魔王殿

神泉灯

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49・日常の終わり

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「おい、聞こえないのか?」
 忍者のような男は呆然と涙を流す少女に向かって何度も話しかけるが、少女は全く反応を示さない。
 どうやら、記憶世界のおける少女の位置と、自分の位置にズレがあるようだ。
 なぜそのような差異が生じるのかわからないが、推測として、記憶の保有者が少女のことを知っている可能性が高いだろう。
 少女に対して記憶の保有者が、心を開いているかどうかが、問題なのだ。
 そして自分は確実に心に接触されたくない存在だ。
「あたりまえか」
 なにせ、殺そうとしているのだから。
 殺そうとしている存在は、目の前にいる。
 銀の髪と紅い瞳が兎を連想する、色素が欠乏した少年を殺すことが、自分の任務だ。
 もっとも目の前の少年を殺したところで、何の意味もないが。
 これは、少年の記憶にすぎない。
 ここまで現実世界と精神世界が逆転してしまっているのでは、夢と同じで、なんの効果もないだろう。
 実は何度か刀で刺してみたのだが、手ごたえが全くなかった。
「クソ。どうする?」
 忌々しげに呟く男が不快に思っていたのは、目の前に目標が存在するのに、なにもできない状況だからなのか。
 あるいは、目の前で繰り広げられる、幼い少年とその母親が、クズのような父親に虐待されているという、吐き気がするほどむかつく光景のためか。
 眼前の時間が急速に流れ、朝が訪れ、目を覚ました父親が、まだ眼を覚まさずに夢の安らぎにいる息子を、殴り起こす。
 そしてまだ意識がはっきりしていないとなると、苛立って蹴りつける。
 忍者のような男は、顔の筋肉を憤怒で硬直させ歪めると、右手の平をかざし力を解放した。
「うぜえ!」
 瞬間、目の前の景色が消し飛んだ。


「きゃ!」
 マリアンヌは突然の強い発光に目を眩まされた。
 思いがけない事態の推移に混乱するが、心を落ち着かせるよう努めて、瞳を開ける。
 市場だ。
 いつの間にか、少年の実家から、二度を踏み入れた市場へ移動している。
「ごめんなさい! 放して!」
「誰が放すか! とうとう捕まえたぞ! いつも盗んでいやがったのはおまえだな!」
 店の男が、少年の腕を掴んでいた。
 そして反対側の少年の手には、店の商品が握られている。
 窃盗の現行を捕えられたのだ。
 あの力を持ってして発見されたのは、運の悪い偶然が重なってのことだったが、常習的な窃盗の発覚は、事態を悪化させた。
 店員に捕まったゲオルギウスは盗んだ物を取り返され、しかし警察に渡されずに解放された。
 貧民窟では警察と関係するのを厭う人間で占められており、市場の店員もまたその例に漏れない。
 しかしこの時、警察に引き渡されていたほうが少年にとって良かったかもしれない。
 貧民窟では常習犯罪者など珍しくないが、それでも近隣住民の利権を侵してはいけないという暗黙の了解があった。
 それで一応の平穏を保っているのだ。
 そのルールを破った者は貧民窟地域の自警団によってなんらかの私刑に処される。
 オットーの行為は一度だけだと思われ、注意を受けただけだったが、元々嫌われていた男のいる家だ、この一件で完全に阻害されることになった。
 それは男の癇癪を誘発させ、失敗を犯した少年に向けられる。
「なにしてやがるこのボケ! 失敗してんじゃねえぞコラ! ああ、ゲオルギウスだぁ?! 偉そうな名前なんかしやがって! おまえなんざゲロで十分なんだよ! おいゲロ! ゲロ! なんか言ってみろよ?! ゲロが!」
 窃盗の発覚がよほど男の気分を害したのか、その日の暴虐さはいつにも増して執拗で、少年を引きずり回し、殴打し、蹴り続けた。
 住人に相手にされないことの本当の原因がこの最低の人格にあるのだが、実は男もその事実に気付いており、しかしそれを認めようとせず、自分よりかは弱者である少年に責任転嫁している。
 そうしてこの男は意味もなく矜持を保っているのだ。
「あなた止めて、それ以上やったら死んでしまうわ!」
 妻が止めるのも構わずに、あまりに長く暴行を続けたので、ゲオルギウスが本当に動かなくなり、さすがに危険だと思ったのか男は手を止めた。
 しかし次は息子を介抱しようとした妻に暴力の捌け口を向けた。
「この俺に命令するつもりか! ああ?! このアマ! この! この! こんのぉ!」
 男は執拗に妻に拳骨を加える。
 やがて目を覚ましたゲオルギウスがその凄惨さに思わず男に飛び掛る。
「止めて! お母さんが死んじゃうよ!」
「おまえもか! ああ!? どいつもこいつも俺に逆らいやがって!」
 男は息子を持ち上げると壁に叩きつけ動けなくなるまで踏みつけると、これ見よがしに母に暴行を加えた。
「この女からおまえが出てきたんだよ! クズのおまえが生まれたんだよ! 畜生が! だから子供なんかよせって言ったんだ! 俺様に逆らいやがるガキなんざいらねえんだよ!」
 そして母の体にタバコの火を押し付けた。
 彼女は絶叫を上げる。なにがあったのか、この日の男は完全に異常で、自分がなにをしているのか理解せず、ただ衝動に任せ続けていた。
「止めてぇ、お母さん死んじゃうよぉ」
 その泣き声に男は嗜虐心をそそられ、さらに妻に暴行を加えた。
 なんども火を押し付け、そのたびに激痛に絶叫する。
 だが母はその状況でゲオルギウスに優しく微笑んだ。
「大丈夫、私は大丈夫だから」
 だからおとなしくしていなさいと告げようとしたのだろうか、しかしそれは男の平手打ちで遮られた。
「黙ってろ! この売女が!」
 そして妻であるはずの女性に暴行を続けた。


