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23:信じるモノの在りよう次第で
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筆者:石臼翁
人間という生き物は、どうにも手に負えぬほど愚かでありながら、時として神々さえも驚かすほどの気高さを見せる。実に厄介で、そして面白い生き物だ。
近頃、南方の隊商から一つの土産話を強いれた。それはまさしく、そんな人間の愚かさと気高さの両極をこれ以上ないほど鮮やかに描き出しているように思えた。
その話の舞台は、王都からはるか遠い地のこと。灼熱の砂漠の向こうにそびえる休火山「灰かぶり山」の麓にある、小さな集落だという。
その集落の人々は代々、その火山を神として崇拝してきた。彼らにとって山は恵みそのものであった。山の斜面を流れる温泉は、彼らの病を癒し。火山性の肥沃な土壌は、痩せた土地でも豊かな実りをもたらす。噴火口から時折噴き出すという魔力を帯びた黒曜石は、彼らの唯一の交易品であり、生活の糧であった。彼らは山の恵みに感謝し、山の怒りを畏れ、決してその神聖な頂に足を踏み入れることなく、ただ麓で静かに祈りを捧げる。そんな素朴で信心深い民であったという。
だが、その長きにわたる平穏は唐突に破られることになる。ある日、山の頂から一頭の巨大な獣が姿を現したのだ。
その獣は、古の竜の生き残りとも、あるいは火山の怒りそのものが具現化した存在とも言われた。その巨体は灼熱の溶岩を思わせる鱗に覆われ、その咆哮は大地を揺るがし、その口から吐き出される炎は瞬にして岩をも溶かしたという。
人々はそれを「イグニス」と呼び、山の神が遣わした恐るべき神の使いだと信じた。イグニスは山の頂に巣くい、時折麓に降りてきては家畜を喰らい、畑を荒らした。人々はその圧倒的な力の前に、ただひれ伏し、祈ることしかできなかった。
この話が、ただの「恐ろしい魔獣が現れて、村が困りました」というだけのありふれた物語であれば、私がわざわざ筆を執ることもなかっただろう。この話が面白くなってくるのは、ここからだ。
集落の長老たちは、この災厄を鎮めるためにひとつの結論に達した。それは「イグニスを新たな神として崇拝する」という、実に奇妙な決断であった。
彼らはこれまでの山の神への祈りをやめ、今度はイグニスに向かって、ひれ伏し始めたのだ。そして山の神に捧げていた生贄の儀式を、今度はイグニスに対して行うようになった。毎月、村で最も美しい娘をひとり選び、着飾らせて、山の麓の祭壇へと捧げるのだという。
なんと愚かで、そしてなんと惨いことか。自らの手で、己の娘を、恐ろしい獣の餌食にする。私には、到底理解のできぬ狂気の沙汰だ。だが彼らにとっては、それこそが唯一の生き残るための道であったのだろう。恐怖は、時に人の理性を麻痺させ、最も原始的で最も残酷な信仰へと回帰させる。彼らはイグニスを崇拝し、生贄を捧げることで、その怒りを少しでも和らげ、村の完全な壊滅だけは免れようとしたのだ。恐怖に支配された時、人は自ら進んで奴隷の首輪をはめることがあるのだ。
この歪んだ崇拝の儀式は何年も続いたという。多くの娘たちが犠牲となり、村は絶望と諦念の重い沈黙に支配されていた。
だが、そんな淀んだ空気の中にたったひとり、その狂気に「否」を突きつけた若者がいた。彼の名は、カイ。恋人が次の生贄として選ばれてしまった、名もなき石工の若者だった。
彼は、長老たちの前に進み出て、こう言ったという。「神が本当に無辜の娘の血を求めるものか。俺たちの神はそんな非道な存在ではなかったはずだ。あれは神などではない。ただの飢えた獣だ」と。
