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第一部
第7話
しおりを挟む「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。後は片付けみたいなものだから。三目君は早く帰って。」
コンビニで買ったパンとコーヒーで一息ついたおかげで、その後の作業はさくさく進んだ。解読が難しかった文字も、だんだんと規則性が分かってきたため、午後9時を過ぎるころには、仕事を終わらせることができた。後はめちゃくちゃに散らかったファイルを整理するだけ。昨日も遅くまで仕事をしてもらった三目君には早く帰ってもらうことにした。案の定、最後までやると主張してきたが、上司命令だと言って納得させ、不満げな顔のままだったが部屋から追い出した。
「ふぅ・・・。」
一人になり、椅子に深く腰を下ろす。背もたれに体重を預けて天井を仰ぎ見た。
「運命のつがいかぁ・・・。」
仕事が終わってしまうと、先ほどの瀬尾君の言葉を思い出してしまう。表情までは見えなかったが、心底うれしそうな声音だったように思う。一緒に仕事をした2年間、彼のそんな声を聞いたことは一度もない。
「やっぱりβじゃだめなのかなぁ。」
我慢していた涙がじんわりとあふれてくる。35歳にもなって失恋で泣くなんて情けない。でも今は見ている人は誰もいないし構わないだろう。
「運命のつがいって誰なんだろう・・・。」
涙を流しながら、彼の最愛の人のことについて思いを巡らす。彼はやっと見つけたと話していた。それならば最近になって出会ったということだ。運命のつがいと言うからにはΩで間違いないだろう。
「三目君・・・?」
二人が顔を合わせた時に感じたもの。「運命のつがいではないか」という予感は確信に変わった。間違いない、彼が見つけた運命のつがいは三目君だ。瀬尾君を幸せにできるこの世でただ一人の存在は三目君だったのだ。
「そっかぁ。そうだったのか。」
それならば仕方ない。大好きな瀬尾君と大好きな三目君が好き合っているのならば、自分は彼らを引き裂くようなことはできない。どんなに辛くても、彼らを応援しなければいけなしい、応援したい。
「でも、でも苦しいよぉ。」
身体をくの字に折り曲げて自分自身をぎゅうっと抱きしめる。これから彼らが仲むつまじく過ごす様子を見ることがあるかもしれない。もしかしたら結婚式を挙げて、その式に呼ばれるかもしれない。三目君から上司のスピーチを頼まれて、高砂の二人に向かって「結婚おめでとう」なんて笑顔で話さないといけないかもしれない。
「そんなの無理だぁ!」
想像するだけで涙が止まらない。女々しいと笑われても仕方がない。しかし、3年間、告白もできずにこじらせてしまった恋心はそんなに簡単には消えてくれないのだ。
「どうすれば忘れられるんだろう。」
恥ずかしい話だが、瀬尾君以外を好きになったことがない恋愛初心者の自分には、失恋から立ち直る方法なんて分からない。それにこんな恥ずかしいことは誰かに聞くこともできない。
「そうだ…。」
目の前にあるパソコンに目を向ける。いけないこととは思うが、このさい許してほしい。「失恋 立ち直り方」なんて馬鹿げたワードを検索してしまった。
「失恋に効くのは、新しい恋・・・?」
一番最初に出てきたページをクリックしてみる。恋愛系の記事サイトのようで、ピンクや赤で装飾された可愛らしいサイトのトップには「新しい恋で新しい自分を!」とうたってあった。
「恋の傷を癒やすのは恋!つらい失恋なんか忘れて、新たな王子様を探しに行くの!」
乙女チックな文章を見ている自分が恥ずかしいが、いつのまのかその記事に釘付けになってしまう。そこには、つらい失恋を忘れるためのステップが段階的に数個並んでいた。
「まずは見た目を変えましょう。誰が見ても魅力的な人間になれば、自信も湧いてくるわ!」
「なるほど!!!」
気合いを入れてその場に立ち上がる。瀬尾君のことを諦める一番の方法は新たな恋しかない。幸いなことに努力は得意な方だ。
「よし、頑張るぞ!」
瀬尾君と三目君の結婚式で笑顔でおめでとうと言うためにも頑張ろう。新たな努力の方向性を見つけ、俄然やる気が湧いてきたのだった。
「それじゃあ悪いけど、三目君あとはよろしくね。」
「承知いたしました。1週間お疲れ様でした!」
膨大な仕事を三目君と協力してなんとか終わらせることができた。あっという間に金曜日。今週は忙しかったので、定時に帰れるのは久しぶりだ。三目君はもう少しだけ作業をするとのことなので、先に帰らせてもらうことにした。それに今日は大事な用事がある。
「えーっと、こっちで合ってるか。あったあった!」
会社の最寄り駅から電車で1本。駅から5分もかからない場所にあるのは、ちまたで有名なスポーツジムだ。昨日会社で見たページは個人のスマートフォンで検索し直して、ブックマークをし、いつでも見られるようにしてある。そこに書かれていたのは「まずはスポーツジムに通いましょう!身体を引き締めて魅力的なボディをゲットよ!」と書いてあった。
