共振のダンジョニア

心からのありがとうを君に

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第1話 振動(バイブレート)

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    地下三階の通路は、薄暗い魔素灯の青白い光に満ちていた。

 湿った空気が肌にまとわりつく。コンクリートの壁面に苔のように張り付いた結晶が、ぼんやりとした燐光を放っている。ダンジョン産の魔素結晶──これだけ削り取って持ち帰っても、五百円にもならない。

 榊遼太は通路の角で息を殺し、十メートル先の広間を覗き込んだ。

 いた。

 体長一メートルほどの甲虫型モンスター──通称「ストーンビートル」が三体、広間の中央で地面を削るように顎を動かしている。Eランクダンジョンの定番モンスターだ。硬い外殻が厄介だが、動きは鈍い。本来ならどうということのない相手のはずだった。

 三体同時でなければ。

「三対一かあ……」

 遼太は小声でぼやいて、腰のポーチから小石を五つ取り出した。ダンジョンに入る前に河川敷で拾ってきた、ただの石だ。装備にかける金がない探索者の苦肉の策である。

 右手に石を握り、意識を集中する。

 指先から微かな振動が伝わった。スキル「振動操作(バイブレート)」。Fランク。触れた物体の振動を操作する──というと聞こえはいいが、要するに「物を震わせるだけ」の能力だ。覚醒して一年。遼太がこの世界で授かった、ささやかすぎる力。

 石が手の中で震え始めた。細かく、速く。振動数を上げていくと石の表面が温かくなる──振動エネルギーが熱に変換されているのだ。大学で学んだ物理学の知識が、こんなところで役に立っている。

 遼太は石を広間の奥へ向かって投げた。

 着弾。石が地面に当たった瞬間、蓄積された振動エネルギーが解放される。

 バンッ、と乾いた破裂音が広間に響いた。

 三体のストーンビートルが一斉に音源へ向き直る。甲虫型のモンスターは聴覚──正確には振動感知──が発達している。ダンジョン庁のモンスター図鑑にそう書いてあった。知識は武器だ。

