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その9
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学校帰りのコンビニで、シルシュが冷凍庫を指さして歓声を上げる。
「見てくださいニシヤマさん、スイカですよ! スイカのアイスがあります!」
「はいはい、店内ではお静かに」
加えて青い髪が目を引いていたので、そそくさと会計を済ませて店を出た。自動ドアが開いた瞬間に潮気を帯びた熱気がまとわりついてくる。昼下がり、直射日光はまだまだガツンときて重みさえ感じる。
「はー、今日は一段とあっちぃですねぇ」
「魔法でどうにかできたりしないのか?」
冷房の効いた店内との落差で目の焦点が合っていないあーちゃん。どうも最近、俺より虚弱なのではと思わないでもない。
「できなくもないんですけど、おばあちゃんに、最後の手段にしなさい、って言われたので」
「ほら、ウチのばあちゃんエアコン否定派だから。自分が苦手なだけなのに」
「そういう話か、それ……?」
店のすぐそばから堤防に上がって、海を臨む。少し風が強くて、白波が立っている。先日海開きしたばかりの砂浜には水着姿の海水浴客がちらほらといた。
三人、日陰を探して歩きながら、さっき買ったアイスを食べる。
「本物にはかないませんが、なかなかですね」
シルシュがスイカを模したアイスに齧りつき、寸評を述べる。
「スイカが好きなのか、シル坊」
「好きです。めちゃくちゃおいしかったです」
「違うんだよあーちゃん。単にこいつ、舌がアホなだけなんだよ」
「なにを言うんですか、なんなんですか、言いがかりはやめてください」
「舌がアホとは……?」
先日、我が家に大きくまんまると育ったスイカがやってきた。母の実家で栽培されたものだ。よぅく冷やして家族で食べた。シルシュはたいそうお気に召した様子だった――と、そこまでは何の問題もないのだが。
これに、父が過大な反応を示した。我が子以上といっても過言でないほどかわいがっている居候が、食べ物で顔をほころばせるのを目の当たりにしてしまったのである。それまでは、わりあい好き嫌いなく食べてはいたものの、喜んで食べるといったことはなかった。重篤な初孫症候群に冒された父が、何もせずにいるはずがない。
まずは、種々様々なフルーツが毎夜、おみやげに持ち帰られた。そして次々にシルシュに与えられる。その結果、どうやらブドウやオレンジなど水気の多いものを好む傾向があるらしいことがわかった。というか本人がそう申告した。だから、たとえばバナナなどは「口の中がもったりします」と微妙な感想。唾液が少ないお年寄りか何かなのでは、と俺は訝しんだ。
父の甘やかしはそれだけにとどまらない。梅雨も明けて暑くなってきたからと理由をつけ、続いてアイスクリームでの攻勢に出る。母の眉間のしわが、日を追うごとに険しくなっていく。俺は長男として父を諌めるべきではないかと考えたが、でもアイスはおいしいので、もう少し様子をうかがうことにする。
意外なことに、アイスは不評だった。無論、シルシュはそこらの無分別な子供とは違うので、そんなことを直接口に出したりしない。「冷たくておいしいです」と、その感想自体は嘘ではないのだろうが、瑞々しい果物を食べたときの反応と比べるとその差は歴然であった。
落胆した父は意地になり、アイスは高級化していく。母のこめかみに稲妻のごとき青筋が浮かぶ。風雲急を告げるお茶の間。しかし俺は父がどこまで行くのか、そしてアイスはどこまでおいしくなっていくのか、スプーンを口に運びつつ見届けようという気持ちになっていた。アイスクリームは価格上昇に比例してミルク感がマシマシになり濃厚で芳醇な味わいが麻薬的な多幸感をもたらすが、シルシュの反応はやはり薄い。不可解。当方スプーンが止まらぬというのに。
そんなある日、学校から帰ると居間にカキ氷機が鎮座していた。祖母が物置から引っ張り出してきたらしい。手回し式の年代物で、氷は用意してあるので俺に作れという。めんどうくさかったが、やってみると案外楽しい。しゃりしゃりと氷が削れて器に降り積もっていくのを、シルシュは興味深そうに見つめる。
できあがったカキ氷に、清涼感ほとばしるブルーハワイシロップをかけていただく。まあ普通にうまいが、しょせんはただの甘い氷。父の買ってきた高級アイスクリームとは比べるべくもない。俺は順当にそう断じたのだったが、しかしシルシュの反応は劇的だった。青い瞳が喜色で輝くのを前に、俺はしめやかに瞑目する。そう、父は敗北したのだ……
「で、舌がアホってなんなんだ?」
「ああ、そうそう。どうもこいつ、甘いのが好きじゃないらしい。おかしいよなぁ、甘さはすべてに優先するというのに」
「そりゃお前が単に甘党なだけだろう」
「そうですよ。のたのたしたやつよりも、こういうしゃりしゃりしたやつのほうが断然おいしいですよ」
スイカのアイスを突き出しながら鼻息を荒くするシルシュ。要するに、食感とか、口の中に広がる水気とか、あるいは辛さや炭酸の刺激なんかを、こいつは好むようだ。味自体にはあんまり頓着しないみたい。
「それって、いわゆる味覚障……いや、なんでもない。ちなみに僕はスイカが得意じゃない」
「えっ!? まさか、そんな人、この世界に存在するんですか……?」
そして、異世界からやってきた少女は世界の広さに震えるのだった。おしまい。
すっかりアイスも食べ終わったところで日陰を見つけた。ベンチの上で、蔓状の植物が屋根をつくっている。そこをどっかりと占拠し、しばらくまったりと海風に吹かれた。何か目的があって来たわけではない。
さきほど、放課後になるや早々に下校の途に着いた俺たちの前に、シルシュがひょっこり姿を見せたのだった。ジャコスン跡地に行ってみた帰りだという。方角的には途中で家を通り過ぎているはずだが、まあ散歩がてらというところなのだろう。異界探索をした夜以降、シルシュは何度か足を運んでいる。おそらくは魔女が拠点にしていたのだろうが、再び入ることはできず、入れたところでそこにとどまっているはずもない。それでも行ってみるしかないほど手がかりに乏しいのが現状だった。
魔女と接触できたことは成果といえると思う。シルシュによれば、あの猫耳秘書は普通の猫を操って変身させただけだろうとのことだが、喋っていたのは魔女本人のはず。会話内容から推測できることもあったし、セクシーだったし、なかなかに有意義だった。
それに、結果だけ見れば居所を暴いて追いやったともいえる。まあ、あからさまに誘い込まれていたけど。
異界に潜伏していたのなら、誰かになりすまして生活していたわけではないのではないか。少なくともそうしなければならない必要はないはずだが、今のところ断定できるほどの材料はない。この点がはっきりすると、だいぶ心持ちが変わってくるのだが。
あれから、魔女が何か仕掛けてくるような気配はない。そもそもあの一件は、シルシュを標的としたものではなかった。魔女の目的は志津木と夏目で、シルシュはそれに居合わせただけで、俺とあーちゃんはひどい流れ弾を受けただけ。釈然としない。
結局、二人はきっちり交際を終了させた。そのことに関して、我々はコメントする立場にない。好きにしてくださいとしか。
好きにした結果なのか、志津木はやたらと藤野にべたべたしている。藤野は困っているようだが、傍から見ている分には悪くない。むしろ無料のコンテンツとしては大変お得なのでは。登校ボーナス。見る点眼薬。毎日が目のパーリナイ。次々とキャッチコピーが思いつく。
しかし問題がひとつ。藤野と接する機会が激減してしまったことだ。話しかけようと近づくと、志津木が猛犬のように威嚇してくる。それどころか、俺だけではなく、他の女子と話をすることも快く思っていないように見受けられる。う~む、まあ深くは追及すまい。
夏目は夏目で、バスケに打ち込む決意を固めたらしかった。バスケ部は代替わりして、心機一転がんばろうという気持ちで一致団結し、なんと夏休み中には合宿も行う予定だという。我々のあずかり知らぬところで青春スポ根的な胸熱展開があったものと推測される。で、そういうのには付き合いきれない俺とあーちゃんはすみやかに退部届を提出した。そのうえでの一致団結であるのであしからず。
そういうわけで、期末試験もやり過ごしたし、部活動というしがらみからも解放されたし、もはや一分の隙もなくヒマ人なのだが、魔女探しに関しては何もできることがない。魔女のほうから接触がなければ、こちらとしては打つ手がないのが正直なところ。
「でも、そもそも嫌がらせされてなかったシル坊にちょっかいを出すつもりがあるのか疑問だな」
あーちゃんの声は暑さのせいでよれよれしていたが、シルシュは真面目な顔で耳を傾ける。
「魔女はシル坊じゃなく、リゼリヤや他の弟子たちが追いかけてくることを想定していたのかもしれない。リゼリヤはそれを見越して、シル坊一人を送り込んできたと思われるわけだが、思惑を外された魔女はどう出るか」
「どう出ますかね」
「さあな。しいて言えば、どうもしねーんじゃねーかなという気がする。魔女の目的がボイコットなら、今の状態で何も問題ないわけで」
「えぇ……そんな、なんとかしてください。アーチャンさんだけが頼りなんですから」
「そう言われてもなあ」
後ろ手をついただらけた格好で、にべもなく言い捨てる。すがるような目を向けるシルシュは、宿題に困っている子供と大差なくて、ジャコスンで杖を振り回して大暴れしていたときとは別人のよう。
シルシュがときどき凶暴になることについては、とりあえず本人には追及しないでおこうとあーちゃんと話した。どういう状態なのかよくわからないからだ。
記憶の混同とは具体的にどんなものなのか。表面的には混乱して衝動的になっているだけのように見えるが、実はその内面に独立した別人格みたいなものが発生していないともかぎらない。魔女をうらむ弟子たちの怨念のカタマリみたいなやつに憑りつかれてるイメージ。下手に刺激するとこちらに害をなすことも考えられる。素人がうかつに手を出してはいけない。お祓いくらいはしときたいところ。あとできれば陰陽師の手配を。
おそらくは、リゼリヤお姉さまから記憶を受け取った段階で、魔女に関するいろいろな事柄に関して、シルシュは自分の認識と食い違っている部分があることを初めて知ったものと思われる。きっと困惑したことだろうが、俺たちに対して説明するうえでは、その齟齬についてはあまり言及していない。俺たちが混乱しないように自分なりに整理したっていうのもあるんだろうが、中には言いたくないようなこともあったんじゃなかろうか。
そう思うと、なんだかいたたまれない気持ちになってくる。普通の子供なら、スイカでも食って能天気に遊んでりゃいいような年頃だろうにね。
「一旦帰って、リゼリヤなり全宙連の連中なりに相談するのも手なんじゃねーかと思うが」
暑さで軟体生物のようになりながらも、ちゃんと考えているらしく、別案を出すあーちゃん。リゼリヤお姉さまに丸投げされた結果がこの状況なのだから、相談して文句を言われる筋合いはない。
ただ、一旦帰ることについては、以前に俺からも勧めてみたことはあったのだ。
「帰れません」
そのときと同じように、シルシュは首を横に振る。耳の後ろで二つ結びにした髪が、潮風と合わさって複雑に揺れる。
「意地張ってもしょうがないだろ。べつにお前に不手際があったわけじゃないんだし、駄目でしたで済む話だと思うけどな」
するとシルシュは、ふるふるとさらに大きく首を振る。
「そうじゃなくて、帰りようがないんです。帰る方法がないんです」
「…………え、そうなの?」
えっと、つまり、帰るときには魔女と一緒だから当然問題ない、ということだろうか。もしも見つけられなかったら、とか考えなかったのだろうか。リゼリヤお姉さま、仕事雑すぎじゃね?
「手ぶらじゃ帰れないって意味じゃなかったのか……」
「そんなこと言ってないです」
「いやそうなんだろうけど」
「具体的には? もうまったくどうにもならんのか?」
あーちゃんが尋ねる。シルシュは少し上を見てから答えた。
「具体的に……ええと、移動手段はあるんですけど、移動先が決められないってところですね。こちらへ来るときは、お師匠が精製炉から魔力を引き込んでいるのをたどったわけですが――」
「ああ、なんか、蛇口からジュースが出てくる的な話だったな、確か」
シルシュが、なんですかそれ、と首を傾げながらも先を続ける。
「だから、同じようにそれをたどれば帰れるんですけど……」
「西山の言う〈蛇口〉は魔女が持っているわけだから、どっちみち魔女を捕まえないことには帰れない、と」
あーちゃんが話を継ぐと、シルシュは「です」とうなだれるようにうなずいた。
「うぅむ、見事に手詰まりだな。リゼリヤお姉さまは、しばらく音沙汰なかったら様子を見に行くとか、そんなことは言ってなかったのか?」
「いえ、特には……」
「シル坊が十年漂流したっていうのを認識してるのか。していたとしてそれがトラブルによるものなのか、想定されたものなのか。そのあたりがわからんことには何とも言えんな。もっと長く漂流することだって考えられたのだとしたら、しばらくは様子見されることになる。逆に最悪の事態としては、すでに入れ違いになってて収拾つかなくなってるかもしれん」
要するに、救援も期待できないということらしい。なかなかに途方に暮れる状況。シルシュは眉をハの字にしたが、あまり危機感をおぼえている顔に見えない。暑くて表情筋が弛緩しているからだろうか。
「ううん、困りましたねぇ。いつまでもニシヤマさんのおうちにお世話になっているわけにはいきませんし」
嘆く言葉も、時空を股にかけた問題に直面しているわりに、ご近所スケールの慎ましやかさ。おろそかにしてはいけない部分とは思うが、なんだか所帯じみているというかなんというか。
言うまでもないことだが、西山家の大人たちは諸手を挙げてウェルカムムードである。ただ、本当にこのまま何年も居候なんてことになると、世間体とかあるし、感情的に受け入れるだけで片付く問題ではない。
「あの親父なら、戸籍をでっち上げるくらいやりかねないような気がする。そしてあたかも初めから娘が二人いたかのようにふるまうのでは」
「そのほうが世間体に障るような気がするが。むしろちゃんと法的に問題ない体裁にするんじゃねーの? 西山の話しぶりからして」
「ちゃんとって? 異世界人なのに?」
「世の中には、出生届が出されてない子供ってのもいるらしい。そうした子供が戸籍もないままってわけにはいかないだろうから、どうにかする手続きもきっとあるだろ。知らんけど」
なるほど。大変そうだけど、あの父ならば手間を惜しむまい。でも大丈夫なんですかね、この子、髪青いけど。お役所って、そういうの気にならないタイプ?
