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第一章:歪な天辺
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木島悟は今日も、新築超高層ビル「蒼天タワー」を見上げる。元ゼネコンの現場監督だった彼は、今はこの蒼天タワーの設備管理主任として働いていた。
日に一度、蒼天タワーの麓から天辺まで視線を走らせるのが半ば癖になっていた。陽光を無遠慮に照り返すハーフミラーのガラス壁は、彼がかつて泥と汗にまみれて建ててきた無骨な建築物とは違う、一種の冷たい知性を感じさせた。現場監督として怒号と粉塵の中で過ごした二十年。心身をすり減らした末に逃げ込むようにして手に入れた設備管理主任という職は、このビルの最新鋭のシステムに守られ、退屈なほどに平穏である。
木島は、その平穏を何よりも愛していた。
「木島さん、三十四階の西側通路、またセンサーが反応してます」
ビル内の防災センターで事務仕事を進める木島に、部下の若い警備員が気怠げに声を掛けてきた。木島は手元の書類から顔を上げ、壁一面に並んだ監視モニターのひとつに目をやる。確かに、テナントがすべて退去した深夜のフロアを示す見取り図ランプが、ちかちかと赤く点滅している。
「ああ、またか。空調の吹き出し口の向きを変えてもらったんだがな」
カメラの映像を拡大すると、そこには静まり返った廊下が映っているだけだ。人影も、動くものもない。この三週間で五度目になる誤作動だった。木島は手元のバインダーに挟んだ「初期不具合リスト」に、「34F西側通路・人感センサー異常(要再点検)」と走り書きする。
新築の巨大建築物というのは、人間でいえば生まれたての赤ん坊のようなものだ。身体のあちこちで、予測不能なしゃっくりや痙攣が起きる。それを一つひとつ宥め、調整していくのが木島の仕事だった。
「エレベーターのほうも、昨晩またやったみたいですよ。深夜三時に、地下四階と最上階を三往復。誰も乗ってないのに」
「……記録は取ってあるな?」
「はい。メーカーには連絡済みです。制御プログラムのバグだろうって話ですけど」
部下は欠伸を噛み殺しながら報告を終えた。木島は頷きながら、内心で舌打ちする。
地下四階の駐車場と、屋上への出口がある最上階。最低地点と最高地点を往復する空っぽの箱。気味の悪い話だが、これもまたプログラムの異常で説明がつく。すべては合理的に解釈できる範囲内の、些細なトラブルのはずだった。
「ん?」
木島の思考を遮るように、監視モニターの一枚が、一瞬、砂嵐のようなノイズに覆われて真っ黒になった。それは、ほんの一瞬のこと。すぐに映像は復旧し、何事もなかったかのように静止したオフィスを映し出している。
「今の、見ました?」
「ああ。接触不良か、静電気だろう。それもリストに追加しておけ」
木島はこともなげに言ったが、彼の視線はノイズの走ったモニターに固定されていた。カメラ番号は「R-01」。屋上を監視するカメラだ。映像の中央には、あの古びた社が黒々と鎮座している。
あの社は、木島にとってこのビル唯一の不純物だった。
開発業者が「地域の歴史への配慮」という美名のもとに屋上へ移築した、厄介な置物。かつてこの土地に古くからあったものだというが、彼に言わせれば、それは単なる感傷と自己満足の産物でしかなかった。地上百五十メートルの天辺に追いやられ、風雨に晒される木造の社。それは信仰の対象というより、むしろ見世物にされているように見えて、不快ですらあった。
木島は、あの社が視界に入るたびに感じる小さな苛立ちを、意識の底に押し込めた。面倒はごめんだ。平穏が一番いい。
―・―・―・―・―・―・―・―
その平穏が、明確な輪郭を持った「人間の恐怖」という形で目の前に突きつけられたのは、それから数日後の昼下がりのことだった。
「お願いします! 誰か、話を聞いてください!」
防災センターの内線が鳴るより早く、一人の若い女性が半ば転がり込むように入ってきた。肩で息をし、顔は青ざめ、涙で化粧が崩れている。
