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第2話 氷と振動
しおりを挟む渋谷浅層洞の入口に、黄色いバリケードテープが張られていた。
その前に立て看板が一枚。ダンジョン庁の公式書体で「異常波発生に伴う入場規制のお知らせ」と印刷されている。規制期間は最短五日間、状況により延長の可能性あり。
遼太はスマートフォンでその看板を撮影し、ため息をついた。
五日間。
一日の稼ぎが三千円から四千円として、五日で一万五千円から二万円の損失。月の家賃が四万八千円。今月の残高を暗算すると、かなり際どい数字になった。
しかも、ショートソードの修理費がある。
あの壁をこじ開けるのに酷使した刃は、先端が欠けて曲がり、もう実戦には使えない。修理に出せば五千円前後。買い替えなら一万円を超える。探索者用の武器は魔素を含んだ特殊鋼で作られているから、一般の刃物より割高なのだ。
「……まあ、何とかなるだろ」
遼太はそう口に出して、自分の楽観主義を確認した。言葉にすると少しだけ本当に何とかなる気がしてくる。根拠はないが、根拠がないなら悲観する根拠もないわけで、だったら楽観しておいた方が精神衛生上よろしい。
とはいえ、何もしないわけにはいかない。渋谷が使えないなら、別のダンジョンを探す必要がある。
遼太は駅に向かって歩きながら、スマートフォンで探索者向けの情報サイトを開いた。都内のEランクダンジョンの混雑状況と、最近の素材相場。渋谷浅層洞が封鎖された影響で、近隣のEランクダンジョンには探索者が殺到しているだろう。穴場を見つけるのは容易ではない。
どこか、情報を仕入れられる場所がいるな、と遼太は思った。
渋谷マークシティの裏手、雑居ビルの二階に「DELVE」という店がある。
看板は小さく、知らない人間なら通り過ぎるような佇まいだ。中に入ると、カウンター席とテーブル席が合わせて三十席ほど。壁面にはダンジョンの地図や素材の写真が所狭しと貼られ、大型モニターにはリアルタイムの素材相場と各ダンジョンの混雑状況が表示されている。
探索者カフェ。都内にはこうした探索者向けの飲食店がいくつもある。コーヒー一杯で粘りながらダンジョン情報を交換する、探索者たちの社交場だ。
平日の昼下がりだったが、店内にはそれなりに人が入っていた。渋谷浅層洞の規制で行き場を失った探索者が、ここで次の手を考えているのだろう。遼太と同じ境遇の人間は少なくないらしい。
カウンターでホットコーヒーを注文し──三百五十円、探索者カフェとしては良心的な価格だ──隅のテーブル席に腰を下ろした。
テーブルに備え付けのタブレット端末で、ダンジョン情報を閲覧する。DELVEでは探索者たちが投稿したダンジョンレポートがデータベース化されていて、ランクや地域で絞り込める仕組みだ。
都内のEランクダンジョンを片っ端から見ていくが、渋谷封鎖の余波で近隣はどこも混雑度が高い。穴場は見つからない。
諦めかけたとき、ふと目に留まった投稿があった。
『品川中層洞・地下四階で新種の鉱石素材を確認。透明度の高い魔素結晶で、ダンジョン庁の仮査定では一個あたり一万五千円前後。ただしフロアの常駐モンスターがDランク相当のため、Eランク探索者の単独攻略は非推奨。投稿者:ギルド「朱雀」所属Cランク探索者』
一個一万五千円。
遼太は思わずコーヒーカップを持つ手を止めた。渋谷浅層洞の一日の稼ぎが三千円から四千円であることを考えると、桁が違う。三個も持ち帰れば、今月の家賃の心配がなくなる。
だが、Dランクダンジョンだ。Eランクの自分が一人で潜るのは自殺行為に近い。常駐モンスターはDランクの「スレイトゴーレム」──岩石型で物理攻撃への耐性が高い。
Eランクのストーンビートルですら苦戦する自分に、Dランクのゴーレムは無理だ。分かっている。分かっているが、一万五千円という数字が頭から離れない。
遼太がタブレットを前に唸っていると、店の入口のドアベルが鳴った。
何の気なしに目を向けた先に、見覚えのある姿があった。黒髪を一つに束ねた女性。氷室凛だった。
