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4 嘘みたいな話
しおりを挟む土曜日、重たい足取りで果帆は友達が予約してくれた居酒屋に向かっていた。
親戚と会社関係の人達への報告は済ませた。あとは友達への報告でやっとお詫びの巡礼という地獄が終わる。
早速今日は、高校の同級生と女子会という名の婚約破棄報告会である。
せっかく久しぶりの集まりだというのに、こんな憂鬱な気持ちで行かなくてはならないなんて、ため息が出てくる。
数ヶ月前、サプライズで結婚をお祝いしてもらったことを思い出して、余計に気持ちは沈んだ。
衛とは同じ高校だったから共通の友達も多い。友達にも気まずい思いをさせてしまうだろう。ふたりの関係が終わっても、この先何かしら接点はあって存在を意識し続けなくてはいけないのだ。
店の中に到着するとすでにメンバーは揃っていて、そのうちのひとりが果帆を見つけると笑顔を向けた。
三浦愛佳と山口美羽。ふたりとも果帆と衛の元クラスメイトで共通の友人でもある。二次会の幹事も頼んでいた親友と呼べる間柄のふたりだ。
「100パー女だな」
乾杯早々、愛佳の第一声。一杯目から麦のロックを飲み干した彼女は、酔ってもいないのに目がすわっている。
会社へ報告した日に、そのままの勢いでふたりにも衛との破局を伝えた。
愛佳はその時も怒り心頭で、衛への罵詈雑言から「不幸になれ不能になれ」なんて呪いの言葉を延々と吐き続けた。
まだ笑って話せるほど立ち直れてはいないけれど、自分の事のように怒ってくれる友達の存在に救われている。
「それしかないでしょ。この時期になって逃げるなんて」
そこは、もちろん果帆もいちばんに疑った。
「マリッジブルーって。なんだ、そのクッソ、笑えない言い訳。下手くそな嘘つきやがって。そんな繊細な人間が結婚式投げ出すかっ」
「でも、もし他に好きな人が出来たとして、それ隠す理由が分からないんだよね。どっちにしても向こうの有責になるのは変わらないなら、言っても同じじゃない? 隠す理由もない気がするんだけど……」
「単純に言いにくかっただけじゃない? 結局、逃げたんでしょ。果帆から責められるのも、責任からも」
たしかに、衛は言いたくないことを聞かれるとすぐに黙り込む。自分の都合の悪い時に黙ってやり過ごそうとするのは衛の狡いところだ。
果帆も空気が悪くなるよりはと問い詰めたりしなかったから、長年一緒にいるわりに喧嘩した回数は少ない。
お互いによく言えば、平和主義。悪く言えば日和見。
喧嘩にならないというよりは、喧嘩から逃げていたのかもしれないと、今は思う。
それでも今回のこれは通常の痴話喧嘩とはわけが違う。せめて、相手が納得するまで言葉を尽くして説明するのが誠意ではなかろうか。挙式直前に逃げ出す男に、誠意を求めても仕方ないかもしれないけれど。
「がっつり慰謝料もらった? 徹底的に突き詰めて搾り取らないとだめだよ。相手の女からも」
「衛のご両親から、いくらかーー」
「はっ! いい歳して親任せか。まじで見損なうわ。あいつ、そんな情けない男だったとはね」
果帆が来る前に適当に注文してくれていたらしく、さほど待たずに料理が届いた。
海鮮盛りに串盛り、ホッケ焼きに厚焼き玉子ーー果帆が最近はまっていた梅水晶もある。きっと、梅水晶があるお店を選んでくれたのだ。
好きな料理がテーブルから溢れそうなくらいに並んだのを見て、はっきり言わなくても今日の会の趣旨が果帆をひっそり励ます会なのだと察した。
「果帆は本当にいいの? 文句ひとつ言えないまま別れて。何も言わずに逃げるなんてくそじゃん。あいつが口割らないなら興信所でも調査会社でも使って調べればいいじゃん。もちろん、費用はあいつから搾り取って」
「……知っても、もうどうにもならないしね」
