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11 息子
「ん! すっごく美味しいです、これ!」
クリームが絡まったアスパラと一緒にパスタを一口食べた果帆はぱっと表情を輝かせた。
「レモンがすっごく合いますね」
「お口にあって良かったです。迷われていたリゾットの方も美味しいので、次回是非」
「次、ぜったい頼みます!」
締めをパスタかリゾットかで悩んでいたら、今日は新鮮なアスパラが入ったからパスタがおすすめですよと店長が声を掛けてくれたので、アスパラとサーモンのクリームパスタを注文した。三種のチーズリゾットも捨てがたかったけれど、店長の言う通りアスパラが甘くて美味しい。
今日はこっちにして大正解。こういう小さな発見や幸運に、日々満たされる。
このイタリアン風のバルは、今回で四回目の来店だった。
初回の来店でカウンター席に座った時に、慣れないひとり飲みでそわそわしているところを店長が気遣って声を掛けてくれた。それ以来、毎回こんな風におすすめを教えてくれるようになった。
店長は三十代か四十代前半だと思われる。癖のある柔らかそうな髪をオールバックにして後ろで結んでいる。少し垂れ下がった目が印象的でイケメンというよりは独特の色気がある。外国を思わせる陽気なお店の雰囲気にあっているお洒落な男性だ。
こんなふうにお店の人と気軽に話すことも、以前は苦手だった。
平日でも外食するようになったのは、衛と別れてから変わったことのひとつだ。
生活も落ち着いて、時間にも心にも余裕ができるようになると、一番堪えるようになったのはひとりの時間だった。ひとりの時間が本当にひたすら長く感じる。
元々大した趣味もなく、社会人にもなれば友達と会うのも数ヶ月に一度程度。家族すら一ヶ月に一度顔を見せればいい方で、毎週必ず顔を合わせる人といえば会社関係の人を除ければ衛くらいだった。
ひとりの時間を寂しいと感じると、衛がそばにいないことを寂しいと錯覚してしまいそうだった。
ふとした時に孤独感にぶわっと襲われることもあれば、じわじわと何日も居座ることもあって、別れた直後よりもずっとひとりの寂しさに埋もれていた。
時間が空くのはよくない。
とにかく、考える時間をなくす。
家にひたすら籠ってしまうので、意識して外へ出るようにした。
最近は、入るのにちょっと二の足を踏むお洒落なカフェだとか、焼肉にもひとりで行けるようになった。
おひとり様人生まっしぐらだと咲には言われたけれど、ひとりを楽しむというよりは、ひとりでいたくない時に、それでいて人と会う気分にはなれない時に、人の気配を感じられる場所が居心地が良かった。
この店は学生が少なくて、敷居が高すぎず、女性客が多くて入りやすい。
何より料理が美味しかった。全てのメニューを制覇することが、ささやかな野望である。
「ばか!! 死ね!!」
ガラスが割れる音と一緒に物騒な声が店内に響いた。
びっくりして反射的に音がした方を振り向くと、一番奥の壁際のテーブル席で、女性が男性に向かって叫んでいる。
カウンター席と四人掛け、二人掛けのテーブル席がそれぞれ二卓しかない狭い店内だ。
店内にいる全員の視線がふたりに集まった。
注目を浴びている本人は気付いているのか、気にしないのか、脇目も振らずにずっと声を荒げている。
「待って! 帰らないでよ!! のぶくん!!」
引き留めようと掴んだ腕を払われ、女性の身体がふわっと後ろに倒れた。
危ないっ……
思わず腰を上げるが間に合うはずもなく、女性はテーブルにぶつかって、床に尻餅をついてしまった。
グラスや皿が床に派手に転がって、テーブルの下にはワインの水たまりができている。
「のぶくん、待ってってば!!」
女性が尻餅をついてもなお名前を呼んでいるのに、男性は振り向くこともなく会計をして出て行ってしまった。
濡れた床の上にぺたんと座り、小さな子供のようにしゃくりあげて泣き出す女性を、みんな呆然としながら遠巻きにして見ている。
迷った末に、果帆はそっと女性に近づいた。
「あの、ガラス、危ないですよ」
鞄からタオルハンカチを取り出して、びしょびしょに濡れてしまっているスカートにあててみるが、大量に含んだ水分はまったく吸いきれない。