シルシュはしきりにおさげを撫で下ろし、口をむぐむぐさせながら俺とあーちゃんを交互に見る。たぶん、どういう話をしているか察しているが、決まりが悪いので口を挟まずにいるのだろう。確かに、もし本当に今さら妹ができるなんてことになったら、俺だって尻が落ち着かなくて座ってられないと思う。
「それは気が早いとしても」
と、あーちゃんが話を変える。
「現実的なところでいうと、病気とか怪我とかしちまったら面倒なことになるな。健康保険にも入ってないし」
おお、そのとおりだ。魔女だの異世界だの浮ついた話をしながらも地に足のついた指摘。さすがあーちゃん、ぬかりない。
「てゆうか、それこそ魔法でなんとかならんの?」
と、俺はシルシュに水を向けた。
「ある程度なら体調を整えられますよ。食事を魔力で代替するのと似たような感じですね」
シルシュは存外簡単に答える。すごいんだかすごくないんだかよくわからんね、魔法ってやつは。
「へー。栄養素を補ったり、体内の分泌物とかをコントロールしたりすんのかな」
「そうなんでしょうか。細かくはわかりませんが、健康な状態を条件付けするとかなんとか。病原体を直接やっつけるっていうのは難しいですね」
「んじゃ怪我は? そういや校舎を直してたけど、同じ要領で?」
すると、シルシュは恥じ入るように苦笑いを浮かべた。粘土をこねこねするように修復していた姿が思い出される。はっきり言って、良い出来ではなかった。
「えへへ、まあそうです。なので、マナが薄いこの世界では、身体を元通りにするっていうのはあんまりやりたくないですね」
つまり、怪我した箇所が粘土細工みたいになってしまうということか。絶対嫌だ。ホント、すごいんだかすごくないんだか。
少し風の感じが変わったかと思ったが、気のせいかもしれなかった。日暮れに向けて海からの風は弱まっていくものだが、打ち寄せる波はまだ高く、浜に届くよりも先に白く壊れていく。絶え間のない波音に、歓声が混ざる。波打ち際ではしゃぐ子供のものだ。波間に人の姿は、もうあまりない。
「海って泳ぐものだと聞きましたけど、そうでもないんですね。というより、あれは何をしてるんですか?」
目をすがめて砂浜を見やるシルシュ。不思議そうに眉根を寄せている。
「何って、遊んでるんだよ」
「はぁ……」
完全に納得していない顔である。海を見たこともなかったらしいから、波と戯れるという概念なんてないのだろう。
「ふむ。そしたら俺らもちょっと行くか」
思い立って、波打ち際に誘う。シルシュは露骨に顔をしかめた。
「え、いやです。なんか得体が知れないですし」
「お前、海のことなんだと思ってんの?」
「行ってこいよ。深いところでなきゃ、ざっぱざっぱうるさいだけのただの水たまりだ」
「えぇ……」
あーちゃんに言われると弱いのか、不承不承といった面持ちで腰を上げる。俺も裸足になり、制服の裾を巻き上げて準備万端。
「ほれ、あーちゃんも行こうぜ」
「パス。砂がついたら靴履き直すのめんどいし」
ごろりと横になるあーちゃん。全身弛緩しきっていてベンチとべっとり同化する勢い。はがすのも難儀なので、やむなく置いていくことにする。
「あ、私も砂で履き直すのが大変なので遠慮します」
「お前はサンダルじゃねえか。いいから来い」
便乗しようとするシルシュを引きずるようにして、砂浜を突っ切る。日中、強火で念入りに焼かれていた砂は、まだ相当熱かった。シルシュがサンダル越しでも熱い熱いと騒ぐが、俺は裸足。めちゃくちゃ熱いけど、むりやり連れてきている立場上やせがまんせざるをえない。
足が波にさらされると、生き返ったような心地がした。海なんて今さら新鮮味も何もないけど、たまには悪くない。
「おおう、冷たい冷たい。お前も早よ来い。気持ちいいぞ」
手招きするも、シルシュは水際ぎりぎりのところで立ち止まり、波がひっきりなしに寄せては返す様子に顔をひきつらせている。
「…………」
「おーい、どうした?」
ちらりと俺を見る。それから俺の足元へ。海水が無害であることを確認しているのだろうか。意を決したようにサンダルから足を抜くが、まだ波には触れない。足を出そうとして、波が来て引っ込めるのを繰り返す。エスカレーターになかなか乗れない人に似ている。なんだろうな、何がそんなにこわいのか、さっぱりわからん。
そうこうしているうちに、ひときわ大きな波がシルシュの足元まで打ち寄せた。
「ふぁあああああああ~~~…………!」
突然、野球の試合が始まりそうな珍妙な悲鳴があがった。
「な、な、なんですか! なんですかこれ!? 足の裏がすっごくきもちわるいんですが!」
どうやら波が引く際の砂の感触のことを言っているらしい。とりあえず海に対する抵抗感は薄れたようで、一旦は水際から離れたものの、すぐにまた波に足をさらして砂の感触に声をあげる。くすぐったいのか、ばちゃばちゃとその場足踏みを始めるものの、また波が来てはじっと立ち、甘んじてそれを受け止めている。
「ひぃああ……なんか、ぞわぞわします。ぞわぞわしますけど、なんかやめられません……!」
「…………」
なんか、俺が思ってた水遊びとは違うような気がする。
俺は無言のまま、砂の感触に打ち震えるシルシュの顔面に向けて盛大に水をかけてやった。
「ぶわ! ちょっと、なにするんですかニシヤマさん!」
両手を振り回して払いのけようとする。クモの巣に突っ込んだときに思わずしてしまう動き。水をひっかけられてるときにも適切ではない。
「そぉれそぉれ、フハハハハハハハハ」
シルシュの大げさな反応に興が乗ってしまい、続けざまにばっしゃばっしゃと水をかける。水中でもないのに、溺れてるようにじたばたするシルシュ。とっさに魔法で防ぐことは思いつかないのか、あるいは祖母のいいつけを守っているのか。
「そいやそいや、フゥハハハハ――ぶっは!!!」
かと思いきや、いきなり足が後ろへ引っ張られ、俺は顔面から水面に倒れ込んだ。ものすごい勢いで鼻から海水が入り込み、気管の強烈な痛みにあえぎながら水を吐き出す。
顔を上げると、シルシュの非難がましい目があった。どうやら彼女の魔法によるものだと知れる。最後の手段のハードルは、案外低かった。
しばしにらみ合ったのち、シルシュが水をかけてくる。魔法ではなく、彼女自身の手ですくったものなので、ささやかな量である。そんな飛沫程度、頓着するものか。弾き飛ばさんばかりに鼻で笑ってやると、俺は猛然と攻勢を仕掛け、すぐにまた顔面から海中に没することになった。
そんなのを飽きるまで繰り返した。水遊びというものをよく理解してもらえたと思う。
ずぶ濡れになってあーちゃんのところに戻った。
「お前らさぁ、ちったぁ加減しろよ……」
呆れ果てているあーちゃんに、俺とシルシュは互いを指さして相手のせいだと主張した。いずれの主張も認められなかった。
このままでは家に帰るのもままならないので、しばらく堤防の上で日干しになる。頃合いを見て裏返ったり、乾いた地面に移ったりするが、水着と違ってなかなか水気が抜けない。乾いたとしても、まともに着られる状態ではないかもしれない。明日は終業式だけだし、どうにか乗り切るしかない。
ああ、そうだ、明日はもう終業式なんだった。こんなことしてる場合じゃないのだが。
それにしても、濡れた服を着ているのは気持ちが悪いものだが、そのうえ現在進行形で生乾きになっていく状態とあっては気持ち悪さもひとしおである。
構わず帰ってしまおうかと考えていると、シルシュがやってきて俺の頭の上でかがみこんだ。さかさまの顔がのぞきこんでくる。
「ニシヤマさん、アーチャンさんが飲み物を買ってくるそうですけど、何がいいですか?」
「ん、じゃあコーラ」
「わかりました」
と、離れていく後ろ姿に違和感をおぼえる。風になびく髪はさらさらとして指通りも良さそう。紗莉のおさがりの服とも合っていて、テレビCMのような爽やかさを感じさせる。うむ、やはりおかしい。海水でベタベタのはずなのに爽やかなんておかしい。
「ちょっと待て。お前、魔法で乾かしただろう!」
「バレましたか」
くるりと振り返って舌を出すシルシュ。
「なんだよ、自分だけずるいじゃんか。俺にもやってくれ」
「おばあちゃんにむやみに使うなって言われた手前、気が引けるなぁ、と」
「さっきさんざん使ってだろうが」
「あれは、ニシヤマさんがひとりで転んでたんですよ?」
くっ、生意気な口をききやがって。ともかく俺もさっさと爽やかになりたい。魔法をせがむと、シルシュはもっともらしい予備動作もなく、無造作に俺に向かって手をかざす。
途端、ブゥオ!と全身から湯気が立ち昇った。
「あっつ! あっつぅい!」
「がまんしてください。すぐ済みますから」
サウナに入っているようなものだろうか。いや、そんなもんじゃないような気がする。全身火傷とかしてないだろうな。
体感的にはけっこうな時間があって、ようやく湯気の噴出が収まった。服は乾燥機から出したてのようにほこほこしているが、それを着ている俺はたぶん即身仏のようなありさまにちがいない。
よろよろと日陰のベンチに戻り、改めてあーちゃんにコーラをお願いする。パシらせるみたいで忍びない。しかしそうして口にしたコーラはこの世のものとは思えないほどうまかった。夢中になって飲み干してしまうと、炭酸の気泡で頭蓋がいっぱいになったかのように、恍惚として何も考えられなくなった。
「シル坊は、もっと普通に乾いてたけどな。服もごわごわになってないし」
え、そうなの? ふん、こしゃくな真似を。おかしいと思ったんだ。いくら魔法ってやつが不条理なものであっても、服を乾かすためにこんな蒸かし芋みたいになる必要なんてあるわけない。
でもいいんだ。今はそんなことより。
「そんなことより、夏休みのこと考えようぜ!」
「なんだ唐突に」
「知ってるかいあーちゃん。明日はもう終業式なんだぜ。そしてあさってからは夏休みだ」
「学校に行かなくていいってことですか?」
「よろこばしいことだ」
もちろんその意見に異存はないのだが、ひとつの難問を抱えていて、このまま夏休みに突入するのはいささか都合が悪いのだ。
「このままでは、藤野と二学期までまったく会えなくなってしまう」
二対の目が、みるみるうちに白けたものに変わった。どうやら事の重大さを理解してもらえていないご様子。
シルシュが小さく挙手。
「遊びに誘ったらいいんじゃないですか?」
「それができれば苦労しないんだぜ!」
「はぁ、そうですか」
ため息で返事しながら、つまんだ毛先をこすり合わせる。んまあ、すっごくどうでもよさそう。
確かに、いつもの調子で声をかければいいだろう、という意見にはごもっともというほかない。少し前までは、俺もそれができるつもりでいた。しかしながらそれは、夏目=志津木ラインが健在であればこその話だったのである。失って初めてそのありがたみに気づく――人生そんなことばかりさ。
結局のところ俺の自信の根拠とは、夏目を誘えば志津木ももれなくついてきて、すると女子がグループに含まれているという安心感から、藤野にも声をかけやすいし、藤野も加わりやすいという構図にあったのだ。
夏目=志津木ラインは切れてしまった。そのうえ志津木は俺が藤野に近づくのを露骨にガードしてさえいる。打つ手なし、そして時間ももうない。
「前に、デンワっていうのしてたじゃないですか」
シルシュが言う。あーちゃんが、へぇ、と感心したように俺を見た。
「そう……そう、だな。そうなんだけど、それは最後の手段にしたい」
「どうしてです?」
「電話して誘ったら、それはもうデートのお誘いになっちゃうじゃんか」
「そうか?」
あーちゃんが首をひねる。言いたいことはわかる。きっと、複数人での遊びに、藤野も誘うというケースを想定しているのだろう。でもね、夏休みにクラスの男子からの不意の連絡を受ける藤野は、きっと緊張していると思うんだよ。いったい何の話かしら、と、胸をどきどきさせてね。そうして息をするのも忘れて耳を傾けるのに、肝心の用件がみんなで遊ぼうっていうお誘いだったらいかにも拍子抜けでしょうが。がっかりさせちゃうでしょうが。
「妄想がひどい」
「それならデートに誘えばいいじゃないですか」
いっそそうしたいのはやまやまなのだが、俺にはまだ子供の頃の藤野とのことを思い出せていないという問題を抱えている。この件に目処がつくまでは、あまり積極的になるべきではないと考えている。
「めんどくせー奴だな」
「日和ってるだけじゃないんですか?」
「お前……お子様のくせにそういうボキャブラリーどこで仕入れてくるの?」
「なんのことです?」
シルシュがとぼける。いや、魔法による翻訳がニュアンスを過剰に汲んでいるだけなのか。いずれにせよ俺を侮っていることに変わりはないわけだが、言い返せるほど事実と違わないし、これから持ちかける提案のこともあるので、今日のところは大目に見てやることにする。
「とにかく、そこで君の出番となるわけだよシルシュ君」
脈絡なく指名され、一旦は目を丸くしたシルシュだったが、すぐに半分ほど閉じられた。
「私を口実にしようっていうんですね」
じっとりと軽蔑的な眼差し。そのとおりである。おもしろいもの好きな藤野は、魔女っ子シルシュに格別の関心を寄せている。そのシルシュをエサに、藤野を釣り出そうという魂胆。
明日が分水嶺なのである。夏休みの前に、なにかひとつでも約束をとりつけておかなければならない。まずはそれをクリアできなければ、そのあとにつなげることが桁違いに難しくなる。できるかぎりの手は尽くしておきたい。
「べつに無理強いさせようってんじゃあないんだ。お前に行きたいところがあるとか、したいことがあるとかするのなら、付き合ってやろうという話だ。藤野に話せば、藤野も付き合ってくれるかもしれない。そういう話だ。お前には何の損もない」
「利用されるっていうのがすでにいい気分じゃないんですけど……」
「そう言うなって。なんかないか? なんかあるだろ、なあ?」
眉間に深いしわを刻み、うぅんと低く唸るシルシュ。俺にはぴんときたね。これは心当たりを探っているのではない。すでに思いついているが、口に出すべきか葛藤しているのだ。どうした、何をためらう?
