魔王殿

神泉灯

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50・平穏な日々の始まり

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 もう疑う余地はなかった。
 信頼できない警察には連絡されず、貧民窟の自警団だけで処理されることになる。
 こんな事態の為に、使用停止された地下下水道に貧民窟の住人たちが設置してあった牢獄に、ゲオルギウスは幽閉されることが決定した。
 そして母は異議を唱えず、少年は母の指示に従い牢の中におとなしく入った。
 殺された少年たちの親は、ゲオルギウスを父殺しと合わせて処刑するべきだと訴え出たが、自警団は実行に移すのに躊躇いを見せていた。
 もしゲオルギウスが全力で抵抗されたら、あの異常な力の前に実行者が返り討ちに会うだろう。
 素直に牢屋に入ったのは、母に迷惑がかかるからだという思いからだったが、しかしそれ以上のことには安全が保障されない。
 そして誰も口にしなかったが、ゲオルギウスはあの力で牢屋を脱出することはいつでも可能なのだとわかっていた。
 とにかく母親を使って牢屋の中に入れて外部との接触を断ち続けるのが、現状取りえる最善の処置だと判断した。
 もっとも殺害された少年たちの親が、ゲオルギウスへの復讐を実行しに行ったとしても、止める意図はなく、それが如何なる結果になっても関与や新たな処置を行うつもりはなかった。
 しかし処刑を唱える彼らもまた、異常な力を前に怯え竦みあがり、ゲオルギウスに直接復讐しようとはしなかった。
 そして地下牢獄で少年は長い時間を過ごす。
 牢屋の前にはなぜか聖人の石像が安置されていた。
 右手に聖典を持ち頭に十字が描かれた布を被った、不気味な聖職者。
 それは罪の意識を促す為か、それとも恐怖を誘発する為か、もしくは遺棄されていただけだったのか。
 少年の面倒を見るのは母の仕事だった。
 母は食べ物を運び着替えを用意し、優しく接っして話しをする。
 それは少年にとって以前と変わらない幸せな日常だった。
 世界中の全ての人間が敵に回っても、愛する母がいてくれれば、少年はなにも必要とせず、望まなかった。
 また母は力の使用を戒めた。
「ゲオルギウス、あの力は使ってはダメよ。みんな怖がるから。ね?」
「うん」
 少年は母の言うことにはなんでも従った。
 愛情を与えてくれる者に盲目的に懐く子犬のように。



 時が経ち、誰もいない時に以前現れた天使が訪れるようになった。
 彼女は優しく語りかけ、虐待を受けたことに同情し慰めてくれた。
 初めは恐怖が先立ったゲオルギウスだったが、何度も訪れる彼女に慣れてくると、親しみを感じるようになった。
 やがて天使は要望を再び懇切に語った。
「私たちはあなたと同じようにとても辛いことにあっていたの。とても長い間。だからあなたの苦しみはよく理解できるわ。
 でもね、私は逃げることができたけど、以前の私と同じ境遇に置かれ苦しんでいる人たちがたくさん残されているの。私は彼らを助けてあげたい。だから、お願い、力を貸して。
 勿論無償ではないわ。あなたが力を貸してくれたのなら、あなたの望むことはなんでも叶えてあげる。全ての財宝を手にすることも、全ての権力を手にすることも、世界の王になることも、そしてあなたのお母様との永遠に平穏も」
 ゲオルギウスはその言葉を拒否した。
「ごめん。お母さんに言われたんだ。もう、力を使っちゃ駄目だって。また力を使ったらお母さんが悲しむから、僕、できないよ」
「そう、わかったわ」
 天使は強制することなく、それでも時々姿を現しては話しをしてくれた。
 力を使うことだけは断ったが、彼女は他にも色々な話をしてくれ、おかげで退屈せず、牢獄の生活は楽しいものになった。
 しかし誰かが牢の中の少年の様子を見に来ると、その姿を消す。
 天使は少年に約束を願った。
「毎日あなたに会いに来るわ。だけど、私のことは誰にも言わないで」
 少年は彼女の願いを承諾した。力を使わないことなら、天使の願いを叶えてあげたかった。
 魔物は少しずつ少年の心に侵食していった。
 精神の間隙を見逃さず。