 すかさず二つ目の石を反対側の壁に投げつける。同じように振動を仕込んだそれが、壁面で弾けた。ビートルたちが混乱して二方向に分かれる。

 三体が二体と一体に分かれた瞬間を、遼太は見逃さなかった。

 通路から飛び出す。孤立した一体に向かって全力で駆け寄り、左手を外殻に叩きつけた。

「──振動操作」

 掌から伝わる振動が、ストーンビートルの外殻を揺さぶる。ただし、正面から砕くような出力はない。そんな馬鹿力は持ち合わせていない。

 遼太が狙ったのは「共振」だった。

 すべての物体には固有振動数がある。外部から与える振動がその周波数と一致したとき、振動は増幅される──共振現象。ワイングラスが特定の音で割れるのと同じ理屈だ。

 指先の感覚を研ぎ澄ませ、外殻を伝わる振動のフィードバックを読み取る。少しずつ周波数を変えていく。

 まだだ。まだ。

 ──ここだ。

 外殻が小刻みに震え始めた。遼太が送り込む振動と外殻の固有振動数が一致した瞬間、振動が増幅されていく。ミシ、と微かな亀裂が走った。

「よし──」

 ストーンビートルがキシャアと鳴いて暴れ始めた。だが遅い。亀裂は外殻の関節部に集中し、薄い部分が砕けて柔らかな内部が露出する。

 遼太は腰に差した安物のショートソードを抜き、露出した部位に突き刺した。

 ビートルが痙攣し、動きを止める。体が淡い光に包まれ、小さな魔石と殻の破片を残して崩壊した。

「一体」

 残り二体が音に反応してこちらに向かってくる。距離は八メートル。猶予は十秒もない。

 遼太は三つ目の石を握り、足元の地面に押し当てた。振動操作で地面を震わせる。ダンジョンの床は魔素を含んだ岩盤だから、振動がよく伝わる。

 二体のビートルが足を止めた。足元が震動しているのを感知して警戒態勢に入ったのだ。振動感知が鋭敏なことが、逆に弱点になる。

 その隙に遼太は広間の柱の陰に移動し、四つ目の石を右のビートルに向かって転がした。

 残る五つ目は──ない。

「あ、足りない」

 少し計算を間違えた。やはり事前の石の数は余裕を持って揃えるべきだ。次回への反省点として心に刻む。

 足止めが解けたビートルが突進してくる。遼太は柱を盾にしながら最初の一体をやり過ごし、振り返ったところに再び手を押しつけて共振を試みる。

 だが今度は一発でうまくいかなかった。外殻の厚みが微妙に違う。個体差だ。

「厄介だな──」

 背後からもう一体が迫る。挟み撃ちになりかけた遼太は、咄嗟にショートソードの刃をダンジョンの床に打ちつけ、振動操作で衝撃波を走らせた。大した威力はないが、地面の振動がビートルの動きを一瞬だけ鈍らせる。

 その一瞬で体勢を立て直し、壁際に背をつけた。二体を同時に視界に収める。

 正直なところ、魔素の残量が心もとなかった。振動操作は精密に使うほど消費が激しい。共振を二回、足止めに一回、石の仕込みで数回。Lv.5の魔素量では、大技はあと一、二回が限度だ。

 遼太は深呼吸した。

 焦るな。考えろ。お前の武器は腕力じゃない。頭だ。

 二体のビートルが同時に突進してきた。重い足音が重なる。遼太は壁を蹴って横に跳び、二体がぶつかるコースに誘導した。甲虫型は急な方向転換が苦手だ。

 ガッ、と二体の外殻が衝突する。

 その衝突の瞬間に遼太は飛び込み、両手で二体の接触面に触れた。衝突で生まれた振動をそのまま増幅し、共振に変える。他人の力を借りる合気道のような発想──と言えば聞こえがいいが、要するに省エネだ。

 二体の外殻に同時に亀裂が走った。

 ショートソードを二度振るう。手首が痺れるような反動が来たが、刃は確かに急所を捉えた。

 二体のビートルが崩壊し、魔石と素材を残す。

 広間に静寂が戻った。

 遼太は額の汗を拭い、大きく息を吐いた。膝に手をつき、軽い目眩をやり過ごす。魔素を使いすぎた兆候だ。

「……ギリギリだったな」

 Eランクダンジョンのモンスター三体にここまで苦戦する探索者も珍しいだろう。ただ、勝ちは勝ちだ。

 遼太は地面に散らばった魔石と外殻の欠片を丁寧に拾い集め、ポーチに収めた。一体ぶんの素材がだいたい八百円。三体で二千四百円。

 自販機のコーヒー何杯ぶんだろう、と考えて、やめた。そういう換算をすると虚しくなる。

     

 Eランクダンジョン「渋谷浅層洞」の出入口は、渋谷駅から徒歩十分の雑居ビルの地下にある。

 地上に出ると、三月の冷たい風が汗ばんだ首筋を冷やした。ビルの入口にはダンジョン庁のゲートが設置されていて、探索者カードをかざさないと出入りできない仕組みだ。

 ゲートの脇に立つ庁の職員──二十代半ばの女性が、端末を操作しながら声をかけてきた。

「お疲れさまです。帰還確認、完了しました」

「どうも。今日も無事でした」

 遼太は軽く会釈して外に出た。雑居ビルの前の通りを、何も知らない顔で人々が歩いている。五年前にはありえなかった光景だ。「ダンジョンの入口がある街」で人々が普通に暮らしている。人間の適応力というのは大したものだと思う。

