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2 恋人との温度差
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ベルタの家は、働いている宿屋から路地を曲がった先にある平屋の一軒家だった。
「ただいまぁ。おばあちゃん帰ったよ」
返事のない暗い部屋に明かりを灯す。両親の顔は知らず、祖母に育てられた。その祖母も二年前にこの世を去り、形見のネックレスだけが静かに棚の上に置いてあった。祖母は小粒のアメジストが付いたネックレスを取り出しては口癖のように、“困った事があったらこのネックレスを売るんだよ。何より大切なのはベルタなんだからね”そう言っていた。
「売れる訳ないよ。おばあちゃんがずっと大事にしていた物だもん」
決して裕福ではないが、二人くらいなら生きていけるくらいには働いていた。だがこの家を祖母から相続する際、蓄えのほとんどを税で取られてしまい、今はまたコツコツと蓄える日々が続いていた。
クヌートから寄越されたナイフをその隣りに置き、ゆっくりとベッドに倒れていく。そして狭い部屋の中を見渡すと、不意に涙が横に垂れていった。橙色のランプの明かりに照らされた部屋をどことなく見ていると、どうしようもない寂しさと虚無感に襲われる事がある。このまま誰にも知られる事なく、ひっそりと消えてしまいそうな、そんな恐怖だった。
――コンコンコンッ。
突然扉が叩かれ、ベルタはとっさに枕元に置いている棒を掴んだ。今日来客の予定はない。カミラかクヌート、もしくは宿屋の女将さんだろうか。扉の前に行きそっと耳を付けた。
「ベルタ? まだ帰っていないかな」
声を聞いた瞬間、急いで鍵を開けていた。
「良かった、帰っていたんだ……」
隙間から濃い茶色の髪が見えた瞬間、恋人の広い胸に飛び込んでいた。
「ニルス! どうしたの? 来るのは明日よね!?」
抱き着きながらそう言うと、上からクツクツと楽しそうな声が降ってきた。
「予定が早く終わったんだ。少しでも早く顔を見ようと思って。そうだ、お腹減っていない? 色々持って来たんだけど一緒に食べよう?」
嬉しさが声にならず、ベルタはニルスの服で顔を拭くように擦り付けていた。クヌートの言っていた事は本当だった。忙しい時間を縫って会いに来てくれたニルスの体をこれでもかというくらいに抱き締めた。
「ベルタどうした? 苦しいよ」
「嘘よ、これくらいで苦しい訳ないわ」
笑いながら言うと、ぐいっと離されて唇に優しい口づけが落とされた。
「でも離れないとこう出来ないだろ?」
どちらともなく腰に手を回すと扉を締める。そしてずっと手に持っていた棒に気が付いたニルスは、苦笑いしながらそっと棒を取った。
「もしかして一歩間違っていたら僕はこれで殴られていたのかな」
「そうね、無言だったら扉を開けた瞬間に叩いていたかもしれないわ」
「僕の恋人は勇敢で心強いよ。さぁ温かいうちに食べよう。買ってきたばかりのシチューと干し葡萄が入ったパンと、君の好きなタルトだよ。シチューは沢山あるから明日の朝食も同じになってしまうけどね」
苦笑しながら持っている袋を上げてみせてくる。代わりに受け取ろうとしてヒョイッと横にズラされた。
「すっごく重いからベルタには無理だよ。僕に任せてお皿を出してくれる?」
さっきまでこのまま消えてしまいそうだった橙色のランプに包まれた部屋の中は、ニルスがいるととても明るく温かい場所に打って変わるから不思議だ。もう先程までの寂しさはなく、幸せだけが満ちていた。
「それでね、カミラったらクヌートからの結婚の申し込みを受けたんですって。付き合ってまだ半年よ? それに人気役者と団長の結婚だなんて、劇団は大丈夫かしら」
「でも期間は関係ないんじゃないかな。それに二人は想い合っていたけれど立場上カミラが交際を渋っていたって言っていただろ? ようやく手に入ったんだからクヌートがすぐ結婚を申し込んだのも分かるよ」
「でも私達は付き合ってもう二年近く……って、もう少しシチューおかわりしようかな」
「うん、どんどん食べて」
触れてはいけない話題の気がして話を強引に終わらせてしまったが、それはニルスも望んでいたようだった。胸の奥にツキンと鈍い痛みが走る。本当はもう満腹のお腹に、おかわりのシチューを流し込んだ。
