【完結】サイレント・ダイアローグ ~君の声だけが、僕の世界だった~

ゆきむらちひろ

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05:色が減っていく未来

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 その日の莉子は、いつもより少しだけ早く病室にやってきた。
 ドアを開ける音も。
 椅子に腰かける仕草も。
 どこか張り詰めたような、緊張感を帯びているように感じられた。

「あきと、こんにちは。今日はちょっと早めに来ちゃった。外、すごくいい天気だよ。雲ひとつない青空で、洗濯物もよく乾きそう」

 おそらく窓の外を見ながら、彼女は当たり障りのない天気の話から切り出した。
 その声は平静を装っているように聞こえる。
 でも、言葉と言葉の間に、わずかな逡巡が感じられた。
 何か、話すべきか話すまいか迷っていることがある。
 そんな気配がした。

「あのね、あきと。実家のお母さんから電話があってね。『彰人くん、どう?』って心配してくれてた。うちの両親、あきとのこと、すごく気に入ってるんだよ。初めて家に挨拶に来てくれた時のこと、今でもふたりともよく話してるんだから」

 莉子の声が、少しだけ和らぐ。
 俺も、彼女の両親に挨拶に行った日のことを思い出した。
 ガチガチに緊張していた俺に、お父さんは「娘をよろしく」と深々と頭を下げ、お母さんは「莉子のどこが良かったの?」なんて冗談を言いながらも、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
 温かい家庭だった。

「お父さんなんて、『高槻くんは、今の若い者には珍しいくらい、筋の通った男だ。誠実さが目に表れている』なんて言って、ベタ褒めなんだよ。私が『お父さん、見る目あるじゃん』って言ったら、『当たり前だ』って威張ってた。だからね、心配しないで。みんな、みんな、あきとの味方だから。あきとが目を覚ますのを、待ってるからね」

 彼女はそう言って、俺の左手にそっと自分の手を重ねた。
 温もりは感じない。
 でも、彼女の指の形、重ねられた手の重みを、確かに感じ取った。
 その重みが、「ひとりじゃない」と語りかけてくるようだった。

「会社の皆もね、すごく心配してくれてる。五十嵐部長も、田中さんも、『高槻はいつ戻ってくるんだ』って、毎日気にかけてくれてるよ。あきとが担当してたプロジェクト、今は後輩の山崎くんが引き継いで頑張ってるんだけど、この前、行き詰まっちゃったみたいで。『これ、高槻さんならどうしますかね……』って、真剣な顔で私に相談してくるんだよ。私に聞かれても困っちゃうよね。でも、それだけ皆、あきとのこと頼りにしてるんだなって、なんだか私まで嬉しくなっちゃった」

 彼女は、俺がいない場所での俺の存在を、丁寧に拾い集めて、ここに持ってきてくれる。俺が築いてきた人間関係が、今もちゃんと息づいていることを教えてくれる。それは、この肉体だけの存在になってしまった俺にとって、自分が何者であるかを再確認させてくれる、重要な儀式のようなものだった。

「……だからね」

 莉子は一度、言葉を切った。
 重ねた手に、きゅっと力が入る。

「だから、あきとは安心して、ゆっくり休んでていいんだよ。周りのことは、心配しなくていい。みんなで、ちゃんと守ってるから。あきとが帰ってくる場所は、私たちがちゃんと温めておくからね」

 その言葉は、優しさに満ちていた。
 だが、その優しさの裏側にあるものを、察した。
 ほんの少しだけ、諦めにも似た響きが混じっていることに、気づいてしまった。

 それはまるで、「もう頑張らなくていいよ」と、戦い続ける兵士を労わるような、そんな響きだった。
 違う。
 莉子、俺はまだ戦える。
 戦いたいんだ。君のために。

 しばらくの沈黙の後、莉子は何かを決心したように、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ、あきと。……退院したらさ、やりたいこと、いっぱいあるんだ」

 彼女の声は、震えていた。
 未来の話。
 それは、俺たちにとって希望である。
 それと同時に、あまりにも不確かな、残酷な言葉でもあった。

「まず、一緒に映画が見たいな。最近、面白そうなのたくさんやってるんだよ。あきとが好きそうなアクション映画も、私が好きな恋愛映画も。ポップコーン、半分こして食べたい。あきと、いっつもキャラメル味と塩味で揉めるけど、結局、私が好きなキャラメル味にしてくれるんだよね。そういうところ、好きだよ」

「それから、買い物にも行きたい。あきとの服、選んであげたいな。あきと、いっつも黒とか紺とか、暗い色の服ばっかりだから。私が、もっと明るい色の、似合う服、見つけてあげる。水色のシャツとか、絶対似合うと思うんだけどな。私が選んだ服、文句言わずに着てくれるかな?」

「あきとの手料理も、また食べたい。あの、しょっぱかったカルボナーラじゃなくて、今度はちゃんとしたやつね。あと、生姜焼きも食べたいな。あきとが作る生姜焼き、世界一美味しいんだよ。タレのレシピ、今度こっそり教えてほしいな。……なんてね」

 彼女は一つひとつ、宝物を数えるように、ささやかな未来の夢を語っていく。
 その一つひとつが、当たり前に享受していた、幸せな日常の欠片だった。
 その当たり前が、今、どれほど遠く、輝いて見えることか。

 そして、彼女の声が、ひときわ小さくなる。
 息をのむような、か細い声だった。

「それから……あのね。記念日に……くれるはずだったもの、あったでしょ?」

 心臓が、どくんと大きく跳ねた。
 意識だけの身体なのに、確かに鼓動を感じた。
 指輪だ。
 俺が事故に遭った時、ポケットに忍ばせていた、プロポーズのための指輪。
 警察から遺留品として、彼女に渡されているはずだ。

「あれ……まだ、待ってても、いいかな……?」

 その声は、懇願だった。
 祈りだった。
 返事のない俺に向けられた、あまりにも痛切な問いかけだった。

 いいに決まってる。
 待っていてくれ。
 俺がこの手で、君の指にはめてやるまで。

 手の甲に、なにか水気のあるものが触れた。
 ……たぶん、莉子の涙。
 ぽろり、と涙が一粒、俺の手の甲に落ちた。
 温かいはずの涙。でも俺には、その温度は分からない。
 ただ、彼女が泣いているという事実が、焼きごてのように俺の意識を灼いた。

「ううん、違う。いいかな、じゃない。待ってる。私、ずっと、待ってるから」

 彼女は、自分に言い聞かせるように、強く言った。

「あきとが、約束、守ってくれるの、知ってるから。あきとは、嘘つきじゃないもん。だから、私、信じて待ってる。何年でも、待ってるから」

 震える声で、彼女は必死に言葉を紡ぐ。

 「だから……だから、お願い……。早く、帰ってきてよ……。あきとのいない毎日は……もう、色が、ないんだよ……」

 彼女はそう言うと、ついに堪えきれなくなったように、俺の胸に顔を伏せた。
 嗚咽が、俺の動かない身体に微かな振動として伝わってくる。

 返事のない相手に、未来を語り続けることが、どれほど心をすり減らすことか。
 見えないゴールに向かって、ひとりで希望を叫び続けることが、どれほど孤独なことか。

 ごめん。
 莉子、ごめん。

 俺は、君にそんな顔をさせるために、生きているんじゃない。
 君の涙を、俺は止めてやれない。
 君の身体を、抱きしめてやることもできない。
 ただ、君の悲しみを、こうして受け止めることしか、できない。


 -つづく-
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