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第6話
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富田林駅の改札を抜け、点在する金剛バスから目的の系統を探して乗り込み、後部座席に三人で腰を下ろした。2席前には、目も覚めるようなスカイブルーのパーカーを着た外国人カップルが横並びに座っていた。
男性は首から下げている一眼レフを何度も触ったり覗き込んだりしてはしゃいでいる。彼らは身に着けているものすべてが新品かのようにピカピカしていた。意味まではうまく汲み取れないが、私が発音をはっきりと聞きとれる濁りのない英語を話しているようだ。ひざを畳んで、横並びにちょこんと座る姿がなんだかとても愛らしい。目的地は、おそらく同じだ。
「バスとかほとんど乗ったことないんですけど、どうすればいいんですか」
戸倉君がそわそわしながらそう言うと、別にバスに作法なんてないよ、と石部さんが返した。私もバスは久しぶりだから整理券を取りそびれて、石部さんに3枚とってもらった。
車内に配管のように張り巡らた手すりを眺めながら、私たちは特に何を話すでもなく、ただ静かにバスに揺られた。
ポーン、と降車のランプが点滅する。千早赤阪の停留所まではまだ距離があるが、明らかに目的が私たちと同じような防寒対策をした三人組のおばさんが「すみませんねー」と口々に何かを話しながらバスを降りようと立ち上がる。あれ、もしかしてここで降りる必要があっただろうかとパンフレットを確認しようとしていると、つばの広い帽子をかぶったご婦人が、彼女たちを呼び止めた。
「もし。あなたたち、棚田ならもうひとつ先で降りたほうがいいんじゃないかしら」
そんな物腰で他人に話す人を始めて目の当たりにしてしまい、私は度肝を抜かれた。三人組は「や、そうですかあ」「間違って降りるとこでした」「ありがとうねぇ」と口々に言い、席に座りなおす。
「すごいですねぇ」
隣で戸倉君が、目を細めながらそう言った。私は、もっと今起きた現象について、この車内にあふれる、埃っぽくて暖かい何かについて言葉にしようとしたけれど、最後には「そうだねぇ」としか言えなかった。石部さんは黙って首肯した。
停留所について、さっきのおばさんたちや外国人カップルは、坂の上まで上がる送迎バスに乗り込んでいった。『予約制』と書かれた看板を持ったおじさんがバスの前に立っていたので、私たちは仕方なくバスを横目に坂を上ることにする。鬱蒼と生い茂る木々に覆われた道を、冷たい風が通り抜けていく。
10分ほど登っていると、木々の隙間から校舎が見えた。まだ遠い音ではあるが拡声器を通した雑なJ-POPと、子供の鳴り物のような声が聞えてくる。門にたどり着くと、校庭にはいくつも出店が並んでいた。それぞれ派手な飾りつけや演出もない、体育祭の来賓席でよく見かける簡素なテントの下で、手作りのチャームや畑でとれた果物で作った無添加ジャムとパウンドケーキなどを販売していた。
「なんだか、地元の縁日を思い出しますね」
戸倉君が懐かしそうに言った。
「うち田舎なんで、縁日って言っても市役所近くの細道を200mほど封鎖して、きゅうきゅうに屋台が並んだだけのものでしたけどね」
戸倉君の表情はきちんと思い出に即していて、その横顔は小学生のようであり、なおかつ兄の顔をしていた。視線の先ではきっと、まだ幼稚園に通うくらいの小さな頃の妹が、金魚が一匹だけ入った袋を揺らしながら駆けているのだろう。
「戸倉さん、たまーにいい顔するんですよね」
石部さんが、私にぽそっとそうつぶやいた。そうだよねぇと返す。
体育館に向かい、ライトアップのための竹筒を受け取って体育館の裏手へ向かうと、途端に視界が一気に開け、遠くに見える山々の麓まで広がるほどの棚田が視界に飛び込んできた。ライトアップのために田の淵には竹筒が等間隔で並んでいて、蛍光色のウインドブレイカーを着た年配の方々が順々に火をつけて回っていた。
適度に湿り気を含んだふかふかの土の上を歩く。こんなに自然に近いところに来たのは久しぶりだった。土の上に打ち捨てられた猫車や所々に生えた雑草、ぼろぼろの納屋などが隠されることもなくそこに鎮座していた。
「これだけでも壮観なんだけどなぁ」
「むしろライトなんてない方がきれいだと思えるけど」