考えなかったわけではなかった。知ってもどうにもならないけれど、知りたい気持ちがなくなったわけでもない。やはり気にはなる。ちょっとネットで検索するだけでも、浮気調査を扱う業者はたくさん出てきて、お金さえ出せば、個人情報なんて保護されるものではないなぁと怖くなるほど、誰でも簡単に情報を得られる。
でも、考えれば考えるほど、抜け出せないぬかるみにどんどん嵌っていく気がして、衛のことを考えている間は前に進める気がしなかった。
詳細を知っても、むしろ傷が増えるかもしれない。これ以上、傷を深くして過去に自分の未来を奪われるよりも、早く忘れられるように努力して前に進んだ方がいいように思えた。
「果帆の貴重な十代と二十代をめちゃくちゃにしたんだよ? 償わせないと気が済まないでしょ。ほんとに、全く心当たりないの?」
「その前の週に会った時は、普通に式の話もしてたんだけどね」
最後に会った日のことは、もう何度も繰り返し思い返した。衛が口にした言葉や行動を再現できるほど。夢に出てくるほどに。
「なんか怪しいと思ったことなかった? 急に優しくなったとか記念日でもないのにプレゼント買ってきたとか……普段しない行動は、疚しさを隠すためだよ」
「この半年は式の準備とか結婚に向けて忙しかったから、わたしも余裕なくて。そのせいで、いつもよりぶつかる事は多かったかも」
仕事をしながら式場や新居を探すのは想像以上に大変で、お互いいっぱいいっぱいになりちょっとした意見の食い違いに、空気が悪くなったこともある。
さすがに別れ話に発展するような喧嘩はなかったはずだけど、そう思っていたのは果帆だけで衛は違ったのだろうか。
結婚まで辿り着いて、ちょっとした不満や諍いではふたりの関係が今さら壊れることはないという油断と甘えのせいで、衛の変化にも気付かなかったのかもしれない。
「あっ……」
スマホが鳴って美羽が声をあげた。
鳴っているのは美羽のスマホだった。テーブルの上に置いてあったせいで、ガタガタと大きな音が響き、三人の意識が一斉に集まる。
慌ててスマホを手に取り、画面を見た美羽の顔がすっとこわばった。
スマホを隠すように両手で握りしめて、胸に押さえつける。
「出てきて大丈夫だよ」
振動がずっと鳴り止まないから、通話のようだった。
「ううん、いい……あとでかけ直す」
声に覇気がない。表情も暗かった。
三人でいるといつも会話を回すのは愛佳で、それに乗っかっていくのは果帆よりも美羽の方だ。どちらかと言うと果帆は聞き役になることが多い。
だけど、今日の美羽は相槌を返すくらいで、積極的にはふたりの会話に入ってこなかった。
愛佳の怒りに圧倒されて口を挟む隙もなかったのだと思ったけれど、もしかして体調が悪いのだろうか。
「美羽、本当に大丈夫? 顔色良くない気がするけど」
「ほんとだ。体調悪かった?」
今、気づいたといったふうに、愛佳も心配そうに声をかけた。
「大丈夫……」
いまだに鳴り続けるスマホを美羽はソファの横に置いてあった鞄にしまおうとするが、手を滑らせたのかカタンっと大きな音を立てて床に落ちてしまった。
「拾うよ」
「あっ、だいじょうぶ!!」
触らないでと言わんばかりの強い拒否反応が返ってきて面食らう。
でも、スマホは果帆の足元に転がってきてしまい、向かいの席に座る美羽からは届かない。
「拾っちゃうね」
屈んで手を伸ばすと、通話が鳴り止んだスマホの画面にメッセージの受信を知らせるポップアップが表示された。
「果帆?」
いつまでもテーブルの下に頭を突っ込んだままの果帆に、愛佳が不思議そうに名前を呼んだ。はっとして、身体を起こして美羽を見る。
屈んでいたせいか、くらっと目眩がした。
「……ごめん、画面見えた」
美羽のスマホの画面に表示された『今から会える?』というメッセージと見慣れたアイコン。
