夏が終わった、そのあとに〜吟遊詩人とすみれの恋〜

楢川えりか

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【PART 3】2年生、冬

16. ピアノ

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 海から戻って、夕食を食べて入浴して。おれと都真はおれの部屋でのんびりしている。
 今日の試験勉強は朝に終わらせていたので、特に何をするでもない、自由なまったりとした時間。おれはふとんの上でだらだらしている。
 都真はおれの勉強机の前の椅子に座っていた。ゆるいパジャマの一番上のボタンが外れた胸元がだらしなくて、ちょっとセクシーだった。
 都真のファッションは基本的に、無造作っていうか、だらしない感じが決まっててかっこいいことが多くて、フレンチシックって感じなんだよな。
「あ、これ。買ったんだ」
 机の上に置いてある、ヴェンタドルンのアルバムとフランス中世文学集を見て、都真が言う。結局、本も買った。
 都真がどんなものを好きか知りたくて。そう思ったけど、それも重いかなと思い直して口にはしない。
「うん。失恋の歌なんだな」
「ああ、中世の吟遊詩人の歌って、失恋、不倫、遠距離恋愛あたりは多いよ」
「障害の多い恋ばっかりだな」
 おれは笑ったけれど、遠距離恋愛って言葉にちょっとドキリとした。特に、さっきの海の会話の後だと。
 結局、おれが交換留学したって、おれは大学院には進学しないだろうし、おれたちはいつかは、遠距離恋愛ってことになる可能性が高いんだよな。
「ピアノが好き?」
 机の脇の棚に並んでいるアルバムを見て、都真が言う。
「あ、習ってたんだっけ」
 たぶんおれが微妙な顔をしていたのだろう。マダムの家でおれが言ったことを思い出したらしい都真が続けた。
「うん」
 都真は椅子から立ち上がって、おれの隣に座っておれを覗き込んだ。
「一夜」
 やわらかい、茶色い瞳。ドライヤーをかけたばかりの明るい髪がふわふわしている。
「もしよかったら、習ってみたら?」
「え?」
「続けたかったんじゃない?」
「いや、もうこんな年だし、今から始めても……」
 都真がおれに微笑む。
「こんな年だから、やりたいことをやれるんだろ。別に、親に許可を取らなくても、自分でバイトしたお金で習えばいいし、楽器のあるレンタルスペースとか借りても練習できるし」
 まあ、そう言われるとそうだ。もう、おれが空いてる時間に何をやっても、自分のお金なら気づかれることもほぼない。
「あー、いいと思う。いいと思うけど」
 怖い。なんでなんだろうな。
 都真が手を伸ばして、おれの頭を撫でた。
 気持ちいい。
「大丈夫、怖いことなんかないよ」
 おれは怖いとは言わなかったのに、見透かしたように都真が言う。おれが何も言わないせいか、都真はやがて小さい声で歌い始めた。
 知らない国の言葉。フランス語じゃないな。どこの言葉だろ……?
 ゆらゆらと行き来する、やわらかい曲調は、子守歌だろうか。
 都真の手は温かい。その手とやさしい歌声に包まれて、おれはいつのまにか眠ってしまった。
 幸せな夜だった。
 
 翌朝。
 都真は帰ると言ったのだけど、おれは名残惜しくて、一緒に駅まで行った。それでもすぐにはさよならを言いづらくて、見送りに行くと言って東京駅まで行った。
 駅構内のカフェで、年末年始に実家に帰るのに忙しい人たちを眺める。
 だいぶそうしてから、都真が立ち上がった。
「そろそろ帰ろうかな。大丈夫だよ、うちまで送らなくて」
 見上げたおれに、笑って都真が言う。
「別に、定期あるし」
 おれはなんだか、大晦日に都真をひとりにしてしまうことがつらかった。
「だって、ひとりで一夜が帰る距離が長くなるだろ。オレが自分で実家に帰らないって言ったんだから、気にしないで。またすぐ、初詣もあるし」
 おれたちは二日に初詣の約束をしていた。さすがに都真とべったりなのは気まずくて、家族には別の友達と約束をしていると言っている。
「うん、そうなんだけど」
 都真は軽く、おれの手に触れた。
「ありがとう。いつかちゃんと、一緒に年越ししよう」
 おれは都真が乗り換えるホームに上がっていく、エスカレーターの下で彼を見送った。
 都真は何度も振り返って、おれに手を振ってくれた。おれも、姿が見えなくなるまで見送る。
 今は数日だけど、これから先、こんなふうに都真を見送ることが多くなるのだろうか。もしかしたら、今年の夏にはフランスに旅立つ彼を見送ることになるのかも。
 都真には遠距離でも大丈夫だって言ったけど、都真と付き合うにはそれを受け入れるしかなかったからで。本当にそうなったら、どうしたらいいかわからない。
 胸が痛かった。
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