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第2章
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出社してパソコンをつけると、CCなしで僕宛のメールが一件あった。差出人は倉田武士。件名には『先輩に折り入ってご相談がありメールを差し上げました』と入っている。
営業部の後輩にあたる倉田は、お客様から「電話口だけでここまで信用できる人は初めてだよ」と言わしめるほど、裏表の無い男だ。本文には、迂遠な言い回しで件名以上のことが掛かれていない堅苦しい文章が並んでいる。
「見て頂けましたか」
背後からの声に「うわっ」と驚きながら振り返ると、おろしたてのようなジャケットを着た倉田が立っていた。驚かせる意図はなかったようで、彼も「うわっ」と声を出してのけぞった。二人して息を整えて、向き合う。まだ始業時間の四十五分前だった。
「倉田君、びっくりするからせめて一言目はおはようございますでおねがい」
「おはようございます」
空調の埃っぽい音がごうごうとなるオフィス内で、倉田は自分の席に向かおうともせずに話し始める。
「実は、メールにも書いてあるのですが今回……」
「鞄を置いてきなよ、聞くから」
そう伝え、小会議室へ向かう。札を使用中へ切り替えてから入ると、後から倉田が小走りに追い付いてきて早々に口火を切った。
「実は来月、プロポーズを私も行ってみようと思っておりまして」
いやに仰々しく彼はそう言った。倉田に一歳年上の彼女がいることは聞いていたので、特に驚きはしなかった。
「そっか。プロポーズするんだね」
「それで、先輩である秋月さんに、どのようにしたのか、また、奥様の反応はどうだったかをお伺いしたいと思いまして」
勝手な印象だが、彼は生真面目さと偏屈さが相まって、名前通り現代を生きることになった武士のようだった。
先週末、彼が同僚から「三年も付き合って、相手も二十九歳なら結婚をしなければいけないだろう」と言われていたことを思い出す。
昼休みの終わり際の雑談で、なぜそんな話になったかは覚えていないが、僕はプライベートに口は挟むまいと静観していた。メールは金曜日の十九時十分に届いており、件のメールを開く前に確認した彼の提案書にはわかりやすい誤字が複数あった。あの後から、頭の中はそのことでいっぱいだったのだろう。
僕は、背中を押すことは極力避けたいと思った。責任を負えないからだ。
「そうだね……僕から言えることは、なにも完璧にする必要はなくて、今日は何かがありそうだという雰囲気さえ作ればなんでもいいと思うよ」
当たり障りなく、僕の経験を挟むこともなく伝える。彼に硬度の高い具体例を出してしまうと、そのまま実行をしてしまう危うさがあるからだ。就寝前に指輪を渡せと言えば渡し、世界一周に連れて行けと言えば行くのだ。彼と話す時、僕はいつも抽象的な話と方向性だけを伝えるようにしていた。
「なんだか卑怯ではありませんか」
だからこそ、彼がそう言った時はさすがに面食らった。
「卑怯、かな」
「それはつまり、雰囲気でごまかすということですよね」
僕の指導方法に対しての意見ではないとわかり胸を撫でおろす。
「ごまかす、と言えばそうだけれど、君はこれまでそう言ったサプライズや雰囲気づくりをしたことはある?」
「……いえ。ありませんね」
「たとえば、いつもなら行かないレストランでコースを予約する、ドレスコードがあることも伝える。それだけで雰囲気は完成するものだよ」
「けれど、それでは芸がありません」
彼の口から芸と出たことが面白く笑ってしまってから、言葉を続けた。
「君がなにかパーフェクトな案を完成させたとして、彼女も彼女でその日、自分の人生を生きている。計画通りについてきてくれて、想定通りの反応をしてくれるとは限らないんだよ。むしろどんな状況でも、雰囲気さえできていればそれでいいんだよ」
立ちっぱなしなことに多少の疲れを感じ始めた。それを知ってか知らずか、彼は僕に頭を下げた。
