夫の心に私はいない

久留茶

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 数時間前のこと。

 毎月恒例の商店街の飲み会は、新の結婚話で大いに盛り上がっていた。

「いやぁ、遂に新も既婚者かー! 俺、新はてっきり生涯独身を貫くんだと思ったよ!! 」

 かなり出来上がった状態で大声で話すこの男は、商店街の八百屋の店主である田川吾郎たがわごろう35歳。商店街の男連中のリーダー的存在であり、スナックのママ、晶の夫でもある。
 吾郎はビール片手に、静かに飲んでいた新に近付き、がっしりと新の首に手を回すと喜びの声を上げた。

「……はは」

 絡まれた新が慣れた様子で愛想笑いを浮かべる。

「しっかし新の嫁さん、滅茶苦茶良い女じゃねーか。お前結婚してから毎晩寝不足なんじゃないの? 」 
「そんなことないよ。透子は毎日朝早くに仕事に出てるんだ。夜はしっかりと寝かせているよ」

 やんわりと新はその手の話題を交わす。
 しかし酔っ払っている吾郎は、それを新の照れ隠しだと勝手に解釈し、尚もこの話題を続けてきた。

「そーか、そーか。仕事前の夜は我慢して、休み前迄お楽しみはとっておくってことだな」

 吾郎が勝手に一人で納得しうんうん、と頷く。
 そんな吾郎の様子に、新は困ったように眉尻を下げると、話を誤魔化すようにビールを一口ぐびりと呷った。
 その直後。

「きゃっ! 」

 新の頭上で女性の慌てたような短い叫び声が聞こえたかと思うと、バシャリと隣の吾郎の頭に冷たいものが浴びせられた。

「ぶわっ! 冷てー! 」

 新の横で頭から水を被った吾郎が悲鳴のような声を上げる。
 季節は秋に入り、夜は暖房は必要ないものの、日中に比べて気温はぐんと下がり、流石に氷水を頭から浴びせられたとなれば、全身に寒さが襲う。

「ご、ご免なさい、吾郎さん。お水取りに行って戻ってきたら、畳に足が引っ掛かっちゃって……」

 空のコップを手にした理花が、申し訳なさそうに吾郎に謝罪する。理花の大きな瞳がうるうると涙を滲ませ、今にも泣き出しそうな様子に、吾郎は弾かれたように理花へと駆け寄った。
 
「気にするな理花!  俺は消防団に入ってるから、水には年がら年中耐性がある。それよりもお前に水はかかってないか? 」
「う、うん、私は大丈夫。でも、吾郎さんが風邪を引くと悪いから私直ぐにお店の人からタオルを借りてくるね」

   いじらしい理花の言葉に、吾郎は心臓を掴まれたように理花への愛しさで、胸が苦しくなる。

「いいっていいって。俺が直接貰ってくるから理花はここに座ってろ。ついでにもう一回水も貰ってきてやるよ」

 そう言って吾郎はタオルを取りに行こうとする理花を無理矢理新の隣に座らせると、自分はそそくさと厨房の奥へと消えていった。
 厨房の奥から「ハックション! 」と吾郎の豪快なくしゃみが聞こえた。
 
 吾郎が奥に消えたのを確認した理花は、新にだけ分かるようにぺろりと舌を出した。

「理花……」

 先程の行為が仕組まれたことだと分かると、新は非難するように理花の名を呼んだ。

「だって、吾郎さん酔うといつもああなるから……。新兄ちゃんが困ってると思って……」

 理花は唇を尖らせながら抗議の声を上げた。

「新兄ちゃんだってあんな質問されて嫌だったでしょ? 」

 理花の言葉に、新は静かに首を振る。
 
「俺は吾郎さんの絡みには慣れてるから大丈夫だよ。真面目に答える気なんて初めからないし」
「――でも、私が嫌だったの」

 理花が開き直ったように本音を洩らすと、膝の上に置いた両手をぎゅっときつく握り締めた。

「新兄ちゃんのそんな話し聞きたくなかった……」
「理花……」

 兄を盗られた妹の心境なんだろう、と新は複雑な気持ちで理花の様子を伺った。

「……ねえ、ちょっと場所変えて二人で話そう? 私新兄ちゃんに聞いて欲しいことがあるの」
「この前の恋愛相談の続き? 」
「ううん、その話じゃない。それはもういいの。そうじゃなくて……」

