国の英雄は愛妻を思い出せない

山田ランチ

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21 何よりも大切な人

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「奥様? 気が付かれましたか?」

 見慣れない天井がぼんやりと視界に入る。頭は傷んで視界も霞んでいたが、聞き慣れた声に安堵しじんわりと涙が溢れた。動かそうとした身体に痛みが入り、思わず顔を顰めた。

「ルネ、私の身体ちゃんとある?」
「もちろんですよ。でも右腕が折れております。あとは全身を打ったようなので目が覚めたら痛みが出るとお医者様が仰っておりました。ご気分はいかがですか?」
「痛いわ、でも大丈夫。私あの時フレデリック様の幻覚を見たのよ。幻でも幸せだったわ」
「幻覚などではありませんよ」

 声にならない声が出る。思わず首を上げると、ルネは泣きながら唇を噛み締めていた。

「まさかそれじゃあ、あれは本物のフレデリック様だったの?」
「旦那様は奥様を助けに行かれました。ですから本物です」
「それじゃあフレデリック様は、今……」

 怖くてそれ以上が聞けない。折れていない方の腕で半身を支えながら起き上がった。

「旦那様はまだ目を覚まされておりません」
「今どこに?」
「お隣のお部屋におられます」

 アナスタシアは無我夢中で体を起こすと部屋を飛び出していた。隣りの部屋に飛び込むと、ロラン医師の背中が見えた。

「先生、フレデリック様は」

 余裕のある顔ではなく強張った表情のまま身体を避ける。恐る恐る近付いた寝台にフレデリックが眠っていた。頭と腕、足にも包帯が巻かれ、添え木がしてある。どれだけ重症なのかは一目瞭然だった。

「フレデリック様?」

 もちろん返事はない。固く瞑られた瞼が開くことなく、唯一生きていると分かるのは厚い胸が微かに上下しているからだった。

「あなたを抱えて二階から落ちたそうです。奥様も怪我人なのですから安静に……」

「目を覚ましますか? 覚ましますよね?」

 しかしロランは俯くだけだった。下げた視線の先に固く握られた拳が目に入る。悔しい想いは自分だけではないのだ。ロランはフレデリックの友人なのだから辛くない訳がない。アナスタシアは床に膝を突くと、痛々しいその腕にそっと触れた。

「フレデリック様、私達の出会いの日を思い出したんです。幼い頃の迷子になった恐ろしい記憶に蓋をしてしまったのかもしれません。お城の廊下で再会したフレデリック様がお声を掛けて下さった時にそれを覚えていたなら、逃げずに私もお会いしたかったとお伝え出来たのに」

 シーツを握り締めたまま溢れる涙を擦り付ける。 

「フレデリック様、お願いだから目を覚まして下さい。ずっとずっと愛しています」
「やっと聞けたよ、君からその言葉を」

 掠れた声が頭上から振ってくる。驚いて顔を上げると薄目を開けたフレデリックと目が合った。

「いつから?」
「ついさっきだ。ロラン、お前な」

 視線だけ動く先を一緒に辿ると、ロランは嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。アナスタシアは溢れる想いのままフレデリックにしがみついていた。

「本当に良かった」
「アン、少し力を弱めてくれると、助かる」

 とっさに離れようとする腕を空いていた手で引かれる。それは信じられない程に弱々しいものだった。

「離れていいとは言っていない」
「ですがお怪我が」
「不本意だが、本当に不本意だが今すぐに力一杯に抱き締めたい所だが、今はこのくらいしか触れられそうもないんだ」
「そうなの、ですね」
「だから動けるようになったら、その……力一杯抱きしめてもいいだろうか」
「お前の力一杯だと奥様が潰れてしまうだろ」
「ロラン!」