当然、彼の言葉は長老たちや村人たちの怒りを買った。
「神を疑うとは何たる涜神の輩か」
「お前のその不遜な言葉がさらなる神の怒りを招くのだぞ」
彼は石を投げつけられ、村から追い出されそうになった。だが彼は屈しなかった。彼はたったひとりで、イグニスを討伐することを決意したのだ。
カイは石工であった。彼が扱えるのは、槌とノミだけ。剣を握ったことも、魔法を唱えたこともない。誰もが、彼の挑戦を、無謀な自殺行為だと嘲笑した。
だが彼には、誰にもない武器があった。それは、何年も火山の麓で石を切り出し、その性質を知り尽くしてきた、石工ならではの知識。そして何より、愛する者を守りたいという、揺るぎない意志だった。
彼はひとりで山に登った。しかし、彼が向かったのは、イグニスの巣がある山頂ではなかった。彼が目指したのは、中腹にある、古い温泉の源泉だった。彼は何日もかけて、その源泉からイグニスの巣の真下まで、岩盤を少しずつ掘り進めていった。彼は知っていたのだ。この山の岩盤は、熱水に非常に脆いということを。そして彼は、巨大な岩盤の数カ所に、絶妙な塩梅で、最後の楔を打ち込むための穴を開けた。
やがて、恋人が生贄に捧げられる運命の日がやってきた。祭壇に縛られた娘の悲鳴が山麓に響き渡る。その声を合図に、山の頂から、巨大なイグニスがその威容を現した。村人たちが恐怖に震えながら地面にひれ伏す中、カイはたったひとり、最後の仕事に取り掛かっていた。彼は渾身の力を込め、用意していた数本の巨大な鉄の楔を、岩盤に開けた穴へ打ち込んでいった。
その瞬間、周囲に地響きが起こる。イグニスが巣くっていた山頂の岩盤が、巨大な音を立てて崩落したのだ。イグニスの足元が崩れ去り、何が起きたのかも分からぬまま、灼熱のマグマが煮えたぎる火山の火口の奥深くへと飲み込まれていったのである。
カイは剣も魔法も使わなかった。使ったのは、ただの槌とノミ。そして長年の経験によって培われた、石の声を聞く力だけだ。彼は巨大な獣を殺したのではない。ただ、火山のほんの少しの気まぐれを後押ししてやったにだけなのだ。
この話を聞いて、私は深く、そして長い溜息をついた。何が神か。何が崇拝か。そして、何が本当の強さなのか。村人たちは、圧倒的な力の前にひれ伏し、それを神と呼び、思考を停止した。だがカイは、その力の正体を冷静に見極め、己の持つささやかだが確かな知恵で、見事に打ち克ってみせた。
恐怖に屈して、理不尽な存在を崇拝し、奴隷となる道を選ぶのか。それとも、絶望的な状況の中にあっても、己の理性を信じ、知恵と勇気で運命に抗う道を選ぶのか。その選択こそが人間を、ただの生き物から、真の意味での「人間」たらしめる分水嶺なのかもしれない。
その後、村がどうなったのか。残念ながら隊商の話はそこまでだった。
だが、おそらく彼らはもう二度と、目に見える圧倒的な力に盲目的な崇拝を捧げることはあるまい。彼らが本当に崇拝すべきは、遠い山の頂にいる得体の知れない神などではない。己の内に宿る、ささやかだが決して屈することのない、人間の知恵と勇気そのものであるはずだ。それはそびえ立つ山の頂であろうと、闇深い地の奥底のダンジョンであろうと変わりない。
さて。この名もなき石工の物語から、人は何を学ぶのか。可能であるならば、王都で高尚な神学論を戦わせている神官様方などに、是非とも御高説を賜ってみたいと思っている。「天は自ら助くる者を助く」と言うが、はてさて、この話で救いの手を伸ばされたのは誰なのだろうか。
-了-