「なんかあるんだな? あるんだろ? 言ってみろ、さあさあさあ」
「やたらぐいぐいきますね……。ニシヤマさんの思いどおりに事が運ぶの、なんとなくくやしいんですよね」
何かと思えばそんな葛藤らしい。まったくもって生意気。ここはひとつ、自分の立場というものをわからせてやるべきのようだ。
俺は額に手をあてがい、不機嫌そうに嘆息してみせた。
「シルシュよぉ……思い返せばお前とは、初対面で問答無用でひどい拷問をされて――」
「わ、わかりました! 言いますよ、言いますから!」
シルシュは両手を突き出して降参した。存外あっさりで拍子抜け。実はけっこう気にしてるのかも。
咳払いのように小さく息をついて、シルシュはちらりと視線を滑らせる。そちらでは、あーちゃんが心底どうでもよさそうに寝転がって大海原を眺めている。助け舟でも期待したのかもしれないが、口を挟んでくる気配はない。それはいいんだけど、それにしてももっと興味持って。会話に参加して。
「その……今度、オマツリという催しがあるそうですね」
「ほう、祭りに行きたいって? いいじゃんいいじゃん、定番じゃん」
しかし、シルシュは不自然に表情を固くして首を振る。
「そうは言ってません。ちょっと小耳にはさんだだけです。聞けば、ユカタという特別な衣装を着る習わしがあって、年頃の女の子にとってはステータスになるのだとか。ですから、そういう催しに誘ってみてはどうかという、これは助言なんです。べつに私が行ってみたいとか、そういう話ではありません。ただ、ニシヤマさんの都合で私が同行するほうが声をかけやすいというのであれば、それもやぶさかでないとは思っています」
「最初から利害が一致してんじゃん、お前ら」
「…………」
寝返りを打って言うあーちゃんに、シルシュは気まずそうに口をつぐむ。どうやら魔女を探すという目的を放置して遊びたいと主張することに気兼ねがあるらしい。相談に乗ってもらってばかりのあーちゃんにはとりわけ申し訳が立たないのだろう。
しかし、祭りか。夏祭り。うーむむ。
「でもさ、平気かな? よく考えたら祭りなんてド定番じゃん? 藤野、もっとエキセントリックなやつじゃないと興味もたなかったりしないかな?」
「そのためにシル坊をダシにするって、自分で言ったんじゃねーか」
そうだった。だけどもそれはそれとしてさ、誘うからには藤野をきちんと楽しませないと、って、俺の中のジェントルマンな部分がささやくわけだよ。実際、シルシュ目当てで誘い出せたとして、それだけってわけにはいかないわけだし。
「まあな、祭りなんて毎年変わり映えしないし、わざわざ行くもんでもねーってのは同意するけど」
「そうなんですか?」
「そうだぞ。人は多いし、どれも高いし、そのくせ子供騙しみてーなもんばっかだし」
「そうなんですか……」
シルシュの表情がみるみる曇っていく。む、これはいけない。肝心要のシルシュのテンションが下がっては計画はご破算。
「違うぞシルシュ。これは負け惜しみだ」
俺はすかさずフォローに入る。
「あーちゃんはな、金魚すくいとかヨーヨー釣りとか射的とか輪投げとか型抜きとか、夜店の遊びがことごとく下手なんだ」
「えぇ?」
意外そうにあーちゃんを見返すシルシュ。あーちゃんはすねたように口を曲げてそっぽを向く。
「あーちゃんは考えるのは得意なんだけど、考えたとおりに身体が動かないという致命的な弱点がある。それなのに考えてしまうから、結果的に何も考えずにやるよりもうまくいかないんだ」
「あはは。へぇー」
笑みがこぼれる。あーちゃんはますます不機嫌そうだが、でも大丈夫、こんなことで威厳が損なわれたりしないから。ちょっとくらい隙があったほうが親しみやすいってよく言うじゃん。
「お二人って、ずっと前からお友達なんですか?」
「え、どしたの急に」
聞き返すと、あべこべにシルシュのほうが言葉に詰まった。
「えっと……オマツリって、たまにしかやらないんですよね」
「年に一回だな」
「それなのによく知ってるってことは、何度も一緒に行ったんだろうなって思って、それで」
「まあな。小三からだから、えっと……」
七年前、とあーちゃんが補足してくれる。
「今みたいに、一緒の学校に通ってたわけですよね。でも、学校って他にも大勢いるわけじゃないですか。どういういきさつでお友達になったんですか?」
「忘れた」
と間髪入れずに言い切るあーちゃん。いいや、俺はばっちりおぼえているぞ。てゆうか忘れたなんて嘘だし。
「端的に言うと、俺がガキ大将にからまれているところを助けてくれたんだ」
あーちゃんが苦々しく顔をゆがめる。シルシュは顎に手をあてて小首を傾げた。
「ガキ大将……軍の人ですか?」
だいぶ違うね。まあ、同年代が周りにいなきゃ知らんわな。
あーちゃんとは小学三年で同じクラスになったが、当初はまったく接点がなかった。俺は積極的に友達を作っていこうというタイプではなく、声をかけてくれる奴に控えめについていくくらいのものだったので、交友関係は広がらず、一方のあーちゃんはなんだかとらえどころのない感じで、誰かと遊んだり話したりはしていても、親しくなるという雰囲気がなかった。
何事もなければ、一年間同じクラスにいても二言三言言葉を交わす程度の間柄だっただろう。何事もなければ。
そのクラスでは、一人の男子が威張り散らしていた。
「なんつったっけね、あいつ。モツの里だったっけ?」
「そんな菓子だか力士だかみてーな名前じゃなかったと思うが、それでいいよ。思い出せねーし」
というわけで、モツの里は身体も声も態度も大きかったし、取り巻きみたいな連中もいたので、誰も反抗しなかった。下手に逆らうと面倒なことになるのは明白だったし、適当に調子を合わせていれば何とかやり過ごすことができたからだ。みんなからもてはやされて、モツの里はたいそう気分良くしていたようだったが、当然、陰では煙たがられていた。
遠足に行った先でのことだから、秋頃のことだったと思う。
俺は、モツの里とその一味に因縁をつけられた。経緯はおぼえていない。どうせたいしたことではなかったと思うのだが、なぜかそのときにかぎって、俺は反抗的だった。今に始まったことではないし、いつもどおり適当にやり過ごせばそれでよかったはずなのに。
逆らったからって、モツの里が引き下がるはずもない。むしろ余計につっかかってくるから、みんな穏便に済ませようとしているわけで。俺も何を意地になったのかわからないが、抵抗をやめようとせず、ついにはつかみ合いのケンカになった。しかしモツの里は体格もいいし、仲間もいるし、勝ち目はない。
そこへ現れたのがあーちゃんだった。あーちゃんは駆けこんでくるやいなや、モツの里の横面を思い切りぶん殴った。
モツの里がよろめき、取り巻き連中が呆気にとられる中、あーちゃんは不敵に笑った。清々しいまでに向こう見ずなその横顔は、今でも俺の脳裏に強く焼きついている。
そのあと、あーちゃんは続けざまに殴りかかったが、あっさりとやり返され、取り巻き連中も混ざってきてボコボコにされてしまう。亀のように丸くなって耐えていたところを、引率の先生がやってきてようやく収拾がつけられた。
後日、関係児童とその保護者が集められた。その場であーちゃんは、「前々から気に入らなかったので、いつか殴ってやろうと思っていた」と凶行の動機を明らかにした。俺が反抗し、ケンカに発展したのを見つけて、絶好の機会だと考えたらしい。その話はどこからかクラスメイトたちにも知られるところとなり、以降モツの里はそこはかとなく白い目で見られることになる。言葉にはせずとも、みんなが同じように思っていたことを暗に突きつけられたのだった。
「――で、それ以来、俺はあーちゃんを信奉するようになったってワケ。おかげで性格も前向きになったし友達も増えたし身長も伸びた」
「ただの成長期だろ」
「ニシヤマさん、べつに助けられてなくないですか?」
「お前……この英雄的エピソードを聞いてそんな感想しかないの?」
不満を表明する俺をほぼ無視する格好で、シルシュはあーちゃんへ顔を向ける。
「でも意外です。アーチャンさんにもやんちゃな時代があったんですねぇ」
それから、モツの里とは何度か取っ組み合いになることがあった。からんでくるのはモツの里だが、手を出すのは決まってあーちゃんである。そして痛い目に遭うのもあーちゃんのほう。運動できないくせにケンカっ早い不思議。よっぽど腹に据えかねていたのか、モツの里に対しては引くに引けない意地があったのだろう。奴以外とはケンカなんて全然なかったわけだし。
そんなこともあって、小学校時代のあーちゃんは問題児みたいな扱いだった。先生たちからもよく思われてなかったと思う。不良ってわけじゃないけど、不真面目寄りの生活態度になったのって、この頃の影響なのかもしれない。
あーちゃんはうなだれるように下を向いて押し黙っている。直情的だった昔を思い出して煩悶しているのかと思ったが、不意に上げた顔を見るにそんな感じでもない。眉を片方だけ持ち上げて、もどかしそうに俺に問う。
「西山、お前さ、あのときモツの里に何か取られて、それで揉めてたんじゃなかったか?」
「何かって?」
「わかんね。けど大事なものだってんで、珍しく逆らってたんじゃねーのかと思って」
「んー……?」
まったく心当たりがない。思い出せないけど、普段なら我慢していたところをそうしなかったということは、それなりの経緯があったものと見るべきところではある。とはいえ、あの頃大事にしてた物ねぇ……。
「そんなのあったっけなぁ……」
「ほんっと、ニシヤマさんって……」
肩をすくめ、半笑いでゆるく首を振るシルシュ。うるさいな、どうせポンコツだよ。
「で、それがどうかしたの?」
「いや……」
と、あーちゃんはしばらく考え込む。少しの間そうしていて、何事かと顔を見合わせる俺とシルシュに向けて、改めて口を開く。
「ひょっとしたらだけど、それが〈蛇口〉だったんじゃねーのかな」
「えっ……!?」
シルシュが目を見開く。
「〈蛇口〉って、魔女が自分の世界から魔力を引き入れてる、その先っちょってこと?」
「そうそれ」
「待ってください。どういうことですか? どうしてニシヤマさんが?」
早口で詰め寄るシルシュに、あーちゃんはこころなしか説明をためらうような素振り。自分でも半信半疑なのだろうか。でも、憶測でしか言えないのは今に始まったことじゃないし。
「逆だったんじゃねーかと思って。魔女が西山に魔力を補充するんじゃなく、魔女は西山から魔力を補給する」
この世界に逃げてきた魔女は、追手が〈コンパス〉を用いて自分を探すことを予測していた。〈コンパス〉は近場で一番大きな魔力量を探知するものなので、魔女以上の魔力が別にあればそちらを指し示してしまう。その囮役にされてしまったのが他ならぬ俺で、魔女は自分の魔力が俺を上回らないように適時補充しているはずだと、これまではそう考えてきた。
そうではなくて、俺に常時魔力を供給するようにして絶えず満充填状態にしておけば、〈コンパス〉での探知を回避するために俺の残り魔力量を気にしなくて済むわけで、魔女は自分が必要な時に必要な分だけ俺を介して補給すれば事足りるし、むしろ手間いらずなのでは、とあーちゃんは言う。
「でもさ、〈蛇口〉って魔女の生命線になるわけでしょ? そんな大事なもの、他人に預ける?」
「そうですよ、実際、ニシヤマさんってばすっかり忘れちゃってるじゃないですか」
「……いや、だからそもそも俺に持たせてなんてなかったんじゃないの、って話してるんじゃん」
「ああ、そうでした、つい……」
つい、じゃないよまったく。こいつ、俺をポンコツ扱いするのクセになってんじゃないだろうな。
あーちゃんは続ける。
「あのとき、モツの里と揉めて、そのどさくさで失くしたんじゃねーのかな。で、魔女が回収した。当初は手間がかからなくて楽ちんだと思ってた魔女も、こういう不測の事態もあるってことで考え直した。〈蛇口〉は、今は魔女の手元にあって、西山からは関係する記憶を消した」
「だからニシヤマさんはおぼえてない。辻褄は合いますね……」
シルシュがつぶやく。納得しちゃってるみたいだけど、俺はどうにも釈然としない。またも記憶を消されてるからか。
ふと見ると、しきりに首をひねる俺に、シルシュがなにやら含みのある視線を向けてきていた。
「つまり、ニシヤマさんが失くしたりしなければ、手がかりがつかめていたはずってことに……」
「ちょっと待て! それはさすがにおかしいだろ! タラレバが過ぎる!」
「冗談です、冗談。でも、お師匠がニシヤマさんに〈蛇口〉を持たせていたっていうのは、ありえそうに思えるんです」
「えぇ……そうかぁ?」
「はい。特に、手間がかからない、っていうところとか」
なるほど、魔女ってのは横着らしい。紛失したとしてもすぐに回収できるのであれば、確かにそのほうが都合が良いのかもしれない。
「それでひとつ思いついたんですけど、もしもニシヤマさんが〈蛇口〉を持たされていたとして、お師匠に回収されているとはかぎらないとは思いませんか?」
「でも俺、そんな変なモノ持ってないよ」
手のひらを上に向けてやると、シルシュの口元があざけるような緩い笑みのかたちをつくった。そうして微妙な間を空けて、彼女は言う。
「えっと、つまり、失くしてしまったのは、そのモツノサトさんとケンカしたときじゃないかもしれないってことです。ほら、ニシヤマさんの部屋って散らかってるじゃないですか」
「…………」
俺が言葉の意味を咀嚼しているうちに、隣であーちゃんが膝を打った。それはありうるな、とのこと。
要するに、モツの里との揉めごととはまったくの無関係に、俺は大事な〈蛇口〉を紛失してそれっきり忘れてしまっているんじゃないかと、二人はそう言いたいらしい。
まったく……君たちね、人を愚弄するのもいい加減にしたまえよ。確かに俺は几帳面な性格ではないし、部屋は片付いていないし、物忘れもするけれども、そんな得体の知れない物体が転がったまま安穏と暮らしたりなんてしませんよ。ええ、しませんとも。
魔女が俺に〈蛇口〉を預けたと仮定するならば、そこから魔力の供給を受けるに際して、別段の操作をする必要はないのだと思われる。俺には何の心当たりもないわけで、特に何もしなくても、囮役である俺の中に魔力とかいう不可解なエネルギーは自動的にどくどくと流れ込んできていたことになるからだ。
俺が普段身に付けているものに異世界由来の物品はなさそうなので、どうやら身体に接触していなければいけないものでもない。ということは、たとえば部屋のどこかに無造作に転がっていたとしても、問題なく機能するはずだと考えることができる。
そういうわけで、急ぎ我が家へ帰ってきた。そして、これから行われるのは家宅捜索である。俺には、何もやましいところはない。令状もない。これは明確な人権侵害である。弁護士カモン!
