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29 疑う心
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夜に溶け込む漆黒のマントを頭から被った者は、馬車の中で震えながら両手を握り締めていた。
手の中の物は少し気を抜けば溢れ出してしまいそうだった。こんな所でこの量の魔素が溢れ出せば一帯の人間が一気に魔獣と化してしまう。冷や汗を掻きながら全神経を抑え込む事だけに集中した。
やがて道はガタガタと揺れ始めていく。その時、馬の足音が近づいてきた。手を離す事が出来ない為窓は開けられない。そのまま並走すると明け方近くにようやく馬車と並走する馬は停まった。
馬車を降りると、同じような漆黒のマントを被った者達が出迎えている。その先にはまるで地下に潜っていくかのような洞窟の入口があった。
死の世界への入り口がぽっかりと口を開けて飲み込もうとしている。しかしたじろいでいる暇はない。手の中の魔素は大魔術師の魔廻に入っているといっても、押さえる事は出来なくなっていた。
「お前がここに来るのは初めてだったな。それだけの土産があればあの御方もさぞお喜びになられるだろう。自身を持って行きなさい」
洞窟の中が一切見えない闇に怯えたのは一瞬だけ。手の中の物の方が恐ろしく、一刻も早く手放したくて真っ暗闇に足を踏み出した。
学園長から、先生が銀色狼だという事は伏せておいた方がいいと言われ、しばらくの間、大魔術師は魔術の研究の為に旅に出たという事になった。そこは大公の力で特に不審がる者達は出なかったようだった。
そもそも地下室でボヤ騒ぎを起こしたり、フラッと旅に出ても驚かれない先生も先生だと思いながら、今まさに隣りで嬉しそうに皿に出されたステーキ肉を頬張っている先生を見ていると複雑な気持ちだった。
学園長は一旦家に戻り、(本邸があったらしく、そこは使用人が何十人もいる大豪邸だと分かったのは昨日の事だった)先生は半ば学園長に押し付けられる形でアークトゥラス侯爵邸で預かる事となった。それらしい理由は何個か上げていった。
狼の姿になってまず先にメリベルに会いに行ったから。
沢山の者達が暮らす大公家の屋敷の中には狼に怯える者もいるだろうから。
イーライのしでかした後処理に追われているから。
しかしそのどれもが理由には少し説得力が足りない気もした。
「それにしてもイーライ殿にも困ったものだ。飼い犬を放って急に旅に出るなど」
憤慨しているのも無理はない。父親が動物好きだったというのは初耳だったが、今も虎視眈々と先生に触ろうとウズウズしている。しかし唸られてしまえば手を引っ込めるの繰り返し。メリベルにはどうしても脳内変換で大の男同士のやり取りを想像してしまい、気分が悪くなっていた。
「先生以外にはあまり慣れていないようだからむやみに触らない方がいいわよ。怪我をしても知らないから」
「でもこの犬はこんなに大きかっただろうか? もっとこう、メリベルの腕に収まるくらいだったような……」
「い、犬の成長はとっても早いのよ! お父様知らないのね」
「早いというよりも別の犬のような気さえするが。いや、毛並みも眼の色も同じだしな」
考え込む父親の視界から先生を引き離そうと、メリベルはガバっと抱き上げた。ぶらんと宙吊りのようになったまま抱えられていく犬の姿を見ながら、父親が背中で叫んだ。
「名前はなんて言うんだ? 名前があるんだろ?」
「名前は銀よ!」
自分でも安易だと思う。でも今はどうしてもそれしか浮かばなかった。腕の中で呆れたような鼻を鳴らす音がする。メリベルはカチンときて腕の中の先生を左右に振った。
「ワ、ワウ!」
「いいですか? 今や先生の命は私の手の中にあるも同然なんです。ちゃんといい子でいてくださいね!」
意地悪かと思ったが、これからは先生が元に戻る方法も調べながら、過去で視た母親の事も調べなくてはならない。そう思うと、せっかくの冬休みだというのに時間が足りない気がしてきていた。
「先生、あの紙はもうないんですか? いつも一枚しかくれないので私もあと一枚しかありませんよ」
「ワウン」
「え? なんです? どこかにあるんですか?」
「ワウウウン。ワウ、ワウウン」
