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鏡の中の君へ 後編 加賀美朱里編 その6
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『私の中の君へ』
封筒の口は綺麗に閉じられている。
朱里の中の君へとなると、一人しか心当たりがなかった。しかし名前も顔も浮かんではこない。これまで誰一人、焦点を当ててこなかったからだ。
マキナはこれらの内、『私の恋人へ』という封筒を親指で押しだした。
「シュリーからの手紙です。これを読む権利はいま、あなたにしかありません」
その言い方から、マキナがすでに中身を把握していると感じた。
封筒はノリで口がきっちりと塞がれている。また、バツの印がずれていないことから、一度も開封されていないことがわかる。以上の点から、手紙の製作にマキナが関わっている可能性が考えられた。だからこそ、すべてを知っているような態度を取れるのだろうと。
意味ありげにハサミを差し出され、手紙部分の厚みを指先で確認しつつ、慎重に口を切っていく。すると出てきたのは、たった一枚の便箋だった。
その手紙は私のあなたへという書き出しで始まっており、確かに朱里の筆跡だと思えるものだった。
『私のあなたへ
たくさん振り回してごめんなさい。本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。いくら謝罪しても足りないのはわかっています。でも私にはこれ以外に選択肢がありませんでした。責任を取ること、それがすべてです。本当にごめんなさい。
あなたはきっと、いま涙を流さずに泣いているでしょうね。私のことを本当に想ってくれていたのを、いつも痛いほど感じていました。ひとときだったけど、生まれてきて幸せだと思える時間をありがとう。
沙月はきっとあなたと相性が良いはず。多分あの子もあなたを気にしています。優しくしてあげて。絶対に幸せになれるから。
本当にごめんなさい。私のことを恨んでください』
目を通し終わった梓馬は、意味がよくわからないと思った。もう一度、最初から読み返してみて、さらに意味がまったくわからないと思った。
「これが先ほど言っていた、朱里の真意ですか?」
言外に、お前は正気なのか、というニュアンスを含める。
もちろん無事にマキナに伝わった。
「目に見えることだけがすべてではありませんが……。梓馬、あなたは目に見えることすら見えていません。さあ、視野を広げなさい」
マキナは言って、腕を広げた。それに促されて梓馬は再度、手紙に目を落とした。
「まさか俺に沙月と幸せになってくれというのが、真意だって言ってるんですか?」
半ば挑発のような口調だった。
もちろんマキナは動じない。そして眉間に皺をよせると、顎をしゃくれさせた。
「あなたの思考方法は、こうではないですか? この点がおかしいな。ということはここに情報があるな。この情報からこういう結論を導き出せるな」
その仕草は梓馬を苛立たせもしたが、同時にどきりともさせられる。思考をそのままトレースされたようだったからだ。
「たったこれだけの手紙から、おかしな点を探せということですか?」
「あなたのやり方ならば、という話です。他にもいくつかの道があります。どのやり方でも構いません。力があるのでしょう、やってみせなさい」
マキナはにっこりと微笑む。梓馬はそれを無視して、おかしいと思える点を探した。最初に思いついたのは、この手紙に書かれていたこととは関係のないことだ。
「朱里は事故死だったと認識しています。ですが手紙が残されているのは妙だ。まるで最初から、自分が死ぬのをわかっているみたいに……」
ここで梓馬はマキナの様子を伺う。
マキナは続けなさいと、手のひらを向けるだけだった。
「自殺する予定があった?」
「違います。もしそうだったら、これらの手紙はもっと早くに、幹彦くんの手からあなたたちに渡っていたでしょう。しかし目の付け所はいいですよ」
「死ぬつもりがないのになぜ手紙を残す……。連絡が取れなくなる予定があったからだ。生きていて連絡が取れなくなるのは、自分の意志でそうするから……」
ここで梓馬はまた不動産のことを思い出した。やはり朱里の未来に、自分の席はなかったと思いつく。泡立つ心を抑えながら、マキナに挑んだ。