「散らかってるのが悪いんですよ。きちんとしてれば、疑ったりなんてしません」
「そんな理由が通るものか! 俺には俺の部屋を散らかす権利がある! それを疑惑の根拠にするのは不当だ!」
「またそんな屁理屈を……」
シルシュがまた呆れた目で俺を見る。おそらくは全男子高校生に共通することと思うが、俺は家族からたびたび部屋を掃除するよう勧告を受けている。近頃、連中はもっぱらシルシュをその尖兵としており、このようなやりとりは幾度となく繰り返されていたのだった。むろん、聞き入れたことなどないし、これからもない。しかし、まさかそれを逆手にとられることになろうとは……
べつに、この二人に見られて困るものなど何もない。でもプライバシーってそういうものじゃないじゃん? だから抵抗の火は絶やしてはいけないのだ。そもそも、俺の部屋には日頃から勝手に紗莉が出入りしている。今さらちょっと漁られたくらい、どうってこともない――
「あ、サリさん」
戸を開くと、こぼれ出てきたひんやり感がやさしく撫でつけてくる。空調の整った快適な俺のベッドで、紗莉がすうすう寝息を立てていた。制服のままで、仰向けの胸の上には開いたままの参考書。
「ぬぅおう!! あーちゃん、見ちゃ駄目だ!」
「ふぐっ!!?!」
俺の渾身のショルダーチャージを受け、吹っ飛んだあーちゃんは廊下を滑っていく。
「え? え? なんですか? どうしたんですか?」
突然のことにわけがわからずあたふたするシルシュに構わず、俺は部屋に飛び込んで紗莉を揺り起こす。
「ん……あれ、孝平おかえり。なんか服ごわごわじゃない?」
「これから大掃除をすることになった。だから自分の部屋に行け」
「えぇ、なにそれ。なんで急に?」
「急いでるから急なんだよ! いいから早く!」
もたもたと身体を起こす紗莉を立たせ、部屋から追い出す。入れ違いにあーちゃんが入ってきた。
「いってぇ……西山、なにすんだよ」
「あーちゃん、今の見た?」
「今のって……紗莉さんのことか? そこで寝てたな」
俺のベッドを指さす。ああ、遅かったか……
「サリさん、ニシヤマさんがいないときにはよくそのベッドでくつろいでるみたいです。そんなに寝心地いいんですかね」
「ああ、しかもバラしちゃうし……」
「あの、なにかまずかったんですか? すごく焦ってましたけど」
シルシュはきょとんとしていて、事の重大さが理解できていない。焦っていると認識しているのなら、もっと慎重になるべきじゃんよ。
「こんなことを知られたら……」
「知られたら……?」
俺がずずいと顔を寄せると、シルシュはゴクリと喉を鳴らした。
「あーちゃんが俺のベッドでおかしなことをしてしまう」
「するか!」
力いっぱい、頭をはたかれた。
「えぇ……でも、おかしな気分になったらわかんなくない?」
「なくねーよ。たまに寝そべってるだけだろ? いつも寝てるベッドならまだしも」
「待ってください。 まだしも、なんですか? いったいなにをするっていうんですか?」
「…………」
シルシュの懸命の訴えに、しかし我々は目をそらし、口をつぐむことしかできないのであった。
「どうして二人とも黙るんですか? なにか大変なことなんですか?」
しつこく聞いてくるが、我々は口をつぐむことしか。
「あの、なんなんですか? どうして答えてもらえないんですか?」
もう本当にしつっこくて、我々が頑として口を割らないことを受け入れてもらえるには、相応の時間が必要となった。こいつわかってて聞いてんじゃねえのかなと疑うくらい。
「聞くところによれば、サリさん、以前はニシヤマさんの面倒をよく見ていたんだそうですね。ちょくちょく部屋に来るのも、その名残りってことでしょうか。そのわりに、ニシヤマさんがいないときを見計らってるみたいですけど」
ようやくセンシティブな事柄に関する追及を諦めてくれたシルシュだが、続けて紗莉を話題にする。どちらにしてもコメントしづらい。
「兄や姉なんてのは、ある程度大きくなると弟や妹と距離をとるようになるもんだが、紗莉さんはそういうふうにはならなかったんだな。せっかく美人の姉ちゃんが仲良くしようとしてくれてるってのに、こいつときたら……」
「ああ、そういうことですか。ニシヤマさんが嫌がるから気を遣ってくれてるんですね。なんですか? 恥ずかしいんですか?」
「無理もねーけどな、周りからさんざんいじられたし。中学のときなんて特に。身内が目立つのは良くも悪くも面倒なもんだ」
「そんなものですかね。気にせず仲良くすればいいと思いますけど。二人きりの姉弟なんですから。紗莉さんがかわいそうです、弟にかわいげがなくて。それなのに愛着が薄れないなんて、血のつながりっていうのはこわいものですね」
こわくねえよ。ホラー要素みたいに言うな。ちくしょう、黙ってりゃ好き放題言いやがって。
「そうだな。逆に、血がつながってるとどんなに美人でも何とも思わないものらしい。紗莉さんとひとつ屋根の下で暮らしながら平然としていられる西山が、僕には信じられん」
「なるほど。今日はアーチャンさんもおかしいみたいですね」
シルシュが深刻な面持ちでうなずく。しかしそれは違うぞ、少女よ。思春期男子ってのはだいたいこんなもんなんだぞ。確かにおかしいけど、それで普通なんだ。理解するには時間がかかるかもしれない。けれど、受け入れなければいけないんだ。
我が西山家の家屋は新しくはないし、かといって歴史を感じさせるような重厚さもないが、それでもなかなかに立派だと思う。降って湧いた居候の部屋も難なく用意できたし、空いている部屋はまだある。先祖って偉いよなぁとしみじみ感謝。
俺の自室は一階の端っこのほうで、小学校に上がったときにあてがわれて以来、ずっと同じ。手狭になってきたし、手ごろな別室に移りたいとも思うのだが、いざ実現しようとすれば一大事業になってしまって容易には踏み切れないし、それ以前に許可が下りない。寝言は寝て言えと一笑に付されてしまうことうけあい。
その理由が、部屋の惨状である。個人的にはそれほどではないと思うのだが、一般論的には著しく説得力を欠くらしい。整理整頓もできないくせに手狭とは片腹痛い、とのこと。
厳格な西山家家訓により、家族が無断で部屋のものを処分することはないはず。俺がする掃除なんて、叱られてしぶしぶやる程度のおざなりなものなので、シルシュが言うように失くしたものが失くしたという自覚もなしに片隅で放置されたままになっている可能性は否定できない。
捜索を開始するにあたり、大きな懸念があった。散らかっているのはもちろんだが、探しものがどんなかたちをしているのかわからないことだ。また、雑貨屋のときのように、偽装されていることも考えられる。
「普通なら、長期間偽装されたままでいられるようなことはないんですけど」
しかし相手は魔女だ。その力をもってすれば、数日も数年も大差ないかもしれない。
「仮に偽装の効果が続いていたとしても、経年劣化や環境の変化までには対応できねーだろ。部屋の隅で埃まみれのはずが妙にきれいだったりしたらそいつがあやしい」
ほほう、そうきましたか。あーちゃんの指摘はいつも的確で感心しちゃうね。
かくして部屋をひっくり返しての大捜索となったわけだが、あれも違うこれも違うと検分したものを取り分けておくスペースがない。ほとんどは不要なものなので、これを機にどんどん処分してしまうことにする。台所の母に特大サイズのゴミ袋を所望すると、母は満面の笑みを浮かべて余るほどくれた。今日という日が、画期的な一日になることを予感したのだろう。俺の部屋で本格的な大掃除が行われることは有史以来初めてのことである。
「にしても、自分自身のことは記憶から消しておきながら〈蛇口〉は大事に持っておけ、ってのは無理があるよな」
「言われてみれば……」
開始して間もなく、さっそく二人が疑念を抱く。手を付けてしまったものの、この部屋を片付けるということが途方もなく感じられ、うんざりしてしまってもいるだろう。
だから初めからそんなもの渡されてないんだと訴えたいところだが、ここは黙っておく。都合よく二人の手を借りられてしめしめという場面なのに、冷静に同意されてしまったら中途半端で打ち切られてしまいかねない。
ところが俺は俺で、黙々と手を動かしているうちにモツの里と揉めたときのことがじんわりと思い出されてきて、やっぱり何か大事に持っていたものがあったような気がしてくる。でなければモツの里に反抗し、つかみ合いにまでなるような理由がないし。
でも今さら言い出せないし、これを機に掃除もしたいし。なぜなのか、シルシュのためにわざわざ面倒なことをしてやっているはずだったのに、結局は単に俺のために二人を手伝わせてしまって申し訳ない感じになっちゃっている。ままならぬものだ。
小一時間ほどもすると、元々たいして広くもない部屋ということもあって、だいぶすっきりしてきた。部屋の隅、棚の裏、ベッドの下なんかにそれらしいものがないことは確認できた。
「あとあやしいのは、押し入れとか机の中だな」
あーちゃんが額を拭いながら手付かずの部分を挙げる。あーちゃんだって掃除なんてかったるい派閥の人だろうに、いつのまにやらすっかりエンジンがかかっているご様子。しかし、そのあたりはひときわ混沌が深く、検めるのにはだいぶ骨が折れる。そこまでさせるのはさすがに気が引ける。そろそろ日も傾いたし、けっこう片付いたし、もうくたびれたし、今日のところはこのへんにしといてやらない? ねえ?
「……実は、さっきから言い出せずにいたんだけど」
「ん? どうした?」
「あーちゃんの言うとおり、やっぱりモツの里と揉めたときに失くしたような気がする」
「…………」
あーちゃんの目が静かに細まり、鋭利に輝いて俺を見据える。
「まさかお前……掃除を手伝ってもらえてラッキーなんて思ってたけど、面倒になったから適当なこと言って切り上げよう、とか思ってないだろうな?」
「そっ、そんなことは……すこしあるけど! でも違うんだ、本当に、さっき不意に思い出したんだって!」
あーちゃんは嘆息してシルシュへ目をやる。発案者に判断を委ねようというのだろう。シルシュは頓着するそぶりもなく、ぞんざいにベッドを指さす。
「まあ、ニシヤマさんの言うことですからね、気のせいじゃないでしょうか。そんなことより、これ、お布団、ちゃんと干してるんですか?」
「えぇ……」
まったく相手にされていない。てゆうかこいつ、普通に掃除をしているつもりになっていやしないか。埃でも払おうというのか、マットレスをばしばし叩く。内部のスプリングがバインバインと音を響かせる。
「サリさんも使うんですから、きちんとしないと駄目じゃないですか」
「なんで俺が勝手に使う奴のために寝床のコンディションを整えにゃならんのだ。それに干すったって、こんなのでかいし重たいしいちいちやってられるか」
「そうやってめんどうくさがるから駄目なんです。たいして手間でもないでしょうに。ほら、こうすれば――……」
シルシュの手の動きに合わせて、ふわふわとマットレスが持ち上がる。あのね、一般人はそんなこと気軽にできないんだよ、と改めてこの世界の標準ルールを教えてあげようとしたのだが、なにやらシルシュが訝しげにしている。
見ると、マットレスをどかしたその下に、リモコンがあった。エアコンのリモコンである。はぁ~、まったく、リモコンと名の付くやつはどいつもこいつも、目を離した隙にすぐ姿をくらまし、思いもよらないところにありやがる。いったい何のつもりなんだか。
しかし、すでにエアコンは稼働していて、頻繁に戸を開け閉めする落ち着かない部屋をがんばって冷やし続けてくれている。
そして、机の上にはそれを命令したリモコンがきちんとある。同じリモコンがふたつ……なんと面妖な。
「……ぐんにゃりします」
ベッドから出てきたリモコンをじっと見つめ、シルシュは言う。
「ってことは、つまり――」
「これです、まちがいありません」
断定を受けて、三人して、まじまじと上から覗き込む。見るかぎりには何の変哲もないリモコンだが、異世界に繋がっていて、こんこんと湧き出る魔力が俺に注ぎ込まれているのだという。実感は全然ないけど。
不意に、シルシュがぽそりとつぶやく。
「それで――」
不愉快な気配を感じて顔を上げると、才能を感じさせるほど完成度の高い、にくたらしさ満点の嘲笑が目の前にあった。
「えっとぉ、なんでしたっけ? 遠くの山で、揉めごとのどさくさで失くしたんでしたっけ?」
「ぐっ……!」
くっそ、この小娘が。でも言い返せない。おぼえとけよ。
〈蛇口〉さえ手に入れてしまえば、もうこっちのもんである。魔女の首根っこを押さえたも同然。身柄を確保するのももはや秒読み段階。
っていう感じの戦勝ムードにすっかりなっているのだが、俺にはアドバンテージの具体的な内容がさっぱり。シルシュが帰れるようになったってだけじゃないの? どういうことなの? 教えてあーちゃん!
「シル坊と同じく、魔女だって魔力を切らすわけにはいかねーだろ? これまで魔女は、〈蛇口〉を通じて引き込んだ魔力を、西山を介して補給していたわけだ。けど、〈蛇口〉はこっちが押さえた。だから、西山への魔力の供給がなくなるように〈蛇口〉を遠くへ離しちまえば、魔女は〈蛇口〉を取り返しに来ざるをえない」
あーちゃんはつらつらと説明する。ふむふむそれでそれで、と俺は前のめりになる。隣ではシルシュもだいたい同じような格好になっている。
「つまり、魔女がやってくるのを待ち構えることができる。魔女がどこにいるのか、誰かに扮してるのか、今まではわからなかったが――」
「そうです。どうやってお師匠を特定するんですか?」
「それも〈蛇口〉さえあれば解決。魔力があれば、飲まず食わずでもなんとかなるんだろ? だから、〈蛇口〉を持って、普通の人間が来られないような場所で待ってりゃいい。無人島とか、険しい山の頂上とか、できるんなら海底でも月面でもどこでもいい――とにかく人がいない場所。そんなところにのこのこ現れる奴がいたら、魔力の切れかけた魔女以外にありえない、ってわけだ」
「なっ、なるほどぉ……!」
シルシュは目を輝かせて両手を握りしめる。見える、俺には見えるぞ! あーちゃんへと流れ込む尊敬の念が! 徳を積むってこういうことなんだろうな。ありがたやありがたや。
「っつっても、実際どれくらい待つことになるかはわかんねーけどな」
「大丈夫です、待ちます」
俄然やる気の様子だが、でもさ、ちょっと待って。あーちゃんの作戦にケチをつけるわけじゃないが、そう簡単にはいかないんじゃない?
