【完結】鏡の中の君へ ~彼女が死んだら他の男の子供を妊娠していた~

むれい南極

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一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その3

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 デートの時間も夕方に差し掛かったころ、周囲よりもずっと早く、ふたりは帰る心を整え始めた。並んでアメリカのカフェチェーンに入ると、ちょうど奥の一席のカップルが離れようとしていた。沙月が慌てて席の確保に行く。このカフェは値段こそ学生向けではないが、長時間滞在の常態化により席の確保が難しい。
 梓馬はその間にレジに並び、バナナラテと本日のブレンドを頼んでいた。
 席に着いて二つの飲み物をテーブルに置くと、沙月がぐいと手を伸ばしてバナナラテをひったくった。視線は手元のスマートフォンに落ちたままで、今日見たあれこれのメモを読み返している。その真剣な表情に安心して、梓馬もまたスマートフォンを取り出した。
 ネットを開くとブラウザが縦に並んでいた。半日を未来の話で過ごしたせいか、殺人罪の懲役についてのページが非現実的に見える。自分がどれほど服役するか、何度読んでも目途がつかなかった。
 ついため息が出る。それに反応した沙月がちらっと見てきたが、気付かない振りでメモ帳を開いた。出てきた一覧には、『計画について』、『懲役について』、『鳩池について』、『沙月について』というタイトルが並んでいる。

『計画について』というページには、鳩池久吾をどのように拉致し、どういった拷問を加えるかということが覚書されている。そして車と場所が必要だ、という文が太文字で書かれていた。移動手段と拷問場所の確保が、梓馬にはかなり難しいことだった。そのために窃盗や不法侵入などのアイディアが記述されている。

『懲役について』というページには、大まかに考えた出所時期が書かれている。この辺りは自身の知識では判断しきれなかったため、実際的な内容はあまり書かれていない。
 二十代の時間を失うことの悲鳴と、必ずやり遂げるという決意が、くり返し書かれている。殺人に対する葛藤が、そのまま目に見える形になっていた。
 さらにその先には、朱里への消えない想いや、朱里と沙月の比較が書かれている。その最後には、例え他の男の子供を妊娠していても、と締めくくられていた。書いていた当時の梓馬は、自分がどれほど朱里を特別視していたか、改めて実感していた。

『鳩池について』というページには、鳩池の現住所と周囲の様子が書かれている。梓馬はすでに鳩池の自宅を突き止めていた。
 坂東の事務所は、明条高校最寄り駅の床屋の並び沿いにあることが、ホームページに記載されていた。どなたでも気軽にどうぞとある通り、梓馬はそこで張り込みをし、鳩池が事務所から徒歩数分の高層マンションの一つに入っていくところを目撃する。
 鳩池は一人で帰宅することが滅多にない。同僚で坂東の秘書である平橋美憂(ひらはしみゆう)とともに事務所を出ることが頻繁にあり、そのまま鳩池のマンションに泊まっていくこともある。
 梓馬はこのことに関して、二人が特別な関係ではないかという推測を書き込んでいた。また、平橋の予定をSNSなどで調べれば、鳩池が一人になる瞬間を絞り込めるかも、というアイディアが言葉足らずで散らばっていた。
 今後の課題として、監視カメラがあるかどうか、あるならば位置をどうやって把握するか、ということが書かれている。これに対しては、段階を踏んだ軽犯罪でどうにかならないかというアイディアがあった。
 立ち小便やゴミの不法投棄などで、マンション管理側のリアクションから監視カメラの位置を割り出そうという内容だ。これはあまり現実的ではない、と自分で評している。

『沙月について』というページには、支離滅裂な言葉が並んでいる。誰にも見せる予定がないために、ストレートにヤりたいと書いてあり、その次には沙月の幸せを優先する、と書いてある。ここで性欲よりも人間愛を優先したかと思えば、次の行には、長期間服役されるのだからいまのうちにヤりだめしとくべきか、コスプレでヤりたい、アナルは試す価値がある、などと続いており、とても沙月本人には見せられない内容だ。
 好きや可愛いなどの愛の表現は全体の二割程度で、五割が乳が偉そうなどの性欲による葛藤で占められており、残りの三割は沙月の未来を優先するべきだと書かれている。この残り三割部分は、マスターベーションのあとに毎回書かれる決まり文句だ。