「すみません、タオルかおしぼり貸していただけますか」
そばに来たスタッフの男性に声をかけると、掃除道具と一緒にタオルを数枚持って来てくれた。
「わたし、やりますよ。お客さん、レジ待ってるみたいなので」
「あー、じゃあ、申し訳ないんですけど、お願いできますか。すみません、ありがとうございます!」
果帆にモップを預けて、慌ただしくレジへ走っていった。
たまに厨房の人が手伝っているが、店長はパントリーがメインで、ホールスタッフはひとりしかいない。
まだ、店内には二組の客が残っている。
果帆がタオルで服に染み込んだワインをトントン叩いて吸い取っている間も、女性はずっと大人しくされるがままだ。
割れて散らばったグラスを片付けている間に、床に座ったまま椅子に突っ伏して寝てしまった。
そのまま女性を見守っている間に閉店時間も過ぎ、果帆以外の客はみんな退店していた。
「どうしましょう」
「どうしましょうかねぇ」
他のスタッフも帰宅し店長と三人だけが残った店内。ずっと同じ体勢のまま動かない女性を見下ろして、ふたりで困り果てていた。
とりあえず残ってはいるものの、果帆に何かできるわけでもない。
「んー、最悪、警察に連絡かな」
「警察ですか」
「引き取ってくれるか分かりませんけど、このままじゃ店閉められないし」
「器物損壊で捕まったりしませんかね」
「こっちが訴えなかったら大丈夫じゃないかな。お姉さん、お姉さん、ちょっと起きよっか」
「んー……」
店長が肩を遠慮がちに揺さぶると不機嫌そうな声を出して、のっそりと身体を起こした。
「お姉さん。お迎え来てくれそうな人と連絡取れる?」
「おむかえ……」
「そう。ここ、もう閉店なんで。それじゃひとりで帰れないでしょ。誰か来てくれる人いる?」
「のぶくん……」
「いや。それ、あなた置いてった男じゃないの」
「あの……」
「あー、すみません。無神経でしたね。女慰めるとか苦手なんです」
目で制止すると、店長は気まずそうに頭を掻く。
「しゃーない。とりあえず、酔いが覚めるまで俺がここで見てます。ありがとうございました。お客さんはもう帰ってください」
「良ければ、一緒にいます。……一応、女性がいた方が、と思うので」
店長を疑うような言い方にならないように言葉を濁したが、ちゃんと伝わったようで「ああ」とすぐに理解してくれた。
「そうですよね。すみません、お願いします」
「お姉さん、迎えに来て貰える人いますか? ひとりだと危ないから、よかったらわたし、代わりに連絡するので、スマホの画面開いてくれませんか」
話しかけると、顔を上げて果帆を見た。
泣きすぎたせいで目がとろんとしている。
果帆より年上のはずだけど、仕草や表情が幼くて、可愛らしい人だ。放っておけない雰囲気を醸し出していて、思わず手を差し伸べたくなるような危うさがある。
何より、とても綺麗な顔立ちをしていた。
「ご家族とか、お友達とか、連絡できますか?」
「りっくん……」
か細い声で名前を呟いて、床に投げ出されていたスマホに手を伸ばした。
のぶくんとは別の男性の名前が出てきて、思わず店長と顔を見合わせてしまう。
「りっくん」
電話の向こうから、男の人の声が漏れ聞こえてくる。
「もうやだぁ……」
また泣き出してしまった。泣きながら要領を得ないことを話すので、これでは誤解を与えてしまいそうだ。電話の相手もきっと困惑している。
「あの、ちょっと、電話代わってもらってもいいですかね」
同じように思っていたのか、見かねた店長がスマホを取った。
「ええ、そうです。はい、西口の。コンビニ曲がってすぐのビルの地下……はい。分からなかったら電話下さい」
通話を終えて女性にスマホを差し出すも、受け取ろうとしないのでテーブルの上に置いた。
「息子さんが迎えに来てくれるそうです。徒歩で来られる距離みたい」
「息子さん」
この人が母親ならまだそんなに大きい子供ではなさそうだけど、こんな時間にひとりで迎えに来るのだろうか。
そもそも、来てもらっても酔っている大人の女性を連れて帰れるのか。
「声からして、結構大きな息子さんみたいでしたけど」
同じことを考えていたのか、店長が教えてくれる。
「すみません! ご迷惑をおかけしました」
三十分後、店に現れた息子を見て、果帆はぽかんと口を開いた。
