幸せを掴む勇気

宝月 蓮

文字の大きさ
9 / 20

変わり者の研究者

しおりを挟む
 アルセニーが立ち上げた事業は軌道に乗り、ユスポフ子爵邸にラウラがやって来た。
 アルセニーとタチアナの周囲は少しずつ賑やかになっている。

 そんなある日の朝食にて。
「タチアナさん、この数日で予定が空いている日はあるかい?」
 アルセニーはボルシチを食べているタチアナにそう問いかけた。
 タチアナは落ち着いて口にしていたボルシチを飲み込む。
「ええ。この屋敷で本を読むくらいなので、空いておりますわ」
「そうか。なら……三日後の午後、私と一緒に来て欲しい。君に紹介したい人がいるんだ」
 意味ありげに口角を上げるアルセニー。
「もしかして、二人目のわたくしに会わせたいお方でございますか?」
 タチアナは以前アルセニーに言われたことを思い出し、首を傾げる。
「ああ、その通りだ」
「承知いたしました。楽しみにしております」
 タチアナはクスッと笑った。





♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔





 三日後。
 アルセニーはタチアナを連れて、帝都ウォスコムの中心部からやや外れた地域の閑静な住宅街までやって来た。
 そこはそれなりに裕福でないと住めないエリアで、治安も良い。
 パーヴェルとラウラにもついて来てもらい、用事の最中は自由に帝都を見て周るよう言っている。
「こちらでございますか?」
 タチアナはなんの変哲もない小さな屋敷だ。ユスポフ子爵邸と同じくらいの大きさの屋敷である。
「ああ、そうだよ」
 アルセニーがそう答えた瞬間、屋敷の二階から軽い爆発音が聞こえた。
 アルセニーとタチアナは爆発音がしたであろう場所に目を向けた後、お互い目を丸くして見合わせる。
「あの……この場所は大丈夫なのでしょうか?」
 若干不安になるタチアナ。
「ああ……。恐らく問題はないと思う」
 アルセニーも若干不安そうに苦笑した。
 そして恐る恐る屋敷の玄関に取り付けてある、来客を知らせる鐘を鳴らすアルセニー。
 するとしばらくしてから玄関の扉が開く。
 ツンと独特の薬品臭が二人の鼻を掠めた。

 二人の前に現れたのは、猫背でボサボサのアッシュブロンドの髪にグレーの目の、黒縁眼鏡を掛けた白衣姿の青年。その白衣には、比較的新しい汚れが付着していた。更に黒縁眼鏡の上から、薬品から目を守る為の保護眼鏡を掛けている。そしてグレーの目の下には隈が出来ている。