 いつもと違う、どこか思い詰めたような理花の様子に新は気遣うように声を掛けた。

「理花? どうした? 」

 新は俯いている理花の顔を覗き込む。
 本気で心配する新の様子に、理花は一瞬泣きそうな表情を浮かべた。

「……出ようか」

 新がそう口にすると、ようやく理花が顔を上げる。
 
「いいの? 」
「いいよ。いつもの公園で話して帰ろう」

 そう言うと新は、『理花が飲み過ぎて具合が悪くなったから送って帰る』と仲間に告げ、早々に飲み屋から二人で姿を消した。


 酔っ払って盛り上がる男連中から少し離れた席に集まっていた商店街の嫁達は、消えた二人を白けた様子で眺めていた。
 その内の一人がぼそりと呟いた。

「やっぱりあの二人って怪しいよね」

    その言葉を皮切りに嫁連中がわっとお互いの心情を吐露し始める。

「さっきの理花の行動見た? 凄いわざとらしく新の嫁話止めたよね~」
「あー、私もそう思った。新が結婚して惜しくなっちゃったのかな~?  だとしたらそうとう魔性の女だよね、あの娘」
「新も新で、いつまで理花のお守りするつもりだろ。そんな暇あるなら早く嫁の元に帰れっつーの」
「男って本当、可愛い子には弱いよね~』

 理花の話題で盛り上がる女達から少し離れた場所で、スナックのママである晶は煙草を吸いながらその様子を静かに眺めていた。

「……透子さん、ムカついたら新の髪の毛を寝ている間にむしりなさい」

 そう呟くと、晶は厨房から戻ってきた夫の吾郎に冷たい眼差しを向けた。おそらく理花を探しているのであろう、髪の毛をタオルで拭きながら、会場をキョロキョロと見渡す吾郎の姿に、晶は口元に咥えていた煙草をぎゅっと強く灰皿に押し付けた。

「今日は毛という毛を刈り上げてやる……」

 グフグフと一人怪しい笑い声を洩らす晶。
    晶の静かな怒りを感じ取ったのか、単に身体が冷えただけなのかは定かではないが、吾郎は再び盛大なくしゃみをした。
 

 * * *


 公園に到着する迄、新は理花の歩調に合わせるようにゆっくりと歩みを進めた。
 新は隣を歩く自分よりも頭一つ分小さい理花をちらりと横目で見下ろした。
 先程から口数が少ない理花に敢えて声は掛けないまま、新は目的地を目指した。

 秋の夜空に無数の星達が散らばり、輝いていた。新はそんな星空を何とはなしに見上げながら家で自分の帰りを待つ妻の姿を思い浮かべた。

 自分と透子はこんな風に夜の道を二人で歩いたことはない。
 ましてや結婚してから三ヶ月経つが、未だに身体の関係すら持っていないのだ。
 これは流石に透子も何か思っているに違いない。

 (透子に対して俺はなんて酷いことをしているのだろう……)

 新は心の中で自己嫌悪に陥っていた。
 
 理花への気持ちを絶ち切るために透子との結婚を決めたのに。
 結局理花を蔑ろには出来ず、ズルズルと理花に誘われるがままこうやって二人で会っている。

 自分の気持ちを誤魔化し続けてきたものの、理花に対する恋慕の気持ちが失くなった訳ではないことを新は自覚していた。

 結婚しても尚、理花に頼られていることが嬉しかった。
 自分は理花の特別なんだと、は絶対誰にも譲りたくなかった。


 この気持ち自体が既に透子に対する裏切りであった。新は自分を純粋に好いてくれている透子に対し、ずっと罪悪感を抱いていた。

    (そんな気持ちのまま透子を抱くことはできない)

 しかし、少しずつ新の心の中に透子の存在が大きくなりつつあった。
    理花とあってもふと透子のことを考えてる自分がいる。

   (もう少し、もう少しできっと俺は完全に理花を断ち切れる……)

    新がそんなことを考えている内に、二人はいつもの公園へと辿り着いた。

 お互いの顔が見えるように、二人はブランコ脇の街灯の下までやってきた。
    そこで理花は俯いていた顔を上げると、意を決したように新の目を見つめ口を開いた。
 
「私、新兄ちゃんが好き……」
「え? 」

 突然の理花の告白に新は事態が呑み込めず、思わず聞き返した。

 「新兄ちゃんが好きなの」

    それは新がずっと長い間待ち望んでいた理花からの言葉であった。

  
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