 駅前のダンジョン庁査定所に向かう。渋谷の査定所はJRの高架下を改装した建物で、探索者がひっきりなしに出入りしている。

 中に入ると、先客が三人ほど窓口の前に並んでいた。壁に設置されたモニターが、本日の公定価格一覧を表示している。

 ──Eランク魔石:七百五十円/個。ストーンビートル外殻片(良品):四百円。

 遼太は素材の入ったポーチを見下ろした。

 今日の稼ぎ、だいたい三千円弱か。探索に要した時間は三時間半。時給に換算すると……いや、これもやめておこう。

「次の方どうぞー」

 窓口のカウンターに素材を並べると、査定員がルーペ型の魔素感応デバイスで一つずつ確認していく。

「Eランク魔石三つ、ストーンビートル外殻片が五枚──うち良品三枚、並品二枚ですね。合計三千八百五十円になります」

「お願いします」

 思ったより少し多かった。外殻をなるべく綺麗に割るようにした成果だろう。共振で亀裂を入れると、力任せに砕くより断面が整う。小さな工夫の積み重ねが、数百円の差を生む。

 探索者カードに入金されたのを確認して査定所を出ると、すぐ外で声をかけられた。

「おっ、バイブレートくんじゃん」

 振り返ると、見覚えのある顔が三つ並んでいた。同じ渋谷浅層洞を拠点にしている探索者グループだ。リーダー格の男──確か名前は藤川──が、にやにやと笑いながら近づいてくる。

「今日も石ころ震わせてたの? 稼ぎいくらだった?」

「企業秘密で」

「どうせ三千円とかだろ。Fランクスキルで探索者やろうってのが間違いなんだよな」

 後ろの二人がくすくす笑う。遼太は肩をすくめた。

「助言どうも。でも俺、この仕事気に入ってるんで」

「好き好んで貧乏してる物好きなんて、お前くらいだよ」

 藤川たちが去っていく。彼らのスキルはCランクの「火炎放射(フレアバースト)」とDランクの「身体強化(ブースト)」。確かに火力では比較にもならない。

 だが、遼太は別に悔しいとは思わなかった。少しだけ面倒くさいな、とは思ったが。

 人の能力を笑う暇があったら自分の能力を磨けばいいのに、というのが遼太の素直な感想だった。もっとも、それを口に出すほど無神経ではない。

 渋谷駅前のスクランブル交差点を渡りながら、ポケットから探索者カードを取り出す。クレジットカードと同じサイズの、半透明の青いカード。指で表面をなぞると、淡い光で文字が浮かび上がった。

 ──榊遼太。Eランク探索者。Lv.5。

 レベルは先月から変わっていない。Eランクのモンスターからもらえる経験値……もとい魔素吸収量では、レベルアップの道のりは果てしなく遠い。

 カードをしまい、駅へ向かう。帰りの電車賃は往復ぶん確保してある。ここだけは絶対にケチらない。ダンジョンでどれだけ節約しても、帰れなくなったら意味がない。

     

 遼太の住まいは、世田谷区の外れにある築三十五年のワンルームアパートだった。最寄り駅から徒歩十八分。家賃四万八千円。六畳一間にミニキッチンとユニットバス。探索者としての収入でどうにか家賃と食費を賄えているが、余裕はない。

 帰宅して装備を片付け、シャワーを浴び、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。

 テレビをつけると、夕方のニュースが流れていた。

『──続いてのニュースです。ダンジョン庁は本日、東京大深洞の第二十五層到達を正式に発表しました。攻略に当たったのは、Aランクパーティ「天蓋(てんがい)」。リーダーの久我山修司氏は記者会見で──』

 画面に映ったのは、精悍な顔立ちの三十代の男性だった。Aランク探索者。遼太とは文字通り格が違う存在だ。

『──まだまだ先は長いと感じています。二十五層以降、ダンジョンの構造がこれまでとは大きく変わっている可能性がある。慎重に進めたい』

 記者からの質問が飛ぶ。

『最深部の到達はいつ頃になりますか?』

『正直なところ、見当もつきません。東京大深洞の規模は我々の想像を超えています』

 遼太は水を飲みながら画面を見つめた。

 東京大深洞。新宿地下に広がるSランクダンジョン。日本最大にして、世界でも有数の大規模ダンジョンだ。Aランクの探索者たちが五年がかりで二十五層。最深部は誰も知らない。