凛はカウンターでコーヒーを受け取り、空いている席を探していた。視線が遼太と合う。覚えてはいるらしいが、足を止めることなく別の席に向かおうとした。
遼太は迷わなかった。
「氷室さん。よかったらこっちどうぞ。向かい、空いてます」
声をかけると、凛の足が止まった。振り返り、遼太を見る。あの、感情の読みにくい目だ。
数秒の間があった。
「……どうも」
短い返事とともに、凛は遼太の向かいに腰を下ろした。断ろうかどうか迷った末に、断る理由がないと判断した──そんな座り方だった。
「この間はありがとうございました」
「別に」
凛はコーヒーに口をつけて視線を逸らした。遼太の軽い調子がどうにも居心地悪いらしい。
「氷室さんも情報収集ですか?」
「……ええ」
「奇遇ですね。渋谷が閉まっちゃったんで、次のダンジョンを探してて」
凛はタブレット端末を操作し始めた。話しかけるなオーラが出ている。だが遼太は空気を読めるが読んだ上で無視する男だ。
「氷室さんは、次どこに潜る予定ですか?」
「……まだ決めていない」
「Bランクなら選び放題でしょう。うらやましいな」
凛の指がタブレットの上で止まった。
「そういうわけでもない。……一人だと、効率が落ちるダンジョンもあるから」
その一言に、遼太はわずかな引っかかりを覚えた。Bランクの実力がありながら一人で行動している。ギルドには所属していないのだろうか。
聞いてみたい気持ちはあったが、踏み込みすぎだと判断した。代わりに、自分が見つけた情報を話題に出した。
「そういえば、品川中層洞って知ってます? 地下四階で高額な鉱石素材が出るって話があるんですけど」
凛の目がわずかに動いた。
「品川中層洞。Dランクの六階層ダンジョンね」
「知ってるんですか」
「先月、一度潜ったことがある。地下四階以降にスレイトゴーレムが出る。物理耐性が高くて、打撃系のスキルでは効率が悪い」
「やっぱりそうですか。投稿にもそう書いてあって」
「ただ」
凛はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「ゴーレムは動きが遅い。そして魔法攻撃──特に温度変化に弱い。岩石型は急激な温度差で内部にクラックが入る。氷結系のスキルとは相性がいい」
遼太は頷いた。物理学の知識が頭の中で回路のように繋がる。岩石の熱膨張。急冷による内部応力。温度変化で亀裂が入るのは、コンクリートが寒暖差で劣化するのと同じ原理だ。
「氷室さんなら楽勝じゃないですか」
「楽勝ではない。ゴーレムを倒すこと自体は難しくないけど、鉱石素材のあるフロアは問題が別にある」
「というと?」
「あの鉱石は魔素結晶の一種で、衝撃や急激な温度変化に弱い。戦闘の余波で簡単に割れる。氷結系のスキルを全力で使えば、鉱石ごと凍結させてしまう可能性がある」
なるほど、と遼太は思った。つまり、モンスターを倒す火力はあるが、鉱石を傷つけずに倒す繊細さが求められる。火力の高いスキルほど制御が難しい状況だ。
「一人で行くのは効率が悪い、って言ってたのはそういうことですか」
凛は答えなかった。だが否定もしなかった。
遼太の中で、一つの考えがまとまっていった。無謀かもしれない。図々しいかもしれない。だが、チャンスというのは待っていても来ない。
「氷室さん。もしよかったら──品川中層洞、一緒に行きませんか」
凛が顔を上げた。
「……何を言っているの」
「俺の振動操作でモンスターの注意を引いたり、位置を探知したりするのは得意です。氷室さんの戦闘を邪魔しない範囲でサポートならできると思う。あと、鉱石の回収は振動操作で丁寧にやれるかもしれない。共振の制御には慣れてるので、衝撃を与えずに岩盤から剥がすとか」
「あなた、Eランクでしょう。Dランクダンジョンの地下四階がどれだけ危険か──」
「分かってます。一人じゃ絶対に無理です。だから頼んでるんです」
遼太は真っ直ぐに凛を見た。