彼女の顔に、木島は見覚えがあった。二十七階に入居しているデザイン事務所の、新人社員だったはずだ。名前は、確か水野詩織といったか。
「どうされました。落ち着いてください」
木島は努めて事務的な声で応じた。彼女の尋常ではない様子に、他の警備員たちが訝しげな視線を向けている。
「給湯室で……鏡に、映ったんです」
警備員たちにどう見られているかも気にせず、水野は震える声で訴えた。
「私がお茶を淹れている後ろに、誰か立っていて……」
「誰か、ですか。社員の方では?」
「違います! だって、びしょ濡れなんです。黒いレインコートを着ているみたいに、頭から足元まで、水が滴るくらいに濡れてて……」
木島は眉をひそめた。今日は雲ひとつない快晴だ。ビルの中でそんな人間がいるはずもない。
「それで、振り返ったら誰もいなくて。でも、床に水たまりが……黒くて、泥水みたいな染みができてて、それが……それが、じわっと広がって、消えちゃったんです!」
早口にまくし立て、彼女は、わっと泣き出した。
「気のせいじゃないんです。最近、ずっとおかしいんです。誰もいないオフィスで、床を水がすーっと流れていくような音が聞こえたり、誰も触っていないのに、水道の蛇口からぽた、ぽたって……」
それは、疲れている人間の見る幻覚や幻聴の典型だ。木島は内心でそう結論づけた。この手の新興企業は、若手に無理な働き方をさせることが多い。
「水野さん、少しお疲れなんじゃないですか。最近、残業が続いていたとか」
木島はできるだけ穏やかな声色を選んで言った。それは彼女を気遣う言葉のようでいて、その実、「あなたの個人的な問題だ」と突き放すための、彼が社会で身につけた処世術だった。
「疲れてなんかいません!」
彼の保身を一蹴するかのように、水野は叫んだ。
「本当なんです! このビル、何かがおかしいんです!」
その必死の形相に、木島の胸がわずかに痛む。だが、ここで同情すれば面倒に巻き込まれるだろう。
彼は上司である高村支店長の、事なかれ主義の顔を思い浮かべた。「ビルの価値を損なうような噂は、断固として認めない」と、常に釘を刺されている。
「分かりました。念のため、二十七階の給湯室は巡回の際に重点的に確認しておきます。ですが、あまり根拠のないことを口外するのは、あなたの会社の評判にも関わりますから」
それは、冷たい最後通牒だった。
水野は裏切られたような顔で木島を睨みつけ、唇を噛み締めると、何も言わずに防災センターを飛び出していった。
残された空気は重く、気まずい。部下の一人がぽつりと呟いた。
「……また、あの手の話っすか。清掃のパートさんたちも、似たようなこと言ってますよ。誰もいないトイレの個室から水音がするって」
「設備の不具合だと言っておけ。それで終わりだ」
木島は吐き捨てるように言い、デスクに戻った。だが、彼の脳裏には、水野の訴えた「びしょ濡れの人影」と「黒い水の染み」という言葉が、不快な棘のように引っかかっていた。
―・―・―・―・―・―・―・―
その夜、木島は報告書の作成のために一人、防災センターに残っていた。時計の針はとうに午後十一時を回っている。ビルは完全な静寂に包まれ、聞こえるのは空調の低い唸りと、自分のキーボードを叩く音だけだ。
最後の書類をプリントアウトし、大きく伸びをする。あとはこれを高村のデスクに置いて帰るだけだ。彼はコーヒーを飲み干すと、防災センターに鍵をかけ、非常灯だけが点る薄暗い廊下を歩き始めた。
目的地は地下駐車場だ。自分の車が置いてある。エレベーターに乗り込み、地下四階のボタンを押した。
下降を始める金属の箱の中で、ふと、水野の怯えた顔が脳裏をよぎる。この閉鎖された空間で、彼女はひとりで恐怖に耐えたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。感傷に浸っている場合ではない。
地下四階に到着し、扉が開く。ひやりとした空気が肌を撫でた。