「けどさ、それって魔女と直接対決ってことにならない? 勝ち目あんの?」
「説得します」
なんだか真摯なことをきっぱり言うけど、あなた以前、問答無用で拷問したり殴りかかったりしていましたよねぇ……
「ま、力づくで来られたらどうにもならないのは今に始まったことじゃねーしな。そもそも本気で逃げられたら見つかりっこないって話でもあったわけだし、キーアイテムを確保して追い詰めたってところで話し合いに応じるつもりでいてくれることを期待するしかねーだろーな」
ふむ。要するに、戦勝ムードもあくまで希望的観測ってことですな。でもしかたないんだろう。これ以上に魔女に迫れる状況なんて俺には思いつかない。
「ただなぁ……ひねくれ者だってことだから、いさぎよく現れるかどうかもわかんねーし、現れたとして素直に帰る気になるともかぎらねーし、そもそも〈蛇口〉がひとつきりとは……」
性格的に楽観だけしていられないのか、あーちゃんがぼやく。
「うぅん、そうですよねぇ……ああ、なんかイヤな予感がしてきました……」
つられて、跳ね上がっていたシルシュの眉もみるみる下がっていく。なんだいなんだい、さっきまでの威勢はどうしたんだい。
おもむろに、俺はシルシュの頭に手を置いた。スポンと音がしそうなくらい、小ぶりな頭は手のひらにちょうど良く収まった。
「もうさぁ、めんどくさい感じになったら、魔女なんてほっといて帰ったらいいよ。やれるだけのことはやったよ。これでダメなら、もうどうにもなんないでしょ。これ以上どうしろってんだ」
ちょっと励ますつもりでお手上げポーズをしてみせると、シルシュはめずらしく素直に相好を崩した。気安く頭を撫でたことに対するお咎めもない。ただひかえめに笑みをこぼして、
「そうですね、そうします。そのときには、またお世話になりますね」
「ん? ……あ、えっと……」
と、俺は返答に詰まる。
「……いや、なんつうか……そのまま元の世界に帰れば、ってつもり、だったんだけど……」
「…………」
きょとんとして、シルシュは俺を見返す。
「ぁ……」
緩めたままの口元から、声にならない息がもれる。俺が触ったせいで少し乱れた髪もそのまま。
本当に思いがけないことを言われたように、顔をこわばらせて、何を言われたのかわからないみたいに、目を泳がせて、それから――
「――そうでしたね。そうそう、これさえあれば、逆にたどって帰れるんでした」
なんでもなかったみたいに、シルシュは言う。
「そ、そうそう。それに、ほら、リゼリヤお姉さまにも報告しなきゃだろ?」
「ですね。それはそうです、しなきゃです」
そうだろそうだろ、と、俺は合わせる。
「見てくださいニシヤマさん、スイカですよ! スイカのアイスがあります!」
「はいはい、店内ではお静かに」
加えて青い髪が目を引いていたので、そそくさと会計を済ませて店を出た。自動ドアが開いた瞬間に潮気を帯びた熱気がまとわりついてくる。昼下がり、直射日光はまだまだガツンときて重みさえ感じる。
「はー、今日は一段とあっちぃですねぇ」
「魔法でどうにかできたりしないのか?」
冷房の効いた店内との落差で目の焦点が合っていないあーちゃん。どうも最近、俺より虚弱なのではと思わないでもない。
「できなくもないんですけど、おばあちゃんに、最後の手段にしなさい、って言われたので」
「ほら、ウチのばあちゃんエアコン否定派だから。自分が苦手なだけなのに」
「そういう話か、それ……?」
店のすぐそばから堤防に上がって、海を臨む。少し風が強くて、白波が立っている。先日海開きしたばかりの砂浜には水着姿の海水浴客がちらほらといた。
三人、日陰を探して歩きながら、さっき買ったアイスを食べる。
「本物にはかないませんが、なかなかですね」
シルシュがスイカを模したアイスに齧りつき、寸評を述べる。
「スイカが好きなのか、シル坊」
「好きです。めちゃくちゃおいしかったです」
「違うんだよあーちゃん。単にこいつ、舌がアホなだけなんだよ」
「なにを言うんですか、なんなんですか、言いがかりはやめてください」
「舌がアホとは……?」
先日、我が家に大きくまんまると育ったスイカがやってきた。母の実家で栽培されたものだ。よぅく冷やして家族で食べた。シルシュはたいそうお気に召した様子だった――と、そこまでは何の問題もないのだが。
これに、父が過大な反応を示した。我が子以上といっても過言でないほどかわいがっている居候が、食べ物で顔をほころばせるのを目の当たりにしてしまったのである。それまでは、わりあい好き嫌いなく食べてはいたものの、喜んで食べるといったことはなかった。重篤な初孫症候群に冒された父が、何もせずにいるはずがない。
まずは、種々様々なフルーツが毎夜、おみやげに持ち帰られた。そして次々にシルシュに与えられる。その結果、どうやらブドウやオレンジなど水気の多いものを好む傾向があるらしいことがわかった。というか本人がそう申告した。だから、たとえばバナナなどは「口の中がもったりします」と微妙な感想。唾液が少ないお年寄りか何かなのでは、と俺は訝しんだ。
父の甘やかしはそれだけにとどまらない。梅雨も明けて暑くなってきたからと理由をつけ、続いてアイスクリームでの攻勢に出る。母の眉間のしわが、日を追うごとに険しくなっていく。俺は長男として父を諌めるべきではないかと考えたが、でもアイスはおいしいので、もう少し様子をうかがうことにする。
意外なことに、アイスは不評だった。無論、シルシュはそこらの無分別な子供とは違うので、そんなことを直接口に出したりしない。「冷たくておいしいです」と、その感想自体は嘘ではないのだろうが、瑞々しい果物を食べたときの反応と比べるとその差は歴然であった。
落胆した父は意地になり、アイスは高級化していく。母のこめかみに稲妻のごとき青筋が浮かぶ。風雲急を告げるお茶の間。しかし俺は父がどこまで行くのか、そしてアイスはどこまでおいしくなっていくのか、スプーンを口に運びつつ見届けようという気持ちになっていた。アイスクリームは価格上昇に比例してミルク感がマシマシになり濃厚で芳醇な味わいが麻薬的な多幸感をもたらすが、シルシュの反応はやはり薄い。不可解。当方スプーンが止まらぬというのに。
そんなある日、学校から帰ると居間にカキ氷機が鎮座していた。祖母が物置から引っ張り出してきたらしい。手回し式の年代物で、氷は用意してあるので俺に作れという。めんどうくさかったが、やってみると案外楽しい。しゃりしゃりと氷が削れて器に降り積もっていくのを、シルシュは興味深そうに見つめる。
できあがったカキ氷に、清涼感ほとばしるブルーハワイシロップをかけていただく。まあ普通にうまいが、しょせんはただの甘い氷。父の買ってきた高級アイスクリームとは比べるべくもない。俺は順当にそう断じたのだったが、しかしシルシュの反応は劇的だった。青い瞳が喜色で輝くのを前に、俺はしめやかに瞑目する。そう、父は敗北したのだ……
「で、舌がアホってなんなんだ?」
「ああ、そうそう。どうもこいつ、甘いのが好きじゃないらしい。おかしいよなぁ、甘さはすべてに優先するというのに」
「そりゃお前が単に甘党なだけだろう」
「そうですよ。のたのたしたやつよりも、こういうしゃりしゃりしたやつのほうが断然おいしいですよ」
スイカのアイスを突き出しながら鼻息を荒くするシルシュ。要するに、食感とか、口の中に広がる水気とか、あるいは辛さや炭酸の刺激なんかを、こいつは好むようだ。味自体にはあんまり頓着しないみたい。
「それって、いわゆる味覚障……いや、なんでもない。ちなみに僕はスイカが得意じゃない」
「えっ!? まさか、そんな人、この世界に存在するんですか……?」
そして、異世界からやってきた少女は世界の広さに震えるのだった。おしまい。
すっかりアイスも食べ終わったところで日陰を見つけた。ベンチの上で、蔓状の植物が屋根をつくっている。そこをどっかりと占拠し、しばらくまったりと海風に吹かれた。何か目的があって来たわけではない。
さきほど、放課後になるや早々に下校の途に着いた俺たちの前に、シルシュがひょっこり姿を見せたのだった。ジャコスン跡地に行ってみた帰りだという。方角的には途中で家を通り過ぎているはずだが、まあ散歩がてらというところなのだろう。異界探索をした夜以降、シルシュは何度か足を運んでいる。おそらくは魔女が拠点にしていたのだろうが、再び入ることはできず、入れたところでそこにとどまっているはずもない。それでも行ってみるしかないほど手がかりに乏しいのが現状だった。
魔女と接触できたことは成果といえると思う。シルシュによれば、あの猫耳秘書は普通の猫を操って変身させただけだろうとのことだが、喋っていたのは魔女本人のはず。会話内容から推測できることもあったし、セクシーだったし、なかなかに有意義だった。
それに、結果だけ見れば居所を暴いて追いやったともいえる。まあ、あからさまに誘い込まれていたけど。
異界に潜伏していたのなら、誰かになりすまして生活していたわけではないのではないか。少なくともそうしなければならない必要はないはずだが、今のところ断定できるほどの材料はない。この点がはっきりすると、だいぶ心持ちが変わってくるのだが。
あれから、魔女が何か仕掛けてくるような気配はない。そもそもあの一件は、シルシュを標的としたものではなかった。魔女の目的は志津木と夏目で、シルシュはそれに居合わせただけで、俺とあーちゃんはひどい流れ弾を受けただけ。釈然としない。
結局、二人はきっちり交際を終了させた。そのことに関して、我々はコメントする立場にない。好きにしてくださいとしか。
好きにした結果なのか、志津木はやたらと藤野にべたべたしている。藤野は困っているようだが、傍から見ている分には悪くない。むしろ無料のコンテンツとしては大変お得なのでは。登校ボーナス。見る点眼薬。毎日が目のパーリナイ。次々とキャッチコピーが思いつく。
しかし問題がひとつ。藤野と接する機会が激減してしまったことだ。話しかけようと近づくと、志津木が猛犬のように威嚇してくる。それどころか、俺だけではなく、他の女子と話をすることも快く思っていないように見受けられる。う~む、まあ深くは追及すまい。
夏目は夏目で、バスケに打ち込む決意を固めたらしかった。バスケ部は代替わりして、心機一転がんばろうという気持ちで一致団結し、なんと夏休み中には合宿も行う予定だという。我々のあずかり知らぬところで青春スポ根的な胸熱展開があったものと推測される。で、そういうのには付き合いきれない俺とあーちゃんはすみやかに退部届を提出した。そのうえでの一致団結であるのであしからず。
そういうわけで、期末試験もやり過ごしたし、部活動というしがらみからも解放されたし、もはや一分の隙もなくヒマ人なのだが、魔女探しに関しては何もできることがない。魔女のほうから接触がなければ、こちらとしては打つ手がないのが正直なところ。
「でも、そもそも嫌がらせされてなかったシル坊にちょっかいを出すつもりがあるのか疑問だな」
あーちゃんの声は暑さのせいでよれよれしていたが、シルシュは真面目な顔で耳を傾ける。
「魔女はシル坊じゃなく、リゼリヤや他の弟子たちが追いかけてくることを想定していたのかもしれない。リゼリヤはそれを見越して、シル坊一人を送り込んできたと思われるわけだが、思惑を外された魔女はどう出るか」
「どう出ますかね」
「さあな。しいて言えば、どうもしねーんじゃねーかなという気がする。魔女の目的がボイコットなら、今の状態で何も問題ないわけで」
「えぇ……そんな、なんとかしてください。アーチャンさんだけが頼りなんですから」
「そう言われてもなあ」
後ろ手をついただらけた格好で、にべもなく言い捨てる。すがるような目を向けるシルシュは、宿題に困っている子供と大差なくて、ジャコスンで杖を振り回して大暴れしていたときとは別人のよう。
シルシュがときどき凶暴になることについては、とりあえず本人には追及しないでおこうとあーちゃんと話した。どういう状態なのかよくわからないからだ。
記憶の混同とは具体的にどんなものなのか。表面的には混乱して衝動的になっているだけのように見えるが、実はその内面に独立した別人格みたいなものが発生していないともかぎらない。魔女をうらむ弟子たちの怨念のカタマリみたいなやつに憑りつかれてるイメージ。下手に刺激するとこちらに害をなすことも考えられる。素人がうかつに手を出してはいけない。お祓いくらいはしときたいところ。あとできれば陰陽師の手配を。
おそらくは、リゼリヤお姉さまから記憶を受け取った段階で、魔女に関するいろいろな事柄に関して、シルシュは自分の認識と食い違っている部分があることを初めて知ったものと思われる。きっと困惑したことだろうが、俺たちに対して説明するうえでは、その齟齬についてはあまり言及していない。俺たちが混乱しないように自分なりに整理したっていうのもあるんだろうが、中には言いたくないようなこともあったんじゃなかろうか。
そう思うと、なんだかいたたまれない気持ちになってくる。普通の子供なら、スイカでも食って能天気に遊んでりゃいいような年頃だろうにね。
「一旦帰って、リゼリヤなり全宙連の連中なりに相談するのも手なんじゃねーかと思うが」
暑さで軟体生物のようになりながらも、ちゃんと考えているらしく、別案を出すあーちゃん。リゼリヤお姉さまに丸投げされた結果がこの状況なのだから、相談して文句を言われる筋合いはない。
ただ、一旦帰ることについては、以前に俺からも勧めてみたことはあったのだ。
「帰れません」
そのときと同じように、シルシュは首を横に振る。耳の後ろで二つ結びにした髪が、潮風と合わさって複雑に揺れる。
「意地張ってもしょうがないだろ。べつにお前に不手際があったわけじゃないんだし、駄目でしたで済む話だと思うけどな」
するとシルシュは、ふるふるとさらに大きく首を振る。
「そうじゃなくて、帰りようがないんです。帰る方法がないんです」
「…………え、そうなの?」
えっと、つまり、帰るときには魔女と一緒だから当然問題ない、ということだろうか。もしも見つけられなかったら、とか考えなかったのだろうか。リゼリヤお姉さま、仕事雑すぎじゃね?
「手ぶらじゃ帰れないって意味じゃなかったのか……」
「そんなこと言ってないです」
「いやそうなんだろうけど」
「具体的には? もうまったくどうにもならんのか?」
あーちゃんが尋ねる。シルシュは少し上を見てから答えた。
「具体的に……ええと、移動手段はあるんですけど、移動先が決められないってところですね。こちらへ来るときは、お師匠が精製炉から魔力を引き込んでいるのをたどったわけですが――」
「ああ、なんか、蛇口からジュースが出てくる的な話だったな、確か」
シルシュが、なんですかそれ、と首を傾げながらも先を続ける。
「だから、同じようにそれをたどれば帰れるんですけど……」
「西山の言う〈蛇口〉は魔女が持っているわけだから、どっちみち魔女を捕まえないことには帰れない、と」
あーちゃんが話を継ぐと、シルシュは「です」とうなだれるようにうなずいた。
「うぅむ、見事に手詰まりだな。リゼリヤお姉さまは、しばらく音沙汰なかったら様子を見に行くとか、そんなことは言ってなかったのか?」
「いえ、特には……」
「シル坊が十年漂流したっていうのを認識してるのか。していたとしてそれがトラブルによるものなのか、想定されたものなのか。そのあたりがわからんことには何とも言えんな。もっと長く漂流することだって考えられたのだとしたら、しばらくは様子見されることになる。逆に最悪の事態としては、すでに入れ違いになってて収拾つかなくなってるかもしれん」
要するに、救援も期待できないということらしい。なかなかに途方に暮れる状況。シルシュは眉をハの字にしたが、あまり危機感をおぼえている顔に見えない。暑くて表情筋が弛緩しているからだろうか。
「ううん、困りましたねぇ。いつまでもニシヤマさんのおうちにお世話になっているわけにはいきませんし」
嘆く言葉も、時空を股にかけた問題に直面しているわりに、ご近所スケールの慎ましやかさ。おろそかにしてはいけない部分とは思うが、なんだか所帯じみているというかなんというか。
言うまでもないことだが、西山家の大人たちは諸手を挙げてウェルカムムードである。ただ、本当にこのまま何年も居候なんてことになると、世間体とかあるし、感情的に受け入れるだけで片付く問題ではない。
「あの親父なら、戸籍をでっち上げるくらいやりかねないような気がする。そしてあたかも初めから娘が二人いたかのようにふるまうのでは」
「そのほうが世間体に障るような気がするが。むしろちゃんと法的に問題ない体裁にするんじゃねーの? 西山の話しぶりからして」
「ちゃんとって? 異世界人なのに?」
「世の中には、出生届が出されてない子供ってのもいるらしい。そうした子供が戸籍もないままってわけにはいかないだろうから、どうにかする手続きもきっとあるだろ。知らんけど」
なるほど。大変そうだけど、あの父ならば手間を惜しむまい。でも大丈夫なんですかね、この子、髪青いけど。お役所って、そういうの気にならないタイプ?