 ──誰も見たことがない場所を、見てみたい。

 その想いが、遼太の胸の底で静かに灯る。

 Eランクの自分には遠い夢だ。途方もなく遠い。だが「不可能だ」とは思わない。振動操作はまだまだ未知の可能性を秘めているはずだ。共振の応用で外殻を割れるようになったのだって、最初は誰も思いつかなかった。自分自身も含めて。

 ニュースが次の話題に変わった。

『──震起五周年に合わせ、新宿区では犠牲者慰霊式典が予定されています。震起当日、新宿周辺では建物の倒壊やダンジョン出現に伴う地盤沈下により、百二十八名が──』

 遼太はリモコンに手を伸ばしかけて、止めた。

 五年前。あの日。

 テレビの音声が遠くなる。代わりに、記憶の底から別の音が浮かび上がってきた。

 低い、低い振動。

 大学二年の春だった。友人と新宿で待ち合わせをしていた。駅の東口を出たところで、足元が震えた。地震だと思った。だが違った。アスファルトが裂け、地面が陥没していく。悲鳴。逃げ惑う人々。空に舞い上がる粉塵。

 その混乱の中で、遼太は見た。

 裂けた地面の奥底──暗闇の遥か彼方から、振動が響いてきた。体の芯を震わせるような、低く太い振動。音というよりも、存在そのものを揺さぶる波動。

 そして、その振動の中心に浮かんでいたもの。

 巨大な光の構造体。結晶のような、回路のような、何とも名状しがたい幾何学的な形状。それが暗闇の中で脈動していた。まるで心臓のように。まるで、何かを呼んでいるかのように。

 数秒だった。ほんの数秒の幻視。

 次の瞬間、遼太は意識を失い、救急搬送されていた。

 ──五年が経った。

 あのビジョンは今でも鮮明に覚えている。夢で見たのか、魔素の影響による幻覚だったのか。答えは出ていない。ただ、一年前に覚醒してスキルが発現したとき、奇妙な既視感があった。

 振動操作──振動を操る力。

 あのとき、暗闇の底から響いてきた振動と、自分の掌から生まれる振動。それが似ている気がした。偶然かもしれない。たぶん偶然なのだろう。ダンジョンの最深部と、Fランクの地味スキルに関連性があるなんて、考えるだけ馬鹿らしい。

 でも、と遼太は思う。

 だからこそ、確かめたいのかもしれない。

 テレビが慰霊式典の日程を読み上げている。遼太はリモコンを手に取り、チャンネルを変えた。バラエティ番組で芸人が探索者の真似をしてスタジオが笑いに包まれている。五年経つと、ダンジョンすらお笑いのネタになるのだ。

 冷蔵庫を開けて夕食の材料を確認する。もやし一袋、卵二個、賞味期限が明日の豆腐が半丁。

「もやし炒めと冷奴、決定」

 自炊スキルだけは確実にレベルアップしている自信があった。

     

 翌日。

 遼太は再び渋谷浅層洞に潜っていた。昨日の反省を踏まえ、ポーチには河川敷の小石を十個、百円ショップで買ったステンレスのスプーン二本、それからホームセンターで仕入れた鉄製のボルトナットを五セット。

 石より金属のほうが振動の伝導率が高い。少し前から試しているのだが、鉄製品に振動を仕込むと石よりも鋭い破裂音が出せる。おまけにボルトナットなら使い回しも効く。探索のコストダウンは生活に直結する重要課題だ。

 地下二階を順調に突破し、地下三階に降りたところで、遼太は足を止めた。

 妙だった。

 昨日と空気が違う。肌が粟立つような、魔素の圧が高い。Eランクの浅い階層にいるはずなのに、まるで一段深い場所に迷い込んだような感覚。遼太は壁に手を触れてみた。指先に伝わる振動が、いつもよりざわついている。岩盤を通じて、大量のモンスターが動き回っている振動が感じ取れた。

