気づけばもう、捕まっていた

Kinokonoyama

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2週間

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2週間が経った。
 あの事務倉庫でのキスから、ちょうど2週間。
 甲斐からは何もなかった。
 連絡もない。LINEの一通もない。職場では相変わらず飄々として、私のミスをカバーした件も、倉庫でのことも、まるでなかったかのように普通に仕事をこなしている。
「おはよう、望希さん」
「……おはようございます」
 毎朝それだけだ。それだけで、それ以上は何もない。
 遊ばれた。
 その3文字が、ある朝突然、頭の中でくっきりと形をとった。お酒の勢いで、雰囲気で、それだけのことだったのだ。あの男にとっては。二面性があると言われているのを聞いたことがある。愛想よく誰とでも話すくせに本心は見せない。そういう人間だと知っていたはずなのに。
 ——なにが「かわいい」だ。
 冷蔵庫から麦茶を出しながら、一人でむっとする。
 でもすぐに、自分でも呆れてしまう。
 面倒事は嫌いなはずでしょう、望希。遊びで終わるならそれでいい、むしろ好都合じゃないの。上司と本気でどうにかなるつもりだったわけでもないし、菜帆もいる。ぐちぐち怒る方がおかしい。
 わかってる。わかってるけど。
「ママ、今日どこも行かないの?」
 リビングのソファで菜帆がアニメを見ながら聞いてくる。日曜の昼前、洗濯物を畳みながら私は
「んー」
と曖昧に答えた。
「公園行きたい」
「あとでね」
「あとでっていつもあとでじゃん」
「……ごもっとも」
 言い返せない。最近、頭の中で余計なことばかり考えて、菜帆との時間が散漫になっていた。それも全部あの男のせいだと思うと、余計に腹が立つ。
 そのタイミングで、スマホが鳴った。
 画面を見た瞬間、手が止まった。
 ——塩野甲斐。
 3秒、画面を見つめた。4秒。
 5秒目に、意地でもない顔を作って出た。
「……はい」
「今、暇?」
 2週間ぶりに聞く声が、あまりにも普通すぎて逆に腹が立った。
「暇じゃないです」
「菜帆ちゃん、今日一緒にいる?」
 娘の名前が出て、思わず声のトーンが変わる。
「……なんで菜帆の名前知ってるんですか」
「前に写真見せてくれたじゃないですか、飲み会で。かわいいなと思って覚えてた」
 そんなこともあったかもしれない。覚えていない。でも甲斐は覚えていた。
「それが何か」
「動物園、行かない? 3人で」
 一瞬、言葉を失った。
「……は?」
「近くまで来てるんだけど。もし予定なければ」
「急すぎるでしょう」
「そうだね。嫌なら別にいい」
 嫌なら別にいい。その一言が、また腹立たしい。なんでこの男はいつもこう、こちらが断りにくい言い方をするのか。
 ソファから菜帆がこちらを見ていた。期待のこもった目で。
「……動物園行きたい?」
 小声で聞くと、菜帆の目が輝いた。
「行きたい!!」
 負けた。
「……わかりました。でも1時間後じゃないと準備できません」
「了解。迎えに行く」
 通話が切れた。
 スマホを持ったまま、しばらくそのまま立ち尽くす。
 ——なにやってるんだろう、私。

 
 甲斐は時間通りに来た。私服の甲斐を見るのは、あの朝以来だった。白いシャツにデニム、それだけなのに妙に様になっている。
「おはよう」
「……もうお昼ですけど」
「じゃあこんにちは」
 菜帆は最初こそ甲斐を警戒して私の後ろに隠れていたが、車に乗って10分もしないうちにすっかり打ち解けていた。子供の順応性というのは本当に恐ろしい。
「ねえ、甲斐って呼んでいい?」
「いいよ」
「甲斐ってママの友達?」
「まあ、そんなとこ」
 バックミラー越しに甲斐と目が合った。私はすぐに窓の外に視線を逃がした。
 
 動物園は休日らしい賑わいだった。菜帆はキリンを見て歓声をあげ、ペンギンの前で30分近く動かなくなり、ゾウに向かって「おっきーい!!」と叫んだ。
 甲斐はそれを、ずっと穏やかな顔で見ていた。
「菜帆ちゃん、何が一番好き?」
「ペンギン!でもパンダも見たい」
「じゃあ次はパンダいるとこ行こうか」
「やったー!」
 菜帆が走り出し、甲斐がゆっくりとその後を歩く。私もその隣に並ぶ。
「……子供の扱い、慣れてるんですね」
「そう? ただ一緒にいるだけだけど」
「2週間、なんで連絡しなかったんですか」
 自分でも驚くほど、すっと言葉が出た。隣で甲斐が少し目を丸くした気がした。
「怒ってた?」
「怒ってません」
「嘘だ」
 否定する言葉が出てこなかった。
「……遊びだったなら、ちゃんとそう言ってくれればよかったです。その方がすっきりする」
 甲斐は少し黙った。前を走る菜帆を目で追いながら、ゆっくりと口を開く。
「遊びじゃない」
「……じゃあなんで」
「望希さんがどうしたいか、わからなかったから」
 立ち止まった。甲斐も止まる。
「面倒なこと嫌いでしょう。子供もいる。押しつけるのは違うと思って、様子見てた。それだけ」
 様子を、見ていた。
 2週間、普通に仕事をしながら、この男は私の様子を見ていたのか。
「……様子見るくらいなら連絡くらいしてくれればよかったじゃないですか」
「それもそうだね」
 あっさり認めるな、と思った。
「ままー!パンダいたー!」
 菜帆の声が飛んできた。二人して顔を上げると、菜帆が興奮気味にこちらへ手を振っている。
「行こう」
 甲斐が歩き出す。私も並んで歩く。
「……甲斐さん」
「うん」
「私が、どうしたいか」
「うん」
「まだ、わかんないです」
 正直に言った。甲斐は少し考えて、それから小さく笑った。
「わかった。わかったら教えて」
「教えなかったら?」
「また動物園でも来ればいい。3人で」
 その言葉の、さりげない重さに気づかないふりをしながら、私は走り出した菜帆を追いかけた。
 風が、頬を撫でていく。
 面倒事は嫌いだ。それは今も変わらない。
 ——でも、この面倒くささだけは、まだもう少し、手放したくないと思っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​
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