駐車場の空気は、地上とは違う独特の重さと匂いを持っている。コンクリートと排気ガス、そして、わずかな湿気が混じり合った匂い。
だが、今夜はいつもと何かが違った。
ツン、と鼻をつく異臭。それは単なる湿気ではなかった。もっと生々しい、腐敗に近い匂い。建築現場でよく嗅いだ、まるで長いこと日の当たらない場所で濡れた土を放置したような、濃密なカビの臭気だった。
木島は眉を寄せ、自分の駐車スペースへと歩き出す。
その時だった。
ぱ、ぱ、ぱ、と一定のリズムで、頭上の蛍光灯が明滅を始めた。まるで接触の悪い豆電球のように、頼りなく光が揺れる。
「……またか」
木島は悪態をついた。これも初期不良リスト行きだ、と気持ちをげんなりさせる。
しかし、明滅は収まらない。それどころか、彼の歩みに合わせるように、前方の蛍光灯が次々と不安定な光を放ち始める。まるで、見えない何かが彼の先を歩き、照明に干渉しているかのようだ。
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
生乾きの土とカビの臭いが、いっそう強くなっている。
足を止めた。すると、照明の明滅もぴたりと止んだ。
駐車場に、不自然な静寂が戻る。自分の心臓の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
気のせいだ。
疲れている。
水野の話に影響されただけだ。
木島は自分にそう言い聞かせ、再び歩き出そうとした。
だがその視線の先、十メートルほど離れたコンクリートの壁に、信じられないものが映っていた。
シミ、だった。
黒く、濡れたシミ。まるで壁そのものが内側から水分を滲ませているかのような、不自然な湿りの跡。そして、その形は――紛れもなく、人の形をしていた。
頭部、胴体、手足。細長く歪ではあるが、それは間違いなく人型だった。水野が言っていた「びしょ濡れの人影」。それが今、壁にシミとなって、そこに「在る」。
木島は息を呑み、その場に立ち尽くした。人型のシミから目が離せなくなり、瞬きさえできない。
時間が停止したかのような感覚の中、そのシミが、ゆっくりと動いた気がした。
いや、動いたのではない。じわり、と滲むように、その輪郭が壁の表面を滑り、わずかに形を変えたのだ。
恐怖が、彼の喉を締め上げた。
声が出ない。足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。
――逃げろ。
脳が警鐘を乱れ打ちしてくる。彼は金縛りが解けたように全身を強張らせ、踵を返して走り出した。自分の車のことなど、もう頭にはなかった。来た道を、エレベーターホールへと無我夢中で駆ける。背後で、ぱちん、と蛍光灯がひとつ、完全に消える音がした。
―・―・―・―・―・―・―・―
防災センターに転がり込み、内側から荒々しく鍵をかける。ぜえぜえと肩で息をしながら、木島は壁のモニターに目をやった。地下駐車場のカメラを呼び出す。
そこに映っていたのは、いつもと変わらない、静まり返った無人の駐車場だった。照明の明滅はなく、壁にもシミひとつない。
幻覚だったのか? あまりに鮮明な、悪夢のような――。
いや、違う。鼻腔の奥に、まだあの土とカビの臭いがこびりついている。全身が粟立つような、生命的な恐怖の感触が、まだ肌に残っている。
木島の視線が、モニター群の中を彷徨い、やがてひとつの映像に吸い寄せられた。
屋上を映す、カメラ「R-01」。
夜の闇に沈むコンクリートの広場。その中央に、古びた社が黒々と口を開けたように佇んでいる。それはもう、彼が今まで見ていたような、ただの木工細工ではなかった。
地上から無理やり引き剥がされ、空の天辺に追いやられた、歪なモノ。
今、あの社の真下、このビルの奥深くで、何かが蠢いている。そして、その「何か」は、少しずつ、少しずつ、外へと漏れ出そうとしているのではないか。
木島はモニターの中の社を、憎悪と恐怖の入り混じった目で見つめる。
平穏は、終わった。このビルは、正常ではない。自分が愛したはずの静かで合理的な世界は、すでに得体のしれないものに侵食され始めていた。彼は、そのどうしようもない事実を、本能で理解してしまった。