「止めて! 止めて! こんなこと止めて!!」
 マリアンヌは叫んだが言葉は届かない。
 目を瞑り耳を塞いでも、その凄惨な光景は頭の中に直接伝達されてくる。
 こんな地獄が現実にあるということが、少女には信じられなかった。
 信じたくなかった。


「止めて、止めてぇ、止めてえ!」
 ゲオルギウスは泣き叫んだ。
 その時、自分の体の内から異常な感覚が湧き上がるのを感じた。
 今までにない強大な力の発生。これを使えば、父を止められる。
 お母さんを助けることができる。
 理屈ではない、感覚的な思考で結論に達し、危険を考えることなく、躊躇せずにゲオルギウスはその力を解放した。
 次の瞬間、父親の体が四散した。



 ゲオルギウスの父親の死は、警察は事故として処理した。
 力の弱い女性と子供が、一瞬で全身を引き千切るなどという殺害法ができるはずがないと断定したのだ。
 だがどんな条件が揃えばこんな事故が起きるのか、誰にも説明が付けられなかったが。
 しかし警察は貧民窟での犯罪に関して本格的に捜査することは少ない。
 ここは犯罪者の巣窟も同然で、不自然な死者の発見は珍しくなく、その類だと内心考えていたのかもしれない。
 そして暴力を振るう者がいなくなった家庭に平穏が訪れたように見えた。
 家に戻っても、虐待を加える男は存在しない。
 暴力に怯える必要のない、生まれて初めての平穏な日々に、少年は夢の中にいるように思えた。
 彼は父を殺したことに罪悪感を抱いていなかった。
 それどころか、なぜ早くやらなかったのだろうかという疑問さえあった。
 しかし悔恨の念はそれほど強くなく、罪の意識がないのも、少年の人格の問題というより、人を殺した実感がなかったからなのかもしれない。
 それほどまでに、目の前の幸福な生活の日々に陶酔していた。
 母は夫の死について、警察の見解に不信感があったが、ゲオルギウスが殺害したのだとはさすがに考えが及ばなかった。
 その異質な力に気付いた時、利発な少年はこれが知られると良くないことの原因になると考え、自分に備わっている力を母に告げたことはなかったのだ。
 だから彼女は怪訝に思っても、事故だと信じ込もうとさえしていた様子があった。
 そしてゲオルギウスに変わらずに接しているように見えた。
 しかしその挙動や言葉の端々に、どこか奇妙で不自然な点が見え隠れしていた。
 母は平穏な日々というものに戸惑っていたのか、あるいは直感的に真実に気付いていたからなのかもしれない。
 それでも少年には幸せな日々だった。
 暴力に怯えることなく母の側に安心していられる、かけがえのない大切な時間だった。
 その日々に陰りが生じる。