戸倉君と石部さんが口々に言いながら、火を灯してもらった竹筒を近くの淵に置いた。私は1歩後ろに立ち、二人の立ち姿にレンズを向ける。
「撮るよー」
二人が振り返らないうちにシャッターを押す。なんだかわからないといった面持ちで二人は私を見た。
徐々に陽が傾いて山の後ろへと隠れて始めると、竹筒の中で小さく揺れる火が徐々にその存在感を増してきた。周りに人工物の光は一切なく、程なくして辺りが暗闇に飲み込まれる。
「綺麗」
石部さんがそう言い、戸倉君も続いて「そうだね」と言った。田畑はすでにそこにあるかどうかも分からないほどに闇に同化しているけれど、その輪郭を温かな光が浮かび上がらせる。いつの間にか周りにも人だかりができており、口々に感嘆の声やカメラの音が聞えてくる。
――幸せになりなさいね。
母の声が、これまでで1番はっきりと聞こえた。私はその記憶をとてもあたたかいものだと捉えていたが、母にとってはどういう意味を持っていたのだろうか。私たちにすべてを託した願いだったのか、それとも、ただ純粋なエールだったのか。幸せにならなければいけないという漠然とした使命感と、それが叶わなかった際の言い訳としては十分すぎる置き土産を残していった父の死が、目の前に広がる光と泥のように私の中に横たわっている。
肩を叩かれて我に返ると、戸倉君が私の顔を覗き込んでいた。
「茅場さん、さすがにもう十分堪能できましたし、写真も撮ったんで帰りましょう」
「ん、わかった」
「その前に、3人での写真を撮ってないですよね。俺がセルフで撮りますから、ほら、茅場さんこっちきて」
戸倉君に促され、私は二人の間に引っ張り込まれた。棚田に背を向け、インカメラ設定にされたスマートフォンへ最大限の笑顔を向ける。
「いきますよ、ほら、はい」
フラッシュが何度か明滅し、カシャッ、と乾いた音がする。「これが大切な1枚になるんですから」と妥協を許さない石部さんが何度も何度も撮り直しを要求し、私たちは棚田を眺めていた時間よりずっと長く写真を撮り続けた。
「また来ましょう。来年の今日。このライトアップを観に」
戸倉君は最後に、付箋紙を貼るように軽くそう言った。私は笑って、息を吐いて、また笑って、ようやく「そうだね」と言った。その言葉は、今朝方見たひどくあいまいな夢を話すときのような、甘い色をしていた。
男性は首から下げている一眼レフを何度も触ったり覗き込んだりしてはしゃいでいる。彼らは身に着けているものすべてが新品かのようにピカピカしていた。意味まではうまく汲み取れないが、私が発音をはっきりと聞きとれる濁りのない英語を話しているようだ。ひざを畳んで、横並びにちょこんと座る姿がなんだかとても愛らしい。目的地は、おそらく同じだ。
「バスとかほとんど乗ったことないんですけど、どうすればいいんですか」
戸倉君がそわそわしながらそう言うと、別にバスに作法なんてないよ、と石部さんが返した。私もバスは久しぶりだから整理券を取りそびれて、石部さんに3枚とってもらった。
車内に配管のように張り巡らた手すりを眺めながら、私たちは特に何を話すでもなく、ただ静かにバスに揺られた。
ポーン、と降車のランプが点滅する。千早赤阪の停留所まではまだ距離があるが、明らかに目的が私たちと同じような防寒対策をした三人組のおばさんが「すみませんねー」と口々に何かを話しながらバスを降りようと立ち上がる。あれ、もしかしてここで降りる必要があっただろうかとパンフレットを確認しようとしていると、つばの広い帽子をかぶったご婦人が、彼女たちを呼び止めた。
「もし。あなたたち、棚田ならもうひとつ先で降りたほうがいいんじゃないかしら」
そんな物腰で他人に話す人を始めて目の当たりにしてしまい、私は度肝を抜かれた。三人組は「や、そうですかあ」「間違って降りるとこでした」「ありがとうねぇ」と口々に言い、席に座りなおす。
「すごいですねぇ」
隣で戸倉君が、目を細めながらそう言った。私は、もっと今起きた現象について、この車内にあふれる、埃っぽくて暖かい何かについて言葉にしようとしたけれど、最後には「そうだねぇ」としか言えなかった。石部さんは黙って首肯した。
停留所について、さっきのおばさんたちや外国人カップルは、坂の上まで上がる送迎バスに乗り込んでいった。『予約制』と書かれた看板を持ったおじさんがバスの前に立っていたので、私たちは仕方なくバスを横目に坂を上ることにする。鬱蒼と生い茂る木々に覆われた道を、冷たい風が通り抜けていく。