 しかし声には力が籠もっていない。訳が分からずに二人を見比べると、腕を掴んでいた手が頬に伸びてきた。冷たい指がするりと頬を撫でていく。

「落ちたのが荒治療だったのか、おかげで記憶が戻ったんだ。随分辛い想いをさせてしまったな。すまない」

 胸が締め付けられるように痛む。フレデリックの目尻から涙が流れていくのが見えて、更に胸が傷んだ。頬にある手を掴む。その手に頬を押し付けた。

「お帰りなさいませ、フレデリック様」
「ただいま、アナスタシア」




 アナスタシアがフレデリックの部屋に入ると、寝台は空っぽになっていた。驚いて走り出した瞬間、後ろから片腕で簡単に囲われてしまう。振り向くと一週間前よりもずっと顔色の良いフレデリックの清潭な顔があった。

「起き上がれるようになったのですね!」

 啄むような口付けが幾つも降ってくる。くすぐったくても避けずに受け止めていると、扉の方から盛大な咳払いが聞こえてきた。

「もう少し空気を読んでほしいな」

 不機嫌そうなロランと、その横にはほっこりとした笑みを浮かべたディミトリが立っていた。
 二人が運び込まれたのは最初はヴァレリー伯爵の砦だったが、治療を終えるとすぐにコーレ家の領地に移されていた。その間も意識を取り戻さない事に付き添っていた者達は皆焦燥を隠せずにいたと後から聞いた。
 ヴァレリー辺境伯の砦に乗り込んできたのはフレデリックと騎士団だったと聞いた時には驚いた。王家の旗を掲げて現れたフレデリック達にヴァレリー家の私兵達は抵抗する術もなく抵抗の意思も見せなかったという。王家の旗を渡すという事は、一時的に王の権利を与えた事にもなる。それ程に今回の件が重大だっという事なのだろう。目覚めて一週間以上経つが、アナスタシアは今回の真相をまだ教えてもらえないでいた。 
 フレデリックは壁に立て掛けていた杖を掴むと寝台までゆっくり歩いていき、やっと座った。 

「まだ大変なのにあんな事をなさるんですから」
「動ける事を見せたかったんだ」
「ッ、それはありがとうございます」

 恥ずかしくて俯くと、腕を引かれて隣りに座らされた。

「本当に記憶を取り戻してからのお前は甘いらしいな。胸焼けの薬はあったかな」

 ロランはわざと鞄を漁る振りをしてみせた。

「皆さんのおかげです。本当にご心配をお掛け致しました」
「本当にこの光景が奇跡みたいなものだよ。最初は二人共死んでしまったと思ったからね」
「私もそう思います」

 話を聞くに、あの日砦の廊下の延長だと思っていた先は改修中の階段で、二階から派手に落ちたらしい。フレデリックが囲むように守ってくれなければ確実に死んでいただろう。そう思うと満身創痍のフレデリックを見て居た堪れない気持ちになるのだった。こっそり見ていた視線はいつの間にか絡まり、微笑みが返ってくる。苦しくて下を向くとすくい上げるように顎を掴まれた。堪らずに溢れそうになる目尻に口付けが降ってくる。

「だ――! もう止めろ! 後で二人きりの時にやってくれよ!」
「まあいいじゃないか。邪魔しているのはこちらの方なんだし?」

 優雅に笑っているディミトリとは真逆に、ロランは本当に苛立っているようだった。

「それじゃあさっさと要件を言え」

 ディミトリは顔から笑みを消して話し出した。

「諸々の処分は数日後に決定する事になったよ。お前達からすれば不在のまま犯人が罰せられてしまうのは不本意かもしれないが、なにせその怪我だろう? 政権を握る貴族達は今回の事には早く決着を付けて早々に終わらせてしまいたいらしい。臭いものには蓋を言うだろ? 先延ばしにして探られたくない奴らも中にはいるんだろうな」


 二人が出ていった部屋の中で肩を貸し合いながら無言の時が流れていく。そろそろフレデリックを休ませなくてはと思い、立ち上がろうとするとがっちりと腰を掴まれていた。

「どうしてそんなに離れたがるんだ? 俺とこうしているのは嫌か?」
「嫌な訳がありません! ただ落ち着かないといいますか、早く休ませてあげたいというのもありますし……」
「俺なら大丈夫だから少し話をしよう。今回起きた一連の事についてだ。アンにはまだちゃんと話していなかったからな」
 