「正直に言います。今月の家賃がやばいんです。渋谷は閉まってるし、他のEランクダンジョンは混んでて効率が悪い。品川の鉱石はすごく魅力的だけど、一人で行くほど命知らずじゃない。でも、氷室さんとなら──」
「私を盾にする気?」
「盾じゃなくて、パーティです。氷室さんの火力と、俺の探知。二人ならお互いにメリットがあると思うんです」
凛は無言で遼太を見つめた。その目に浮かんでいるのは、怒りでも呆れでもなかった。もっと複雑な、自分の中にある何かと格闘しているような表情だった。
長い沈黙が落ちた。
カフェの壁掛けモニターが素材相場の更新を告げる電子音を鳴らした。周囲のテーブルでは他の探索者たちが雑談をしている。そのざわめきの中で、凛は目を伏せた。
──パーティを組むことへの抵抗が、胸の奥で鈍く軋んだ。
最後にパーティを組んだのは、蒼穹にいたときだ。五人編成。それぞれがスキルを活かし、役割を担い、互いの背中を預け合う。そういう関係だった。少なくとも、凛はそう信じていた。
結果がどうなったか。
ユカリが倒れた。背骨を砕かれ、探索者生命を絶たれた。あの子の悲鳴が、今でも耳の奥にこびりついている。
もう誰かと組む気はなかった。一人なら、自分だけが危険を負えばいい。他の誰かを巻き込まずに済む。
──なのに。
目の前の男は「一人じゃ無理だから頼んでる」と、まるで天気の話でもするように言った。弱さを隠さない。見栄を張らない。そのくせ卑屈でもない。
そして、あの振動操作。Fランクのスキルを、凛が見たこともない方法で使いこなしている。共振で岩盤に亀裂を入れ、振動の反響で空洞を探知し、ボルトナットを陽動に使う。あれは才能ではなく、思考の結果だ。自分の手札の少なさを、工夫で補っている。
それが──蒼穹にいた頃の自分たちと重なった。まだ駆け出しだった頃。スキルも装備も足りなくて、知恵を絞って凌いでいたあの頃。
「……一回だけよ」
自分でも予想していなかった言葉が、口をついて出た。
遼太の目が丸くなる。
「私の指示には必ず従うこと。危険だと判断したら即座に撤退する。それが条件」
「もちろんです。全面的にお任せします」
「軽いわね」
「素直なだけです」
遼太が笑った。邪気のない笑顔だった。凛はそこから目を逸らし、タブレットの画面に視線を落とした。
自分は何をしているのだろう、と凛は思った。ソロでやると決めたのに。もう誰の背中も預からないと決めたのに。
──ただ、あの振動操作をもう少し近くで見てみたい。それだけだ。
凛はそう自分に言い聞かせた。
翌日の朝九時。品川駅港南口。
待ち合わせ場所に着いた遼太は、周囲を見回した。ビジネス街に向かうサラリーマンの波に混じって、明らかに探索者と分かる装備の人間がちらほら歩いている。品川中層洞の入口は駅から徒歩五分のオフィスビル地下にある。Dランクダンジョンだけあって、出入りする探索者の装備も渋谷浅層洞とは質が違う。
「おはようございます」
凛は既に来ていた。昨日のカフェでの軽装とは違い、白を基調とした探索者用アーマーに身を包んでいる。腰には細身の剣を差し、左手首に薄い青色の手甲をつけていた。装備の質が一目で分かる。Bランクの探索者にふさわしい仕立てだ。
「早いですね」
「あなたが遅い。五分前行動が基本よ」
「九時ちょうどですけど……まあ、すみません」
凛は遼太の装備を上から下まで確認するように見た。遼太は修理に出したショートソードの代わりに、中古の探索者用ナイフを腰に差している。ネットオークションで三千円。刃渡りは短いが、ないよりはましだ。
「そのナイフだけ?」
「金欠なもので。あとはいつものポーチに石とボルトナットが入ってます」
「…………」
凛の沈黙が雄弁だった。呆れ半分、もう半分は何とも言えない複雑な感情だろう。Dランクダンジョンにナイフと石とボルトナットで挑む探索者は、おそらく日本広しといえども遼太くらいだ。
「戦闘は全部私がやる。あなたは探知と支援に専念して。絶対に前に出ないこと」
「了解です」
「返事が軽い」
「了解であります」
「ふざけないで」