「俺と別れる予定だったから、ここに手紙を残していたんですね?」
言いながら、否定してくれと強く願った。しかしマキナは大きく頷いていた。
「そのとおりです。シュリーはいずれあなたと別れて、うちの姉妹校で教員として働く予定でした。家ももうすぐ決まるところだったんですよ」
「家、それで不動産か……」
梓馬は、自分が鳩池の言葉を鵜呑みにしていたことを悟った。あの夜に明かされた事実の質量に、判断力を鈍らされていたからだ。
いつもの梓馬なら根拠を問いただしていただろう。そうすれば平橋美憂の伝聞を、鳩池が勝手に解釈したものだったとわかるはずだ。そして六本木の不動産を欲しがる人間が、ベッドタウンの不動産屋のチラシに目を奪われることなどないと気付けた。
「なにかに納得がいった、という顔をしていますね」
「ええ、まあ」
「不動産という単語に反応したならばなおのこと、私はあなたが真意に辿りついていないと保証しましょう」
「なんでもお見通しみたいに言いますね」
「ええ、断定されていましたから。私だけではありませんよ。あなたがここに辿りつくとわかっていたからこそ、あの子もまた手紙を残したのです」
うんうんと、満足そうに首を振るマキナの仕草。
梓馬はそれに苛立ちながらも、見つけた攻撃のチャンスを逃さない。
「俺と別れるつもりだった、というのは納得しました。ですが、それでは俺の真相と、あなたが言う朱里の真意は合致していることになります」
「梓馬、本当に自分のことが嫌いなんですね。あなたはこれらの手紙に、別れというタグを付けました。それは間違っていませんよ。さあ、あなたの力については聞いています。まだまだこんなものではないのでしょう?」
マキナは再度、腕を広げた。それは視野がまだ狭いという指摘だ。
梓馬は目に見えるもの、つまり残りの封筒に目をやった。
『私の親友へ』
『私の中の君へ』
口が空いている封筒に狙いをつけた。
「沙月は俺より先にここに来ましたね?」
「ええ、つい先日に。あなたよりも先に電話をかけてきました。見た目よりも過激な子でしたね」
見た目も十分過激なだけに、沙月がここでなにをしたのか気になる。しかしいま優先されることではない。
「残りの手紙を読む権利は、俺にありますか?」
「いま、沙月のものに関しては本人が許可を出しています。きっとあなたの助けになるからと」
「そうですか……」
梓馬は手を伸ばした。
『私の変わり者へ
これを読んでいるということは、私の正体を知ったあとでしょうね。親友だから正直に言うわ。私は沙月を地獄に落とそうとしていた。本当にごめんなさい。でも信じてほしいの。あなたと過ごした友情に嘘はなかった。あなたが自分の夢に誘ってくれたから、私は未来を意識することができた。まだ生きようって選択肢を持つことができた。手首の傷は増えていく一方だったけど笑
それと色々と面倒をかけると思う。それなのにごめんね、しばらくは連絡をしないつもりなの。でもいつかそのうちね。そのころには多分、沙月は自分の店を出しているでしょうね。子供服は置いてなさそうだけど、ふたりで覗きにいくから。
そして親友としてお願いがあるの。彼はいまとても傷ついているから、私の代わりに助けてあげてほしい。時間がかかるかもしれないけど、起き上がりこぼしみたいな人だから大丈夫。最後は絶対に元気になって沙月を見つめる。厄介な部分もあるけど、それ以上の優しさがあるから絶対に幸せになれるはず。愚痴ならいくらでも聞くから、よろしくね』
読み終わって梓馬が感じたのは、ますますの疎外感だった。自分の知らないところで、勝手に運命の行方が断定されている。
沙月は今回のことについてどこまで知っていたのか、なにも知らないような顔の下でなにを考えていたのか。
梓馬は首を振った。
わかってる、あいつは俺を守ろうとしていた――
疑うことならいくらでもできる。しかし沙月がこれまでに見せてきた献身は、例えこの先どんな裏切りの状況が来たとしても揺るがない。妄想に絡めとられそうな心は、信頼の鎖によってその場に繋ぎとめられていた。
前に進むと決めた梓馬は、次いで『私の中の君へ』を見た。
「これを読む権利は、ないんですよね」
「ええ、その権利は存在しませんでした」
「なるほど……」
梓馬は視線をテーブルの『私の親友へ』へ落したまま、いま目に見えているものを見ようとしていく。そして即座に矛盾していると感じた。