 嫌な予感がした。

 通路の奥から、聞き慣れない音がした。ストーンビートルの甲殻がこすれる音ではない。もっと重い、地面を引きずるような音。

「……何だ?」

 遼太は壁に背をつけ、気配を殺して前方を窺った。

 角を曲がった先の広間から、低い唸り声が響いている。

 覗き込んだ遼太の表情が凍った。

 ストーンビートルが十体以上、広間を埋め尽くしていた。通常の三倍以上の数だ。しかもその中央に、見たことのない個体がいた。体長二メートルを超える大型の甲虫型モンスター。外殻が黒く光っている。角が二本に分岐し、通常種とは明らかに格が違う威圧感を放っていた。

 遼太は探索者カードを静かに取り出し、モンスター鑑定機能を起動した。

 ──ストーンビートル・キング。Cランク相当。

 Eランクダンジョンに、Cランクのモンスターが出現している。

 腹の底が冷えた。こういう現象があることは知識としては知っている。ダンジョン内で魔素の流れが乱れ、モンスターが異常発生する「異常波(はどう)」。滅多に起きないが、起きたときは低ランク探索者にとって死刑宣告に等しい。

 遼太はゆっくりと後退した。戦う選択肢はない。Cランク相当の敵はEランク探索者の手に負えるものではない。ましてFランクスキルの自分には、逆立ちしても無理だ。

 撤退一択。

 そう判断して踵を返した瞬間、背後の通路からストーンビートルが二体、角を曲がって現れた。通常種だが、退路を塞がれた格好だ。

「嘘だろ」

 前方はキング率いる大群。背後は通常種二体。逃げ道がない。

 通常種二体なら倒せる。だが、戦闘の音でキングに気づかれたら終わりだ。

 遼太は壁に手を当て、最小出力の振動操作で通路の構造を探った。指先に伝わるフィードバックに意識を集中する。岩盤の密度、硬さ、その向こう側にある空間の有無──振動の反響を読み取る。音叉を当てて壁の中身を調べるのと同じ原理だ。ただし精度は荒い。自分のレベルでは、はっきりとした像を結べるほどの解像度はない。

 ──でも、これくらいなら分かる。右の壁、三メートル先。振動の返りが明らかに薄い。岩盤の向こうに空間がある。別の通路か、小部屋か。

 ただし、壁そのものは厚い。Lv.5の振動操作で岩盤を崩せるのか。正直、やったことがない。ストーンビートルの外殻は拳大の面積を共振で割るのが精一杯だ。壁一枚となるとスケールが違う。

 背後のビートルが近づいてくる。前方の広間からも、キングが通路に向かって動き始める気配がある。

 考えている暇はなかった。

 遼太は広間とは反対方向の通路奥へボルトナットを投げた。振動を仕込んだ鉄片が壁に当たり、甲高い金属音が反響する。背後の通常種二体が反応して音の方向に向き直った。

 今だ。

 遼太は右の壁に両手をつき、振動操作を起動した。

 岩盤の固有振動数を探る。外殻のときと同じ共振の要領だが、対象が大きすぎる。壁全体を震わせるような魔素量はない。だから、一点に絞る。振動の返りが薄かった部分──岩盤が最も脆いと思われる箇所に、振動を集中させた。

 じわりと汗が額を伝った。魔素の消費が加速する。頭の奥がずきりと痛んだ。共振が噛み合うポイントを探すだけで、残り少ない魔素がみるみる減っていく。

 ──来い。

 微かに、岩盤が唸った。固有振動数を掴んだ。遼太は残った魔素を注ぎ込み、共振を増幅させた。

 ミシ、と亀裂が走った。

 だが──それだけだった。

 蜘蛛の巣状の亀裂が拳二つぶんほどの範囲に広がっただけで、壁は崩れない。Lv.5の限界だった。岩盤を共振だけで崩すには、圧倒的に出力が足りない。

 魔素残量が底をつきかけている。視界の端がちらついた。

 ──ここで倒れるわけにはいかない。

 遼太は歯を食いしばり、ショートソードの柄を両手で握った。亀裂の中心に刃先を突き立て、体重をかけてこじる。梃子の原理。岩盤は脆くなっている。あとは物理的にいける。いけるはずだ。