他意はないのかそれとも敢えてか、表示名は変えているようだけど、分からないはずがない。見間違うわけがない。毎日のように見ていた見慣れたアイコンは、別れた今でもまだ果帆のメッセージアプリの一覧の上の方にいるのだから。
画面を上向きにして美羽に差し出す。
その間にも、画面には連打されたメッセージが表示されていた。
「飯塚?」
愛佳も何か変だと感じたようで、美羽に向けているスマホを覗き込んだ。
『ちゃんと話そう』
『今からそっち行く』
『何か欲しいものある?』
送り主は衛だった。
まるで、自分に送られたかと勘違いしそうな親しげなメッセージの内容が次々に送られてくる。
これではまるでーーー。
「ねぇ、なんで飯塚から美羽に連絡来るの? 個人的にやり取りすることなんてないでしょ」
愛佳が怪訝な声で美羽に問う。
「や、それよりもだわ。美羽、あいつが今、どこにいるのか知ってたの?」
社会人になってからも頻繁ではないけれど2、3年置きくらいに愛佳や衛の男友達も交えてみんなで呑むことはある。果帆が知る限り、ふたりの接点はそのくらいだ。
果帆の事で、なにか連絡を取っていたとしてもおかしくはないかもしれないけれど、どちらかといえば衛は同じバレー部だった愛佳の方が近しい。これまでも衛がプレゼントのリサーチだとか、ちょっとした喧嘩の時の様子伺いだとか、果帆に関することは愛佳に相談していたのは知っている。
だけど、美羽とは個別に連絡を取り合うような距離感ではなかったはずだ。
「いつから? 知ってたなら、なんで果帆に言わないの?」
次々と愛佳から投げられる問いにはひとつも答えず、美羽は俯いたまま黙り込んでしまった。
「スピーカーにして、飯塚に掛けて」
緩慢な動作でスマホのロックを解除したものの、躊躇しているのか通話履歴の画面まできて指を止めた。
焦れた愛佳がスマホを奪って履歴から衛の名前をタップする。
『美羽?』
久しぶりに聞く元婚約者の声。
無事で良かったと安堵する間もなく、胸を掠めた懐かしさは一瞬にして消え去り、鋭い刃物になって突き刺さる。
『美羽、聞こえる?』
衛は美羽を苗字で呼ぶはずなのに、ごく自然に紡がれた名前に違和感は全くない。
呼ぶことに慣れきっているように聞こえて、ぞわっと肌の表面を何か冷たい物体で撫でられたような感覚に唇が震える。
『ごめん、もしかして今、外だった?』
「なんであんたが美羽にかけて来るの?」
衛の息を飲む音が聞こえた気がした。
「分かる? 三浦ですけど。今、美羽と果帆といるのよ」
音もないのに、衛の動揺がはっきりと伝わってくる。
「ちょうど今、あんたが送ってきたメッセージを見た。勝手に見たのはごめんだけど、見えたのは偶然っていうか事故。果帆も見てる」
苛立ちを隠さない愛佳は、衛の返事を待たずに畳み掛ける。
「ねぇ、聞いてんの?」
返事はない。
「果帆のことなら、美羽よりわたしに連絡するよね。てか、そういう内容じゃないよね、これ。ねぇ、どうして、美羽と飯島がふたりで会う必要があるのか、説明してくれる?」
「……とりあえず、三浦は関係ないからーーみ、山口に変わって」
「いいわ、美羽に聞く」
「あっ……」
衛のひきとめる声を遮って愛佳は通話を切った。
無言で美羽にスマホを差し出すが、微動だにせず受け取らない。
「美羽が飯塚とふたりで連絡取り合ってるの、果帆は知ってたの?」
首をどうにか左右に動かすけれど、錘が付いているように頭が重たい。
「美羽、考えたく無いけど、今、わたしが想像してる最悪のパターンを果帆も考えてると思う。疾しいことないなら、ここで飯島とのやり取り全部見せて」
近くにいても聞き取れないほどか細い声で、美羽が何か言葉を発した。
ごめんなさいと聞こえた気がする。
ごめんとは、つまり、そういうことなのか。
耳の奥にキンっと鋭い不快な音が響いて、眉を顰めた。
「美羽、あんた……」
呆然と愛佳が呟く。
ありえないと、浮かんだ疑いをすぐに打ち消して、懇願する思いで美羽の弁明を待つ。
