黒髪断ちて、入りし人生(みち)

突撃一番

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俗世

決意

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「決心は変わらないのですな?」慈光は念を押すように言った。 

「はい」言葉短く裕美恵は答えた。 

「それにしても、その年で得度を決心されるとは」 

 そう言うと、無意識に慈光は白い顎鬚を撫でた。 

「そうですね。私自身、まさか、得度の決心をするとは思っても居ませんでした」 

「お前さんがこの寺の座禅会に来たのはいつだったかのう」 

 裕美恵は長い髪を耳にかき上げ、 

「三年程前です」 

「もう、そんなに経つか」慈光は感慨深かそうに言った。小牧裕美恵は48歳の主婦である。 

 座禅を始めたきっかけは自分自身の不安な気持ちを少しでも紛らわせたいという 

 思いからだった。 

 夫の達夫は50歳大手商社の部長を務めていた。 

 仕事もできるが、英雄色を好むではないが、女好きであった。それを家庭では匂わせることなく、真面目な夫を演じていた。 

 一方では恵美子に隠れて二十以上離れた娘のような女と交際をしていた。 

 達夫は恵美子に気づかれてはいないと思っているのであるが、携帯やら、手紙を無造作に 

 家のリビングに置いてあり、それを見て不信感と精神的な不安に悩まされるようになった。 

 座禅会に参加しませんか? という秀岳寺の山門の脇にある、掲示板に貼られた案内を見て、 思い切って参加したのが、ちょうど三年前の今頃だった。

 家に帰り、電話番号を書いたメモ帳を見ながら電話をした。 

「もしもし、今日、お寺の掲示板を見て座禅会に参加したいと思ってるのですが」 

「そうでしたか。是非、いらっしゃい! 明日の早朝七時ですが、大丈夫ですかな?」 

 慈光の大きく皺がれた声が受話器を通して恵美子の耳の響いた。 

「はい、宜しくお願いします」 

「では、明日」 

 恵美子は電話を切った。 

 翌日の早朝に寺に行くと、慈光が山門で立っていて恵美子を待っていた。 

「貴女ですかな? 昨日、電話した」 

 慈光から話しかけてきた。 

「はい、小牧恵美子と申します、宜しくお願いします」 

 頭を深々と下げた。 

 腰まで届くストレートの長い髪は日の光に当たり美しく映え、麗しき香りが慈光の鼻をついた。

  慈光に案内され本堂に向かった。 

 本堂には十数人ほどの男女が集っていた。 

 全員が中高年であった。 

「今日から、座禅会に参加されることになった、小牧恵美子さん」 

 慈光が恵美子を紹介する。 

 疎らながら、拍手が起こった。 

「今回が座禅初めてなのですが、宜しくお願いします」 

 恵美子は深々と頭を下げた。 

「大丈夫よ。あたしだって初めて一年なんだから」 

 六十過ぎであろうか、女性が恵美子を安心させようと言葉を掛けた。 

 午前7時半に座禅会は始まった。 

 本堂に静寂が流れ、耳に聞こえるのは虫の音、木々が揺れる音だけであった。


  静寂の中で心を無にして臨む座禅は恵美子にとっては新鮮であった。

 家庭での諍いが馬鹿らしくなるような思いであった。

 ただ、無心になって座禅に打ち込むことが恵美子にとって喜びにすら感じるようになったのだった。

 あっという間の一時間であった。

「どうでしたかな? 初めての座禅は、辛くはなかったですかな」

 慈光が心配な面持ちで恵美子に尋ねた。

「いえ、このように心を無にして臨む座禅は新鮮です、今までに感じたことない感覚です」

 恵美子は子供のような澄んだ瞳で慈光の顔を見つめた。

 それからというもの恵美子は毎週、寺に座禅に通うようになっていた。

 寺だけでなく家でも暇を見つけては座禅を組んだ。

 そんな恵美子の様子を見て娘の未知は半ば呆れたように見ていた。

「お母さんも、好きね! いつまで続くかしら」

 未知は邪な笑みを浮かべて言っていたのだが、恵美子の座禅生活は三年も続いた。

 もちろん、未知は夫婦仲の険悪な状況も知っていたので、できれば恵美子には新しい生き甲斐を見つけて欲しいと願っていたのだった。

 未知は二十六歳。

 大学の同窓生と結婚して一児の母になって、専業主婦として夫を支える生活をしていた。

 子育てで困ったことがあれば恵美子に助けを求める事もあった。

 