 とうとう来たと思い身構えると、不意に耳朶を食まれて変な声が出てしまった。

「ふえッ!?」
「もう終わった事だからそう緊張しないで聞いてくれ」

 フレデリックは落ち着かせる為か、腰に回していた腕を二の腕に移すと優しく擦ってくれた。まるで絵本でも読み聞かせるような優しい声だった。

「赤い花は昔、偶然俺達が見つけたんだ。今となっては何故あの場所に群生していたのかは分からないが、おそらく種が飛んできたのかもしれない。昔行方不明になった俺達を探しに来たヴァレリー前辺境伯がそれを見つけてしまったんだと思う。そこからあの花を使ってヴァレリー家は花を悪用する事を思いついたんだろう」
「悪用って?」
「ヴァレリー家は軍事費が他の領よりもずっと大きな額が必要だからな。税で取るにも限界があるし、何度も予算の見直しを提出しては却下されていたみたいだ。そこであの花を城の中に持ち込んだのさ。貴族中心にすぐに広まっていったらしい。でも密かに取り締まりがあった。ベルナンド侯爵だよ」
「ベルナンド侯爵がですか? 使用していた側ではなく?」
「一部の貴族に蔓延り始めていたあの花を回収していたらしい。それを数年後ミレーユが見つけてしまったという訳だな。よく分からないまま使用してしまったのだと思う。それが現ヴァレリー辺境伯の耳に入り、止まっていた取引が再開されたらしい。二人は元々知り合いだったからね。でもそれが見つかってしまい、罪をジルベールの祖父に擦り付けたんだ。ジルベールには俺がそうした犯人だとでも耳に入るようにしたんだろう。ミレーユは俺を恨んでいただろうしな」

 アナスタシアは膝の上で冷たくなっている指を握り締めた。

「……そうでしょうか。ミレーユ様はフレデリック様を愛していらっしゃったと思います」
「あのまま強引にでも結婚していたら確かにベルナンド侯爵といえどミレーユに手は出せなかったはずだ。でも俺はずっと昔からアンに惹かれていた」

 まっすぐに注がれる瞳からは揺るがない愛が映っているように見えた。

「再会した時は君に逃げられたけれどね」
「信じられなかっただけです。私も記憶を失っていたんですね」
「まあ幼少期の記憶などそんなものだろう? 全て覚えている人などいないよ」
「でもフレデリック様はずっと覚えていてくださいました」
「年齢が違うだろう。別に俺は幼女趣味だと言う訳じゃないぞ? 再会したアンは本当に美しくなっていて正直驚いたんだ」
「それでも覚えていたかったです。私があの日迷子にならなければこんな事にはならなかったんじゃないかと、どうしようもない事をずっと考えてしまうのです」
「いつかきっと誰かに見つけられていたさ。それにあの花事態は薬になるから別に悪い物じゃない。今回の件を受けてロランや王都の医師が中心になって管理するそうだ。限られた者達しか手に入れられなくなる事は間違いない」
「ジルベールは騙されていただけです」
「でも君を攫った罪はある。……俺達が王都に戻る頃には全て片付いているさ」

 アナスタシアは堪らずにフレデリックの首筋に顔を埋めた。

「……何をしているんだ?」
「フレデリック様の匂いを嗅いでいます」
「やめてくれ。この怪我でろくに汗を流せていないんだ」
「フレデリック様が生きていると実感出来るのが嬉しいんです」

 するとぐいっと首を離され、腕を擦っていた手を離れていってしまった。

「すみません、私ったら」
「そうじゃない! 謝るのは俺の方だ。その、そんな事をされると、自制が効かなくなるから今は止めてほしい」

 今になって大胆な事をしたという恥ずかしさが込み上げてくる。顔を上げられずにちらりとフレデリックの横顔を盗み見ると、フレデリックは耳まで真っ赤になっていた。

「元気になったら仕返しをしなくてはな」

 そしてフレデリックと共に王都に戻れたのは、それから更に一ヶ月が経った頃だった。
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