だが凛の声のトーンには、微かに──本当に微かに──柔らかさがあった。
品川中層洞の入口ゲートで探索者カードを提示し、二人で地下に降りる。
最初の違いは、空気だった。
渋谷浅層洞の空気がじっとりと湿った地下室のそれだとすれば、品川中層洞の空気は密度が違った。肌に触れる魔素の圧が厚い。呼吸するたびに、肺の奥に微かな痺れが走る。
「魔素濃度が渋谷の三倍から四倍はある」と凛が言った。「慣れていないと、長時間いるだけで体力を削られる。ペース配分を意識して」
「はい」
通路の構造も違った。渋谷浅層洞はコンクリートに似た灰色の岩盤で構成された単調な通路だったが、品川中層洞は天然の洞窟に近い。天井が高く、壁面には鍾乳石のような魔素結晶が大きく成長している。通路の幅も不規則で、狭い箇所と広い空間が交互に現れる。
地下一階を進みながら、遼太は壁に右手を触れた。
「何をしているの」
「振動で通路の先を読んでます。壁の反響でだいたいの空間構造が分かるんです」
凛が足を止めて遼太を見た。
「前に会ったときにもやっていた、あの探知ね」
「はい。品川の岩盤は魔素が多いぶん、渋谷より遠くまで読めるかもしれません」
品川中層洞の岩盤は魔素含有量が高く、振動がよく通る一方で、反響のパターンが複雑だ。だが、集中すれば分かることもある。
「この先、三十メートルくらいで通路が二手に分かれてます。右側は広い空間に繋がってる。左側は──狭い。行き止まりかもしれない」
凛が足を止めた。
「……分かるの? 三十メートル先の分岐が」
「精度はそんなに高くないです。空間の大きさとか、壁の向こうが空洞かどうか、くらい。モンスターの位置まではさすがに──あ、待ってください」
遼太は壁に額をくっつけるようにして、振動に集中した。
「右の広い空間に何かいます。地面を伝わる振動のパターンが一定間隔で繰り返してる。足音……たぶん、二体か三体」
凛はしばらく遼太を見つめていた。
「その探知、渋谷浅層洞でも使っていたの?」
「壁の向こうの空洞を見つけたときに使いました。ただ、あのときは必死だったんでかなり雑で。今くらい落ち着いてやれば、もう少し読めます」
「索敵スキルの上位互換じゃない……」
凛が小声で呟いた。遼太には聞こえていたが、返事をするタイミングを逃した。
「右は回避。左は行き止まりの可能性。なら、別のルートを探す」
凛が判断を下す。遼太は頷いた。
「もう少し手前に、壁の向こうの密度が薄い箇所がありました。別の通路に繋がっているかもしれません」
「……案内して」
遼太が先に立って通路を少し戻り、先ほど触れた壁の一点を示した。
「ここです。壁の厚さは──振動の返りからすると、たぶん四十センチくらい。向こう側に通路がある」
「四十センチの岩盤を抜けるのは現実的じゃないわ」
「いえ、そうじゃなくて。この壁、よく見ると岩盤じゃない部分がある」
遼太は壁の表面を指でなぞった。
「ここ。振動の伝わり方が周囲と違う。密度が均一すぎるんです。天然の岩盤なら微妙なムラがあるはずなのに、この部分だけ妙にきれいに揃ってる。たぶん、リポップで再生された壁です」
凛の目が細くなった。
「ダンジョンがリポップで通路を塞ぐことがある、という報告は聞いたことがある。でも、見た目で判別するのはほぼ不可能なはず」
「見た目じゃなくて、振動です。天然の岩盤と再生岩盤では内部構造が違う。再生岩盤のほうが均質で、固有振動数が単純。つまり──」
「──共振させやすい」
凛が遼太の言葉を引き取った。遼太は軽く目を見開いた。
「そうです。渋谷で壁に亀裂を入れたとき、天然岩盤は固有振動数を探るだけで魔素をかなり消費しました。でもリポップの再生壁なら、もっと少ない消費で崩せるかもしれない」
遼太は壁に両手を当てた。振動操作を起動する。再生岩盤の固有振動数は──予想通り、シンプルだった。均質な構造だから、共振ポイントがすぐ見つかる。
ゴゴゴ、と壁が唸った。
渋谷であれだけ苦労した壁崩しが、今回は明らかに手応えが軽い。魔素の消費も抑えられている。亀裂が放射状に広がり、岩盤の一部がぼろぼろと崩れ落ちた。