  得度を決心していると未知に告げたのは二か月前だった。

「私ね、尼さんになろうと思うの」

 それを聞いた未知は驚いた表情を見せたが、

「そうかあ、でも、それはお母さんの意思だから、わたしは尊重したいな」

 心に動揺はあるのだろうが、言ったところで恵美子の決心は変わらないだろうと思っていたのだろう。

「ありがとね。未知だったら、私の気持ちは分かってくれるだろうと思った」

 微かに恵美子の顔に笑みが零れた。

「出家?と言うんだっけ、いつするの?」

「なるべく早くかな。でも個人的に色々と整理することもあるしね」

「お父さんとのこと?」

「そうだね。」

「別れるのかな?」

「仏門に入る以上はケジメはつけないとね」

「ケジメか、お母さんらしいね、何事も筋を通そうとすることろ、そういう点は尊敬しちゃうな」

「尊敬って、ただ私はキチンとしたい性格だから」

  それから数か月後に初めて夫の達夫に得度する意思があることを伝えた。
 
 達夫は食事を終えてリビングのソファーでビールを片手にテレビの野球中継を見ていた。

「あなた、ちょっといいかな」

「どうしたんだい?」

 達夫はビールを片手に微かに朱を帯びた顔を恵美子に向けた。

 恵美子は向かいのソファーに座って目を伏せながら

「実は尼さんになろうと思ってるの」

「尼さんに? 座禅に夢中になっているのは知っているけど、本当に?」

「ええ」

「大事な話だけど、これからどうするつもりなんだ?」

「離婚してほしいのです」

「え?」

 唐突の申し出に達夫は目を丸くしてキョトンとした。

「今まで、あなたには感謝しています。娘を授かり、不自由のない生活を送らせてもらったのですから」

「何か不満でもあるのか?」

 達夫はビールをソファーのテーブルに置いて、怒気を帯びた目で恵美子を見ている。

「いえ。ただ、私は自分の生きるべき目標を見つけたのです」

「生きる目標か」

「あなたにはあなたの理想とする人生を送って欲しいんです」

 達夫の浮気相手と暮らしてほしいということを遠回しに表現して言った。

 それを感じ取った達夫はふと我に返った。

「そういう事か」
 
 怒気を帯びた顔から、穏やかになった。



 「はい」

 恵美子は言葉短く答えた。

「分かった、好きにするがいいさ、未知はその事をしっているのか?」

  恵美子は達夫とは目を合わせようとせず、目を下に伏せながら

「ええ、数か月前に話をして、お母さんのしたいようにって言ってくれました」

「そうか、未知も納得したんだな」

 溜息をついて独り言を言うように達夫は呟いた。

「勝手なことを申し訳ありません」

「いいさ、お前だって苦労して家や未知の事をやってきたんだから、俺がとやかく言う事じゃない」

「分かってもらって、感謝しています」

 恵美子は頭を深々と下げて他人行儀に礼を述べた。

 恐らく離婚したら、今まで付き合ってきた愛人と再婚するだろう、しかし恵美子には嫉妬する気持ちが微塵も起こらなかった。

 むしろ、立つ鳥跡を濁さずといった気持ちであった。

 すべてを無にして、新しい仏道人生を送れると思うだけで恵美子は嬉しかった。

「細かい事はまた、話をしよう」

「そうですね、お願いします」

 この遣り取りは半年前の出来事だった。

 恵美子は座禅会に参加した頃から、今までの日々を映画のコマ送りを、早送りで見ている様に思い出していた。

「恵美子さん?」

 慈光が話し掛けた。

 はっと恵美子は慈光の問いかけに気づいた。

「申し訳ありません、ボーとしてしまって」

 慌てて恵美子は言った。

 慈光は恵美子の心の奥底を見透かすように

「いいんだよ、今までの事を思い出しておったんだろう」

「住職様にはすべて、心の奥底まで見られているようで恥ずかしいですね」

 恵美子の目尻と頬が緩んだ。

「いや、ところで得度は在家得度で?」

 慈光は恵美子が既婚であること、女性であるのを深慮してそう聞いた。

「いえ、本格的に修行したく思っております」

 恵美子の表情が急に締まった。

「本気かい?」

「はい」

 力強く答える。

「分かった、その表情から察したよ」

 慈光は恵美子の固い決意を感じた。

「お願いします」

「得度となると剃髪は大丈夫なのか?」

「もちろん、髪は剃る積りです」

「急がなくてもいいんだよ」

 恵美子は懇願するように

「決心した以上は一日でも早い方がいいと思います」

「そうか、色々と準備もあるから半年後あたりを目途にしよう」

「有難うございます、宜しくお願いします」

 恵美子は畳に両手と額をつけて、頭を下げた。

 長い黒髪が畳に降り注ぎ、心地の良い香りが部屋に香った。
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