「園芸室? と言うか温室って本当はどこにあるんです? あ、もしかして魔術塔のお部屋ですか!?」
「ワン!」
その時、カタンと後ろで音が鳴った。
「お嬢様、犬と会話が出来るんですね」
扉の前でカートを押していたメラニーは哀れそうな視線を送ってきていた。
「ち、違うのよ! ほら、この子お利口さんみたいだからもしかしたら何を考えているのか分かるかなって。ハハッ……お父様には言わないで頂戴」
その夜、メリベルは持っている紙を使った。
視えたのはまだ気まずくなる前のジャスパーとの定例お茶会の日だった。あの頃はいつもお茶会の日が待ち遠しくて、前の晩は眠れなかった。お茶会と言っても最初だけ。すぐに広い庭を駆け回ったり、ジャスパーに王城の中を探検するように連れ歩いてもらったりして時間の許す限り遊んだ。婚約者として正式に書類は交わしていたものの、まだ当人同士が小さいからと、婚約の発表は中等部を卒業してからにという約束がある事を、いつだったかに聞いた事がある。だから王城の者達は、王子に良い遊び相手が出来たという微笑ましい視線で二人を見ていたに違いない。
実際、遊んでいても調理場に行ったり、馬屋に行ったり、神出鬼没の子供達を追って護衛騎士や侍女達が右往左往する姿が名物となっていた。
メリベルは目の前を元気に走り抜けて行く幼い二人の姿を見ながら、そっと視えた鍵穴に鍵を挿した。
(懐かしい光景だけれど、今の私達との違いに悲しくなるだけね)
次第に目の前に広がっていた光景が薄れていく。そして霧散する夢のように消えていった。
目を開けると鍵を紙に包む、包もうとして所で後ろからぬっと現れた先生がその鍵をパクンと食べてしまった。
「あ! 駄目ですよ! ペッして下さい! ペッ!」
しかしゴクンと喉が鳴る。そしてまた先生の姿は若干大きくなったように見えた。
「その、鍵を取り込むと大きくなる仕様って一体どうなっているんですか」
“元の姿に戻ろうとしているんだ”
ふいに声が頭の中に響き、メリベルはとっさに周囲を見渡した。
“馬鹿者、僕だ僕”
目の前には少し凛々しくなった銀の姿。じっと見つめてから恐る恐る声を出した。
「先生?」
“なんだ?”
「先生なんですか?」
“だからそう言ってるだろ”
「どうやって喋ってるんです? というか頭の中で声がするんですが」
“水魔術の一種だ。お前には到底無理だな”
「必要ないので大丈夫です。私、狼にはなりませんから」
“生意気な奴だな。せっかく情報をやろうと思っていたのに”
その瞬間、メリベルは先生の両肩を掴んでいた。
「なんですか情報って! お母様の情報ですか!?」
“この馬鹿力! 離せ!”
大きな口を開かれれば多少驚きはする。メリベルはとっさに手を離すと、先生の顔をじっと見つめた。するとフッと逸らされる。それを追い掛けてまた目を合わせると、また逸らされた。
「どうして顔を背けるんです? 目を見て話しましょうって教わりませんでした?」
“……動物の本能だ。そんな事より僕が地下で調べ物をしていたのはあいつから聞いたろう? あの時はミーシャの任務について調べていたんだ”
「あいつってまさか学園長の事ですか?」
“それ以外にいないだろ”
「ずっと気になってたんですけど、先生と学園長の関係ってなんなんです? お年は近いように見えますが、でも先生はお母様が魔術団に入った時からすでに大魔術師だったんですよね。それじゃあ今はお父様くらいなんですか? かなり若見えするとか??」
“いいから本題に移らせろ! ミーシャのあの数年間の任務中、魔術師の死亡人数が異様に多かった事が分かったんだ”
頭の中が真っ白になっていく。先生の言っている事を言葉の通り取るならば、お母様がなんらかの形で魔術師の死亡に関わっていると言っているも同然だった。
「そんな訳ありません! 絶対にお母様は無関係です。第一、魔術師を殺して何になるんですか!」
“落ち着け。僕はただ記録をそのまま伝えただけだ。でも魔術師を殺す理由なんて一つしか考えられないな”
「分かっているなら勿体ぶらないで下さい」
“魔廻を奪うのさ。今の僕がされたみたいに”
「先生は魔廻を奪われたんですか? あれ、でも魔廻を失うのは記憶も伴うんじゃありません?」
“無理やり奪うなら関係ない。奪えば死を意味するだけだから。まぁ僕は特別だ。大魔術師だからな”