人が一人通れる穴が開いた。その向こうには、確かに別の通路が続いている。
「……なるほど」
凛が穴を覗き込み、奥の通路の状態を確認した。
「この通路、地下三階への直通路に繋がっているわね。通常ルートより二フロアぶんショートカットできる」
「マジですか。ラッキーだ」
「ラッキーじゃない。あなたの探知が見つけたルートよ」
凛の声はいつも通り淡々としていたが、そこに含まれる評価は、遼太にもはっきりと伝わった。
地下三階を経由して、地下四階に降りた。
ここからがDランクの本領だった。
通路の空気が一段と重くなる。魔素灯の光が心なしか暗い。壁面の魔素結晶が不規則に明滅し、まるでダンジョン自体が脈打っているようだった。
遼太は壁に触れて探知を続けた。
「前方五十メートル、広い空間。中に──大きい。ストーンビートルとは比較にならないくらい重い振動。地面を踏むリズムが遅い」
「スレイトゴーレム。予定通りね」
凛は冷静だった。右手にうっすらと冷気を纏わせ、いつでもスキルを起動できる態勢に入っている。
「何体?」
「振動パターンから……二体。あと、空間の奥にもう一体いるかもしれない。動いてないから確証は持てないです」
「三体の可能性がある。了解。先に偵察する」
凛が身を低くして通路の角から広間を覗き込んだ。遼太も後ろから覗く。
広間は天井が十メートル以上あり、壁面には大きな魔素結晶が柱のように成長している。その中央を、二体のスレイトゴーレムがのっそりと歩いていた。
体高は二メートル半。灰色の岩石で構成された人型の体。胸部に埋め込まれた魔石がコアのようだ。一歩ごとに地面が微かに揺れる。明らかに、Eランクのモンスターとは次元が違う質量だ。
そして広間の奥──壁際に、遼太が探知した通り三体目がいた。動いていない。眠っているのか、あるいは待機状態か。
「三体確認。動いているのは二体。奥の一体は休眠中の可能性がある」
「起こさないように二体を先に片付ける。あなたはここにいて」
「はい」
凛が通路から広間に踏み出した。
動きが速かった。渋谷で見たときも思ったが、Bランクの身体能力はEランクとは根本的に異なる。魔素によって強化された肉体は、常人の倍近い速度で動ける。
右手から氷結が放たれた。空気中の水分が一瞬で凍りつき、鋭い氷柱が五本、扇状に展開する。
氷柱が一体目のゴーレムの胴体に突き刺さった。ゴーレムの岩石の表面に霜が広がる。凛が言った通りだ──岩石型は急激な温度変化に弱い。表層が凍結したことで内部との温度差が生じ、細かなクラックが走っていく。
ゴーレムがぎこちない動作で反撃しようと腕を振り上げた。遅い。ストーンビートルよりさらに鈍重だ。凛は軽いステップで回避し、二度目の氷結を腕の関節部に叩き込んだ。
バキ、と岩石が砕けた。ゴーレムの右腕が肘から先で脱落する。コアが露出した胸部に凛が氷の刃を突き立て、一体目が崩壊した。
二体目が凛に向かって突進してきた。このゴーレムは最初の一体より一回り大きい。凛は距離を取りつつ氷結を放つが、二体目は胸部を両腕でガードしている。学習能力があるのか、それとも個体差か。
凛が舌打ちした。小さく、だが確かに。攻めあぐねている。腕のガードを崩さない限り、コアに氷結を届けるのは難しい。大出力の氷結で丸ごと凍結させれば話は別だが──
遼太は広間の奥を見た。三体目がまだ動いていない。だが、戦闘の音が長引けばいつ目覚めるか分からない。
「氷室さん、ちょっといいですか」
通路から声をかけた。凛がゴーレムとの間合いを保ちながら、一瞬だけ視線をよこす。
「右足。右足の踵に氷結を当ててください。地面との接地面に」
凛の目が鋭く動いた。意図を理解するのに、一秒もかからなかったのだろう。
凛が右手を振り、氷の奔流がゴーレムの足元に叩きつけられた。右足の踵と地面が一瞬で凍結し、接着されたように固定される。
ゴーレムが次の一歩を踏み出そうとして、バランスを崩した。足が動かない。体を支えるために両腕を広げた──その瞬間、胸部のガードが開いた。