「アドバイスを頂きありがとうございます。ではそのようにしてみます」
「待って。ちなみにあと何人にアドバイスを貰いに行くの?」
「もう聞きません」
ダメだ。いや、ダメではないが、これでは僕が背中を押してしまう。押すのは百歩譲ってよいが、それが結果、背後から胸を一突きしてしまう可能性も十分にある。彼には複数案から自身の意思でプロポーズ方法を選び取らせ、その責任を持たせないといけない。
「倉田君は、群盲象を評す、という言葉は知っている?」
彼は首を横に振った。少しずつ着地点をまとめながら、話し続ける。
「数人が目隠しして、それぞれ象の体の一部だけを触るんだ。そのあと、自分が触れたものはなんだったかを話し合う」
彼はふんふんとうなずいた後、少し遠い目をした。おそらくもう、先ほど与えた情報だけで自分なりに咀嚼しているのだろう。こうなると素直に耳には入らないだろうが、投げっぱなしにはできないので続ける。
「足を触ったものは、それを木の幹のようだと言い、牙を触ったものは槍のようだと言った。一部分を触っただけでそれがすべてだと思い込むと言った形で使われる言葉だよ」
彼と再度目が合う。何かに気付いた、という目をしている。ありがとう。
「誰に意見を聞いても、返ってくる答えはすべてプロポーズを指している。複合的に考えることができれば、プロポーズへの解像度も上がるよ」
彼は食い気味にありがとうございますと頭を下げた。熱気が感じられるが、それ以降は何も言葉を継がなかったので、おそらくやれることはやり切った。そう判断し「自販機にでも寄ってから戻るか」と促して会議室を出た。
秋葉のことを、考える。
真実は、人が一人では把握しきれないほどの質量をもってそこに存在する。たとえば、僕一人が目隠しをして、触れる対象が秋葉だとする。彼女は銀河を内包している。
衛星を飲み込み、惑星を飲み込まんとしながらその身の中で変化を起こし続けている。触れるまで分からない未来の可能性は無限にあり、その枝分かれの数だけ急速に銀河は広がっていく。
「倉田君、せっかくだから今日のランチ、一緒にどうかな」
不安は手の形になり、あろうことか後輩の裾をすがるように掴んだのだった。
営業部の後輩にあたる倉田は、お客様から「電話口だけでここまで信用できる人は初めてだよ」と言わしめるほど、裏表の無い男だ。本文には、迂遠な言い回しで件名以上のことが掛かれていない堅苦しい文章が並んでいる。
「見て頂けましたか」
背後からの声に「うわっ」と驚きながら振り返ると、おろしたてのようなジャケットを着た倉田が立っていた。驚かせる意図はなかったようで、彼も「うわっ」と声を出してのけぞった。二人して息を整えて、向き合う。まだ始業時間の四十五分前だった。
「倉田君、びっくりするからせめて一言目はおはようございますでおねがい」
「おはようございます」
空調の埃っぽい音がごうごうとなるオフィス内で、倉田は自分の席に向かおうともせずに話し始める。
「実は、メールにも書いてあるのですが今回……」
「鞄を置いてきなよ、聞くから」
そう伝え、小会議室へ向かう。札を使用中へ切り替えてから入ると、後から倉田が小走りに追い付いてきて早々に口火を切った。
「実は来月、プロポーズを私も行ってみようと思っておりまして」
いやに仰々しく彼はそう言った。倉田に一歳年上の彼女がいることは聞いていたので、特に驚きはしなかった。
「そっか。プロポーズするんだね」
「それで、先輩である秋月さんに、どのようにしたのか、また、奥様の反応はどうだったかをお伺いしたいと思いまして」
勝手な印象だが、彼は生真面目さと偏屈さが相まって、名前通り現代を生きることになった武士のようだった。
先週末、彼が同僚から「三年も付き合って、相手も二十九歳なら結婚をしなければいけないだろう」と言われていたことを思い出す。
昼休みの終わり際の雑談で、なぜそんな話になったかは覚えていないが、僕はプライベートに口は挟むまいと静観していた。メールは金曜日の十九時十分に届いており、件のメールを開く前に確認した彼の提案書にはわかりやすい誤字が複数あった。あの後から、頭の中はそのことでいっぱいだったのだろう。