 ある日、一人で仕事に言っている母の帰りを待っていると、部屋の隅の陰からなにかが現れた。
 無数の小さな人影のようなそれは、最初錯覚か幻覚と思ったが、床を這い、椅子に攀じ登り、テーブルの上に立ち、自分に向けて手を伸ばしてくるのを見て、それが現実だと理解した。
 衣服を着ておらず、肉の塊に手足がついた、しかし頭部と思われる個所には毛髪の類が一切なく、目も鼻も口もない。
 それなのに、少年の存在を感じ取り、触れようとする。
 恐怖が沸き起こり、それから逃げようと扉の取っ手に手をかけるが、鍵がかけられたかのように動かない。
 助けて。助けて。助けて。助けて……
 同じ言葉を延々と繰り返す異形の小人に、哀れみは感じず、ただ恐怖が少年の心を支配する。
 これは魔物だと、直感で理解したのだ。
 人の願いをかなえる代わりに魂を奪う恐ろしい怪物。
 体の震えが止まらない。
 不意に部屋に光が満ち、白装束の衣服をまとった女性が現れた。
 針金細工の羽を広げ、小人たちを包み込む。
 それは天使の姿そのものだった。
「ゲオルギウス。この哀れな者たちの魂を救ってください。あなたの力を私たちに貸してください。もしあなたが望めば世界中の富を手に入れられるでしょう。あなたが望めば全ての権力を手にすることができるでしょう。あなたが望めば世界の王になれるでしょう。唯一つ、私たちに力を貸すだけで」
 ゲオルギウスは優しく語り掛ける天使のような女の人に、しかし安堵などせず不安感を持った。
 優しく穏やかな口調は無理強いをしているわけではない。
 だがこの綺麗な女性も、小人と同じ存在だと感じた。
 少年は恐怖で強張る筋肉を強引に動かして、首を何度も振る。
 要望を拒否された天使はそれ以上何も言わずに姿を消し、小人も消えた。
 異形がいなくなった後の部屋は静寂に支配され、すべては転寝の夢のように思えたが、恐怖だけは心に確かに現実の痕跡を残していた。


 警察が事故と処理しても、貧民窟の住人たちは真相を薄々感じ取っていた。
 彼らは犯罪を悪と考える者は少ないが、しかし同じ地区の住人同士で諍いを起すことは御法度だったし、なにより身内同士の殺人は最大級の禁忌だ。
 父殺しは。
 勿論明確な証拠がない以上、自警団は手を下すことはしない。
 数々の事柄を貧民窟だけで内密に処理してきたが、無法者ではないのだ。
 もしかすると、これまでの経緯を知っている彼らは手心を加えたのかもしれない。
 しかし住民は彼らに常に警戒を払うようになり、それはある少年たちの一団に影響を与えた。
 彼らはある種の犯罪予備軍で、グループを形成し、組織的な行動を取っていた。
 まだ本格的な犯罪は起していないが、遠くない将来、少年たちが犯罪組織の下部人員として働くことになるのは誰の目にも明らかだった。
 休日の公園で穏やかな午後を堪能していたゲオルギウスと母に、その少年たちが絡んできた。
 それは大人たちが目をつけている人物がどんな者か、興味本位による遊び半分での行為だった。
 囲まれ逃げ道を失った二人は、彼らに抵抗する気力などなく、からかい半分の脅しに竦みあがり怯える。
「なんだよ、こいつ。ほんとにこいつがやったのかよ?」
 期待していた危険なことはなにもなく、しかし彼らはそれで止めずに、寧ろ行為はエスカレートし、二人を脅し続けた結果、暴力に繋がった。
 はじめは小突き回し、しだいに殴る蹴るなどの本格的な暴行を加え始めた。
 幼い彼らは自分たちの凶暴な欲求を抑制する術を持たず、そして恰好の捌け口を見つければ、それに容赦なくぶつける。
 そして母に強姦しようとまでし、茂みの中に引き込んで彼女の服を剥いたその時、ゲオルギウスの脳裏に父が母にした時の光景が浮かんだ。
 殴り蹴りタバコの火を押し付けられ絶叫を上げる母に、嗜虐的な悦楽に浸る父と、我が物顔で横行を繰り広げる少年たちの姿が重なった。
「止めろ!」
 叫んだその瞬間、数人の少年たちの体が爆ぜた。
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