確かに年を重ねて、身体のあちこちが緩んでしまっている。太っていると言われたことはないが、筋肉がつきにくいこの身体はやせっぽちで、男性的な魅力からほど遠い。せめて男性、女性どちらからも「かっこいい」と思われるような細マッチョを目指したい。昨日のうちに体験コースを予約しておいたので、今日はしっかり汗を流そう。
スポーツウェアとシューズが入った鞄を胸に抱いて、意気揚々とジムの扉を開けた。
「はぁはぁはぁ・・・。」
「大丈夫ですか?」
「だい・・・じょうぶ・・・です。」
器具の説明をしながら、一緒にフロアを回ってくれているジムのインストラクターの女性がタオルを差し出してくれる。女性の名前は朝桐千香(あさぎり・ちか)さん。20代前半ぐらいの活発そうな人だった。身長は小さめだが、身体は引き締まっているし、元気印とでも言うような豪快な笑顔を見ると、こちらまで楽しくなってくる。しかし、筋トレに関しては超絶スパルタであるようで腹筋を30回終えた直後に「さぁ、もう1セットいきますよ!」と急かされる。
「ちょ、ちょっと待って・・・。」
「問答無用!この器具を使って死んだ人はいませんから!はい、ワーンツー!」
「くぅう!」
自分でジムに来たのだ。弱音なんて吐いている場合ではない。
「くそぉ!努力!努力だぁ!!」
「その意気です!!」
何かと戦っている訳ではないのに、絶対に負けないという意思がこみ上げてきて、歯を食いしばりながら朝桐さんが言うメニューをこなしていった。
「うぉお・・・。」
「すいません、ちょっと厳しすぎました・・・。」
1時間半の体験コースが終わるころには、立ち上がれないくらいにへとへとになってしまった。朝桐さんがしゃがみこんで、申し訳なさそうに顔をのぞき込んでくる。
「山口さんが頑張ってくださるので、初めてなのを忘れていろいろ盛り込みすぎてしまいました。初心者の方にはここまで厳しくしませんので、どうかご安心ください。・・・もうここに通うの嫌になっちゃいましたか?」
朝桐さんが叱られた子供のようにおそるおそる尋ねてくる。
「いえ、大丈夫です。このぐらい厳しい方が俺にとってはありがたいので!」
自分を変えるためには、このぐらいの方が良い。そう言ってなんとか笑顔を見せると、朝桐さんの笑顔がぱぁっと輝く。
「な、ならもうちょっと厳しくしても大丈夫ですか?私、山口さんが来られる時は必ずつきますから!一緒に頑張りましょうね!」
「いや、これ以上はちょっと・・・。」
笑顔で次のプランを立ててくる朝桐さんに慌ててストップをかけたのだった。
「それじゃあこれで手続きは以上になります。ようこそ、ベステスジムへ!これから一緒に頑張りましょう!」
ジム内の温泉で汗を流した後、受付で正式入会の手続きをした。カウンターで朝桐さんから必要書類を受け取る。
「こちらこそよろしくお願いします。朝桐さんが指導してくれるなんて心強いです。」
鞄の中に資料をしまい、朝桐さんに向かって頭を下げる。最初から飛ばしすぎると、ジムに行く気が失せてしまう人も多いと聞いたので、最初は火曜日と日曜日の週2回にすることにした。トレーニングが楽しくなれば、朝桐さんと相談して日にちを増やすつもりだ。
「それじゃあ明日からよろしくお願いします。」
朝桐さんに挨拶をして、カウンターを離れようとした時。
ゾクゾクと背筋に甘い刺激が走った。
「は、あれ・・・?」
身体に力が入らなくなり、ぺたんとその場に座り込んでしまう。着ている服が皮膚を刺激して、甘い声が漏れそうになるのを必死に押さえつけた。
「え、ど、どうしました、山口さん!?」
突然その場にへたり込んだ自分を心配して、朝桐さんが大急ぎで駆け寄ってくきてくれた。
「へ、いや、あの、なんか突然・・・っあ!」
自動ドアが開き、外から入ってくる人と一緒に思考を奪われるような、甘い香りが入ってくる。覚えのある香り、これは。
「瀬尾君が来る!」
間違いなく、この香りは瀬尾君のものだ。甘い香りの中にほんの少しムスクが混じったような蠱惑的な匂い。極上のαである瀬尾君特有のフェロモン。その匂いが身体中にまとわりついて、脳みそがとろけるような感覚に襲われる。
このままその感覚に浸っていたいが、こんな所で彼と鉢合わせする訳にはいかない。以前、コンビニで鉢合わせした時のように今回も切り抜けなければ。
「っ!朝桐さん!」
「はいっ!」
突然大声を出した自分に驚いたのか、朝桐さんも大声になった。
「カウンターの下に隠れさせてください!!」
「・・・へ?」
自分のまさかの申し出に、朝桐さんはきょとんと首をかしげたのだった。
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