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第二話『焼き芋』

八卦見娘と幼馴染・十

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 おみつは息を切らせながら裕次郎の背中を追う。裕次郎は気を使った速度で早歩いてくれているが、それでも男女の差は大きい。だけどおみつはぎゅっと唇を噛みしめて懸命に足を動かした。

(一太さん、無事でいて)

 一昨日に『見た』一太が首を絞められる光景が脳裏に蘇り、おみつは思わず泣きそうになる。しかしあれを本当のことにしないためにも急がねばと、おみつは涙をこらえてきっと前を見た。
 足を動かし木戸を抜け、町から町へと進む。そして新乗物町のおせんの住んでいた長屋にたどり着くと――
 おせんの部屋からもめている気配と男の声がした。

(ああ、きっと一太さんと紺屋の男だわ!)

 そう思った瞬間。おみつは声の方へと駆け出していた。

「お嬢さん!あっしが行きますから!」

 裕次郎も少し遅れておみつの後に続く。おみつが激しい音を立てながら障子を開くと案の定。一人の男と一太が激しいもみ合いになっていた。

「貴方がおせんさんを襲った下手人なのね! 一太さんを、は、離しなさい!」

 おみつは戸口にあったしんばり棒を手にして男に叫んだ。おみつは気が強い方ではない。それどころか、こういう荒事を見るだけで震え上がってしまうような性格だ。けれど知人である一太の危機に、おみつの恐怖はどこかへと吹き飛んでいた。

「おみっちゃん、どうしてここに」

 一太は、おみつの姿を見て驚きの声を上げる。一太ともめていた男もおみつを見て一瞬あっけに取られた顔をしたが、女一人と侮ったのか薄ら笑いを浮かべた。

「そうだよ、俺がおせんを殺したんだ!」

 男が叫び一太を振り切って――おみつの方へと走る。逃げるつもりか、おみつを人質にでも取るつもりなのか。おみつはしんばり棒を前に突き出し、男の襲来に備えたけれど。ひょいと着物の襟を掴まれ軽々と後ろに引かれた。

「まったく、お嬢さんも若旦那も世話が焼けますねぇ」

 そんな重々しい声がおみつの耳に届き、のしりと重々しい動作で裕次郎が前に出た。そして突進してくる男の腕を取ると、えいやと流れるような動きで男を長屋の外の地面に放り投げた。

「ぐへっ」

 男は地面に叩きつけられ、情けない声を上げる。その上に裕次郎はとどめとばかりにどんと腰を下ろした。巨体に押し潰された男は逃げ出そうともがいていたが、やがて観念したかのように動きを止めて大人しくなった。
 三好屋の手代の裕次郎は大きな体で気の優しい男だが――怒らせると怖い男でもあるのだ。
 わらわらと騒ぎを気にした長屋の住民たちがやってくる。そして魚屋のおかみさんが目を丸くして、裕次郎の尻の下にいる男を指差した。

「あれま、おせんさんのいい人じゃないの!」

 そんな騒ぎを尻目に、おみつは一太のところへと向かった。

「一太さん、大丈夫?」

 一太は少し痛そうに腰をさすっているけれど、一見して怪我はなさそうだ。しかしいつもはぴんとして皺一つない着物と羽織はもみ合いのせいでよれて汚れており、町人髷もひどく乱れている。そんな一太を見ておみつはうんと眉を下げた。

「いやぁ、情けないねぇ。私は喧嘩はからきしだから」

 側にしゃがみ込むおみつを見て、一太も困ったように眉を下げた。

「誰も連れずに来たんですか? 一人でこんな危ないことするなんて……」

 羽織の裾をぎゅっと握りほろほろと泣き出すおみつを見て、一太は慌てた顔になる。そして両手をわたわたとさまよわせた後に、おみつの頭をぽんぽんと撫でた。

「おみっちゃん、一人じゃないよ。米蔵親分にも来てもらってるんだ。よい頃合いに部屋に入ってもらう手はずだったんだけど……」

 そう言って一太は頭をかいた。
 一太はおみつが卦で見た本当の下手人が現れるからと、米蔵を説得し半ば無理やりにここに連れてきたそうだ。男が現れ言質が取れたら米蔵親分に部屋に踏み入ってもらうという、そんな手はずのはずだったのだが……
 一太に挑発された男は『自分がおせん殺しをした』と口にした。しかしそんな好機に米蔵はちっとも現れず。あれま困ったと思っているうちに男と一太はもみ合いになり、そこにおみつが現れたというわけだ。

「親分さんはなにをしてるんだろうねぇ……」

 ぼやきながら立ち上がりどこかへ向かう一太に、おみつも涙を拭いながらついていく。建物の裏手に回ると、壁に背を預けて眠りこける米蔵の姿がそこにはあった。

「まぁ、親分ったら!」
「……こりゃ参ったねぇ」

 その光景におみつと一太は苦笑いをした。米蔵は待ちぼうけて眠ってしまったらしい。

「参ったじゃないですよ一太さん。米蔵親分に殺されるところだったんじゃないですか」
「なんだぁ?殺されるだとぉ」

 物騒な単語に反応したのか、米蔵が声を発しながら小さな目をぱちりと開ける。そして一太とおみつの姿を目にして何度か瞬きをした後に、状況を察したのか気まずそうな表情で頭をかいた。

「えーっと、若旦那。男の件はどうなったんですかい?」
「男は三好屋さんの手代が取り押さえてます。それと自分がおせんさんの件の下手人だって言ってましたよ。長屋の住人もそれを聞いてるはずです」

 しらじらしく言いながら気まずさをごまかすように笑みを浮かべる米蔵に、一太は呆れた口調で言葉を返した。
 貧乏長屋の壁は薄い。男の二度の罪の告白は隣家に筒抜けだっただろう。

「そうなんですかい。それじゃちょいとあたしは男のところへ……」

 米蔵は腕まくりをして、ぴゅっとからっ風のような素早さで男の方へと駆けていく。

「本当に、だめな親分さんね」
「そう言ってあげないでよ、おみっちゃん。重い腰を上げてここまで来てくれたんだから」

 深いため息をつくおみつに、一太は苦笑いでそう言った。
 男を親分が番屋へ連れていくのを見届けてから、おみつと一太はそれぞれの店へと戻ることにした。

「やれやれ、今日は疲れたね。でもこれで松さんの疑いも晴れたよねぇ」

 そんなことを言いながら三好屋の座敷で一息つこうとしたおみつだったのだが。裕次郎の報告を聞いた源三郎とりんから雷を落とされ、一息をつく間も無いのだった。
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