「何だ、アルセニーか。そういえば今日来ると言っていたな。すっかり忘れて実験に夢中だった」
 ぶっきらぼうな態度の青年。
「いや、気にしないでくれ。……先程の爆発音は実験によるものか?」
「ああ、その通りだ。うっかり圧力がかかり過ぎて爆発したんだ。いやあ、実験台や周囲が薬品まみれで大変だ」
 やれやれ、と言うかのような表情の青年。
 そしてアルセニーの隣にいたタチアナに目を向ける。
「ん? アルセニー、このお嬢ちゃんは……」
 誰なのかと聞こうとして、青年は何かを思い出したようにハッとグレーの目を見開く。
「そういやお前結婚したって話が出回っていたな。その相手がこのお嬢ちゃんか。お嬢ちゃんの方も自殺未遂起こしたとかで色々と有名になってんぞ。俺の所まで話が回って来た」
 そう欠伸あくびをする青年。
「おい、色々と率直過ぎるだろう」
 アルセニーは呆れたように青年を窘め、若干心配そうにタチアナを見る。
「単なる事実確認だ。別に俺はアルセニーが皇帝陛下に怪我させようが、そこのお嬢ちゃんが自殺未遂しようが別にどうでも良い。いちいち噂や醜聞気にしてたら何にもならねえだろ」
 再び欠伸あくびをする青年。どうやら寝不足のようだ。
「……お前はそういう奴だったな。タチアナさん、大丈夫かい?」
 アルセニーは呆れ気味にため息をつき、タチアナに目を向けた。
「いえ、気にしておりませんわ」
 タチアナは穏やかに微笑んだ。
 その表情にホッとしたアルセニーは、青年にタチアナを紹介する。
「とりあえず彼女はタチアナさん。一応……私の妻に当たる」
 アルセニーはタチアナを自身の妻として紹介することに、若干緊張した。
(妻……。わたくしは、アルセニー様の妻なのね)
 タチアナもアルセニーの妻として紹介され、心臓が少しだけ跳ねるのであった。
「タチアナ・ミローノヴナ・……ユスポヴァと申します」
 若干頬を赤く染めつつ、礼儀正しく自己紹介をした。
「タチアナさん、彼がトロフィム・ダニーロヴィチ・イグナチェフだ。俺と同い年で一応イグナチェフ伯爵家の四男だが、生家を出て独立している」
 アルセニーが青年のことをそう紹介した。すると、タチアナはヘーゼルの目を大きく見開く。
「貴方様が、イグナチェフ先生……!」
 タチアナがよく読む有機化学の本の著者であった。
「ん? 何だ、お嬢ちゃん、俺のこと知ってるんだ。この界隈は女性が少ないもんだから珍しいな」
 トロフィムは意外そうにグレーの目を丸くした。
 伯爵家の出ではあるか、全く貴族らしさを感じないトロフィムなのである。
「イグナチェフ先生の本、非常に分かりやすく面白いです。特に、天然素材からの薬成分抽出法やアスピリン生成方法が非常に興味深かったです」
 タチアナはヘーゼルの目を輝かせていた。
 アルセニーはそんな彼女の表情を見て、嬉しくなる反面自分にその表情が向けられていないことに少しだけモヤモヤした。
(どうしてこんな気持ちになるんだ?)
 アルセニーはそのモヤモヤが何かまだ分からなかった。
「へえ、そんなに」
 トロフィムはフッと満足そうに口角を上げる。
「それでトロフィム、タチアナさんに有機化学系の専門知識を実践と共に教えてあげて欲しいんだ。専門的な知識があれば、彼女はきっとやっていけると思う」
 アルセニーは気持ちを切り替え、トロフィムにそう頼む。
 するとタチアナがヘーゼルの目を丸くして驚く。
「アルセニー様、そこまで考えてくださったのでございますね……!」
 タチアナは嬉しそうにヘーゼルの目を輝かせた。
 自身に向けられたその表情を見て、アルセニーは何とも言えない温かな気持ちが湧き上がる。
「ふうん……」
 トロフィムはタチアナの頭のてっぺんから足のつま先までじっくりと、値踏みをするように見る。
「失礼だけどお嬢ちゃん、年はいくつだ?」
「十八ですが……」
 タチアナは怪訝そうな表情だ。
「十八歳か。……まあ危機管理能力や判断力はある年齢だな。じゃあこの問題解いてみな。制限時間は一時間だ。ある程度の基礎知識がないと困る」
 タチアナはトロフィムに何かが書かれた紙を渡された。試験問題のようなものである。
「承知いたしました」
 タチアナはすぐに問題を解き始めた。
 彼女の邪魔をしないように見守るアルセニー。問題をチラリと覗き見たが、有機化学に疎いアルセニーにとっては何が書いてあるのかちんぷんかんぷんだった。