「それで明日は一緒にいられるの? 明日のお休みの為に私仕事を一生懸命頑張ったんだからね」
「ハハッ! それは僕も同じだよ。明日はどこに行こうか? 買い物でもいいし、少し遠出してピクニックでもいいね。ベルタのしたい事をしよう」
「何でもいいの?」
「いいよ。何がしたい?」
優しい薄緑色の目が微笑まれれば全ての心配が危惧だったように思えてくる。濃い茶色の髪を掻き分けながらニルスは大きく背伸びをした。気を緩めている雰囲気に安堵しながら、机の下でニスルの片足を両足で挟んだ。するともう一方のニスルの足が囲うように伸びてくる。ベルタはうっとりとした表情でニルスを見つめながら言った。
「カミラ達に会って欲しいの。友人になって日は浅いけれど、とても良い人達よ。だから紹介させて欲しいの」
その瞬間、足に絡まっていたニルスの足がゆっくりと離れていくのが分かった。
「ニルス? どうかした?」
「……僕は会えない。ごめん」
「どうして? 二人ともニルスに会いたがっているわ」
「……その友人達はどうして僕に会いたいんだ?」
「どうしてって、私の恋人だからに決まっているじゃない」
「僕の事はどこまで話した?」
ニルスの表情がみるみる強張っていく。ベルタは得体の知れない恐怖に飲まれ始めていた。
「二年前に出会って、一ヶ月に一回くらいしか会えなくて……お城務めで、貴族で……」
言葉にしていくとニルスが何を危惧しているのか分かり始めてくる。ニルスが口を開く前にベルタは叫んでいた。
「カミラ達はニルスが貴族だから会いたがっている訳じゃないわ!」
「僕はまだ何も言っていないよ」
「そう、だけど……」
ニルスは口元をそっとハンカチで拭くと静かに立ち上がった。
「今夜は帰るよ。夜に話し合っても良い事はないからね。明日の朝迎えに来るから行きたい所を考えておいて。……何でもいいと言っておきながら叶えてやれなくてすまない」
「そんな、私の方こそ……」
続きが言葉にならない。ニスルが頭に口づけを落としてくれる。それでも立ち上がる事も振り返る事も出来ないまま、静かに扉が閉まる音を聞いていた。
閉まる音と共に、“ちゃんと鍵を締めて”というニルスの声が聞こえた気がした。
「ただいまぁ。おばあちゃん帰ったよ」
返事のない暗い部屋に明かりを灯す。両親の顔は知らず、祖母に育てられた。その祖母も二年前にこの世を去り、形見のネックレスだけが静かに棚の上に置いてあった。祖母は小粒のアメジストが付いたネックレスを取り出しては口癖のように、“困った事があったらこのネックレスを売るんだよ。何より大切なのはベルタなんだからね”そう言っていた。
「売れる訳ないよ。おばあちゃんがずっと大事にしていた物だもん」
決して裕福ではないが、二人くらいなら生きていけるくらいには働いていた。だがこの家を祖母から相続する際、蓄えのほとんどを税で取られてしまい、今はまたコツコツと蓄える日々が続いていた。
クヌートから寄越されたナイフをその隣りに置き、ゆっくりとベッドに倒れていく。そして狭い部屋の中を見渡すと、不意に涙が横に垂れていった。橙色のランプの明かりに照らされた部屋をどことなく見ていると、どうしようもない寂しさと虚無感に襲われる事がある。このまま誰にも知られる事なく、ひっそりと消えてしまいそうな、そんな恐怖だった。
――コンコンコンッ。
突然扉が叩かれ、ベルタはとっさに枕元に置いている棒を掴んだ。今日来客の予定はない。カミラかクヌート、もしくは宿屋の女将さんだろうか。扉の前に行きそっと耳を付けた。
「ベルタ? まだ帰っていないかな」
声を聞いた瞬間、急いで鍵を開けていた。
「良かった、帰っていたんだ……」
隙間から濃い茶色の髪が見えた瞬間、恋人の広い胸に飛び込んでいた。
「ニルス! どうしたの? 来るのは明日よね!?」
抱き着きながらそう言うと、上からクツクツと楽しそうな声が降ってきた。
「予定が早く終わったんだ。少しでも早く顔を見ようと思って。そうだ、お腹減っていない? 色々持って来たんだけど一緒に食べよう?」
嬉しさが声にならず、ベルタはニルスの服で顔を拭くように擦り付けていた。クヌートの言っていた事は本当だった。忙しい時間を縫って会いに来てくれたニルスの体をこれでもかというくらいに抱き締めた。