空に浮かぶ社のシルエットが、まるでこちらを嘲笑っているかのように、不気味に揺らめいて見えた。
日に一度、蒼天タワーの麓から天辺まで視線を走らせるのが半ば癖になっていた。陽光を無遠慮に照り返すハーフミラーのガラス壁は、彼がかつて泥と汗にまみれて建ててきた無骨な建築物とは違う、一種の冷たい知性を感じさせた。現場監督として怒号と粉塵の中で過ごした二十年。心身をすり減らした末に逃げ込むようにして手に入れた設備管理主任という職は、このビルの最新鋭のシステムに守られ、退屈なほどに平穏である。
木島は、その平穏を何よりも愛していた。
「木島さん、三十四階の西側通路、またセンサーが反応してます」
ビル内の防災センターで事務仕事を進める木島に、部下の若い警備員が気怠げに声を掛けてきた。木島は手元の書類から顔を上げ、壁一面に並んだ監視モニターのひとつに目をやる。確かに、テナントがすべて退去した深夜のフロアを示す見取り図ランプが、ちかちかと赤く点滅している。
「ああ、またか。空調の吹き出し口の向きを変えてもらったんだがな」
カメラの映像を拡大すると、そこには静まり返った廊下が映っているだけだ。人影も、動くものもない。この三週間で五度目になる誤作動だった。木島は手元のバインダーに挟んだ「初期不具合リスト」に、「34F西側通路・人感センサー異常(要再点検)」と走り書きする。
新築の巨大建築物というのは、人間でいえば生まれたての赤ん坊のようなものだ。身体のあちこちで、予測不能なしゃっくりや痙攣が起きる。それを一つひとつ宥め、調整していくのが木島の仕事だった。
「エレベーターのほうも、昨晩またやったみたいですよ。深夜三時に、地下四階と最上階を三往復。誰も乗ってないのに」
「……記録は取ってあるな?」
「はい。メーカーには連絡済みです。制御プログラムのバグだろうって話ですけど」
部下は欠伸を噛み殺しながら報告を終えた。木島は頷きながら、内心で舌打ちする。
地下四階の駐車場と、屋上への出口がある最上階。最低地点と最高地点を往復する空っぽの箱。気味の悪い話だが、これもまたプログラムの異常で説明がつく。すべては合理的に解釈できる範囲内の、些細なトラブルのはずだった。
「ん?」
木島の思考を遮るように、監視モニターの一枚が、一瞬、砂嵐のようなノイズに覆われて真っ黒になった。それは、ほんの一瞬のこと。すぐに映像は復旧し、何事もなかったかのように静止したオフィスを映し出している。
「今の、見ました?」
「ああ。接触不良か、静電気だろう。それもリストに追加しておけ」
木島はこともなげに言ったが、彼の視線はノイズの走ったモニターに固定されていた。カメラ番号は「R-01」。屋上を監視するカメラだ。映像の中央には、あの古びた社が黒々と鎮座している。
あの社は、木島にとってこのビル唯一の不純物だった。
開発業者が「地域の歴史への配慮」という美名のもとに屋上へ移築した、厄介な置物。かつてこの土地に古くからあったものだというが、彼に言わせれば、それは単なる感傷と自己満足の産物でしかなかった。地上百五十メートルの天辺に追いやられ、風雨に晒される木造の社。それは信仰の対象というより、むしろ見世物にされているように見えて、不快ですらあった。
木島は、あの社が視界に入るたびに感じる小さな苛立ちを、意識の底に押し込めた。面倒はごめんだ。平穏が一番いい。
―・―・―・―・―・―・―・―
その平穏が、明確な輪郭を持った「人間の恐怖」という形で目の前に突きつけられたのは、それから数日後の昼下がりのことだった。
「お願いします! 誰か、話を聞いてください!」
防災センターの内線が鳴るより早く、一人の若い女性が半ば転がり込むように入ってきた。肩で息をし、顔は青ざめ、涙で化粧が崩れている。
彼女の顔に、木島は見覚えがあった。二十七階に入居しているデザイン事務所の、新人社員だったはずだ。名前は、確か水野詩織といったか。
「どうされました。落ち着いてください」