私の中の君へというのは、おそらく妊娠していた子供のことだろう。マキナはこれらの手紙に別れの属性があることを保証した。ということは、朱里は子供とも別れる気だったということだ。
封筒の口は綺麗に閉じられている。
朱里の中の君へとなると、一人しか心当たりがなかった。しかし名前も顔も浮かんではこない。これまで誰一人、焦点を当ててこなかったからだ。
マキナはこれらの内、『私の恋人へ』という封筒を親指で押しだした。
「シュリーからの手紙です。これを読む権利はいま、あなたにしかありません」
その言い方から、マキナがすでに中身を把握していると感じた。
封筒はノリで口がきっちりと塞がれている。また、バツの印がずれていないことから、一度も開封されていないことがわかる。以上の点から、手紙の製作にマキナが関わっている可能性が考えられた。だからこそ、すべてを知っているような態度を取れるのだろうと。
意味ありげにハサミを差し出され、手紙部分の厚みを指先で確認しつつ、慎重に口を切っていく。すると出てきたのは、たった一枚の便箋だった。
その手紙は私のあなたへという書き出しで始まっており、確かに朱里の筆跡だと思えるものだった。
『私のあなたへ
たくさん振り回してごめんなさい。本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。いくら謝罪しても足りないのはわかっています。でも私にはこれ以外に選択肢がありませんでした。責任を取ること、それがすべてです。本当にごめんなさい。
あなたはきっと、いま涙を流さずに泣いているでしょうね。私のことを本当に想ってくれていたのを、いつも痛いほど感じていました。ひとときだったけど、生まれてきて幸せだと思える時間をありがとう。
沙月はきっとあなたと相性が良いはず。多分あの子もあなたを気にしています。優しくしてあげて。絶対に幸せになれるから。
本当にごめんなさい。私のことを恨んでください』
目を通し終わった梓馬は、意味がよくわからないと思った。もう一度、最初から読み返してみて、さらに意味がまったくわからないと思った。
「これが先ほど言っていた、朱里の真意ですか?」
言外に、お前は正気なのか、というニュアンスを含める。
もちろん無事にマキナに伝わった。
「目に見えることだけがすべてではありませんが……。梓馬、あなたは目に見えることすら見えていません。さあ、視野を広げなさい」
マキナは言って、腕を広げた。それに促されて梓馬は再度、手紙に目を落とした。
「まさか俺に沙月と幸せになってくれというのが、真意だって言ってるんですか?」
半ば挑発のような口調だった。
もちろんマキナは動じない。そして眉間に皺をよせると、顎をしゃくれさせた。
「あなたの思考方法は、こうではないですか? この点がおかしいな。ということはここに情報があるな。この情報からこういう結論を導き出せるな」
その仕草は梓馬を苛立たせもしたが、同時にどきりともさせられる。思考をそのままトレースされたようだったからだ。
「たったこれだけの手紙から、おかしな点を探せということですか?」
「あなたのやり方ならば、という話です。他にもいくつかの道があります。どのやり方でも構いません。力があるのでしょう、やってみせなさい」
マキナはにっこりと微笑む。梓馬はそれを無視して、おかしいと思える点を探した。最初に思いついたのは、この手紙に書かれていたこととは関係のないことだ。
「朱里は事故死だったと認識しています。ですが手紙が残されているのは妙だ。まるで最初から、自分が死ぬのをわかっているみたいに……」
ここで梓馬はマキナの様子を伺う。
マキナは続けなさいと、手のひらを向けるだけだった。
「自殺する予定があった?」
「違います。もしそうだったら、これらの手紙はもっと早くに、幹彦くんの手からあなたたちに渡っていたでしょう。しかし目の付け所はいいですよ」
「死ぬつもりがないのになぜ手紙を残す……。連絡が取れなくなる予定があったからだ。生きていて連絡が取れなくなるのは、自分の意志でそうするから……」
ここで梓馬はまた不動産のことを思い出した。やはり朱里の未来に、自分の席はなかったと思いつく。泡立つ心を抑えながら、マキナに挑んだ。
「俺と別れる予定だったから、ここに手紙を残していたんですね?」
言いながら、否定してくれと強く願った。しかしマキナは大きく頷いていた。