相当に、間抜けな顔をしていただろう。
クリームが絡まったアスパラと一緒にパスタを一口食べた果帆はぱっと表情を輝かせた。
「レモンがすっごく合いますね」
「お口にあって良かったです。迷われていたリゾットの方も美味しいので、次回是非」
「次、ぜったい頼みます!」
締めをパスタかリゾットかで悩んでいたら、今日は新鮮なアスパラが入ったからパスタがおすすめですよと店長が声を掛けてくれたので、アスパラとサーモンのクリームパスタを注文した。三種のチーズリゾットも捨てがたかったけれど、店長の言う通りアスパラが甘くて美味しい。
今日はこっちにして大正解。こういう小さな発見や幸運に、日々満たされる。
このイタリアン風のバルは、今回で四回目の来店だった。
初回の来店でカウンター席に座った時に、慣れないひとり飲みでそわそわしているところを店長が気遣って声を掛けてくれた。それ以来、毎回こんな風におすすめを教えてくれるようになった。
店長は三十代か四十代前半だと思われる。癖のある柔らかそうな髪をオールバックにして後ろで結んでいる。少し垂れ下がった目が印象的でイケメンというよりは独特の色気がある。外国を思わせる陽気なお店の雰囲気にあっているお洒落な男性だ。
こんなふうにお店の人と気軽に話すことも、以前は苦手だった。
平日でも外食するようになったのは、衛と別れてから変わったことのひとつだ。
生活も落ち着いて、時間にも心にも余裕ができるようになると、一番堪えるようになったのはひとりの時間だった。ひとりの時間が本当にひたすら長く感じる。
元々大した趣味もなく、社会人にもなれば友達と会うのも数ヶ月に一度程度。家族すら一ヶ月に一度顔を見せればいい方で、毎週必ず顔を合わせる人といえば会社関係の人を除ければ衛くらいだった。
ひとりの時間を寂しいと感じると、衛がそばにいないことを寂しいと錯覚してしまいそうだった。
ふとした時に孤独感にぶわっと襲われることもあれば、じわじわと何日も居座ることもあって、別れた直後よりもずっとひとりの寂しさに埋もれていた。
時間が空くのはよくない。
とにかく、考える時間をなくす。
家にひたすら籠ってしまうので、意識して外へ出るようにした。
最近は、入るのにちょっと二の足を踏むお洒落なカフェだとか、焼肉にもひとりで行けるようになった。
おひとり様人生まっしぐらだと咲には言われたけれど、ひとりを楽しむというよりは、ひとりでいたくない時に、それでいて人と会う気分にはなれない時に、人の気配を感じられる場所が居心地が良かった。
この店は学生が少なくて、敷居が高すぎず、女性客が多くて入りやすい。
何より料理が美味しかった。全てのメニューを制覇することが、ささやかな野望である。
「ばか!! 死ね!!」
ガラスが割れる音と一緒に物騒な声が店内に響いた。
びっくりして反射的に音がした方を振り向くと、一番奥の壁際のテーブル席で、女性が男性に向かって叫んでいる。
カウンター席と四人掛け、二人掛けのテーブル席がそれぞれ二卓しかない狭い店内だ。
店内にいる全員の視線がふたりに集まった。
注目を浴びている本人は気付いているのか、気にしないのか、脇目も振らずにずっと声を荒げている。
「待って! 帰らないでよ!! のぶくん!!」
引き留めようと掴んだ腕を払われ、女性の身体がふわっと後ろに倒れた。
危ないっ……
思わず腰を上げるが間に合うはずもなく、女性はテーブルにぶつかって、床に尻餅をついてしまった。
グラスや皿が床に派手に転がって、テーブルの下にはワインの水たまりができている。
「のぶくん、待ってってば!!」
女性が尻餅をついてもなお名前を呼んでいるのに、男性は振り向くこともなく会計をして出て行ってしまった。
濡れた床の上にぺたんと座り、小さな子供のようにしゃくりあげて泣き出す女性を、みんな呆然としながら遠巻きにして見ている。
迷った末に、果帆はそっと女性に近づいた。
「あの、ガラス、危ないですよ」
鞄からタオルハンカチを取り出して、びしょびしょに濡れてしまっているスカートにあててみるが、大量に含んだ水分はまったく吸いきれない。
「すみません、タオルかおしぼり貸していただけますか」
そばに来たスタッフの男性に声をかけると、掃除道具と一緒にタオルを数枚持って来てくれた。