「それにお母様が関わっているなんて……」
心臓が激しく鳴っている。違うと信じたいのに、と同時に否定するには母親の事を何も知らなかった。
手の中の物は少し気を抜けば溢れ出してしまいそうだった。こんな所でこの量の魔素が溢れ出せば一帯の人間が一気に魔獣と化してしまう。冷や汗を掻きながら全神経を抑え込む事だけに集中した。
やがて道はガタガタと揺れ始めていく。その時、馬の足音が近づいてきた。手を離す事が出来ない為窓は開けられない。そのまま並走すると明け方近くにようやく馬車と並走する馬は停まった。
馬車を降りると、同じような漆黒のマントを被った者達が出迎えている。その先にはまるで地下に潜っていくかのような洞窟の入口があった。
死の世界への入り口がぽっかりと口を開けて飲み込もうとしている。しかしたじろいでいる暇はない。手の中の魔素は大魔術師の魔廻に入っているといっても、押さえる事は出来なくなっていた。
「お前がここに来るのは初めてだったな。それだけの土産があればあの御方もさぞお喜びになられるだろう。自身を持って行きなさい」
洞窟の中が一切見えない闇に怯えたのは一瞬だけ。手の中の物の方が恐ろしく、一刻も早く手放したくて真っ暗闇に足を踏み出した。
学園長から、先生が銀色狼だという事は伏せておいた方がいいと言われ、しばらくの間、大魔術師は魔術の研究の為に旅に出たという事になった。そこは大公の力で特に不審がる者達は出なかったようだった。
そもそも地下室でボヤ騒ぎを起こしたり、フラッと旅に出ても驚かれない先生も先生だと思いながら、今まさに隣りで嬉しそうに皿に出されたステーキ肉を頬張っている先生を見ていると複雑な気持ちだった。
学園長は一旦家に戻り、(本邸があったらしく、そこは使用人が何十人もいる大豪邸だと分かったのは昨日の事だった)先生は半ば学園長に押し付けられる形でアークトゥラス侯爵邸で預かる事となった。それらしい理由は何個か上げていった。
狼の姿になってまず先にメリベルに会いに行ったから。
沢山の者達が暮らす大公家の屋敷の中には狼に怯える者もいるだろうから。
イーライのしでかした後処理に追われているから。
しかしそのどれもが理由には少し説得力が足りない気もした。
「それにしてもイーライ殿にも困ったものだ。飼い犬を放って急に旅に出るなど」
憤慨しているのも無理はない。父親が動物好きだったというのは初耳だったが、今も虎視眈々と先生に触ろうとウズウズしている。しかし唸られてしまえば手を引っ込めるの繰り返し。メリベルにはどうしても脳内変換で大の男同士のやり取りを想像してしまい、気分が悪くなっていた。
「先生以外にはあまり慣れていないようだからむやみに触らない方がいいわよ。怪我をしても知らないから」
「でもこの犬はこんなに大きかっただろうか? もっとこう、メリベルの腕に収まるくらいだったような……」
「い、犬の成長はとっても早いのよ! お父様知らないのね」
「早いというよりも別の犬のような気さえするが。いや、毛並みも眼の色も同じだしな」
考え込む父親の視界から先生を引き離そうと、メリベルはガバっと抱き上げた。ぶらんと宙吊りのようになったまま抱えられていく犬の姿を見ながら、父親が背中で叫んだ。
「名前はなんて言うんだ? 名前があるんだろ?」
「名前は銀よ!」
自分でも安易だと思う。でも今はどうしてもそれしか浮かばなかった。腕の中で呆れたような鼻を鳴らす音がする。メリベルはカチンときて腕の中の先生を左右に振った。
「ワ、ワウ!」
「いいですか? 今や先生の命は私の手の中にあるも同然なんです。ちゃんといい子でいてくださいね!」
意地悪かと思ったが、これからは先生が元に戻る方法も調べながら、過去で視た母親の事も調べなくてはならない。そう思うと、せっかくの冬休みだというのに時間が足りない気がしてきていた。
「先生、あの紙はもうないんですか? いつも一枚しかくれないので私もあと一枚しかありませんよ」
「ワウン」
「え? なんです? どこかにあるんですか?」
「ワウウウン。ワウ、ワウウン」
「園芸室? と言うか温室って本当はどこにあるんです? あ、もしかして魔術塔のお部屋ですか!?」
「ワン!」
その時、カタンと後ろで音が鳴った。