 どれぐらいの月日が経ったのだろうか、その日いつもと同じように、母がやってきた。
「ゲオルギウス、調子は悪くない?」
「うん、大丈夫だよ」
 用意してくれた清潔な服に着替えて、食事を摂ろうとした時、背後で天使の声が聞こえた。
 それを食べてはだめ。
 毒が入ってる。
 その人はあなたを殺そうとしている。
「え?」
 その言葉の意味を汲み取れず、少年は思わず聞き返してしまった。その様子に母は怪訝な表情をする。
「どうしたの? ゲオルギウス」
「ううん、なんでもない」
 尋ねてくる母に少年は答えながら、天使の言葉を脳裏で反芻した。
「ねえ、お母さん。これ、お母さんが作ってくれたんだよね?」
 母は当然だというふうに頷いた。なぜそんな質問をしてくるのかわからないように。
「ええ、そうよ。毎日あなたの為に作っているの。どうしてそんなことを聞くの?」
「えっと、なんとなく気になって」
 少年はそれで疑念なく食事を口にした。
 母が毒を入れるわけがない。
 どうしてそんな意地悪なことを言うんだろう。
 冗談なのかもしれないけれど、面白くない。
 天使が再び現れた時、抗議しようと内心決めた途端、不意に少年の臓腑が熱くなった。
 焼け付くような感覚が喉元にまで上がり、次の瞬間、鮮血を吐き出した。
「お、おお、お母、さん」
 体に力が入らず倒れた少年は、助けを求めて母に手を伸ばすが、彼女はその手から逃れるように後退り、ポケットに入れていたナイフを取り出した。
 マリアンヌは彼女の行動に戦慄した。
 ゲオルギウスの母は我が息子の背中にナイフを突き立てた。
「おまえが、おまえが死ねば私は自由になれるんだ!」
 ゲオルギウスの心に母の殺意がナイフと共に突き刺さり、それを媒体として心の奥底の心情が流れ込んできた。
 母は父を愛していた。
 どれだけ暴力を振るわれようとも、その愛が消えることなく、見えない鎖となって束縛されていた。
 子供ができた時、男はその間だけ優しかった。
 もしかすると夫なりに愛情を持っていたのかもしれない。
 そしてゲオルギウスを出産し、幸せな家庭生活が始まるのだと信じていた。
 だがそれは数年だけで、男の暴力は再開する。
 ただ以前と違ったのは、暴力の対象が自分だけではなく、ゲオルギウスにも及んだことだった。
 それは彼女にとって都合の良いことだった。
 虐待の量が半分に減る。
 彼女は息子が逃げ出さないように、優しく接した。
 自分の居場所はここにしかないのだと、そう思うように仕向けた。
 それは成功しゲオルギウスは家から離れず、夫からの虐待は受ける時間は、ゲオルギウスが誕生する以前よりも明らかに減った。
 だがある日、夫が突然死んだ。
 初めは状況の急激な変化に付いて行けず戸惑うだけだったが、慣れてしまえばどうしてあんな男に献身を尽くしていたのか疑問に思うくらいだった。
 そして愛情などその程度のものなのだと認識した。
 しばらくは息子との生活を楽しんだが、あの男を殺したのが自分の息子だと知った時、それは恐怖に変わる。
 幸い自警団によって息子は隔離され、一緒に生活する必要はなかったが、世話をする役はやはり自分だった。
 毎日自分の息子に会いに行くのは恐怖との対面だった。
 あの力を使われたらどうしようかと恐れ慄いていた。
 いつもと変わらない態度を必死で演じてきた。
 幸い息子は自分の愛情表現を疑わず、自分の言いつけをなんでも聞いた。
 しかし近隣の住人は、ゲオルギウスに我が子を殺された復讐心と憎悪と、未知の強大な異能力に対する恐怖を抱いていた。
 あれは人間ではない、魔物だ。
 魔物に魂を売り渡したに違いない。
 それらの感情は時と共に増幅し、疑いは母にも及ぶ。
 その容疑を晴らす方法はひとつ。
 もしそれをしなければ、自分も幽閉されることになるか、最悪殺されてしまうだろう。
 いや、今まで自由などあったのだろうか。
 夫の暴力に耐え、息子の力に怯え、他人の疑惑の目を恐れている。
 もう我慢の限界だ。
 ゲオルギウスが消えれば自分は自由になれる。
 この化け物が死ねば、完全に自由になれるのだ。
 元々彼女は曲がった精神の持ち主だったのだろう、それはついに禍った行動として現れた。
