ぬいの王子と裁縫の魔女

すなぎ もりこ

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⑩馬鹿げた実験

⑩-2

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「左腕を縫い付けたら、両手でミランダを触れるし!」
 先ほどの愛撫を思い出し、ミランダは動揺を感づかれぬよう、慌てて背を向けた。誰かに触れられてあんなふうになるなど思ってもみなかった。布でなく肌だったら、どうなってしまうのか。頭に浮かんだ想像を振り払う。
「下半身を貸し出すとか言っていたくせに。現金なものね」
「うむ。やはり動けるというのはいいな。失ってはじめてわかるありがたさだ。ミランダには感謝しきれない」
「私のことは忘れてもいいけど、その気持ちは忘れないようにね。身体は大切にするのよ。なんたって次期国王様なんだから、貴方が傷つくとたいそう困ったことになる。今回のことでよおくわかったでしょ」
 ミランダはピンクッションから一等長い針を抜き取ると、呪文を唱える。針先に息を吹きかけ、ぬいぐるみの右肩に突き刺した。針を中心に、荒い布の表面が滑らかな皮膚に変化していく。
「我はミランダのことを忘れたりはしない。絶対にだ」
 アーネストにとっては強烈な体験に違いないだろうが、これからも長い人生を歩む彼にとっては一瞬の出来事だ。通過点に過ぎない。記憶はいつか色褪せ、ミランダのこともおぼろげになるだろう。
 絶対なんて、この世にはない。すべてが流動し変化し続ける。身軽でないと先へ進めない。忘却は人間が生き延びるために取得した能力なのだ。
 ―そうであれば。いつかはなくなる記憶ならば、許されるだろうか。
 ミランダはアーネストの未来に残ってはならない存在だ。それならば、くだらない遊戯に付き合っても構わないのかもしれない。
「いいわよ、付き合う。実がなるか確かめようじゃないの」
 嬉し気に顔をほころばせるアーネストを見下ろしながら、ミランダは思う。
 アーネストと自分の置かれた環境はずいぶん違う。多くの人々に囲まれた彼の時間は目まぐるしく進むだろう。しかし、人を避けて山奥で暮らすミランダの時間はゆっくりと流れる。退屈ともいえる穏やかな日々だ。記憶はいつまでも鮮明に残るだろう。
 ならば、アーネストとの『思い出』を対価にいただこう。
 それがいずれミランダの心を切なく締めつけ、寂しさを感じさせるだけのものになったとしても、ともすれば感情までも忘れそうになる孤独な生活においては貴重な宝物になる。人としてあるためには痛みさえ必要なのだということを、ミランダは知っていた。
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