木島は努めて事務的な声で応じた。彼女の尋常ではない様子に、他の警備員たちが訝しげな視線を向けている。
「給湯室で……鏡に、映ったんです」
警備員たちにどう見られているかも気にせず、水野は震える声で訴えた。
「私がお茶を淹れている後ろに、誰か立っていて……」
「誰か、ですか。社員の方では?」
「違います! だって、びしょ濡れなんです。黒いレインコートを着ているみたいに、頭から足元まで、水が滴るくらいに濡れてて……」
木島は眉をひそめた。今日は雲ひとつない快晴だ。ビルの中でそんな人間がいるはずもない。
「それで、振り返ったら誰もいなくて。でも、床に水たまりが……黒くて、泥水みたいな染みができてて、それが……それが、じわっと広がって、消えちゃったんです!」
早口にまくし立て、彼女は、わっと泣き出した。
「気のせいじゃないんです。最近、ずっとおかしいんです。誰もいないオフィスで、床を水がすーっと流れていくような音が聞こえたり、誰も触っていないのに、水道の蛇口からぽた、ぽたって……」
それは、疲れている人間の見る幻覚や幻聴の典型だ。木島は内心でそう結論づけた。この手の新興企業は、若手に無理な働き方をさせることが多い。
「水野さん、少しお疲れなんじゃないですか。最近、残業が続いていたとか」
木島はできるだけ穏やかな声色を選んで言った。それは彼女を気遣う言葉のようでいて、その実、「あなたの個人的な問題だ」と突き放すための、彼が社会で身につけた処世術だった。
「疲れてなんかいません!」
彼の保身を一蹴するかのように、水野は叫んだ。
「本当なんです! このビル、何かがおかしいんです!」
その必死の形相に、木島の胸がわずかに痛む。だが、ここで同情すれば面倒に巻き込まれるだろう。
彼は上司である高村支店長の、事なかれ主義の顔を思い浮かべた。「ビルの価値を損なうような噂は、断固として認めない」と、常に釘を刺されている。
「分かりました。念のため、二十七階の給湯室は巡回の際に重点的に確認しておきます。ですが、あまり根拠のないことを口外するのは、あなたの会社の評判にも関わりますから」
それは、冷たい最後通牒だった。
水野は裏切られたような顔で木島を睨みつけ、唇を噛み締めると、何も言わずに防災センターを飛び出していった。
残された空気は重く、気まずい。部下の一人がぽつりと呟いた。
「……また、あの手の話っすか。清掃のパートさんたちも、似たようなこと言ってますよ。誰もいないトイレの個室から水音がするって」
「設備の不具合だと言っておけ。それで終わりだ」
木島は吐き捨てるように言い、デスクに戻った。だが、彼の脳裏には、水野の訴えた「びしょ濡れの人影」と「黒い水の染み」という言葉が、不快な棘のように引っかかっていた。
―・―・―・―・―・―・―・―
その夜、木島は報告書の作成のために一人、防災センターに残っていた。時計の針はとうに午後十一時を回っている。ビルは完全な静寂に包まれ、聞こえるのは空調の低い唸りと、自分のキーボードを叩く音だけだ。
最後の書類をプリントアウトし、大きく伸びをする。あとはこれを高村のデスクに置いて帰るだけだ。彼はコーヒーを飲み干すと、防災センターに鍵をかけ、非常灯だけが点る薄暗い廊下を歩き始めた。
目的地は地下駐車場だ。自分の車が置いてある。エレベーターに乗り込み、地下四階のボタンを押した。
下降を始める金属の箱の中で、ふと、水野の怯えた顔が脳裏をよぎる。この閉鎖された空間で、彼女はひとりで恐怖に耐えたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。感傷に浸っている場合ではない。
地下四階に到着し、扉が開く。ひやりとした空気が肌を撫でた。
駐車場の空気は、地上とは違う独特の重さと匂いを持っている。コンクリートと排気ガス、そして、わずかな湿気が混じり合った匂い。
だが、今夜はいつもと何かが違った。
