神さまに嘘

片岡徒之

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 私はもうこの世界にはいない。後ろを振り向いても、そこには私はもういないだろう。冗談は言わない。言いたくはない。ただ、言えることが一つだけあるとすれば、私は現実から、もっとも遠い存在になった。自動車の走る車線が、もう二度と私のところに行き着かないように、遮断された道のりだけが、全てを真っ暗にする。ブラックアウト。私は私と世界と、一人きり、音のない世界の中心で、かつてない急カーブに差し掛かっている。私は死んだ。声を上げる暇もなく、世界の中心で、泣き叫ぶこともなく、ただ、いなくなった。後ろめたさなんてない、すごい勢いの中で、思いっきりろうそくの火を吹き消す強い息を吐く。屋上から飛び降りる。その勢いのまま、激突した地面と、額から流れるたくさんの血の行く先は、私の人生の最後の岐路だった。行くあてのない時間が、時計の針を落として、噛み合わない歯車と、ぎこちないスピードを保ったまま、止まる。一直線に落ちていく砂時計のように。落ちた砂が、新しい時間の中に埋もれていく下敷きになりながら、日常は、あっという間に私を引き離した。心臓の音は、もう聞こえないんだ。

 それは私にとって、もっとも愛されるべき瞬間だった。もっとも、評価されるべき一瞬だった。それなのに私はきっと、後悔がないなんて言えないのだろう。もう一度歌を歌いたいと思うんだろう。小さなアリの行列を踏まないように。くたびれた腰を伸ばして、精一杯足を伸ばしていけるように。気をつけて、と言いながら。

 でも誰かが、言った。私はもう二度と、私の知っているところへ戻ることはないのだろうと。もう一生、人生に注げる時間は逆巻くことなく、どこへいっても、訪れることはないのだろうと。

 それは空に似ているのだ。あっという間に一瞬を切り裂いていくあの空に。雲は、一秒間動きっぱなしで、それでいてすごいスピードで、形を変えながら永遠の形を失っていく。私は私を手放すことに躊躇はない。きっと、それは大丈夫なことだった。大丈夫なんだ。私は私がいなくても。でも屋上から飛び降りてから、地面に着地するまでに、考える時間はいくほどかあった。それがどんなに急激なスピードを持っていたとしても、私は私を思い返すだけの時間があった。

 ーーごめんなさい。

 その言葉だけが、日常の隅に落ちる影を切り取って、強い日差しを追い払うかのように、一直線に吹き抜けた。たくさんの木の葉を巻き上げながら。何度も、何度も。その時だった。ほんの一瞬の間だけ、光が見えた気がしたのは。

 ねえ、神さま。

 私は神さまお願いごとをした。一瞬で散っていく流れ星を見た時のように、輝くあの方角を指差して、歌ったんだ。私の願いのすべてを乗せて。そうしたら神さまは、たった一度だけ、私にチャンスをくれた。それがどんなに残酷なことだって思うかは、個人の自由だけどさ。ハッ。簡単なことなんだ。私の願いは、たった一つだけ。女の子なんだから、誰だってそう思う時がある。素敵な宝石を身に着けたい。一度きりの花言葉を口にして、誰かに夢中になっていたい。そのありふれた願いだけを、噛みしめて、歯を食いしばってみせたいんだ。血がにじむほどに汗ばんだ靴底のヒールを踏みしめて、たくさんの人、好きな人、それから笑っている私が立っている地面の上に立ちたい。熟したリンゴの実を食べてみたい。とんだマヌケな被写体かもしれない。ブサイクな出で立ちだっていうことくらいわかっている。だけど私も出来る限りのことをして、歩幅を合わせる。世界と、私と、踏み出した足が二度とすれ違わないように、歌いながら。
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