シルシュはしきりにおさげを撫で下ろし、口をむぐむぐさせながら俺とあーちゃんを交互に見る。たぶん、どういう話をしているか察しているが、決まりが悪いので口を挟まずにいるのだろう。確かに、もし本当に今さら妹ができるなんてことになったら、俺だって尻が落ち着かなくて座ってられないと思う。
「それは気が早いとしても」
と、あーちゃんが話を変える。
「現実的なところでいうと、病気とか怪我とかしちまったら面倒なことになるな。健康保険にも入ってないし」
おお、そのとおりだ。魔女だの異世界だの浮ついた話をしながらも地に足のついた指摘。さすがあーちゃん、ぬかりない。
「てゆうか、それこそ魔法でなんとかならんの?」
と、俺はシルシュに水を向けた。
「ある程度なら体調を整えられますよ。食事を魔力で代替するのと似たような感じですね」
シルシュは存外簡単に答える。すごいんだかすごくないんだかよくわからんね、魔法ってやつは。
「へー。栄養素を補ったり、体内の分泌物とかをコントロールしたりすんのかな」
「そうなんでしょうか。細かくはわかりませんが、健康な状態を条件付けするとかなんとか。病原体を直接やっつけるっていうのは難しいですね」
「んじゃ怪我は? そういや校舎を直してたけど、同じ要領で?」
すると、シルシュは恥じ入るように苦笑いを浮かべた。粘土をこねこねするように修復していた姿が思い出される。はっきり言って、良い出来ではなかった。
「えへへ、まあそうです。なので、マナが薄いこの世界では、身体を元通りにするっていうのはあんまりやりたくないですね」
つまり、怪我した箇所が粘土細工みたいになってしまうということか。絶対嫌だ。ホント、すごいんだかすごくないんだか。
少し風の感じが変わったかと思ったが、気のせいかもしれなかった。日暮れに向けて海からの風は弱まっていくものだが、打ち寄せる波はまだ高く、浜に届くよりも先に白く壊れていく。絶え間のない波音に、歓声が混ざる。波打ち際ではしゃぐ子供のものだ。波間に人の姿は、もうあまりない。
「海って泳ぐものだと聞きましたけど、そうでもないんですね。というより、あれは何をしてるんですか?」
目をすがめて砂浜を見やるシルシュ。不思議そうに眉根を寄せている。
「何って、遊んでるんだよ」
「はぁ……」
完全に納得していない顔である。海を見たこともなかったらしいから、波と戯れるという概念なんてないのだろう。
「ふむ。そしたら俺らもちょっと行くか」
思い立って、波打ち際に誘う。シルシュは露骨に顔をしかめた。
「え、いやです。なんか得体が知れないですし」
「お前、海のことなんだと思ってんの?」
「行ってこいよ。深いところでなきゃ、ざっぱざっぱうるさいだけのただの水たまりだ」
「えぇ……」
あーちゃんに言われると弱いのか、不承不承といった面持ちで腰を上げる。俺も裸足になり、制服の裾を巻き上げて準備万端。
「ほれ、あーちゃんも行こうぜ」
「パス。砂がついたら靴履き直すのめんどいし」
ごろりと横になるあーちゃん。全身弛緩しきっていてベンチとべっとり同化する勢い。はがすのも難儀なので、やむなく置いていくことにする。
「あ、私も砂で履き直すのが大変なので遠慮します」
「お前はサンダルじゃねえか。いいから来い」
便乗しようとするシルシュを引きずるようにして、砂浜を突っ切る。日中、強火で念入りに焼かれていた砂は、まだ相当熱かった。シルシュがサンダル越しでも熱い熱いと騒ぐが、俺は裸足。めちゃくちゃ熱いけど、むりやり連れてきている立場上やせがまんせざるをえない。
足が波にさらされると、生き返ったような心地がした。海なんて今さら新鮮味も何もないけど、たまには悪くない。
「おおう、冷たい冷たい。お前も早よ来い。気持ちいいぞ」
手招きするも、シルシュは水際ぎりぎりのところで立ち止まり、波がひっきりなしに寄せては返す様子に顔をひきつらせている。
「…………」
「おーい、どうした?」
ちらりと俺を見る。それから俺の足元へ。海水が無害であることを確認しているのだろうか。意を決したようにサンダルから足を抜くが、まだ波には触れない。足を出そうとして、波が来て引っ込めるのを繰り返す。エスカレーターになかなか乗れない人に似ている。なんだろうな、何がそんなにこわいのか、さっぱりわからん。
そうこうしているうちに、ひときわ大きな波がシルシュの足元まで打ち寄せた。
「ふぁあああああああ~~~…………!」
突然、野球の試合が始まりそうな珍妙な悲鳴があがった。
「な、な、なんですか! なんですかこれ!? 足の裏がすっごくきもちわるいんですが!」
どうやら波が引く際の砂の感触のことを言っているらしい。とりあえず海に対する抵抗感は薄れたようで、一旦は水際から離れたものの、すぐにまた波に足をさらして砂の感触に声をあげる。くすぐったいのか、ばちゃばちゃとその場足踏みを始めるものの、また波が来てはじっと立ち、甘んじてそれを受け止めている。
「ひぃああ……なんか、ぞわぞわします。ぞわぞわしますけど、なんかやめられません……!」
「…………」
なんか、俺が思ってた水遊びとは違うような気がする。
俺は無言のまま、砂の感触に打ち震えるシルシュの顔面に向けて盛大に水をかけてやった。
「ぶわ! ちょっと、なにするんですかニシヤマさん!」
両手を振り回して払いのけようとする。クモの巣に突っ込んだときに思わずしてしまう動き。水をひっかけられてるときにも適切ではない。
「そぉれそぉれ、フハハハハハハハハ」
シルシュの大げさな反応に興が乗ってしまい、続けざまにばっしゃばっしゃと水をかける。水中でもないのに、溺れてるようにじたばたするシルシュ。とっさに魔法で防ぐことは思いつかないのか、あるいは祖母のいいつけを守っているのか。
「そいやそいや、フゥハハハハ――ぶっは!!!」
かと思いきや、いきなり足が後ろへ引っ張られ、俺は顔面から水面に倒れ込んだ。ものすごい勢いで鼻から海水が入り込み、気管の強烈な痛みにあえぎながら水を吐き出す。
顔を上げると、シルシュの非難がましい目があった。どうやら彼女の魔法によるものだと知れる。最後の手段のハードルは、案外低かった。
しばしにらみ合ったのち、シルシュが水をかけてくる。魔法ではなく、彼女自身の手ですくったものなので、ささやかな量である。そんな飛沫程度、頓着するものか。弾き飛ばさんばかりに鼻で笑ってやると、俺は猛然と攻勢を仕掛け、すぐにまた顔面から海中に没することになった。
そんなのを飽きるまで繰り返した。水遊びというものをよく理解してもらえたと思う。
ずぶ濡れになってあーちゃんのところに戻った。
「お前らさぁ、ちったぁ加減しろよ……」
呆れ果てているあーちゃんに、俺とシルシュは互いを指さして相手のせいだと主張した。いずれの主張も認められなかった。
このままでは家に帰るのもままならないので、しばらく堤防の上で日干しになる。頃合いを見て裏返ったり、乾いた地面に移ったりするが、水着と違ってなかなか水気が抜けない。乾いたとしても、まともに着られる状態ではないかもしれない。明日は終業式だけだし、どうにか乗り切るしかない。
ああ、そうだ、明日はもう終業式なんだった。こんなことしてる場合じゃないのだが。
それにしても、濡れた服を着ているのは気持ちが悪いものだが、そのうえ現在進行形で生乾きになっていく状態とあっては気持ち悪さもひとしおである。
構わず帰ってしまおうかと考えていると、シルシュがやってきて俺の頭の上でかがみこんだ。さかさまの顔がのぞきこんでくる。
「ニシヤマさん、アーチャンさんが飲み物を買ってくるそうですけど、何がいいですか?」
「ん、じゃあコーラ」
「わかりました」
と、離れていく後ろ姿に違和感をおぼえる。風になびく髪はさらさらとして指通りも良さそう。紗莉のおさがりの服とも合っていて、テレビCMのような爽やかさを感じさせる。うむ、やはりおかしい。海水でベタベタのはずなのに爽やかなんておかしい。
「ちょっと待て。お前、魔法で乾かしただろう!」
「バレましたか」
くるりと振り返って舌を出すシルシュ。
「なんだよ、自分だけずるいじゃんか。俺にもやってくれ」
「おばあちゃんにむやみに使うなって言われた手前、気が引けるなぁ、と」
「さっきさんざん使ってだろうが」
「あれは、ニシヤマさんがひとりで転んでたんですよ?」
くっ、生意気な口をききやがって。ともかく俺もさっさと爽やかになりたい。魔法をせがむと、シルシュはもっともらしい予備動作もなく、無造作に俺に向かって手をかざす。
途端、ブゥオ!と全身から湯気が立ち昇った。
「あっつ! あっつぅい!」
「がまんしてください。すぐ済みますから」
サウナに入っているようなものだろうか。いや、そんなもんじゃないような気がする。全身火傷とかしてないだろうな。
体感的にはけっこうな時間があって、ようやく湯気の噴出が収まった。服は乾燥機から出したてのようにほこほこしているが、それを着ている俺はたぶん即身仏のようなありさまにちがいない。
よろよろと日陰のベンチに戻り、改めてあーちゃんにコーラをお願いする。パシらせるみたいで忍びない。しかしそうして口にしたコーラはこの世のものとは思えないほどうまかった。夢中になって飲み干してしまうと、炭酸の気泡で頭蓋がいっぱいになったかのように、恍惚として何も考えられなくなった。
「シル坊は、もっと普通に乾いてたけどな。服もごわごわになってないし」
え、そうなの? ふん、こしゃくな真似を。おかしいと思ったんだ。いくら魔法ってやつが不条理なものであっても、服を乾かすためにこんな蒸かし芋みたいになる必要なんてあるわけない。
でもいいんだ。今はそんなことより。
「そんなことより、夏休みのこと考えようぜ!」
「なんだ唐突に」
「知ってるかいあーちゃん。明日はもう終業式なんだぜ。そしてあさってからは夏休みだ」
「学校に行かなくていいってことですか?」
「よろこばしいことだ」
もちろんその意見に異存はないのだが、ひとつの難問を抱えていて、このまま夏休みに突入するのはいささか都合が悪いのだ。
「このままでは、藤野と二学期までまったく会えなくなってしまう」
二対の目が、みるみるうちに白けたものに変わった。どうやら事の重大さを理解してもらえていないご様子。
シルシュが小さく挙手。
「遊びに誘ったらいいんじゃないですか?」
「それができれば苦労しないんだぜ!」
「はぁ、そうですか」
ため息で返事しながら、つまんだ毛先をこすり合わせる。んまあ、すっごくどうでもよさそう。
確かに、いつもの調子で声をかければいいだろう、という意見にはごもっともというほかない。少し前までは、俺もそれができるつもりでいた。しかしながらそれは、夏目=志津木ラインが健在であればこその話だったのである。失って初めてそのありがたみに気づく――人生そんなことばかりさ。
結局のところ俺の自信の根拠とは、夏目を誘えば志津木ももれなくついてきて、すると女子がグループに含まれているという安心感から、藤野にも声をかけやすいし、藤野も加わりやすいという構図にあったのだ。
夏目=志津木ラインは切れてしまった。そのうえ志津木は俺が藤野に近づくのを露骨にガードしてさえいる。打つ手なし、そして時間ももうない。
「前に、デンワっていうのしてたじゃないですか」
シルシュが言う。あーちゃんが、へぇ、と感心したように俺を見た。
「そう……そう、だな。そうなんだけど、それは最後の手段にしたい」
「どうしてです?」
「電話して誘ったら、それはもうデートのお誘いになっちゃうじゃんか」
「そうか?」
あーちゃんが首をひねる。言いたいことはわかる。きっと、複数人での遊びに、藤野も誘うというケースを想定しているのだろう。でもね、夏休みにクラスの男子からの不意の連絡を受ける藤野は、きっと緊張していると思うんだよ。いったい何の話かしら、と、胸をどきどきさせてね。そうして息をするのも忘れて耳を傾けるのに、肝心の用件がみんなで遊ぼうっていうお誘いだったらいかにも拍子抜けでしょうが。がっかりさせちゃうでしょうが。
「妄想がひどい」
「それならデートに誘えばいいじゃないですか」
いっそそうしたいのはやまやまなのだが、俺にはまだ子供の頃の藤野とのことを思い出せていないという問題を抱えている。この件に目処がつくまでは、あまり積極的になるべきではないと考えている。
「めんどくせー奴だな」
「日和ってるだけじゃないんですか?」
「お前……お子様のくせにそういうボキャブラリーどこで仕入れてくるの?」
「なんのことです?」
シルシュがとぼける。いや、魔法による翻訳がニュアンスを過剰に汲んでいるだけなのか。いずれにせよ俺を侮っていることに変わりはないわけだが、言い返せるほど事実と違わないし、これから持ちかける提案のこともあるので、今日のところは大目に見てやることにする。
「とにかく、そこで君の出番となるわけだよシルシュ君」
脈絡なく指名され、一旦は目を丸くしたシルシュだったが、すぐに半分ほど閉じられた。
「私を口実にしようっていうんですね」
じっとりと軽蔑的な眼差し。そのとおりである。おもしろいもの好きな藤野は、魔女っ子シルシュに格別の関心を寄せている。そのシルシュをエサに、藤野を釣り出そうという魂胆。
明日が分水嶺なのである。夏休みの前に、なにかひとつでも約束をとりつけておかなければならない。まずはそれをクリアできなければ、そのあとにつなげることが桁違いに難しくなる。できるかぎりの手は尽くしておきたい。
「べつに無理強いさせようってんじゃあないんだ。お前に行きたいところがあるとか、したいことがあるとかするのなら、付き合ってやろうという話だ。藤野に話せば、藤野も付き合ってくれるかもしれない。そういう話だ。お前には何の損もない」
「利用されるっていうのがすでにいい気分じゃないんですけど……」
「そう言うなって。なんかないか? なんかあるだろ、なあ?」
眉間に深いしわを刻み、うぅんと低く唸るシルシュ。俺にはぴんときたね。これは心当たりを探っているのではない。すでに思いついているが、口に出すべきか葛藤しているのだ。どうした、何をためらう?