10分ほど登っていると、木々の隙間から校舎が見えた。まだ遠い音ではあるが拡声器を通した雑なJ-POPと、子供の鳴り物のような声が聞えてくる。門にたどり着くと、校庭にはいくつも出店が並んでいた。それぞれ派手な飾りつけや演出もない、体育祭の来賓席でよく見かける簡素なテントの下で、手作りのチャームや畑でとれた果物で作った無添加ジャムとパウンドケーキなどを販売していた。
「なんだか、地元の縁日を思い出しますね」
戸倉君が懐かしそうに言った。
「うち田舎なんで、縁日って言っても市役所近くの細道を200mほど封鎖して、きゅうきゅうに屋台が並んだだけのものでしたけどね」
戸倉君の表情はきちんと思い出に即していて、その横顔は小学生のようであり、なおかつ兄の顔をしていた。視線の先ではきっと、まだ幼稚園に通うくらいの小さな頃の妹が、金魚が一匹だけ入った袋を揺らしながら駆けているのだろう。
「戸倉さん、たまーにいい顔するんですよね」
石部さんが、私にぽそっとそうつぶやいた。そうだよねぇと返す。
体育館に向かい、ライトアップのための竹筒を受け取って体育館の裏手へ向かうと、途端に視界が一気に開け、遠くに見える山々の麓まで広がるほどの棚田が視界に飛び込んできた。ライトアップのために田の淵には竹筒が等間隔で並んでいて、蛍光色のウインドブレイカーを着た年配の方々が順々に火をつけて回っていた。
適度に湿り気を含んだふかふかの土の上を歩く。こんなに自然に近いところに来たのは久しぶりだった。土の上に打ち捨てられた猫車や所々に生えた雑草、ぼろぼろの納屋などが隠されることもなくそこに鎮座していた。
「これだけでも壮観なんだけどなぁ」
「むしろライトなんてない方がきれいだと思えるけど」
戸倉君と石部さんが口々に言いながら、火を灯してもらった竹筒を近くの淵に置いた。私は1歩後ろに立ち、二人の立ち姿にレンズを向ける。
「撮るよー」
二人が振り返らないうちにシャッターを押す。なんだかわからないといった面持ちで二人は私を見た。
徐々に陽が傾いて山の後ろへと隠れて始めると、竹筒の中で小さく揺れる火が徐々にその存在感を増してきた。周りに人工物の光は一切なく、程なくして辺りが暗闇に飲み込まれる。
「綺麗」
石部さんがそう言い、戸倉君も続いて「そうだね」と言った。田畑はすでにそこにあるかどうかも分からないほどに闇に同化しているけれど、その輪郭を温かな光が浮かび上がらせる。いつの間にか周りにも人だかりができており、口々に感嘆の声やカメラの音が聞えてくる。
――幸せになりなさいね。
母の声が、これまでで1番はっきりと聞こえた。私はその記憶をとてもあたたかいものだと捉えていたが、母にとってはどういう意味を持っていたのだろうか。私たちにすべてを託した願いだったのか、それとも、ただ純粋なエールだったのか。幸せにならなければいけないという漠然とした使命感と、それが叶わなかった際の言い訳としては十分すぎる置き土産を残していった父の死が、目の前に広がる光と泥のように私の中に横たわっている。
肩を叩かれて我に返ると、戸倉君が私の顔を覗き込んでいた。
「茅場さん、さすがにもう十分堪能できましたし、写真も撮ったんで帰りましょう」
「ん、わかった」
「その前に、3人での写真を撮ってないですよね。俺がセルフで撮りますから、ほら、茅場さんこっちきて」
戸倉君に促され、私は二人の間に引っ張り込まれた。棚田に背を向け、インカメラ設定にされたスマートフォンへ最大限の笑顔を向ける。
「いきますよ、ほら、はい」
フラッシュが何度か明滅し、カシャッ、と乾いた音がする。「これが大切な1枚になるんですから」と妥協を許さない石部さんが何度も何度も撮り直しを要求し、私たちは棚田を眺めていた時間よりずっと長く写真を撮り続けた。
「また来ましょう。来年の今日。このライトアップを観に」
戸倉君は最後に、付箋紙を貼るように軽くそう言った。私は笑って、息を吐いて、また笑って、ようやく「そうだね」と言った。その言葉は、今朝方見たひどくあいまいな夢を話すときのような、甘い色をしていた。
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