読んでいただきありがとうございます。
次回の更新は、1月7日の予定です。
ブックマークや「いいね」での評価、感想などいただけると励みになります。
応援のほど、よろしくお願いします。
人間という生き物は、どうにも手に負えぬほど愚かでありながら、時として神々さえも驚かすほどの気高さを見せる。実に厄介で、そして面白い生き物だ。
近頃、南方の隊商から一つの土産話を強いれた。それはまさしく、そんな人間の愚かさと気高さの両極をこれ以上ないほど鮮やかに描き出しているように思えた。
その話の舞台は、王都からはるか遠い地のこと。灼熱の砂漠の向こうにそびえる休火山「灰かぶり山」の麓にある、小さな集落だという。
その集落の人々は代々、その火山を神として崇拝してきた。彼らにとって山は恵みそのものであった。山の斜面を流れる温泉は、彼らの病を癒し。火山性の肥沃な土壌は、痩せた土地でも豊かな実りをもたらす。噴火口から時折噴き出すという魔力を帯びた黒曜石は、彼らの唯一の交易品であり、生活の糧であった。彼らは山の恵みに感謝し、山の怒りを畏れ、決してその神聖な頂に足を踏み入れることなく、ただ麓で静かに祈りを捧げる。そんな素朴で信心深い民であったという。
だが、その長きにわたる平穏は唐突に破られることになる。ある日、山の頂から一頭の巨大な獣が姿を現したのだ。
その獣は、古の竜の生き残りとも、あるいは火山の怒りそのものが具現化した存在とも言われた。その巨体は灼熱の溶岩を思わせる鱗に覆われ、その咆哮は大地を揺るがし、その口から吐き出される炎は瞬にして岩をも溶かしたという。
人々はそれを「イグニス」と呼び、山の神が遣わした恐るべき神の使いだと信じた。イグニスは山の頂に巣くい、時折麓に降りてきては家畜を喰らい、畑を荒らした。人々はその圧倒的な力の前に、ただひれ伏し、祈ることしかできなかった。
この話が、ただの「恐ろしい魔獣が現れて、村が困りました」というだけのありふれた物語であれば、私がわざわざ筆を執ることもなかっただろう。この話が面白くなってくるのは、ここからだ。
集落の長老たちは、この災厄を鎮めるためにひとつの結論に達した。それは「イグニスを新たな神として崇拝する」という、実に奇妙な決断であった。
彼らはこれまでの山の神への祈りをやめ、今度はイグニスに向かって、ひれ伏し始めたのだ。そして山の神に捧げていた生贄の儀式を、今度はイグニスに対して行うようになった。毎月、村で最も美しい娘をひとり選び、着飾らせて、山の麓の祭壇へと捧げるのだという。
なんと愚かで、そしてなんと惨いことか。自らの手で、己の娘を、恐ろしい獣の餌食にする。私には、到底理解のできぬ狂気の沙汰だ。だが彼らにとっては、それこそが唯一の生き残るための道であったのだろう。恐怖は、時に人の理性を麻痺させ、最も原始的で最も残酷な信仰へと回帰させる。彼らはイグニスを崇拝し、生贄を捧げることで、その怒りを少しでも和らげ、村の完全な壊滅だけは免れようとしたのだ。恐怖に支配された時、人は自ら進んで奴隷の首輪をはめることがあるのだ。
この歪んだ崇拝の儀式は何年も続いたという。多くの娘たちが犠牲となり、村は絶望と諦念の重い沈黙に支配されていた。
だが、そんな淀んだ空気の中にたったひとり、その狂気に「否」を突きつけた若者がいた。彼の名は、カイ。恋人が次の生贄として選ばれてしまった、名もなき石工の若者だった。
彼は、長老たちの前に進み出て、こう言ったという。「神が本当に無辜の娘の血を求めるものか。俺たちの神はそんな非道な存在ではなかったはずだ。あれは神などではない。ただの飢えた獣だ」と。