「そのとおりです。シュリーはいずれあなたと別れて、うちの姉妹校で教員として働く予定でした。家ももうすぐ決まるところだったんですよ」
「家、それで不動産か……」
梓馬は、自分が鳩池の言葉を鵜呑みにしていたことを悟った。あの夜に明かされた事実の質量に、判断力を鈍らされていたからだ。
いつもの梓馬なら根拠を問いただしていただろう。そうすれば平橋美憂の伝聞を、鳩池が勝手に解釈したものだったとわかるはずだ。そして六本木の不動産を欲しがる人間が、ベッドタウンの不動産屋のチラシに目を奪われることなどないと気付けた。
「なにかに納得がいった、という顔をしていますね」
「ええ、まあ」
「不動産という単語に反応したならばなおのこと、私はあなたが真意に辿りついていないと保証しましょう」
「なんでもお見通しみたいに言いますね」
「ええ、断定されていましたから。私だけではありませんよ。あなたがここに辿りつくとわかっていたからこそ、あの子もまた手紙を残したのです」
うんうんと、満足そうに首を振るマキナの仕草。
梓馬はそれに苛立ちながらも、見つけた攻撃のチャンスを逃さない。
「俺と別れるつもりだった、というのは納得しました。ですが、それでは俺の真相と、あなたが言う朱里の真意は合致していることになります」
「梓馬、本当に自分のことが嫌いなんですね。あなたはこれらの手紙に、別れというタグを付けました。それは間違っていませんよ。さあ、あなたの力については聞いています。まだまだこんなものではないのでしょう?」
マキナは再度、腕を広げた。それは視野がまだ狭いという指摘だ。
梓馬は目に見えるもの、つまり残りの封筒に目をやった。
『私の親友へ』
『私の中の君へ』
口が空いている封筒に狙いをつけた。
「沙月は俺より先にここに来ましたね?」
「ええ、つい先日に。あなたよりも先に電話をかけてきました。見た目よりも過激な子でしたね」
見た目も十分過激なだけに、沙月がここでなにをしたのか気になる。しかしいま優先されることではない。
「残りの手紙を読む権利は、俺にありますか?」
「いま、沙月のものに関しては本人が許可を出しています。きっとあなたの助けになるからと」
「そうですか……」
梓馬は手を伸ばした。
『私の変わり者へ
これを読んでいるということは、私の正体を知ったあとでしょうね。親友だから正直に言うわ。私は沙月を地獄に落とそうとしていた。本当にごめんなさい。でも信じてほしいの。あなたと過ごした友情に嘘はなかった。あなたが自分の夢に誘ってくれたから、私は未来を意識することができた。まだ生きようって選択肢を持つことができた。手首の傷は増えていく一方だったけど笑
それと色々と面倒をかけると思う。それなのにごめんね、しばらくは連絡をしないつもりなの。でもいつかそのうちね。そのころには多分、沙月は自分の店を出しているでしょうね。子供服は置いてなさそうだけど、ふたりで覗きにいくから。
そして親友としてお願いがあるの。彼はいまとても傷ついているから、私の代わりに助けてあげてほしい。時間がかかるかもしれないけど、起き上がりこぼしみたいな人だから大丈夫。最後は絶対に元気になって沙月を見つめる。厄介な部分もあるけど、それ以上の優しさがあるから絶対に幸せになれるはず。愚痴ならいくらでも聞くから、よろしくね』
読み終わって梓馬が感じたのは、ますますの疎外感だった。自分の知らないところで、勝手に運命の行方が断定されている。
沙月は今回のことについてどこまで知っていたのか、なにも知らないような顔の下でなにを考えていたのか。
梓馬は首を振った。
わかってる、あいつは俺を守ろうとしていた――
疑うことならいくらでもできる。しかし沙月がこれまでに見せてきた献身は、例えこの先どんな裏切りの状況が来たとしても揺るがない。妄想に絡めとられそうな心は、信頼の鎖によってその場に繋ぎとめられていた。
前に進むと決めた梓馬は、次いで『私の中の君へ』を見た。
「これを読む権利は、ないんですよね」
「ええ、その権利は存在しませんでした」
「なるほど……」
梓馬は視線をテーブルの『私の親友へ』へ落したまま、いま目に見えているものを見ようとしていく。そして即座に矛盾していると感じた。
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