 刃が食い込む。岩がボロボロと崩れ始めた。遼太は柄を握り直し、何度も何度も亀裂を広げていく。刃先が欠けた。構わなかった。

 肩で壁をぶち当てた。ショートソードの刃をねじ込み、全体重をかけてこじ開ける。崩れた岩盤の破片が足元に散らばる。

 人一人が辛うじてくぐれる隙間が開いた。

 体を押し込むようにして隙間をくぐり抜ける。装備のポーチが引っかかって背中を擦りむいたが、構っている余裕はなかった。

 抜けた先は、本来の通路からは隔たれた小さな空間だった。天井が低い。魔素灯もなく、探索者カードの微光だけが頼りだ。

 背後で、通常種がこちらに気づいた気配がある。だが甲虫型の体では、遼太が開けた隙間を通れない。ガリガリと外殻が岩に擦れる音がして、やがて諦めたように遠ざかっていった。

 遼太は暗闇の中で壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。

「……危なかった」

 全身から汗が噴き出していた。心臓がうるさいほど鳴っている。両手が震えていた。振動操作の余波ではない。純粋な恐怖と消耗だ。

 ポケットの探索者カードで魔素残量を確認する。残り五パーセント。振動操作はもう一回使っただけで意識が飛ぶ。ショートソードは刃が欠けて半分使い物にならない。

 ここから地上までの退路を確保しなければ。この空間がどこに通じているか分からないが、少なくとも元の通路よりは安全だ。

 遼太が壁伝いに空間の奥へ進もうとしたとき。

 急に空気が変わった。

 温度が、下がっている。

 吐く息が白くなった。つい数秒前まで、ダンジョン内の気温はやや蒸し暑いくらいだったはずだ。

 空間の奥から、微かな光が差していた。青白い、しかし魔素灯とは異なる透明な光。

 遼太は息を殺して光源に近づいた。

 角を曲がった先に、人影があった。

 女性だった。背中まで伸びた黒髪を一つにまとめ、軽量の探索者用アーマーを纏っている。右手から放たれた青白い光が、通路を照らしていた。

 彼女の足元に、二体のストーンビートルが転がっていた。動かない。外殻の表面に霜が張り付いている。凍っていた。モンスターの体が丸ごと凍りついて、もう魔石にすら変換されずに沈黙している。