「ベルタどうした? 苦しいよ」
「嘘よ、これくらいで苦しい訳ないわ」
笑いながら言うと、ぐいっと離されて唇に優しい口づけが落とされた。
「でも離れないとこう出来ないだろ?」
どちらともなく腰に手を回すと扉を締める。そしてずっと手に持っていた棒に気が付いたニルスは、苦笑いしながらそっと棒を取った。
「もしかして一歩間違っていたら僕はこれで殴られていたのかな」
「そうね、無言だったら扉を開けた瞬間に叩いていたかもしれないわ」
「僕の恋人は勇敢で心強いよ。さぁ温かいうちに食べよう。買ってきたばかりのシチューと干し葡萄が入ったパンと、君の好きなタルトだよ。シチューは沢山あるから明日の朝食も同じになってしまうけどね」
苦笑しながら持っている袋を上げてみせてくる。代わりに受け取ろうとしてヒョイッと横にズラされた。
「すっごく重いからベルタには無理だよ。僕に任せてお皿を出してくれる?」
さっきまでこのまま消えてしまいそうだった橙色のランプに包まれた部屋の中は、ニルスがいるととても明るく温かい場所に打って変わるから不思議だ。もう先程までの寂しさはなく、幸せだけが満ちていた。
「それでね、カミラったらクヌートからの結婚の申し込みを受けたんですって。付き合ってまだ半年よ? それに人気役者と団長の結婚だなんて、劇団は大丈夫かしら」
「でも期間は関係ないんじゃないかな。それに二人は想い合っていたけれど立場上カミラが交際を渋っていたって言っていただろ? ようやく手に入ったんだからクヌートがすぐ結婚を申し込んだのも分かるよ」
「でも私達は付き合ってもう二年近く……って、もう少しシチューおかわりしようかな」
「うん、どんどん食べて」
触れてはいけない話題の気がして話を強引に終わらせてしまったが、それはニルスも望んでいたようだった。胸の奥にツキンと鈍い痛みが走る。本当はもう満腹のお腹に、おかわりのシチューを流し込んだ。
「それで明日は一緒にいられるの? 明日のお休みの為に私仕事を一生懸命頑張ったんだからね」
「ハハッ! それは僕も同じだよ。明日はどこに行こうか? 買い物でもいいし、少し遠出してピクニックでもいいね。ベルタのしたい事をしよう」
「何でもいいの?」
「いいよ。何がしたい?」
優しい薄緑色の目が微笑まれれば全ての心配が危惧だったように思えてくる。濃い茶色の髪を掻き分けながらニルスは大きく背伸びをした。気を緩めている雰囲気に安堵しながら、机の下でニスルの片足を両足で挟んだ。するともう一方のニスルの足が囲うように伸びてくる。ベルタはうっとりとした表情でニルスを見つめながら言った。
「カミラ達に会って欲しいの。友人になって日は浅いけれど、とても良い人達よ。だから紹介させて欲しいの」
その瞬間、足に絡まっていたニルスの足がゆっくりと離れていくのが分かった。
「ニルス? どうかした?」
「……僕は会えない。ごめん」
「どうして? 二人ともニルスに会いたがっているわ」
「……その友人達はどうして僕に会いたいんだ?」
「どうしてって、私の恋人だからに決まっているじゃない」
「僕の事はどこまで話した?」
ニルスの表情がみるみる強張っていく。ベルタは得体の知れない恐怖に飲まれ始めていた。
「二年前に出会って、一ヶ月に一回くらいしか会えなくて……お城務めで、貴族で……」
言葉にしていくとニルスが何を危惧しているのか分かり始めてくる。ニルスが口を開く前にベルタは叫んでいた。
「カミラ達はニルスが貴族だから会いたがっている訳じゃないわ!」
「僕はまだ何も言っていないよ」
「そう、だけど……」
ニルスは口元をそっとハンカチで拭くと静かに立ち上がった。
「今夜は帰るよ。夜に話し合っても良い事はないからね。明日の朝迎えに来るから行きたい所を考えておいて。……何でもいいと言っておきながら叶えてやれなくてすまない」
「そんな、私の方こそ……」
続きが言葉にならない。ニスルが頭に口づけを落としてくれる。それでも立ち上がる事も振り返る事も出来ないまま、静かに扉が閉まる音を聞いていた。
閉まる音と共に、“ちゃんと鍵を締めて”というニルスの声が聞こえた気がした。
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