「わたし、やりますよ。お客さん、レジ待ってるみたいなので」
「あー、じゃあ、申し訳ないんですけど、お願いできますか。すみません、ありがとうございます!」
果帆にモップを預けて、慌ただしくレジへ走っていった。
たまに厨房の人が手伝っているが、店長はパントリーがメインで、ホールスタッフはひとりしかいない。
まだ、店内には二組の客が残っている。
果帆がタオルで服に染み込んだワインをトントン叩いて吸い取っている間も、女性はずっと大人しくされるがままだ。
割れて散らばったグラスを片付けている間に、床に座ったまま椅子に突っ伏して寝てしまった。
そのまま女性を見守っている間に閉店時間も過ぎ、果帆以外の客はみんな退店していた。
「どうしましょう」
「どうしましょうかねぇ」
他のスタッフも帰宅し店長と三人だけが残った店内。ずっと同じ体勢のまま動かない女性を見下ろして、ふたりで困り果てていた。
とりあえず残ってはいるものの、果帆に何かできるわけでもない。
「んー、最悪、警察に連絡かな」
「警察ですか」
「引き取ってくれるか分かりませんけど、このままじゃ店閉められないし」
「器物損壊で捕まったりしませんかね」
「こっちが訴えなかったら大丈夫じゃないかな。お姉さん、お姉さん、ちょっと起きよっか」
「んー……」
店長が肩を遠慮がちに揺さぶると不機嫌そうな声を出して、のっそりと身体を起こした。
「お姉さん。お迎え来てくれそうな人と連絡取れる?」
「おむかえ……」
「そう。ここ、もう閉店なんで。それじゃひとりで帰れないでしょ。誰か来てくれる人いる?」
「のぶくん……」
「いや。それ、あなた置いてった男じゃないの」
「あの……」
「あー、すみません。無神経でしたね。女慰めるとか苦手なんです」
目で制止すると、店長は気まずそうに頭を掻く。
「しゃーない。とりあえず、酔いが覚めるまで俺がここで見てます。ありがとうございました。お客さんはもう帰ってください」
「良ければ、一緒にいます。……一応、女性がいた方が、と思うので」
店長を疑うような言い方にならないように言葉を濁したが、ちゃんと伝わったようで「ああ」とすぐに理解してくれた。
「そうですよね。すみません、お願いします」
「お姉さん、迎えに来て貰える人いますか? ひとりだと危ないから、よかったらわたし、代わりに連絡するので、スマホの画面開いてくれませんか」
話しかけると、顔を上げて果帆を見た。
泣きすぎたせいで目がとろんとしている。
果帆より年上のはずだけど、仕草や表情が幼くて、可愛らしい人だ。放っておけない雰囲気を醸し出していて、思わず手を差し伸べたくなるような危うさがある。
何より、とても綺麗な顔立ちをしていた。
「ご家族とか、お友達とか、連絡できますか?」
「りっくん……」
か細い声で名前を呟いて、床に投げ出されていたスマホに手を伸ばした。
のぶくんとは別の男性の名前が出てきて、思わず店長と顔を見合わせてしまう。
「りっくん」
電話の向こうから、男の人の声が漏れ聞こえてくる。
「もうやだぁ……」
また泣き出してしまった。泣きながら要領を得ないことを話すので、これでは誤解を与えてしまいそうだ。電話の相手もきっと困惑している。
「あの、ちょっと、電話代わってもらってもいいですかね」
同じように思っていたのか、見かねた店長がスマホを取った。
「ええ、そうです。はい、西口の。コンビニ曲がってすぐのビルの地下……はい。分からなかったら電話下さい」
通話を終えて女性にスマホを差し出すも、受け取ろうとしないのでテーブルの上に置いた。
「息子さんが迎えに来てくれるそうです。徒歩で来られる距離みたい」
「息子さん」
この人が母親ならまだそんなに大きい子供ではなさそうだけど、こんな時間にひとりで迎えに来るのだろうか。
そもそも、来てもらっても酔っている大人の女性を連れて帰れるのか。
「声からして、結構大きな息子さんみたいでしたけど」
同じことを考えていたのか、店長が教えてくれる。
「すみません! ご迷惑をおかけしました」
三十分後、店に現れた息子を見て、果帆はぽかんと口を開いた。
相当に、間抜けな顔をしていただろう。
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