裏か、表か

夏目ナタリー

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02: 見間違い

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 近くを行ったり来たりする足音とシャカシャカと歯磨きをする音に、将暉は目を覚ました。

 半開きのカーテンから差し込む日差しの眩しさに耐えられずに片手で目元を覆うと、反対の手で隣にいるはずの温もりを探す。しかし、そこにあるのはシワになった綿のシーツの感触だけだった。

 あれ、と寝ぼけた目をこする。

「あ、起きた?」

 歯ブラシを口に含んだまま、大翔がいたずらっこのような笑みで将暉の寝起きの顔を見下ろした。既にシャワーを浴びたのか、乾かしたての金髪はサラサラで、いつぞやに大翔が部屋に置いていき、将暉が代わりに洗濯しておいた服に着替えている。

「まだ寝てていいのに」

 大翔に言われて壁の掛け時計を見ると、とっくに十時を過ぎていた。とりあえずベッドから出るも、さすがに全裸のままはどうかと思い、近くに転がっていたトランクスを穿いてシャツを一枚羽織る。

「もうこんな時間? もっと早くに起こしてくれてよかったのに」

「将暉は休みなんだし、夜まで寝てても俺は別に。将暉の寝坊癖だって、今に始まった話じゃないし」

 表向きはへっちゃらなフリをして、実はちっとも起きてこない将暉に腹を立て拗ねているのか。二年も付き合いがあれば、言葉の端々やツンケンした態度の裏に隠された大翔の本心を察することぐらいお手のものだ。たまに文字通りの意で本心を語っていることもあるので油断はならないが、もしそうだとしても大翔が可愛いことに変わりはない。

「ごめんって。大翔は今日も練習?」

「うん、もう出る。終わるのは、多分昨日と同じぐらい」

 モゴモゴと喋っているうちに口から歯磨き粉が溢れそうになった大翔は、急いで洗面台へと走っていった。

 今日は土曜日で授業はないというのに、休みの日までわざわざ大学に出向いてダンスの練習とは大翔も熱心だ。三回生である大翔にとって今度の学園祭が引退公演なので、気合が入っているのがわかる。

 モダンテイストの家具で統一された部屋の角にある電子ピアノ用の椅子の上には、支度の終わった大翔の鞄と上着が置かれていた。

「朝ごはんは何か食べた? 簡単に何か作ろうか?」

 洗面台のそばへ行って鏡越しに声をかける。何でもいい、少しでも大翔の時間を稼ぐ口実が欲しかった。

 大翔は口をゆすぐと、自分用の歯ブラシを将暉の歯ブラシの隣に片付けた。それから椅子の上の荷物を取りに、将暉の横をするりと通り抜ける。

「ご飯は途中で何か買うから平気。それにもう出なきゃだから」

「そっか」

 寝坊した将暉に非があるのは間違いない。それでも、せっせと出掛ける準備をしている大翔を見ていると、笑顔で見送るより、なぜだかこの場に引き留めてしまいたくなる。できることなら、二人で遅めのブランチでも食べて、他愛もない会話を交わして、大翔をこの胸に抱きしめていたい。

 それに、大翔のうなじに見つけたあの痕のことだってまだ訊けていない。

「大翔」

 咄嗟に名前を呼ぶと、玄関でスニーカーの紐を結んでいた大翔が「何?」と顔を上げる。

 うなじにある、それは何?

 言葉が喉まで出かかったが、直前になってゴクリと呑み込んだ。何の確証もない余計なことを持ち出して、二人で築き上げてきた信頼を疑うような真似をしてはならない。そんな理性が働いた。

「今日もスタジオまで迎えに行こうか?」

 一瞬の気の迷いを悟られないよう、将暉は優しく微笑んだ。

 一方の大翔は、将暉の提案にわかりやすく眉を寄せる。

「きっとまた新汰がギャーギャー騒ぐから、来なくていいよ。いやむしろ来ないで」

 これは本気で煙たがっている言い方だ。半分冗談のつもりではあったが、こうも簡単に拒否されてしまうとそれはそれでショックだ。

「それじゃあ、行ってくる」

 大翔は、将暉が泣き出す前にこの場を離れないと面倒くさくなる、とでも言わんばかりに、将暉が「いってらっしゃい」を言い終わる間もなく行ってしまった。

 玄関が閉まると不意に全身の力が抜けて、その場に立ち尽くす将暉の頭の中で悪魔が囁く。

————一体、あれは誰につけられたキスマークなんだろうな?

「違う!」

 脳内にまとわりつく邪推な囁きに声を荒げて言い返した。部屋には誰もおらず、静寂からは何も返事がない。

 キスマークだなんて、ただの気のせいだ。きっと自分は疲れているんだ。将暉はそう自分に言い聞かせた。

 普段からキスマークは残さないようにしてきたが、無意識のうちにしてしまったのかもしれない。それに、大翔のうなじにある痕がキスマークと決まったわけじゃない。単なる将暉の見間違い、虫刺されの痕だったって可能性もある。

 埒のあかない悶々とした気持ちを切り替えようと、将暉はバスタオルを一枚持ってくると服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。

 それから近所のジムへ行き、考えることを忘れ、筋トレに没頭した。アップテンポな音楽を聴きながら集中して何時間も体を動かしていると、疑心暗鬼に陥っていた思考もすっきりして、普段より多めのセット数を終えた頃にはだいぶ吹っ切れていた。