「お嬢様、犬と会話が出来るんですね」
扉の前でカートを押していたメラニーは哀れそうな視線を送ってきていた。
「ち、違うのよ! ほら、この子お利口さんみたいだからもしかしたら何を考えているのか分かるかなって。ハハッ……お父様には言わないで頂戴」
その夜、メリベルは持っている紙を使った。
視えたのはまだ気まずくなる前のジャスパーとの定例お茶会の日だった。あの頃はいつもお茶会の日が待ち遠しくて、前の晩は眠れなかった。お茶会と言っても最初だけ。すぐに広い庭を駆け回ったり、ジャスパーに王城の中を探検するように連れ歩いてもらったりして時間の許す限り遊んだ。婚約者として正式に書類は交わしていたものの、まだ当人同士が小さいからと、婚約の発表は中等部を卒業してからにという約束がある事を、いつだったかに聞いた事がある。だから王城の者達は、王子に良い遊び相手が出来たという微笑ましい視線で二人を見ていたに違いない。
実際、遊んでいても調理場に行ったり、馬屋に行ったり、神出鬼没の子供達を追って護衛騎士や侍女達が右往左往する姿が名物となっていた。
メリベルは目の前を元気に走り抜けて行く幼い二人の姿を見ながら、そっと視えた鍵穴に鍵を挿した。
(懐かしい光景だけれど、今の私達との違いに悲しくなるだけね)
次第に目の前に広がっていた光景が薄れていく。そして霧散する夢のように消えていった。
目を開けると鍵を紙に包む、包もうとして所で後ろからぬっと現れた先生がその鍵をパクンと食べてしまった。
「あ! 駄目ですよ! ペッして下さい! ペッ!」
しかしゴクンと喉が鳴る。そしてまた先生の姿は若干大きくなったように見えた。
「その、鍵を取り込むと大きくなる仕様って一体どうなっているんですか」
“元の姿に戻ろうとしているんだ”
ふいに声が頭の中に響き、メリベルはとっさに周囲を見渡した。
“馬鹿者、僕だ僕”
目の前には少し凛々しくなった銀の姿。じっと見つめてから恐る恐る声を出した。
「先生?」
“なんだ?”
「先生なんですか?」
“だからそう言ってるだろ”
「どうやって喋ってるんです? というか頭の中で声がするんですが」
“水魔術の一種だ。お前には到底無理だな”
「必要ないので大丈夫です。私、狼にはなりませんから」
“生意気な奴だな。せっかく情報をやろうと思っていたのに”
その瞬間、メリベルは先生の両肩を掴んでいた。
「なんですか情報って! お母様の情報ですか!?」
“この馬鹿力! 離せ!”
大きな口を開かれれば多少驚きはする。メリベルはとっさに手を離すと、先生の顔をじっと見つめた。するとフッと逸らされる。それを追い掛けてまた目を合わせると、また逸らされた。
「どうして顔を背けるんです? 目を見て話しましょうって教わりませんでした?」
“……動物の本能だ。そんな事より僕が地下で調べ物をしていたのはあいつから聞いたろう? あの時はミーシャの任務について調べていたんだ”
「あいつってまさか学園長の事ですか?」
“それ以外にいないだろ”
「ずっと気になってたんですけど、先生と学園長の関係ってなんなんです? お年は近いように見えますが、でも先生はお母様が魔術団に入った時からすでに大魔術師だったんですよね。それじゃあ今はお父様くらいなんですか? かなり若見えするとか??」
“いいから本題に移らせろ! ミーシャのあの数年間の任務中、魔術師の死亡人数が異様に多かった事が分かったんだ”
頭の中が真っ白になっていく。先生の言っている事を言葉の通り取るならば、お母様がなんらかの形で魔術師の死亡に関わっていると言っているも同然だった。
「そんな訳ありません! 絶対にお母様は無関係です。第一、魔術師を殺して何になるんですか!」
“落ち着け。僕はただ記録をそのまま伝えただけだ。でも魔術師を殺す理由なんて一つしか考えられないな”
「分かっているなら勿体ぶらないで下さい」
“魔廻を奪うのさ。今の僕がされたみたいに”
「先生は魔廻を奪われたんですか? あれ、でも魔廻を失うのは記憶も伴うんじゃありません?」
“無理やり奪うなら関係ない。奪えば死を意味するだけだから。まぁ僕は特別だ。大魔術師だからな”
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