「なんかあるんだな? あるんだろ? 言ってみろ、さあさあさあ」
「やたらぐいぐいきますね……。ニシヤマさんの思いどおりに事が運ぶの、なんとなくくやしいんですよね」
何かと思えばそんな葛藤らしい。まったくもって生意気。ここはひとつ、自分の立場というものをわからせてやるべきのようだ。
俺は額に手をあてがい、不機嫌そうに嘆息してみせた。
「シルシュよぉ……思い返せばお前とは、初対面で問答無用でひどい拷問をされて――」
「わ、わかりました! 言いますよ、言いますから!」
シルシュは両手を突き出して降参した。存外あっさりで拍子抜け。実はけっこう気にしてるのかも。
咳払いのように小さく息をついて、シルシュはちらりと視線を滑らせる。そちらでは、あーちゃんが心底どうでもよさそうに寝転がって大海原を眺めている。助け舟でも期待したのかもしれないが、口を挟んでくる気配はない。それはいいんだけど、それにしてももっと興味持って。会話に参加して。
「その……今度、オマツリという催しがあるそうですね」
「ほう、祭りに行きたいって? いいじゃんいいじゃん、定番じゃん」
しかし、シルシュは不自然に表情を固くして首を振る。
「そうは言ってません。ちょっと小耳にはさんだだけです。聞けば、ユカタという特別な衣装を着る習わしがあって、年頃の女の子にとってはステータスになるのだとか。ですから、そういう催しに誘ってみてはどうかという、これは助言なんです。べつに私が行ってみたいとか、そういう話ではありません。ただ、ニシヤマさんの都合で私が同行するほうが声をかけやすいというのであれば、それもやぶさかでないとは思っています」
「最初から利害が一致してんじゃん、お前ら」
「…………」
寝返りを打って言うあーちゃんに、シルシュは気まずそうに口をつぐむ。どうやら魔女を探すという目的を放置して遊びたいと主張することに気兼ねがあるらしい。相談に乗ってもらってばかりのあーちゃんにはとりわけ申し訳が立たないのだろう。
しかし、祭りか。夏祭り。うーむむ。
「でもさ、平気かな? よく考えたら祭りなんてド定番じゃん? 藤野、もっとエキセントリックなやつじゃないと興味もたなかったりしないかな?」
「そのためにシル坊をダシにするって、自分で言ったんじゃねーか」
そうだった。だけどもそれはそれとしてさ、誘うからには藤野をきちんと楽しませないと、って、俺の中のジェントルマンな部分がささやくわけだよ。実際、シルシュ目当てで誘い出せたとして、それだけってわけにはいかないわけだし。
「まあな、祭りなんて毎年変わり映えしないし、わざわざ行くもんでもねーってのは同意するけど」
「そうなんですか?」
「そうだぞ。人は多いし、どれも高いし、そのくせ子供騙しみてーなもんばっかだし」
「そうなんですか……」
シルシュの表情がみるみる曇っていく。む、これはいけない。肝心要のシルシュのテンションが下がっては計画はご破算。
「違うぞシルシュ。これは負け惜しみだ」
俺はすかさずフォローに入る。
「あーちゃんはな、金魚すくいとかヨーヨー釣りとか射的とか輪投げとか型抜きとか、夜店の遊びがことごとく下手なんだ」
「えぇ?」
意外そうにあーちゃんを見返すシルシュ。あーちゃんはすねたように口を曲げてそっぽを向く。
「あーちゃんは考えるのは得意なんだけど、考えたとおりに身体が動かないという致命的な弱点がある。それなのに考えてしまうから、結果的に何も考えずにやるよりもうまくいかないんだ」
「あはは。へぇー」
笑みがこぼれる。あーちゃんはますます不機嫌そうだが、でも大丈夫、こんなことで威厳が損なわれたりしないから。ちょっとくらい隙があったほうが親しみやすいってよく言うじゃん。
「お二人って、ずっと前からお友達なんですか?」
「え、どしたの急に」
聞き返すと、あべこべにシルシュのほうが言葉に詰まった。
「えっと……オマツリって、たまにしかやらないんですよね」
「年に一回だな」
「それなのによく知ってるってことは、何度も一緒に行ったんだろうなって思って、それで」
「まあな。小三からだから、えっと……」
七年前、とあーちゃんが補足してくれる。
「今みたいに、一緒の学校に通ってたわけですよね。でも、学校って他にも大勢いるわけじゃないですか。どういういきさつでお友達になったんですか?」
「忘れた」
と間髪入れずに言い切るあーちゃん。いいや、俺はばっちりおぼえているぞ。てゆうか忘れたなんて嘘だし。
「端的に言うと、俺がガキ大将にからまれているところを助けてくれたんだ」
あーちゃんが苦々しく顔をゆがめる。シルシュは顎に手をあてて小首を傾げた。
「ガキ大将……軍の人ですか?」
だいぶ違うね。まあ、同年代が周りにいなきゃ知らんわな。
あーちゃんとは小学三年で同じクラスになったが、当初はまったく接点がなかった。俺は積極的に友達を作っていこうというタイプではなく、声をかけてくれる奴に控えめについていくくらいのものだったので、交友関係は広がらず、一方のあーちゃんはなんだかとらえどころのない感じで、誰かと遊んだり話したりはしていても、親しくなるという雰囲気がなかった。
何事もなければ、一年間同じクラスにいても二言三言言葉を交わす程度の間柄だっただろう。何事もなければ。
そのクラスでは、一人の男子が威張り散らしていた。
「なんつったっけね、あいつ。モツの里だったっけ?」
「そんな菓子だか力士だかみてーな名前じゃなかったと思うが、それでいいよ。思い出せねーし」
というわけで、モツの里は身体も声も態度も大きかったし、取り巻きみたいな連中もいたので、誰も反抗しなかった。下手に逆らうと面倒なことになるのは明白だったし、適当に調子を合わせていれば何とかやり過ごすことができたからだ。みんなからもてはやされて、モツの里はたいそう気分良くしていたようだったが、当然、陰では煙たがられていた。
遠足に行った先でのことだから、秋頃のことだったと思う。
俺は、モツの里とその一味に因縁をつけられた。経緯はおぼえていない。どうせたいしたことではなかったと思うのだが、なぜかそのときにかぎって、俺は反抗的だった。今に始まったことではないし、いつもどおり適当にやり過ごせばそれでよかったはずなのに。
逆らったからって、モツの里が引き下がるはずもない。むしろ余計につっかかってくるから、みんな穏便に済ませようとしているわけで。俺も何を意地になったのかわからないが、抵抗をやめようとせず、ついにはつかみ合いのケンカになった。しかしモツの里は体格もいいし、仲間もいるし、勝ち目はない。
そこへ現れたのがあーちゃんだった。あーちゃんは駆けこんでくるやいなや、モツの里の横面を思い切りぶん殴った。
モツの里がよろめき、取り巻き連中が呆気にとられる中、あーちゃんは不敵に笑った。清々しいまでに向こう見ずなその横顔は、今でも俺の脳裏に強く焼きついている。
そのあと、あーちゃんは続けざまに殴りかかったが、あっさりとやり返され、取り巻き連中も混ざってきてボコボコにされてしまう。亀のように丸くなって耐えていたところを、引率の先生がやってきてようやく収拾がつけられた。
後日、関係児童とその保護者が集められた。その場であーちゃんは、「前々から気に入らなかったので、いつか殴ってやろうと思っていた」と凶行の動機を明らかにした。俺が反抗し、ケンカに発展したのを見つけて、絶好の機会だと考えたらしい。その話はどこからかクラスメイトたちにも知られるところとなり、以降モツの里はそこはかとなく白い目で見られることになる。言葉にはせずとも、みんなが同じように思っていたことを暗に突きつけられたのだった。
「――で、それ以来、俺はあーちゃんを信奉するようになったってワケ。おかげで性格も前向きになったし友達も増えたし身長も伸びた」
「ただの成長期だろ」
「ニシヤマさん、べつに助けられてなくないですか?」
「お前……この英雄的エピソードを聞いてそんな感想しかないの?」
不満を表明する俺をほぼ無視する格好で、シルシュはあーちゃんへ顔を向ける。
「でも意外です。アーチャンさんにもやんちゃな時代があったんですねぇ」
それから、モツの里とは何度か取っ組み合いになることがあった。からんでくるのはモツの里だが、手を出すのは決まってあーちゃんである。そして痛い目に遭うのもあーちゃんのほう。運動できないくせにケンカっ早い不思議。よっぽど腹に据えかねていたのか、モツの里に対しては引くに引けない意地があったのだろう。奴以外とはケンカなんて全然なかったわけだし。
そんなこともあって、小学校時代のあーちゃんは問題児みたいな扱いだった。先生たちからもよく思われてなかったと思う。不良ってわけじゃないけど、不真面目寄りの生活態度になったのって、この頃の影響なのかもしれない。
あーちゃんはうなだれるように下を向いて押し黙っている。直情的だった昔を思い出して煩悶しているのかと思ったが、不意に上げた顔を見るにそんな感じでもない。眉を片方だけ持ち上げて、もどかしそうに俺に問う。
「西山、お前さ、あのときモツの里に何か取られて、それで揉めてたんじゃなかったか?」
「何かって?」
「わかんね。けど大事なものだってんで、珍しく逆らってたんじゃねーのかと思って」
「んー……?」
まったく心当たりがない。思い出せないけど、普段なら我慢していたところをそうしなかったということは、それなりの経緯があったものと見るべきところではある。とはいえ、あの頃大事にしてた物ねぇ……。
「そんなのあったっけなぁ……」
「ほんっと、ニシヤマさんって……」
肩をすくめ、半笑いでゆるく首を振るシルシュ。うるさいな、どうせポンコツだよ。
「で、それがどうかしたの?」
「いや……」
と、あーちゃんはしばらく考え込む。少しの間そうしていて、何事かと顔を見合わせる俺とシルシュに向けて、改めて口を開く。
「ひょっとしたらだけど、それが〈蛇口〉だったんじゃねーのかな」
「えっ……!?」
シルシュが目を見開く。
「〈蛇口〉って、魔女が自分の世界から魔力を引き入れてる、その先っちょってこと?」
「そうそれ」
「待ってください。どういうことですか? どうしてニシヤマさんが?」
早口で詰め寄るシルシュに、あーちゃんはこころなしか説明をためらうような素振り。自分でも半信半疑なのだろうか。でも、憶測でしか言えないのは今に始まったことじゃないし。
「逆だったんじゃねーかと思って。魔女が西山に魔力を補充するんじゃなく、魔女は西山から魔力を補給する」
この世界に逃げてきた魔女は、追手が〈コンパス〉を用いて自分を探すことを予測していた。〈コンパス〉は近場で一番大きな魔力量を探知するものなので、魔女以上の魔力が別にあればそちらを指し示してしまう。その囮役にされてしまったのが他ならぬ俺で、魔女は自分の魔力が俺を上回らないように適時補充しているはずだと、これまではそう考えてきた。
そうではなくて、俺に常時魔力を供給するようにして絶えず満充填状態にしておけば、〈コンパス〉での探知を回避するために俺の残り魔力量を気にしなくて済むわけで、魔女は自分が必要な時に必要な分だけ俺を介して補給すれば事足りるし、むしろ手間いらずなのでは、とあーちゃんは言う。
「でもさ、〈蛇口〉って魔女の生命線になるわけでしょ? そんな大事なもの、他人に預ける?」
「そうですよ、実際、ニシヤマさんってばすっかり忘れちゃってるじゃないですか」
「……いや、だからそもそも俺に持たせてなんてなかったんじゃないの、って話してるんじゃん」
「ああ、そうでした、つい……」
つい、じゃないよまったく。こいつ、俺をポンコツ扱いするのクセになってんじゃないだろうな。
あーちゃんは続ける。
「あのとき、モツの里と揉めて、そのどさくさで失くしたんじゃねーのかな。で、魔女が回収した。当初は手間がかからなくて楽ちんだと思ってた魔女も、こういう不測の事態もあるってことで考え直した。〈蛇口〉は、今は魔女の手元にあって、西山からは関係する記憶を消した」
「だからニシヤマさんはおぼえてない。辻褄は合いますね……」
シルシュがつぶやく。納得しちゃってるみたいだけど、俺はどうにも釈然としない。またも記憶を消されてるからか。
ふと見ると、しきりに首をひねる俺に、シルシュがなにやら含みのある視線を向けてきていた。
「つまり、ニシヤマさんが失くしたりしなければ、手がかりがつかめていたはずってことに……」
「ちょっと待て! それはさすがにおかしいだろ! タラレバが過ぎる!」
「冗談です、冗談。でも、お師匠がニシヤマさんに〈蛇口〉を持たせていたっていうのは、ありえそうに思えるんです」
「えぇ……そうかぁ?」
「はい。特に、手間がかからない、っていうところとか」
なるほど、魔女ってのは横着らしい。紛失したとしてもすぐに回収できるのであれば、確かにそのほうが都合が良いのかもしれない。
「それでひとつ思いついたんですけど、もしもニシヤマさんが〈蛇口〉を持たされていたとして、お師匠に回収されているとはかぎらないとは思いませんか?」
「でも俺、そんな変なモノ持ってないよ」
手のひらを上に向けてやると、シルシュの口元があざけるような緩い笑みのかたちをつくった。そうして微妙な間を空けて、彼女は言う。
「えっと、つまり、失くしてしまったのは、そのモツノサトさんとケンカしたときじゃないかもしれないってことです。ほら、ニシヤマさんの部屋って散らかってるじゃないですか」
「…………」
俺が言葉の意味を咀嚼しているうちに、隣であーちゃんが膝を打った。それはありうるな、とのこと。
要するに、モツの里との揉めごととはまったくの無関係に、俺は大事な〈蛇口〉を紛失してそれっきり忘れてしまっているんじゃないかと、二人はそう言いたいらしい。
まったく……君たちね、人を愚弄するのもいい加減にしたまえよ。確かに俺は几帳面な性格ではないし、部屋は片付いていないし、物忘れもするけれども、そんな得体の知れない物体が転がったまま安穏と暮らしたりなんてしませんよ。ええ、しませんとも。
魔女が俺に〈蛇口〉を預けたと仮定するならば、そこから魔力の供給を受けるに際して、別段の操作をする必要はないのだと思われる。俺には何の心当たりもないわけで、特に何もしなくても、囮役である俺の中に魔力とかいう不可解なエネルギーは自動的にどくどくと流れ込んできていたことになるからだ。
俺が普段身に付けているものに異世界由来の物品はなさそうなので、どうやら身体に接触していなければいけないものでもない。ということは、たとえば部屋のどこかに無造作に転がっていたとしても、問題なく機能するはずだと考えることができる。
そういうわけで、急ぎ我が家へ帰ってきた。そして、これから行われるのは家宅捜索である。俺には、何もやましいところはない。令状もない。これは明確な人権侵害である。弁護士カモン!
