやめたほうがいいよ」と静止したが「着込んでいくからいいでしょ」とコートを羽織る彼女に僕はそれ以上意見ができず、家の鍵をポケットへ仕舞う。
風情を楽しめるゴールデンタイムにはいささか遅いとは思うが、秋葉の思い付きはいつものことであり、さらにそれは彼女にとっていつでも最優先かつ最重要事項だった
玄関を出て、エレベーターを五階まで呼ぶ。自分を抱きしめるようにしながら腕をさする秋葉に「だから冷えるって言ったのに」と言うと、彼女は「でもね、この寒さを待ってたんだよ」と笑った。
エントランスを抜けると、陰った木々を揺らす風が一層強く吹きつけてきたので手を繋いで歩き始める。夜空は明るく、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
彼女の提案は大抵満月の夜で、それは彼女の直観を僕が尊重する理由の一つでもあった。河川敷に沿って並ぶマンションの灯りに導かれながら歩く。
はるか遠くを走る電車の窓は煌々と光り、薄い鞄を抱きしめながら舟を漕ぐサラリーマンや、クラブ帰りなのか一様に青いジャージを着た少年達の笑顔などがはっきりと見えた。
「秋月くん、なんと良いことか。今日は満月だよ。未来が明るい日だよ!」
今気付いたとでもいうように彼女は空を見上げ、指を掲げた。
※
『未来は明るい!』
彼女がお色直し中にそう宣言したのは今から五カ月前、小雨降る六月のことだった。深い紫のカラードレスに身を包み、その時だけは僕と背丈が並んだ彼女が、ピースサインを高く掲げる。プランナーと着付け担当が『そうですよ! もうお二人は無敵です!』と合わせてくれたこともよく覚えている。
プロフィールムービーの中では、二十歳の僕たちが缶チューハイをもって笑っている写真が映し出された。新入生歓迎会のはずだったそれの名前は、文芸サークルとは思えない語彙力の無さが際立つ『今年からお酒を飲める二年生のための会』だった。
僕はその頃、眼鏡に掛かった前髪の奥からぎょろっとした目が覗く、評判がよくなることがない学生だった。瞼を撫でる髪をいなしている間にこの会が終わってはくれないかと、中央広場で花見酒をする部長たちを遠くから眺めていたら、秋葉が話しかけてきた。
『秋月君。君もやっとお酒が飲める年齢になったわけだ。めでたいねぇ』
部員は十名。本日のたった二人の主役であるはずの僕たちは、早々に空気になっていた。
『まさか、高坂さんも四月生まれだとは思わなかったよ』
二十歳を迎えた僕たちは、晴れて本日、呑みの口実になった。当時の僕は彼女の誕生日も、下の名前が秋葉だということもその日まで知らなかった。
サークル活動など学園祭前に各自が間に合わせで書きなぐった作品を印刷し、ホッチキスで製本する作業くらいしか参加していない。秋葉との会話は、本を借りる時に図書委員と話すほどの内容しかなかった。
『そうだねぇ。別に改めて自己紹介しあうような間柄でもないし』
くいっと缶を呷る秋葉の喉は、赤く染まっている。
『何本目?』と僕が尋ねると、
『一本目をやっと終わった』と秋葉が答える。
『まだ飲みたい?』
彼女が首を横に振ったので、僕は自販機で水を二本買い、一本の蓋を緩く開けて秋葉へ手渡した。彼女は支えを抜き取られたようにへなへなと微笑み、今度はペットボトルを呷る。口を離し一息ついてから、彼女は僕に言った。
『ねぇ、酔っ払いのたわごとだと思って聞いてもらっていい?』
『相手が酔っ払いでもよければ』
そう返すと、秋葉は帯を締めなおすようにきゅっと真剣な表情をつくって話し始めた。
『今日は夜空が明るくって、とても良いね』
『うん』
『こういう日はね、私、考えることがあるの。空がこのままどんどん高くなって、大気圏より外側の宇宙まで飲み込んで、月も空の中に取り込まれて、そのうち惑星まで地球の一部になっていったらどうしようって』
他の棟からも騒ぐ声が聞こえる中で、彼女の声は春風のように心地の良い温度ですんなりと耳に入ってきた。
『君は、そうなったらどうする?』
たわごとと片付けるには少し、重みがあった気がした。僕の目をまっすぐと見据える彼女の目を見返しながら、数刻のうち、僕は答えた。
『正直に言うと怖いね』
それはたとえば、右腕だけが何倍にも膨れ上がるという話ではないはずだ。
自分がどこまでも際限なく拡張される。ドライアイスが気体になり地を這うように広がるイメージが頭の中に浮かんだ。気が付けば口癖が、思考が、外見が、自分ではない何かを取りこんだかのように変化するという話に近い。
『怖いけど、そうなっていくものじゃないかなって諦めもある。だから、変化する地球を、その時々ですきになるしかないかな』
秋葉はその答えを聞くと、おもむろに夜空を仰いだ。瞼が落ちかけた目で、はるか先にある星を尊ぶように。
『そっか』
彼女はペットボトルを何度か振って、それから何度も何度も何度も振って、そのうち諦めたかのように手をだらんと下して僕に向き合って、言った。
『ねぇ、お酒を飲めるようになった記念に、これから仲良くしてくれない?』
※
「秋月くん?」
声を掛けられてはっとする。いつの間にか僕たちは立ち止まり、秋葉が心配そうに棒の顔を覗き込んでいた。
彼女はいまだに僕を名字で呼ぶ。式を終えた今でも入籍していないことが原因でもあるが、それはあくまで表向きの理由で、実のところお互いに呼称が変わることがピンと来ていないだけだった。
「ごめん、なんでもない。ちょっと結婚式とか新歓を思い出して」
そう伝えると、秋葉も「なつかしいねぇ」と目を細める。
「ねぇ、あの時私がした話、今でも覚えてる?」
「宇宙の話でしょ」
「そう、それ。いまならどう答える?」
「同じように答えるよ。怖いけれど、その時々で地球をすきになる」
「そっか」
彼女はそう言い、手をぶらぶらと揺らした。何度も振り子のように揺らして、だらんと腕を落とした後、ゆっくりと顔を上げて、言った。
「もしかしたら、赤ちゃん、いるかもしれないんだぁ」
来るべき日はいずれ来る。月がさっきよりもずっと大きく、近く見えた。
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