 自分を救ってくれた筈の息子を守ることなく、自己の為に殺す。
 彼女は息子の背中をナイフで何度も刺した。
「死ね! 早く死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね! 早く死んでぇえ!!」
 十数回突き立て、疲労で腕が動かなくなって、漸く凶行を止めた。
 息を切らした彼女のその目は血走っており、狂気を孕んでいた。やがて呼吸の乱れが整い、動かなくなった自分の子供を見て、彼女は笑い始めた。
「は、はは、あははははは……」
 それは安堵の笑いだった。
 こんな簡単なことだったのだ。
 数ヶ月間ずっと世話をしてきて、いや、それ以前からずっと一緒に暮らしていて、ゲオルギウスは母である自分に心を許していた。
 殺そうと思えばいつでも殺せたのだ。
 どうしてもっと早くしなかったのだろうか。
 どうしてもっと早くこの化け物を殺さなかったのだろうか。
 後悔の念さえ湧き上がった。
 しかし全て終ったことだ。
 夫は死に、化け物の息子も死んだ。
 自分を束縛する者はもうなにもない。
 あとは貧民窟を出て人生をやり直そう。
 ふと彼女は自分の手に満遍無く付着している血に気がついた。
 化け物の血だ。恐怖が湧き上がり、手拭で拭き取ろうとするが、粘着性の強い血液は手から落ちてくれない。
 自分の手の皮が剥けるぐらい強く擦り続ける。
 不意に、ゲオルギウスの体が動いた。
「え?」
 彼女は信じられない思いで呟き、体が竦んで硬直した。
 背中に幾度となく刃物を突き刺したのに、一分も持たない猛毒を服用させたのに、まだ生きている。
 ゲオルギウスは立ち上がり、その手を母に伸ばした。
「ど、どうして? お母さん、僕、お母さんの言いつけ守ったよ。力を使わなかったよ。それなのに、どうして? どうして僕がそんなに嫌いなの? お母さん。お、お母さん?」
 涙を流しながら力なくにじり寄る少年に、心の底から恐怖して彼女は絶叫した。
「いやああああああ!!」
 全力で逃げ出した彼女の背を、ゲオルギウスは涙を流し、茫然と見つめていた。
 母の愛など始めからなかったのだ。
 ただ父からの虐待を少しでも逸らす為に優しくしていただけだったのだ。
 それなのに自分は世界でただ一人、愛情を注いでくれるかけがえのない人だと思い込んでいた。
 全て虚言だったのに、物心付いた時から疑いもせず。
 絶望に包まれ意識を失いつつある少年を、天使が背後から包みこんだ。
 彼女が注ぎ込む光に、生存さえ不可能な損傷を負った肉体が急速に再生されていく。
 その腕の中で、涙を流す少年の頬を、慈愛の手で天使は撫でた。
「可愛そうに、ゲオルギウス。でも、安心して。私がいるわ。私が本当のお母さんになってあげる。私がずっと側に居てあげる。あなたを守ってあげる。あなたを育ててあげる。だから、ゲオルギウス、今はただ、眠りなさい」
 天使の優しい囁きに誘われて、少年は眠りについた。
 かつて母の愛を疑うことなく寄り添ったように。
「わたしがお母さんよ」
 そうだ。
 僕のお母さんはここにいる。
 今のは悪い夢だったんだ。
 だって、僕の優しいお母さんはここにいるんだから。
「くすくす……くすくすくすくすくす……」
 心の支えを失った少年の笑みは、静かに、だが確かな狂気に蝕まれていた。


 マリアンヌは呆然と涙を流していた。
 こんなことが現実に起こりえるなど考えられなかった。
 あまりにも理不尽な現実をなにも知らない自分に対する怒りさえ覚えるほど。
 そして何一つ助けることのできない自分の無力を嘆いて。
 魔王ゲオルギウス。
 彼が全世界の人類に対して行った惨劇は消して許されるものではないのはわかっている。
 だが、その過去において自らが属する世界と決別するだけの理由があったのだ。
 誰もが理解できる理由。
 子供が母の愛を求めること。
 そして魔物は、そんな幼い少年の心に付け込んだ。
 狂気をその心に侵食させるために。
 マリアンヌは拳を強く握り締めた。
 爪が拳に食い込むほど強く。
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