だって、まさか、そんなはずないーー。
果帆と衛が結婚を報告した時、美羽は愛佳と一緒に喜んでくれた。衛と付き合った時だって、笑っておめでとうと言ってくれたはずだ。その時のふたりの笑顔を今でもはっきり思い出すことができる。
「ちょっと、冗談でしょ……やめてよ。友達の彼氏とるとか、マジ?」
やけくそみたいにはっと乾いた笑みを吐き出して、口元を歪めた。
「違うっ……」
絞り出したような声はか細く掠れて震えていた。
美羽が発したのは否定の言葉なのに、動揺した表情も声も、美羽の態度全てが、愛佳の言葉を肯定しているようだった。愛佳も同じように感じたのか、美羽と衛が友達以上の関係があると確信して話している。
「ありえないんだけどっ……友達の夫になる男だよ? 何考えてんのっ?」
「違うから! そんなんじゃないのっ……」
「だったらなに? どういう事?」
「…………ち、がう」
「もういい。飯塚呼ぶ」
「やめてっ!!」
美羽の悲鳴のような声が、ざわついた居酒屋の中で一際、浮いて響いた。
一番近くのテーブル席に座っているカップルらしき男女の視線が突き刺さる。
周りから注目を集めていることに愛佳は気付いていないのか、構わず美羽への追求を止めない。
「疾しい事ないならいいでしょ」
「断ったっ!!」
泣き出しそうな顔で、美羽が叫んだ。
「断ったから、ちゃんとっ──」
「はぁ? なに、断ったって」
青白い顔で、ふるふると首を振る。
「美羽!」
「……結婚しようって、い、言われたけど……」
一瞬、ふらっと目の前が暗くなる。
周囲の騒めきも愛佳の声も、どんどん遠ざかっていって、今、目の前でおこっていることを呆然と眺めるしか出来ない。当事者なのにまるで傍観者だ。
「は? 何それ。ぜんっぜん、意味分かんないんだけど。意味不明。どういうこと? 果帆と結婚するはずだったやつが何で美羽と結婚すんのよ。付き合ってたの? あんたたち」
「つきあって、ない……」
「じゃあ、やったの?」
びくっと小さく肩を揺らした美羽を見て、愛佳は自分の気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸って吐き出した。
「何考えてんの、あんた達。頭おかしいんじゃないの」
美羽の唇がぶるぶると音が聞こえてきそうなほどに震えている。何も事情を知らない人が見たら確実に彼女を被害者だと思うだろう。
「何回? 洗いざらい、隠さずにぜんぶ話して」
「ま、って……いまは、ちょっと……。こんど、ちゃんと話すから、いまは、ごめんなさ」
「いや、ありえないでしょ? 今話しなさいよ。ここで、ちゃんと果帆の前で話して! 違うなら弁解して!」
「愛ちゃん、いい……」
どうにか声を出して、激昂する愛佳に待ったをかけた。
「何言ってんの、ぜんっぜんよくない!!」
「ごめ……そうじゃなくて、……今日は、ちょっと無理、かも……」
グラスに添えている自分の手が震えていた。
ふたりに気づかれたくなくて、テーブルの下に隠して右手で左手をぎゅっと押さえつける。
でも、震えた手で抑えても意味はなくて、抑えつけられた左手の震えはさらに大きくなっていく。
十年付き合っていた恋人との結婚が白紙になった。
その原因が親友だった――らしい。
嘘みたいな話だ。
この事実を言語では理解していているのに、心が受け止めきれない。
美羽は果帆を見ない。果帆もどんな顔をしてこの場にいたらいいのか分からなくて、無意味に視線を斜め前にいるカップルの方へやった。揉めている声が聞こえたのか、周りの人がちらちらとこちらを見ている。口を開くとと吐き気が込み上げてきて、これ以上話すのも限界だった。
さすがに、もうキャパオーバーだ。
ただただ、早くこの場から消えたい――。
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