 これらはどれも愛情が文章化されたものでもあるが、冷静に読めば罪悪感が表現されていることがわかる。二番目に好きな女を自分の性欲で汚していいのか、という考えなくてもわかることが、延々と考えられていた。
 俺はおかしいのかもしれない――
 自分の思考が目で見えるようになっていることと、周囲が他人だらけのカフェという要素が、梓馬に真実を提供した。
 梓馬は画面から目線を外すと、ちらりと沙月の顔を見た。デザインの良い顔だと改めて思う。次に胸元を見た。デティールが性的で、触ると見た目以上に柔らかい。
 でも違う、と思った。沙月の本当に価値があるところは、ドスケベな容姿ではない。自分が好きな物を選んで生きるという精神だ。
 梓馬は画面に目線を戻すと、『沙月について』というページに、愛していると書き足した。あまりの照れ臭さに背筋がぞわりとし、ページを指でずらして元のメモ一覧に戻す。そしてまだ脈打つ胸のさざ波を、ブレンドの苦みでどうにか抑え込んだ。
 この感情が伝わってやしないかと沙月に目をやる。相変わらず忙しそうにしていた。それが少し寂しかった。
 スマートフォンをテーブルに置いて、ふんぞり返って腕を組み、構ってほしいという無言の要求をする。それでも沙月は熱心に、未来への伝言を書いていた。
 これがベストなんだろうな――
 梓馬は寂しい心を自分で撫でまわして、尿意を感じた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
 そう言って返事を待たずに席を立った。
 一方の沙月は実際に街を歩いた刺激もあって、メモ帳にアイディアをまとめることに集中していた。そのために時間の感覚が狂っており、ずいぶん梓馬を放置していたことにようやく気付く。
 戻ってきたら機嫌を取ろう、そう思って背を伸ばして首を鳴らした。周囲をなんとなく見回し、やがて視線を自分の席に戻すと、梓馬のスマートフォンに目が行った。珍しく無防備だと思った。
 ここのところ梓馬の様子がおかしいことに、沙月はもちろん気付いていた。あれほど乳を押し付けても、その気にならないなど考えられない。だが別れを決心しているとまでは、読めていなかった。梓馬の声の一つ一つに、愛情が含まれていると感じていたからだ。
 それでも朱里という存在が、沙月のなかにもずっと在った。初めての親友、大事な存在、自分の半身。そして好きな人の、好きな人。
「…………」
 もしすべてに一切の不安がなければ、沙月は梓馬のスマートフォンに左手を伸ばさなかっただろう。
 中指でスマートフォンのサイドボタンを押すと、パスコードを要求された。沙月はまず『0804』と打ち込んだ。これは梓馬の誕生日で、もちろんそんな安直ではない。今度はまさかね、と口端を曲げつつ、自分の誕生日『1022』を打ち込んでみる。これも失敗で、わかっていたとしても心の影が少し色濃くなる。その不安の鉄の味が、嫌な提案をした。
 打ち込むのは『0409』、朱里の誕生日だ。これも正解ではなかったが、かといって心が晴れるわけでもない。
 実際にセックスをしたのは自分で、体の結びつきが心も繋げたという意識があっても、自分は二番手だという認識が拭えなかった。それでいいという結論を一度出しているが、梓馬の愛情を感じるたびに心は揺れていた。
 顔を振って意識を現状に戻す。もうパスコードの候補は思いつかない、状況は良くない。スマートフォンは連続でパスコードの解除に失敗した場合、操作を受け付けなくなる機能がある。そして梓馬の機種が、残り何度挑戦できるかわからなかった。
「ここまでかな」
 沙月は梓馬のスマートフォンから手を放そうとした。だが止まる。朱里の誕生日よりも、暗いパスコードを思いついたからだ。あの偏屈な男がどんな数字を設定するかは思いつかなかったが、あの一途な男が好みそうな発想は想像することができる。
「ふたりになるということ……」
 沙月は思いついたその数字に妙な確信を持って、『1213』と入力した。すると暗い画面がすっと上にスライドする。心の画面とは、まるで反対の様子だった。
 こうして梓馬のスマートフォンのロックは、解除されてしまった。
 画面には、先ほど梓馬が見ていたページが開かれている。飛び込んできた文字の意味に、沙月は全身の毛が逆立つのを感じた。計画や鳩池や懲役という単語は、そのメモを読まなくとも、おおよその内容を連想させるには十分だった。わからなかったのは、沙月についてというページだ。開いてみると、読み切れない文量だと悟った。
 梓馬がトイレに行ってから、時間はどれくらいたったか。いまこの瞬間に戻ってきても不思議ではない。脳に不安な内圧を感じながらも、沙月はここで機転を利かせていく。
 右手で自分のスマートフォンを操作し、動画撮影機能を起動。そして左手の親指で梓馬のスマートフォンに映っているメモ帳を開き、ページをどんどんスライドさせていった。沙月のスマートフォンに、梓馬の思考が録画されていく。
 一瞬しか目で追えなかったが、朱里と自分の比較部分は、心に鉛を生成した。わかっていたことだったとはいえ、素直に納得できるというものでもない。天秤はあまりに朱里に傾き過ぎていた。
「もう少しあたしの場所あると思ってたのにな……」
 心に致命傷を負いながらも、沙月は『計画について』、『懲役について』、『鳩池について』を開いてはスライドしていく、という鬼の仕事ぶりを発揮。とうとう梓馬が戻ってきたころには、何食わぬ顔で自分のスマートフォンに目を落としている状態に戻っていた。
「ずいぶん熱心だな」
 梓馬は椅子に座りながらそう言うと、手元を見ないままブレンドに口をつけた。
「うん、今日は本当に色々なことがわかったからね」
 沙月は手元に目を落としたまま答えた。
「そこまで収穫があったのか。俺はあまり気付かなかったな」
「あたしと見てるものが違うからだよ」
 沙月がそう言うと、梓馬はぎくりとした。
「すまん。受験もあって、確かに他のことも考えていた。切羽詰まってるんだ」
「気を付けないと、後悔することになるよ」
 その言葉に、梓馬はまたも曖昧な返事を返すだけだった。
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