 昼過ぎには自宅へ戻り、トレーニング後のプロテインを飲みながら何か食べるものはないかと冷蔵庫を漁っているところに部屋のチャイムが鳴る。

 覗き穴を覗くと、スタッズのついた黒のレザージャケットに細身のダメージジーンズを着た、いかにもロックを嗜みますという風貌の小柄な男が立っていた。髪は茶髪で、背中にはギターケースを背負っている。

けん?」

 知っている顔に将暉は迷わずドアを開けた。健がよっと片手を上げる。

 健は大学の同級生で仲の良い友人の一人だが、あまりに突然の訪問なので驚いた。

「急にどうした?」

「これ、頼まれてたレジュメ」

 健はギターケースのポケットから何枚かのA4の紙を出すと、「はいよ」と将暉に差し出す。いくつか同じ授業を取っている健には、将暉がインターンに行って授業を欠席している間、レジュメを余分に貰っておいてほしいと頼んでいたが、家まで持ってきてくれるとは思いもよらなかった。

「サンキュー、助かる。でも渡すのは次の講義の時で大丈夫だったのに」

 これぐらい大したことない、と健は首を横に振る。

「近くに来る用事があったから、そのついで。行くってラインしといたんだけど、見てない?」

「悪い。通知、全然見てなかったわ」

 ジムでトレーニングをする間は基本的に通知を切っているので、健からの連絡には全く気づかなかった。

 親切にわざわざ足を運んでくれたので、ひとまず健を中へ招き入れる。

「来たなら、何か飲んでく? コーヒーとか?」

 厚底の靴を脱いで部屋に上がった健が、信じられないといった顔で将暉を見た。

「嘘、将暉っていつコーヒー飲めるようになったの?」

「僕じゃなくて、大翔が飲むから買ってあるだけ」

「なんだよ、また大翔の惚気話か」

 将暉がついに苦手なコーヒーを克服したのかと途中まで感心していた健は、将暉のキッチンにコーヒーが常備してある理由を知って呆れた。続けて、大切な恋人のコーヒーを奪っては悪いからと、代わりにコップ一杯の水を頼んだ。

 将暉が水を用意して持っていくと、健は部屋の角で電源の入っていない電子ピアノの鍵盤をランダムに押していた。健が将暉の家まで出向いてきた本当の目的はこっちかと悟る。

「ショウ、今からでもキーボードやる気はない?」

『ショウ』というのは、将暉が健のバンドで一緒に活動していた際に使っていたステージネームだ。本名の将暉の将を音読みしただけのシンプルな名前だが、健や当時のバンドメンバーからは今でもショウと呼ばれている。

「忙しくて練習に参加できないから、今年はパスするって前も言ったじゃん。健もそれでいいって」

「そうなんだけど、やっぱりショウのキーボードがないと、何か物足りないっていうか」

 学園祭のステージで演奏するから一緒にやろう、と今年も健から誘われていたが、一、二年の頃とは違ってインターンやバイトで予定が立て込んでいた将暉は、無理して参加してメンバーに迷惑をかけるぐらいならと誘いを断っていた。その時は健も将暉の意思を尊重し受け入れてくれたのだが、まだ諦めきれないらしい。
 
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、本番までもう二週間とないよ? 仮に今からやるって言って、本番までに練習に割ける時間といったら……」

 ただでさえ予定が詰まっており、ダンス練習で忙しい大翔とも過ごせる日が限られているというのに、そこに将暉がバンド活動を再開してしまったら余計会えるものも会えなくなる。親しい友人からの頼みではあったが、これ以上大翔との時間を削るという選択肢は将暉の中にはなかった。

「それにキーボードがいなくたって、バンドはできるって」

 健が担当するボーカルとギター、その他にベースやドラムといった楽器はバンドに必要不可欠な要素だが、キーボードは必須ではない。そこまではっきり告げると、健も「無理を言って悪かったな」と引き下がった。

「でも、気が変わったらいつでも言えよ。俺たちはいつでもウェルカムだし、ショウならぶっつけ本番でもできるっしょ」

「それは買いかぶりすぎだって」

 空気が重くならないように明るく振る舞う健につられて将暉も笑った。見た目は少しとっつきにくいかもしれないが、気さくでいい奴だ。

 健は出された水を飲みながら、「ちなみになんだけどさ」と切り出し、話題を変えた。

「今週の水曜って、ショウはまだインターンの途中だったよな?」

「ああ」

「ってことは、大学には来てない?」

 なぜそんなことを訊くのだろうと不思議に思いながら、頷く。

「だ、だよな。今のは忘れてくれ」

 健の妙な歯切れの悪さに、将暉の探究心がくすぐられた。

「何だよ、気になるじゃんか」

「きっと俺の勘違いだから」

「もったいぶるなって」

 肘で小突いて急かすと、観念した健は一人悩んだ末に渋々口を開いた。

「水曜の夜、バンドの練習終わりに大学から帰ってるとき、前に大翔っぽい人が歩いててさ。誰かと腕組んでるから、最初は将暉かなって思ったんだけど、インターン中って言ってたし……。多分、俺の見間違い。気にすんな」

 見間違い。普段なら軽く聞き流していた言葉も、一日に二回も出会ってしまうとその信憑性はぐらりと揺らぐものだ。
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