 一撃。おそらく一撃で仕留めたのだ。

 女性が遼太の気配に気づいて振り返った。切れ長の瞳が、暗闇の中で遼太を捉える。

 その瞬間、遼太は理解した。格が違う、と。

 自分が三体相手に命がけで戦うEランクのモンスターを、この女性は呼吸するように無力化している。纏っている空気が違う。場数が違う。実力が違う。

「……あなた、探索者? こんなところで何をしているの」

 声は冷静で、感情の起伏が少なかった。だが敵意はない。状況を把握しようとする、慣れた観察者の目だ。

「榊遼太です。Eランク探索者で──ここの攻略中に異常波に巻き込まれて、壁を壊して逃げてきたところです」

「壁を壊した?」

 女性の眉が僅かに動いた。遼太の背後──彼が潜り抜けてきた崩れた壁の隙間に目をやる。

「ショートソードで、ですか」

「いえ、スキルで亀裂を入れて、それから力技で。……スキルだけじゃ全然崩れなかったので」

 正直に言った。見栄を張る余裕はなかったし、そもそも見栄を張る意味もない。

「スキルで亀裂を……何のスキル?」

「振動操作です。触れたものの振動を操る……まあ、Fランクの地味なスキルなんですが。岩盤に共振を起こして、脆い部分にヒビを入れました」

「共振」

 凛が遼太を見つめた。その視線が、わずかに鋭くなった。

「岩盤の固有振動数を探って、共振で脆くした。……それ、自分で編み出したの?」

 遼太は少し驚いた。一瞬の説明で、やったことの本質を正確に見抜いている。

「はい。物理学を少しかじってたので、そこからの応用で。ただ、見ての通り亀裂を入れるのがやっとで。壁一枚も満足に壊せないんですから、大したことは──」

「……いいえ」

 凛の声が、僅かに変わった。相変わらず静かだったが、今度はそこに別の色が混じっていた。

「Fランクのスキルで、Lv.5の魔素量で、岩盤に共振を起こせること自体が異常よ。普通は思いつきもしない」

 遼太は目を瞬いた。褒められているのか、呆れられているのか、一瞬判断がつかなかった。

 凛は小さく首を振り、話を切り替えた。

「異常波が発生しているなら、このエリアは危険ね。出口まで案内するわ」

 有無を言わせない口調だった。遼太に断る理由もない。魔素残量五パーセントで単独行動する方が余程危険だ。

「助かります。えっと、あなたは──」

「氷室凛。Bランク」

 短い自己紹介だった。Bランク。やはり格が違った。Bランクの探索者がなぜEランクダンジョンの隠し通路のような場所にいるのか、疑問は山ほどあったが、今は生き延びることが最優先だ。

 凛が先導し、遼太が後ろに続く。凛は迷いのない足取りで暗い通路を進んでいく。右手に淡い氷の光を灯しながら、時折立ち止まって壁に触れ、何かを確認している。

 道中、異常波で溢れ出したと思われるストーンビートルが何度か現れた。そのたびに凛が右手を翳すと、空気中の水分が一瞬で結晶化し、鋭い氷の刃がモンスターを貫いた。無駄のない、必要最小限の動き。魔素の消費も最低限に抑えているのだろう。あれが上位ランクの戦い方だ。

 遼太は黙って観察しながら、内心で感嘆していた。

 十分ほどで、見覚えのある通路に出た。地下二階と地下一階を繋ぐ階段の手前だ。

「ここまで来れば大丈夫だと思います。ありがとうございました、氷室さん」

 遼太が頭を下げると、凛は小さく頷いた。

 そして、去り際に足を止めた。

「さっきの共振の話──岩盤だけじゃなく、モンスターの外殻にも使っているの?」

「はい。共振で外殻の関節部に亀裂を入れて、そこをソードで突く。それが今のところ一番効率のいい倒し方です」

「……物質ごとに固有振動数を探って、個体差にも対応する。Fランクのスキルで、そこまで」

 凛が遼太を見つめた。その表情は相変わらず読みにくかったが、今度は明確に「興味」の色が混じっていた。何かを考えている目だった。逡巡するような、値踏みするような──あるいは、失くしたものを思い出そうとしているかのような。

「……そう」

 それだけ言って、凛は踵を返した。

「異常波の報告はダンジョン庁に入れておく。あなたも早く地上に出なさい」

「了解です。あの、氷室さん」

 呼び止めた言葉が、反射的に口をついて出た。凛が肩越しに振り返る。

「すごかったです。氷のスキル。……正直、ちょっと感動しました」

 凛の瞳が僅かに揺れた。ほんの一瞬、表情が柔らかくなった──ような気がした。

「……ありがとう」

 小さな声でそれだけ言い残して、凛は暗い通路の奥へと消えていった。Bランクの探索者には、Eランクの入口とは別の用事があるのだろう。

 遼太は階段を上りながら、凛の背中を思い出していた。

 圧倒的な実力。無駄のない動き。そして、自分のスキルに向けられた一瞬の興味。

 Fランクの振動操作に、Bランクの探索者が興味を示した。それが何を意味するのかは分からない。たぶん、大した意味はないのだろう。

 でも、と遼太は思った。

 悪くない一日だったな、と。

 地上に出ると、渋谷の空は夕暮れに染まりかけていた。雑居ビルの向こうに見えるビル群のシルエットが、オレンジ色の光を受けて輝いている。その地下のどこかに、あの女性はまだいるのだ。

 遼太はポケットの探索者カードに触れ、小さく笑った。

 明日もダンジョンに潜ろう。

 もう少しだけ、振動の可能性を試してみたい。
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