凛は待っていた。氷の槍が胸部のコアを正確に貫いた。
二体目が崩壊する。
広間に静寂が戻った。奥の三体目は、まだ動いていなかった。
凛が遼太のいる通路に戻ってきた。額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「……今の指示、何」
「足を固定すればガードが崩れるかなと思っただけです。人間でも片足を固定されたらバランスを取るのに両手を使うでしょう? ゴーレムも基本的には同じ力学で動いてるはずなので」
「力学」
「岩石でできた体なら、重心の位置と支持基底面の関係は物理法則そのままです。足元の自由度を奪えば、体を支えるために他の部位が開く」
凛はしばらく遼太を見つめた。
「……あなた、本当にEランクなの」
「ステータスは正真正銘Eランクです。頭だけでどうにかしてるんで」
凛は何か言いかけて、やめた。代わりに広間の奥──目的の鉱石フロアへと続く通路に目を向けた。
「この先ね。行くわよ」
鉱石フロアは、ダンジョンの中にいることを忘れるような光景だった。
広大な空間の壁面と天井に、無数の透明な結晶が埋め込まれている。魔素を含んだ結晶が自ら発光し、空間全体が淡い金色の光に満ちていた。結晶は大小さまざまで、大きなものは人の頭ほどもある。その中に封じ込められた魔素が、ゆっくりと脈動するように明滅を繰り返していた。
「……きれいだな」
遼太が思わず呟いた。
凛は答えなかった。だが足を止めて光景を見つめていたのは、同じ感想を抱いたからだろう。
「あれが目的の鉱石。魔素透晶(まそとうしょう)。透明度が高く、魔素の純度も高い。装備の素材としても、魔素工学の研究材料としても価値がある」
「一個一万五千円の石」
「品質次第ではもっと高くなる。ただ──」
凛が空間の中央に視線を向けた。
スレイトゴーレムが一体、鉱石群の中央に立っていた。通常の個体より一回り小さいが、体表に魔素透晶と同じ結晶がびっしりと埋め込まれている。変異個体だ。
「クリスタルゴーレム。鉱石フロアの常駐ガーディアン。魔素透晶を体に取り込んでいるぶん、通常のスレイトゴーレムより魔素耐性が高い」
「氷結で倒せますか」
「倒せる。ただ、このフロアで全力の氷結を使うと、壁面の鉱石を巻き込む。空気中の水分を凍結させるスキルだから、範囲を絞っても周囲の温度は下がる。魔素透晶は急激な温度変化で内部にクラックが入るの」
鉱石を守るモンスターを倒すと、鉱石が壊れる。皮肉な構図だった。
「どうします?」
「本来はパーティの前衛がゴーレムを鉱石から引き離して、後衛が仕留める。ソロだと引き離す手段がない」
遼太は鉱石フロアの全体を見渡した。広い空間。ゴーレムは中央にいる。壁面の鉱石は空間の外周に沿って分布している。ゴーレムから鉱石を引き離す必要はない。ゴーレムを鉱石から引き離せばいい。
「一つ、提案があるんですけど」
「聞くわ」
「俺がゴーレムの注意を引きます。振動で陽動して、鉱石がない方向に誘導する。ゴーレムが外周から離れた隙に、氷室さんが鉱石を回収する。回収が済んだら、氷室さんが全力でゴーレムを仕留める」
凛の眉が寄った。
「あなたが囮になるということ? Dランクのモンスター相手に?」
「直接戦うわけじゃないです。振動で遠距離から注意を引くだけ。ゴーレムは動きが遅いんでしょう? 距離さえ保てば──」
「楽観的すぎる」
「臆病すぎるよりはマシです。大丈夫、死なない距離感は守ります。ヤバくなったら全力で逃げるんで」
凛は長い間、遼太を見つめていた。
「……指示は守って。距離を十五メートル以内に詰めないこと。ゴーレムが加速したら即座に撤退。いいわね」
「了解です」
遼太はポーチからボルトナットを三セット取り出した。指先に振動を込め、鉄片を温める。
広間の右側──鉱石がほとんど分布していないエリアに向かって、一つ目のボルトナットを投げた。
甲高い金属音が空間に反響した。
クリスタルゴーレムが反応した。結晶に覆われた頭部をゆっくりと音の方向に向ける。