「散らかってるのが悪いんですよ。きちんとしてれば、疑ったりなんてしません」
「そんな理由が通るものか! 俺には俺の部屋を散らかす権利がある! それを疑惑の根拠にするのは不当だ!」
「またそんな屁理屈を……」
シルシュがまた呆れた目で俺を見る。おそらくは全男子高校生に共通することと思うが、俺は家族からたびたび部屋を掃除するよう勧告を受けている。近頃、連中はもっぱらシルシュをその尖兵としており、このようなやりとりは幾度となく繰り返されていたのだった。むろん、聞き入れたことなどないし、これからもない。しかし、まさかそれを逆手にとられることになろうとは……
べつに、この二人に見られて困るものなど何もない。でもプライバシーってそういうものじゃないじゃん? だから抵抗の火は絶やしてはいけないのだ。そもそも、俺の部屋には日頃から勝手に紗莉が出入りしている。今さらちょっと漁られたくらい、どうってこともない――
「あ、サリさん」
戸を開くと、こぼれ出てきたひんやり感がやさしく撫でつけてくる。空調の整った快適な俺のベッドで、紗莉がすうすう寝息を立てていた。制服のままで、仰向けの胸の上には開いたままの参考書。
「ぬぅおう!! あーちゃん、見ちゃ駄目だ!」
「ふぐっ!!?!」
俺の渾身のショルダーチャージを受け、吹っ飛んだあーちゃんは廊下を滑っていく。
「え? え? なんですか? どうしたんですか?」
突然のことにわけがわからずあたふたするシルシュに構わず、俺は部屋に飛び込んで紗莉を揺り起こす。
「ん……あれ、孝平おかえり。なんか服ごわごわじゃない?」
「これから大掃除をすることになった。だから自分の部屋に行け」
「えぇ、なにそれ。なんで急に?」
「急いでるから急なんだよ! いいから早く!」
もたもたと身体を起こす紗莉を立たせ、部屋から追い出す。入れ違いにあーちゃんが入ってきた。
「いってぇ……西山、なにすんだよ」
「あーちゃん、今の見た?」
「今のって……紗莉さんのことか? そこで寝てたな」
俺のベッドを指さす。ああ、遅かったか……
「サリさん、ニシヤマさんがいないときにはよくそのベッドでくつろいでるみたいです。そんなに寝心地いいんですかね」
「ああ、しかもバラしちゃうし……」
「あの、なにかまずかったんですか? すごく焦ってましたけど」
シルシュはきょとんとしていて、事の重大さが理解できていない。焦っていると認識しているのなら、もっと慎重になるべきじゃんよ。
「こんなことを知られたら……」
「知られたら……?」
俺がずずいと顔を寄せると、シルシュはゴクリと喉を鳴らした。
「あーちゃんが俺のベッドでおかしなことをしてしまう」
「するか!」
力いっぱい、頭をはたかれた。
「えぇ……でも、おかしな気分になったらわかんなくない?」
「なくねーよ。たまに寝そべってるだけだろ? いつも寝てるベッドならまだしも」
「待ってください。 まだしも、なんですか? いったいなにをするっていうんですか?」
「…………」
シルシュの懸命の訴えに、しかし我々は目をそらし、口をつぐむことしかできないのであった。
「どうして二人とも黙るんですか? なにか大変なことなんですか?」
しつこく聞いてくるが、我々は口をつぐむことしか。
「あの、なんなんですか? どうして答えてもらえないんですか?」
もう本当にしつっこくて、我々が頑として口を割らないことを受け入れてもらえるには、相応の時間が必要となった。こいつわかってて聞いてんじゃねえのかなと疑うくらい。
「聞くところによれば、サリさん、以前はニシヤマさんの面倒をよく見ていたんだそうですね。ちょくちょく部屋に来るのも、その名残りってことでしょうか。そのわりに、ニシヤマさんがいないときを見計らってるみたいですけど」
ようやくセンシティブな事柄に関する追及を諦めてくれたシルシュだが、続けて紗莉を話題にする。どちらにしてもコメントしづらい。
「兄や姉なんてのは、ある程度大きくなると弟や妹と距離をとるようになるもんだが、紗莉さんはそういうふうにはならなかったんだな。せっかく美人の姉ちゃんが仲良くしようとしてくれてるってのに、こいつときたら……」
「ああ、そういうことですか。ニシヤマさんが嫌がるから気を遣ってくれてるんですね。なんですか? 恥ずかしいんですか?」
「無理もねーけどな、周りからさんざんいじられたし。中学のときなんて特に。身内が目立つのは良くも悪くも面倒なもんだ」
「そんなものですかね。気にせず仲良くすればいいと思いますけど。二人きりの姉弟なんですから。紗莉さんがかわいそうです、弟にかわいげがなくて。それなのに愛着が薄れないなんて、血のつながりっていうのはこわいものですね」
こわくねえよ。ホラー要素みたいに言うな。ちくしょう、黙ってりゃ好き放題言いやがって。
「そうだな。逆に、血がつながってるとどんなに美人でも何とも思わないものらしい。紗莉さんとひとつ屋根の下で暮らしながら平然としていられる西山が、僕には信じられん」
「なるほど。今日はアーチャンさんもおかしいみたいですね」
シルシュが深刻な面持ちでうなずく。しかしそれは違うぞ、少女よ。思春期男子ってのはだいたいこんなもんなんだぞ。確かにおかしいけど、それで普通なんだ。理解するには時間がかかるかもしれない。けれど、受け入れなければいけないんだ。
我が西山家の家屋は新しくはないし、かといって歴史を感じさせるような重厚さもないが、それでもなかなかに立派だと思う。降って湧いた居候の部屋も難なく用意できたし、空いている部屋はまだある。先祖って偉いよなぁとしみじみ感謝。
俺の自室は一階の端っこのほうで、小学校に上がったときにあてがわれて以来、ずっと同じ。手狭になってきたし、手ごろな別室に移りたいとも思うのだが、いざ実現しようとすれば一大事業になってしまって容易には踏み切れないし、それ以前に許可が下りない。寝言は寝て言えと一笑に付されてしまうことうけあい。
その理由が、部屋の惨状である。個人的にはそれほどではないと思うのだが、一般論的には著しく説得力を欠くらしい。整理整頓もできないくせに手狭とは片腹痛い、とのこと。
厳格な西山家家訓により、家族が無断で部屋のものを処分することはないはず。俺がする掃除なんて、叱られてしぶしぶやる程度のおざなりなものなので、シルシュが言うように失くしたものが失くしたという自覚もなしに片隅で放置されたままになっている可能性は否定できない。
捜索を開始するにあたり、大きな懸念があった。散らかっているのはもちろんだが、探しものがどんなかたちをしているのかわからないことだ。また、雑貨屋のときのように、偽装されていることも考えられる。
「普通なら、長期間偽装されたままでいられるようなことはないんですけど」
しかし相手は魔女だ。その力をもってすれば、数日も数年も大差ないかもしれない。
「仮に偽装の効果が続いていたとしても、経年劣化や環境の変化までには対応できねーだろ。部屋の隅で埃まみれのはずが妙にきれいだったりしたらそいつがあやしい」
ほほう、そうきましたか。あーちゃんの指摘はいつも的確で感心しちゃうね。
かくして部屋をひっくり返しての大捜索となったわけだが、あれも違うこれも違うと検分したものを取り分けておくスペースがない。ほとんどは不要なものなので、これを機にどんどん処分してしまうことにする。台所の母に特大サイズのゴミ袋を所望すると、母は満面の笑みを浮かべて余るほどくれた。今日という日が、画期的な一日になることを予感したのだろう。俺の部屋で本格的な大掃除が行われることは有史以来初めてのことである。
「にしても、自分自身のことは記憶から消しておきながら〈蛇口〉は大事に持っておけ、ってのは無理があるよな」
「言われてみれば……」
開始して間もなく、さっそく二人が疑念を抱く。手を付けてしまったものの、この部屋を片付けるということが途方もなく感じられ、うんざりしてしまってもいるだろう。
だから初めからそんなもの渡されてないんだと訴えたいところだが、ここは黙っておく。都合よく二人の手を借りられてしめしめという場面なのに、冷静に同意されてしまったら中途半端で打ち切られてしまいかねない。
ところが俺は俺で、黙々と手を動かしているうちにモツの里と揉めたときのことがじんわりと思い出されてきて、やっぱり何か大事に持っていたものがあったような気がしてくる。でなければモツの里に反抗し、つかみ合いにまでなるような理由がないし。
でも今さら言い出せないし、これを機に掃除もしたいし。なぜなのか、シルシュのためにわざわざ面倒なことをしてやっているはずだったのに、結局は単に俺のために二人を手伝わせてしまって申し訳ない感じになっちゃっている。ままならぬものだ。
小一時間ほどもすると、元々たいして広くもない部屋ということもあって、だいぶすっきりしてきた。部屋の隅、棚の裏、ベッドの下なんかにそれらしいものがないことは確認できた。
「あとあやしいのは、押し入れとか机の中だな」
あーちゃんが額を拭いながら手付かずの部分を挙げる。あーちゃんだって掃除なんてかったるい派閥の人だろうに、いつのまにやらすっかりエンジンがかかっているご様子。しかし、そのあたりはひときわ混沌が深く、検めるのにはだいぶ骨が折れる。そこまでさせるのはさすがに気が引ける。そろそろ日も傾いたし、けっこう片付いたし、もうくたびれたし、今日のところはこのへんにしといてやらない? ねえ?
「……実は、さっきから言い出せずにいたんだけど」
「ん? どうした?」
「あーちゃんの言うとおり、やっぱりモツの里と揉めたときに失くしたような気がする」
「…………」
あーちゃんの目が静かに細まり、鋭利に輝いて俺を見据える。
「まさかお前……掃除を手伝ってもらえてラッキーなんて思ってたけど、面倒になったから適当なこと言って切り上げよう、とか思ってないだろうな?」
「そっ、そんなことは……すこしあるけど! でも違うんだ、本当に、さっき不意に思い出したんだって!」
あーちゃんは嘆息してシルシュへ目をやる。発案者に判断を委ねようというのだろう。シルシュは頓着するそぶりもなく、ぞんざいにベッドを指さす。
「まあ、ニシヤマさんの言うことですからね、気のせいじゃないでしょうか。そんなことより、これ、お布団、ちゃんと干してるんですか?」
「えぇ……」
まったく相手にされていない。てゆうかこいつ、普通に掃除をしているつもりになっていやしないか。埃でも払おうというのか、マットレスをばしばし叩く。内部のスプリングがバインバインと音を響かせる。
「サリさんも使うんですから、きちんとしないと駄目じゃないですか」
「なんで俺が勝手に使う奴のために寝床のコンディションを整えにゃならんのだ。それに干すったって、こんなのでかいし重たいしいちいちやってられるか」
「そうやってめんどうくさがるから駄目なんです。たいして手間でもないでしょうに。ほら、こうすれば――……」
シルシュの手の動きに合わせて、ふわふわとマットレスが持ち上がる。あのね、一般人はそんなこと気軽にできないんだよ、と改めてこの世界の標準ルールを教えてあげようとしたのだが、なにやらシルシュが訝しげにしている。
見ると、マットレスをどかしたその下に、リモコンがあった。エアコンのリモコンである。はぁ~、まったく、リモコンと名の付くやつはどいつもこいつも、目を離した隙にすぐ姿をくらまし、思いもよらないところにありやがる。いったい何のつもりなんだか。
しかし、すでにエアコンは稼働していて、頻繁に戸を開け閉めする落ち着かない部屋をがんばって冷やし続けてくれている。
そして、机の上にはそれを命令したリモコンがきちんとある。同じリモコンがふたつ……なんと面妖な。
「……ぐんにゃりします」
ベッドから出てきたリモコンをじっと見つめ、シルシュは言う。
「ってことは、つまり――」
「これです、まちがいありません」
断定を受けて、三人して、まじまじと上から覗き込む。見るかぎりには何の変哲もないリモコンだが、異世界に繋がっていて、こんこんと湧き出る魔力が俺に注ぎ込まれているのだという。実感は全然ないけど。
不意に、シルシュがぽそりとつぶやく。
「それで――」
不愉快な気配を感じて顔を上げると、才能を感じさせるほど完成度の高い、にくたらしさ満点の嘲笑が目の前にあった。
「えっとぉ、なんでしたっけ? 遠くの山で、揉めごとのどさくさで失くしたんでしたっけ?」
「ぐっ……!」
くっそ、この小娘が。でも言い返せない。おぼえとけよ。
〈蛇口〉さえ手に入れてしまえば、もうこっちのもんである。魔女の首根っこを押さえたも同然。身柄を確保するのももはや秒読み段階。
っていう感じの戦勝ムードにすっかりなっているのだが、俺にはアドバンテージの具体的な内容がさっぱり。シルシュが帰れるようになったってだけじゃないの? どういうことなの? 教えてあーちゃん!
「シル坊と同じく、魔女だって魔力を切らすわけにはいかねーだろ? これまで魔女は、〈蛇口〉を通じて引き込んだ魔力を、西山を介して補給していたわけだ。けど、〈蛇口〉はこっちが押さえた。だから、西山への魔力の供給がなくなるように〈蛇口〉を遠くへ離しちまえば、魔女は〈蛇口〉を取り返しに来ざるをえない」
あーちゃんはつらつらと説明する。ふむふむそれでそれで、と俺は前のめりになる。隣ではシルシュもだいたい同じような格好になっている。
「つまり、魔女がやってくるのを待ち構えることができる。魔女がどこにいるのか、誰かに扮してるのか、今まではわからなかったが――」
「そうです。どうやってお師匠を特定するんですか?」
「それも〈蛇口〉さえあれば解決。魔力があれば、飲まず食わずでもなんとかなるんだろ? だから、〈蛇口〉を持って、普通の人間が来られないような場所で待ってりゃいい。無人島とか、険しい山の頂上とか、できるんなら海底でも月面でもどこでもいい――とにかく人がいない場所。そんなところにのこのこ現れる奴がいたら、魔力の切れかけた魔女以外にありえない、ってわけだ」
「なっ、なるほどぉ……!」
シルシュは目を輝かせて両手を握りしめる。見える、俺には見えるぞ! あーちゃんへと流れ込む尊敬の念が! 徳を積むってこういうことなんだろうな。ありがたやありがたや。
「っつっても、実際どれくらい待つことになるかはわかんねーけどな」
「大丈夫です、待ちます」
俄然やる気の様子だが、でもさ、ちょっと待って。あーちゃんの作戦にケチをつけるわけじゃないが、そう簡単にはいかないんじゃない?
「けどさ、それって魔女と直接対決ってことにならない? 勝ち目あんの?」
「説得します」
なんだか真摯なことをきっぱり言うけど、あなた以前、問答無用で拷問したり殴りかかったりしていましたよねぇ……
「ま、力づくで来られたらどうにもならないのは今に始まったことじゃねーしな。そもそも本気で逃げられたら見つかりっこないって話でもあったわけだし、キーアイテムを確保して追い詰めたってところで話し合いに応じるつもりでいてくれることを期待するしかねーだろーな」
ふむ。要するに、戦勝ムードもあくまで希望的観測ってことですな。でもしかたないんだろう。これ以上に魔女に迫れる状況なんて俺には思いつかない。
「ただなぁ……ひねくれ者だってことだから、いさぎよく現れるかどうかもわかんねーし、現れたとして素直に帰る気になるともかぎらねーし、そもそも〈蛇口〉がひとつきりとは……」
性格的に楽観だけしていられないのか、あーちゃんがぼやく。
「うぅん、そうですよねぇ……ああ、なんかイヤな予感がしてきました……」
つられて、跳ね上がっていたシルシュの眉もみるみる下がっていく。なんだいなんだい、さっきまでの威勢はどうしたんだい。
おもむろに、俺はシルシュの頭に手を置いた。スポンと音がしそうなくらい、小ぶりな頭は手のひらにちょうど良く収まった。
「もうさぁ、めんどくさい感じになったら、魔女なんてほっといて帰ったらいいよ。やれるだけのことはやったよ。これでダメなら、もうどうにもなんないでしょ。これ以上どうしろってんだ」
ちょっと励ますつもりでお手上げポーズをしてみせると、シルシュはめずらしく素直に相好を崩した。気安く頭を撫でたことに対するお咎めもない。ただひかえめに笑みをこぼして、
「そうですね、そうします。そのときには、またお世話になりますね」
「ん? ……あ、えっと……」
と、俺は返答に詰まる。
「……いや、なんつうか……そのまま元の世界に帰れば、ってつもり、だったんだけど……」
「…………」
きょとんとして、シルシュは俺を見返す。
「ぁ……」
緩めたままの口元から、声にならない息がもれる。俺が触ったせいで少し乱れた髪もそのまま。
本当に思いがけないことを言われたように、顔をこわばらせて、何を言われたのかわからないみたいに、目を泳がせて、それから――
「――そうでしたね。そうそう、これさえあれば、逆にたどって帰れるんでした」
なんでもなかったみたいに、シルシュは言う。
「そ、そうそう。それに、ほら、リゼリヤお姉さまにも報告しなきゃだろ?」
「ですね。それはそうです、しなきゃです」
そうだろそうだろ、と、俺は合わせる。
0
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