当然、彼の言葉は長老たちや村人たちの怒りを買った。
「神を疑うとは何たる涜神の輩か」
「お前のその不遜な言葉がさらなる神の怒りを招くのだぞ」
彼は石を投げつけられ、村から追い出されそうになった。だが彼は屈しなかった。彼はたったひとりで、イグニスを討伐することを決意したのだ。
カイは石工であった。彼が扱えるのは、槌とノミだけ。剣を握ったことも、魔法を唱えたこともない。誰もが、彼の挑戦を、無謀な自殺行為だと嘲笑した。
だが彼には、誰にもない武器があった。それは、何年も火山の麓で石を切り出し、その性質を知り尽くしてきた、石工ならではの知識。そして何より、愛する者を守りたいという、揺るぎない意志だった。
彼はひとりで山に登った。しかし、彼が向かったのは、イグニスの巣がある山頂ではなかった。彼が目指したのは、中腹にある、古い温泉の源泉だった。彼は何日もかけて、その源泉からイグニスの巣の真下まで、岩盤を少しずつ掘り進めていった。彼は知っていたのだ。この山の岩盤は、熱水に非常に脆いということを。そして彼は、巨大な岩盤の数カ所に、絶妙な塩梅で、最後の楔を打ち込むための穴を開けた。
やがて、恋人が生贄に捧げられる運命の日がやってきた。祭壇に縛られた娘の悲鳴が山麓に響き渡る。その声を合図に、山の頂から、巨大なイグニスがその威容を現した。村人たちが恐怖に震えながら地面にひれ伏す中、カイはたったひとり、最後の仕事に取り掛かっていた。彼は渾身の力を込め、用意していた数本の巨大な鉄の楔を、岩盤に開けた穴へ打ち込んでいった。
その瞬間、周囲に地響きが起こる。イグニスが巣くっていた山頂の岩盤が、巨大な音を立てて崩落したのだ。イグニスの足元が崩れ去り、何が起きたのかも分からぬまま、灼熱のマグマが煮えたぎる火山の火口の奥深くへと飲み込まれていったのである。
カイは剣も魔法も使わなかった。使ったのは、ただの槌とノミ。そして長年の経験によって培われた、石の声を聞く力だけだ。彼は巨大な獣を殺したのではない。ただ、火山のほんの少しの気まぐれを後押ししてやったにだけなのだ。
この話を聞いて、私は深く、そして長い溜息をついた。何が神か。何が崇拝か。そして、何が本当の強さなのか。村人たちは、圧倒的な力の前にひれ伏し、それを神と呼び、思考を停止した。だがカイは、その力の正体を冷静に見極め、己の持つささやかだが確かな知恵で、見事に打ち克ってみせた。
恐怖に屈して、理不尽な存在を崇拝し、奴隷となる道を選ぶのか。それとも、絶望的な状況の中にあっても、己の理性を信じ、知恵と勇気で運命に抗う道を選ぶのか。その選択こそが人間を、ただの生き物から、真の意味での「人間」たらしめる分水嶺なのかもしれない。
その後、村がどうなったのか。残念ながら隊商の話はそこまでだった。
だが、おそらく彼らはもう二度と、目に見える圧倒的な力に盲目的な崇拝を捧げることはあるまい。彼らが本当に崇拝すべきは、遠い山の頂にいる得体の知れない神などではない。己の内に宿る、ささやかだが決して屈することのない、人間の知恵と勇気そのものであるはずだ。それはそびえ立つ山の頂であろうと、闇深い地の奥底のダンジョンであろうと変わりない。
さて。この名もなき石工の物語から、人は何を学ぶのか。可能であるならば、王都で高尚な神学論を戦わせている神官様方などに、是非とも御高説を賜ってみたいと思っている。「天は自ら助くる者を助く」と言うが、はてさて、この話で救いの手を伸ばされたのは誰なのだろうか。
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