ツン、と鼻をつく異臭。それは単なる湿気ではなかった。もっと生々しい、腐敗に近い匂い。建築現場でよく嗅いだ、まるで長いこと日の当たらない場所で濡れた土を放置したような、濃密なカビの臭気だった。
木島は眉を寄せ、自分の駐車スペースへと歩き出す。
その時だった。
ぱ、ぱ、ぱ、と一定のリズムで、頭上の蛍光灯が明滅を始めた。まるで接触の悪い豆電球のように、頼りなく光が揺れる。
「……またか」
木島は悪態をついた。これも初期不良リスト行きだ、と気持ちをげんなりさせる。
しかし、明滅は収まらない。それどころか、彼の歩みに合わせるように、前方の蛍光灯が次々と不安定な光を放ち始める。まるで、見えない何かが彼の先を歩き、照明に干渉しているかのようだ。
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
生乾きの土とカビの臭いが、いっそう強くなっている。
足を止めた。すると、照明の明滅もぴたりと止んだ。
駐車場に、不自然な静寂が戻る。自分の心臓の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
気のせいだ。
疲れている。
水野の話に影響されただけだ。
木島は自分にそう言い聞かせ、再び歩き出そうとした。
だがその視線の先、十メートルほど離れたコンクリートの壁に、信じられないものが映っていた。
シミ、だった。
黒く、濡れたシミ。まるで壁そのものが内側から水分を滲ませているかのような、不自然な湿りの跡。そして、その形は――紛れもなく、人の形をしていた。
頭部、胴体、手足。細長く歪ではあるが、それは間違いなく人型だった。水野が言っていた「びしょ濡れの人影」。それが今、壁にシミとなって、そこに「在る」。
木島は息を呑み、その場に立ち尽くした。人型のシミから目が離せなくなり、瞬きさえできない。
時間が停止したかのような感覚の中、そのシミが、ゆっくりと動いた気がした。
いや、動いたのではない。じわり、と滲むように、その輪郭が壁の表面を滑り、わずかに形を変えたのだ。
恐怖が、彼の喉を締め上げた。
声が出ない。足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。
――逃げろ。
脳が警鐘を乱れ打ちしてくる。彼は金縛りが解けたように全身を強張らせ、踵を返して走り出した。自分の車のことなど、もう頭にはなかった。来た道を、エレベーターホールへと無我夢中で駆ける。背後で、ぱちん、と蛍光灯がひとつ、完全に消える音がした。
―・―・―・―・―・―・―・―
防災センターに転がり込み、内側から荒々しく鍵をかける。ぜえぜえと肩で息をしながら、木島は壁のモニターに目をやった。地下駐車場のカメラを呼び出す。
そこに映っていたのは、いつもと変わらない、静まり返った無人の駐車場だった。照明の明滅はなく、壁にもシミひとつない。
幻覚だったのか? あまりに鮮明な、悪夢のような――。
いや、違う。鼻腔の奥に、まだあの土とカビの臭いがこびりついている。全身が粟立つような、生命的な恐怖の感触が、まだ肌に残っている。
木島の視線が、モニター群の中を彷徨い、やがてひとつの映像に吸い寄せられた。
屋上を映す、カメラ「R-01」。
夜の闇に沈むコンクリートの広場。その中央に、古びた社が黒々と口を開けたように佇んでいる。それはもう、彼が今まで見ていたような、ただの木工細工ではなかった。
地上から無理やり引き剥がされ、空の天辺に追いやられた、歪なモノ。
今、あの社の真下、このビルの奥深くで、何かが蠢いている。そして、その「何か」は、少しずつ、少しずつ、外へと漏れ出そうとしているのではないか。
木島はモニターの中の社を、憎悪と恐怖の入り混じった目で見つめる。
平穏は、終わった。このビルは、正常ではない。自分が愛したはずの静かで合理的な世界は、すでに得体のしれないものに侵食され始めていた。彼は、そのどうしようもない事実を、本能で理解してしまった。
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