「イグナチェフ先生、出来ました」
 タチアナは少し悩みながらも問題を解き終え、自身の答案をトロフィムに渡す。
 トロフィムはそれを受け取り、タチアナの解答を確認する。
「うむ……」
 やや眉間に皺を寄せるトロフィム。
 タチアナは少しだけ不安になる。
「ま、及第点は超えている。良いだろう。明日からすぐにお嬢ちゃんを見てやるよ」
 トロフィムは満足そうにグレーの目を細めた。
 それにより、タチアナはパアッと表情を明るく輝かせる。
「ありがとうございます。イグナチェフ先生の元で学べるなんて、この上ない程の光栄てす」
 タチアナはヘーゼルの目をキラキラと輝かせていた。
「ありがとう、トロフィム。これから彼女のことをよろしく頼む」
 アルセニーもホッとしたように微笑んだ。
「ああ、お嬢ちゃんは……あ、もうアルセニーの妻だから奥さんって呼んだ方がいいか」
 ニヤリと悪戯っぽく口角を上げるトロフィム。
 アルセニーとタチアナはトロフィムの爆弾発言により、顔を炎のように真っ赤に染めた。
 何はともあれ、タチアナはトロフィムの元で学べることになったのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ついで姫の本気

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
国の間で二組の婚約が結ばれた。 一方は王太子と王女の婚約。 もう一方は王太子の親友の高位貴族と王女と仲の良い下位貴族の娘のもので……。 綺麗な話を書いていた反動でできたお話なので救いなし。 ハッピーな終わり方ではありません(多分)。 ※4/7 完結しました。 ざまぁのみの暗い話の予定でしたが、読者様に励まされ闇精神が復活。 救いのあるラストになっております。 短いです。全三話くらいの予定です。 ↑3/31 見通しが甘くてすみません。ちょっとだけのびます。 4/6 9話目 わかりにくいと思われる部分に少し文を加えました。

自業自得じゃないですか?~前世の記憶持ち少女、キレる~

浅海 景
恋愛
前世の記憶があるジーナ。特に目立つこともなく平民として普通の生活を送るものの、本がない生活に不満を抱く。本を買うため前世知識を利用したことから、とある貴族の目に留まり貴族学園に通うことに。 本に釣られて入学したものの王子や侯爵令息に興味を持たれ、婚約者の座を狙う令嬢たちを敵に回す。本以外に興味のないジーナは、平穏な読書タイムを確保するために距離を取るが、とある事件をきっかけに最も大切なものを奪われることになり、キレたジーナは報復することを決めた。 ※2024.8.5 番外編を2話追加しました!

【完結】わたしが嫌いな幼馴染の執着から逃げたい。

たろ
恋愛
今まで何とかぶち壊してきた婚約話。 だけど今回は無理だった。 突然の婚約。 え?なんで?嫌だよ。 幼馴染のリヴィ・アルゼン。 ずっとずっと友達だと思ってたのに魔法が使えなくて嫌われてしまった。意地悪ばかりされて嫌われているから避けていたのに、それなのになんで婚約しなきゃいけないの? 好き過ぎてリヴィはミルヒーナに意地悪したり冷たくしたり。おかげでミルヒーナはリヴィが苦手になりとにかく逃げてしまう。 なのに気がつけば結婚させられて…… 意地悪なのか優しいのかわからないリヴィ。 戸惑いながらも少しずつリヴィと幸せな結婚生活を送ろうと頑張り始めたミルヒーナ。 なのにマルシアというリヴィの元恋人が現れて…… 「離縁したい」と思い始めリヴィから逃げようと頑張るミルヒーナ。 リヴィは、ミルヒーナを逃したくないのでなんとか関係を修復しようとするのだけど…… ◆ 短編予定でしたがやはり長編になってしまいそうです。 申し訳ありません。

〘完結〛わたし悪役令嬢じゃありませんけど?

桜井ことり
恋愛
伯爵令嬢ソフィアは優しく穏やかな性格で婚約者である公爵家の次男ライネルと順風満帆のはず?だった。

退屈令嬢のフィクサーな日々

ユウキ
恋愛
完璧と評される公爵令嬢のエレノアは、順風満帆な学園生活を送っていたのだが、自身の婚約者がどこぞの女生徒に夢中で有るなどと、宜しくない噂話を耳にする。 直接関わりがなければと放置していたのだが、ある日件の女生徒と遭遇することになる。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

処理中です...