僕は、背中を押すことは極力避けたいと思った。責任を負えないからだ。
「そうだね……僕から言えることは、なにも完璧にする必要はなくて、今日は何かがありそうだという雰囲気さえ作ればなんでもいいと思うよ」
当たり障りなく、僕の経験を挟むこともなく伝える。彼に硬度の高い具体例を出してしまうと、そのまま実行をしてしまう危うさがあるからだ。就寝前に指輪を渡せと言えば渡し、世界一周に連れて行けと言えば行くのだ。彼と話す時、僕はいつも抽象的な話と方向性だけを伝えるようにしていた。
「なんだか卑怯ではありませんか」
だからこそ、彼がそう言った時はさすがに面食らった。
「卑怯、かな」
「それはつまり、雰囲気でごまかすということですよね」
僕の指導方法に対しての意見ではないとわかり胸を撫でおろす。
「ごまかす、と言えばそうだけれど、君はこれまでそう言ったサプライズや雰囲気づくりをしたことはある?」
「……いえ。ありませんね」
「たとえば、いつもなら行かないレストランでコースを予約する、ドレスコードがあることも伝える。それだけで雰囲気は完成するものだよ」
「けれど、それでは芸がありません」
彼の口から芸と出たことが面白く笑ってしまってから、言葉を続けた。
「君がなにかパーフェクトな案を完成させたとして、彼女も彼女でその日、自分の人生を生きている。計画通りについてきてくれて、想定通りの反応をしてくれるとは限らないんだよ。むしろどんな状況でも、雰囲気さえできていればそれでいいんだよ」
立ちっぱなしなことに多少の疲れを感じ始めた。それを知ってか知らずか、彼は僕に頭を下げた。
「アドバイスを頂きありがとうございます。ではそのようにしてみます」
「待って。ちなみにあと何人にアドバイスを貰いに行くの?」
「もう聞きません」
ダメだ。いや、ダメではないが、これでは僕が背中を押してしまう。押すのは百歩譲ってよいが、それが結果、背後から胸を一突きしてしまう可能性も十分にある。彼には複数案から自身の意思でプロポーズ方法を選び取らせ、その責任を持たせないといけない。
「倉田君は、群盲象を評す、という言葉は知っている?」
彼は首を横に振った。少しずつ着地点をまとめながら、話し続ける。
「数人が目隠しして、それぞれ象の体の一部だけを触るんだ。そのあと、自分が触れたものはなんだったかを話し合う」
彼はふんふんとうなずいた後、少し遠い目をした。おそらくもう、先ほど与えた情報だけで自分なりに咀嚼しているのだろう。こうなると素直に耳には入らないだろうが、投げっぱなしにはできないので続ける。
「足を触ったものは、それを木の幹のようだと言い、牙を触ったものは槍のようだと言った。一部分を触っただけでそれがすべてだと思い込むと言った形で使われる言葉だよ」
彼と再度目が合う。何かに気付いた、という目をしている。ありがとう。
「誰に意見を聞いても、返ってくる答えはすべてプロポーズを指している。複合的に考えることができれば、プロポーズへの解像度も上がるよ」
彼は食い気味にありがとうございますと頭を下げた。熱気が感じられるが、それ以降は何も言葉を継がなかったので、おそらくやれることはやり切った。そう判断し「自販機にでも寄ってから戻るか」と促して会議室を出た。
秋葉のことを、考える。
真実は、人が一人では把握しきれないほどの質量をもってそこに存在する。たとえば、僕一人が目隠しをして、触れる対象が秋葉だとする。彼女は銀河を内包している。
衛星を飲み込み、惑星を飲み込まんとしながらその身の中で変化を起こし続けている。触れるまで分からない未来の可能性は無限にあり、その枝分かれの数だけ急速に銀河は広がっていく。
「倉田君、せっかくだから今日のランチ、一緒にどうかな」
不安は手の形になり、あろうことか後輩の裾をすがるように掴んだのだった。
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