二つ目のボルトナットを、最初の着弾地点からさらに奥へ投げた。今度は振動を強めに仕込んであり、着弾と同時にビリビリと空気を震わせる衝撃波が走る。
ゴーレムが動き始めた。重い足音を立てて、音源に向かってのっしのっしと歩いていく。遅い。だがその質量が生む圧迫感は、遠目に見ても胃の底を冷やすものがあった。
ゴーレムが空間の中央から十メートルほど離れたところで、遼太は凛に目配せした。
凛が動いた。音もなく壁面の鉱石に近づき、結晶を一つずつ確認していく。腰のポーチから取り出した小型のピッケルで、壁面から丁寧に魔素透晶を剥がす。
その間にも、遼太はゴーレムの注意を引き続けなければならなかった。三つ目のボルトナットを投げ、さらに地面に手を当てて振動を走らせる。ゴーレムが混乱したように足を止め、地面の振動と空中の音源を交互に追っている。
だが、そう長くはもたない。
ゴーレムの動きが変わった。音源を追うのをやめ、体を回転させて空間全体を見渡すような動作をした。振動の嘘に気づいたのか、それとも別の感覚で凛の存在を察知したのか。
ゴーレムの体が凛のいる方向を向いた。
「──氷室さん!」
遼太は叫ぶと同時に、残りのボルトナットを全てゴーレムに向かって投げた。振動を最大出力で仕込んだ鉄片が、ゴーレムの体表に次々と当たる。ダメージにはならない。だが振動が結晶質の体表を伝わり、ゴーレムの感覚を乱す。
ゴーレムが再び遼太の方を向いた。
地面が揺れた。ゴーレムが走り出した──走った。ゴーレムが走るとは聞いていない。遅いはずの足が、遼太に向かって加速している。クリスタル個体は通常種より敏捷性が高いのか。
十五メートルの距離が、みるみる縮まっていく。
「──っ」
遼太は踵を返して走った。全力で。背後からゴーレムの重い足音が追ってくる。地面の振動が足の裏から伝わってきて、距離感が嫌というほど分かった。八メートル。七メートル。詰められている。
通路の入口まであと少し。通路に入れば、ゴーレムの巨体は入れない──はずだ。たぶん。
「伏せて!」
凛の声が飛んだ。
遼太は考える前に体が動いた。地面に伏せる。頭上を氷の奔流が通過した。温度が急激に下がり、首筋が凍るような冷気に晒される。
背後でゴーレムが悲鳴のような軋り音を上げた。
顔を上げると、ゴーレムの上半身が丸ごと凍結していた。結晶に覆われた体表にびっしりと霜が張り、内部から亀裂が走っていく。凛が全力の氷結を叩き込んだのだ。
鉱石は既に回収済み。もう遠慮する必要はない。
凛がもう一撃、氷の槍をゴーレムのコアに突き刺した。ゴーレムが崩壊し、結晶の破片が床に散らばった。
静寂が戻った。
遼太は地面に伏せたまま、荒い息をついた。
「……死ぬかと思った」
「だから言ったでしょう。楽観的すぎると」
凛が近づいてきた。右手の氷が溶けて水滴になり、地面に落ちる。息が少し上がっているが、表情は冷静なままだった。
「でも、鉱石は無事です」
遼太が起き上がりながら言うと、凛は腰のポーチを開いて中身を確認した。透明な魔素透晶が五つ、布に包まれて収まっている。
「五個。全部良品以上。……上出来ね」
「お見事です」
「あなたの陽動がなければ、こうはいかなかった」
凛がそう言ったのは事実の確認であって、照れや感謝の表現ではなかった──はずだ。だが声のトーンが、いつもよりわずかに温度を持っているのを、遼太は聞き逃さなかった。
「……悪くない連携だった」
凛がぽつりと言った。
「お褒めにあずかり光栄です」
「調子に乗らないで。帰るわよ」
地上に戻ったのは午後三時を回った頃だった。
品川駅近くのダンジョン庁査定所で、魔素透晶五個とスレイトゴーレムの素材を換金した。
査定員が端末に数字を打ち込んでいく。
「魔素透晶五個──うち特良品が二個、良品が三個。スレイトゴーレム岩石片が六個、ゴーレムコアが二個。合計──」
金額が告げられた。
遼太は一瞬、聞き間違いかと思った。
「……十二万三千円?」
「はい。特良品の魔素透晶が単価二万二千円で、通常の良品より高い査定になりますので」
十二万三千円。遼太の過去最高の日収は、渋谷浅層洞で運良くレアな外殻片を拾ったときの八千二百円だ。一気に十五倍の跳躍。次元が違う。
査定所を出て、凛と二人で歩いた。分配の話をしなければならない。
「氷室さん。取り分なんですが──」
「折半で構わない」
「いや、それはさすがに。戦闘は全部氷室さんがやったわけだし。俺は陽動しただけで──」
「あのルートを見つけたのはあなたの探知。リポップ壁を見抜いて二フロアぶんショートカットできたから、魔素の消費を温存して鉱石フロアまで到達できた。鉱石を無事に回収できたのも、あなたの陽動のおかげ。折半が妥当よ」
有無を言わさぬ口調だった。凛は数字に対して感情ではなく論理で語る人間らしい。遼太が何を言っても、事実を並べて退けるだろう。
「……ありがとうございます。正直、助かります」
「感謝するなら、次はもっとまともな装備を揃えて。見ていて不安になるから」
「善処します」
六万一千五百円。遼太の取り分。家賃が払える。ショートソードの修理費も出る。来月のことを考える余裕すらある。
品川駅のコンコースで、二人は足を止めた。
「今日はありがとうございました。本当に助かりました」
遼太が頭を下げると、凛はしばらく黙っていた。
「……こちらこそ。あなたの探知がなかったら、あのルートは見つからなかった。鉱石も、あれだけ効率よくは回収できなかった」
凛が素直にそう言ったことに、遼太は少し驚いた。初めて会ったときの、壁のような冷たさが少しだけ──ほんの少しだけ薄くなっている気がした。
「また一緒に行けたら嬉しいです」
凛の足が止まった。遼太を見つめる目の奥で、何かが揺れた。
また、あの複雑な表情だ。何かと格闘している。引き受けたい気持ちと、引き受けてはいけないという自制の間で揺れている──ように見えた。
長い間があった。
品川駅の雑踏が二人の周囲を流れていく。帰宅ラッシュには少し早い時間帯の、緩やかな人の波。
「……考えておく」
凛はそれだけ言って、改札の方に歩き出した。
振り返らなかった。
遼太はその背中を見送りながら、今日一日のことを頭の中で反芻していた。
Dランクダンジョンの空気の重さ。スレイトゴーレムの圧倒的な質量。クリスタルゴーレムに追いかけられたときの恐怖。そして──凛との連携で、初めて「自分の能力が活きた」と感じた手応え。
振動操作は、戦闘スキルとしてはFランクだ。火力がない。防御もない。一人では、Eランクのストーンビートルを倒すのが精一杯だ。
でも、今日は違った。探知で隠しルートを見つけ、陽動でモンスターの注意を引いた。どれも「振動を操作する」というFランクスキルの範囲内でやったことだ。新しい能力が開花したわけでもない。ただ、使い方を変えただけ。
一人でできることには限界がある。だが人と組むことで、自分の能力の活かし方が変わる。
品川駅の山手線ホームで電車を待ちながら、遼太は探索者カードを取り出した。今日の収入を確認しようとしたのだが、指で表面をなぞった瞬間、別の数字に目が止まった。
──榊遼太。Eランク探索者。Lv.6。
レベルが上がっていた。
5から6。一つだけ。だが、渋谷浅層洞で何十体ものストーンビートルを倒しても微動だにしなかったレベルが、たった一日で動いた。Dランクのモンスターから吸収した魔素の量が、Eランクとは桁違いだったのだ。
遼太は探索者カードを見つめ、小さく笑った。
一つ上がっただけだ。まだEランクの底辺で、東京大深洞の最深部ははるか遠い。
だが今日、確かに一歩進んだ。
自分の力の使い方に、新しい道が見えた。
ホームに電車が滑り込んでくる。春の夕暮れの風がホームを吹き抜け、遼太の髪を揺らした。
──明日は装備を買いに行こう。まともなショートソードと、できればグローブも。ボルトナットのバリエーションも増やしたい。
考えることが山ほどあった。
それが、今の遼太にはたまらなく楽しかった。
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