5 / 31
5 ごめんね
しおりを挟むどこかでセミが鳴いている。
まだ八時前だというのにうだるような暑さの中を歩いていく。
リンネは夏が苦手だった。
もともと体が弱く、すぐに熱を出すリンネは暑さに体がついていけず、出かけてもすぐにへたってしまうことが多かった。
だから、公園に遊びに行こうと誘われても、断ることがほとんどだった。
そのうち愁は、ゲーム機を持ってうちにやってくるようになった。
『家の中でなら遊べるんだろ?』
そう明るく笑う顔は、今でも忘れられない。
暑いなか無理をして公園に行かなくても、ひとりぼっちじゃない。
お出かけしなくても、友達が遊んでくれる。
それまで、友達というものがいなかったリンネにとっては驚きで、とても新鮮な気分だった。
(そういえば、一緒に市民プールに行ったことはなかったな……)
シュウちゃん、泳ぐのは苦手だったみたいなのに、なんで今はプールで働いているんだろう、と思ったところでちょうど着いた。
「暑いなぁ。大丈夫か?」
体育センターの入り口の近くのベンチに、愁は座って待っていた。
凛音がやってきたのを見るとすぐに立ち上がって近寄ってきてくれて、当たり前のようにスポーツドリンクのペットボトルを差し出される。
「あ、ありがとう……」
大きくなった愁は身長が伸びただけではなく筋肉もついた様子で、全体的にガッチリしている。
髪の毛も短く、サイドの部分が刈り上げられていて、スポーツ選手みたいな雰囲気だった。
もさもさと髪が伸び気味だった昔と全然違う。
「あの、この間は、ありがとうございました!」
まずはお礼だ。
ぺこりと頭を下げ、菓子折の入った紙袋を差し出すと、愁は困ったように頭の後ろを掻く。
「いやぁ、そこまで気を遣わせるほどのことじゃないと思うんだけどな」
受け取るのを渋っている様子だったので、さらにぐいと押しつけた。
「とんでもないです! 僕の命の恩人なんですから、もっと豪華なものを用意してもよかったぐらいです! それに、あの、そのまま持って帰ると僕がお母さんに怒られちゃうので、よかったら……もらってください。つまらないものですが……?」
確か、大人は誰かになにかをあげる時、そんなような言い回しをしていた気がする。
たどたどしい物言いに愁は笑い、ようやく紙袋を受け取ってくれた。
「ありがとう。それじゃあもらっとくよ。しっかりしてるなぁ。えっと、いま、小学一年生だっけ?」
「……はい。あ、すみません。今日は母も一緒にお礼にくる予定だったんですが、急用が入っちゃって……」
改めて向かい合うと、愁は愁だけど、やっぱり年上の男の人だ。どうやって話したらいいのかわからなくなって、他人行儀なことしか言えない。
「わざわざ一人で来られるなんてえらいなぁ! あ、そうだ。ついでに聞きたいんだけど、この間、どうして溺れたりしたんだ?」
「え?」
「いや、たまにきみぐらいの子に水泳を教える機会があるから、参考までにな」
「どうして、って……えっと、普通に泳いでる最中に、急に頭が痛くなって、気づいたら沈んでた感じなんですが……」
「なるほどなぁ。息継ぎがあんまりうまくいっていなくて、酸素欠乏症になっていたのかもな」
まじめな顔で頷いている愁に、凛音はますます戸惑う。
「……監視員のバイトだけじゃなく、スイミングスクールの先生までやってるんですか?」
「うーん……というか、小さい頃から通ってるスイミングスクールで、時間外にプールを練習で使わせてもらってるから、その見返りに、たまに小学生コースの講師の手伝いをしているという感じで」
「練習? 水泳選手なんですか?」
「そんなたいした選手ではないが、一応、高校でも大学でも、水泳部に所属している」
愁の返事に、凛音は呆然とする。
「……いつから……いつから、水泳やってるんですか……!?」
リンネの知る愁は泳ぐのが苦手で、学校の水泳の授業でもいつも別メニューをやらされていた。
「……小学校、五年ぐらいの時だったかな」
一瞬、愁の眼差しが気まずそうに揺れたのが見えた。
小学五年。リンネが死んだ年。
リンネが生きていた頃は、愁はスイミングスクールになんて通っていなかった。
つまり、リンネが死んだあとから……?
「……なんで、水泳始めたんですか?」
問いかける声は震えていた。
「……きみみたいな子を助けるためだよ。……なんちゃって」
明るく笑って言い放ったものの、キザすぎるセリフだったと我に返った様子で照れくさそうにごまかす。
それは、リンネがよく知る愁の仕草そのものだった。
「…………っ」
「ちょ……ええ? ごめん、変なこと言ったかな」
パタパタと、自分の顔から何かがこぼれ落ちる。
半ズボンから覗く膝が濡れたことで、こぼれ落ちたのは水滴で、自分が泣いていることに気づいた。
頬に触ったら、手の甲がびしょ濡れになった。
変なのは凛音の方だ。
感極まったとか、そんな感じじゃない。
ただ、気づいたら涙が溢れて止まらなくなっていた。
(これは僕の感情じゃない。『リンネ』の感情だ)
自分であって自分でないもの。
そのもう一人の自分がいま、泣いている。
「森倉くーん、なに小学生泣かしてんの?」
そこに、鍵をあけにやってきたらしい警備員のおじさんが通りかかって、声をかけてきた。
「いや、えっと……すみません、この子、中に入れてあげてもいいですか?」
「弟かなにか?」
「ええと……従兄弟です」
ものすごく適当な嘘だ。
しかし、それで警備員のおじさんは納得してくれたらしく、従業員用通行口から入るのをあっさりと許してくれた。
「暑くて気分悪くなっちゃったかな? とりあえず、飲み物飲みなよ。いま、クーラー入れるから」
警備員のおじさんはそう言って去っていく。
誰もいないロビーのソファに座らされ、凛音は言われた通り、さっきもらったスポーツ飲料を口にした。
少しあまったるい液体が喉を潤していく。
涙はいつの間にか止まっていたが、まだ頭はぼんやりしていた。
「お母さんに連絡した方がいい?」
「……いえ、大丈夫です。少し休んだら帰ります」
「そっか。ごめん、お兄さんこれから仕事だから、またあとで様子見に来る感じでもいいかな?」
「……あの」
「ん?」
「……お兄さんの名前、森倉愁、っていうんですよね?」
名前なんて、確認せずともとっくに知っている。
わざわざ聞いたのは、不審がられては困るから。あえてたどたどしく聞いてみたのである。
「うん、そうだよ。……なぁ、聞き間違いだったら申し訳ないんだけど、この間助けた時、シュウちゃん、って呼んでなかったか? あと、また会えたね、って」
「……っ」
間違いない。そう言った。
でも、自分の正体を隠したまま理由を説明するのは、とても難しい。
言ってしまってもいいんだろうか、ここで。
自分は来栖リンネの生まれ変わりだと。
信じて、くれるだろうか?
「……勘違いとか、気のせい、とかだったらごめん……」
黙り込んだまま顔を上げない凛音に焦れた様子で、愁はさらに言葉を続けてきた。
「親戚に、来栖って名字の子はいるか?」
凛音は思わず、バッと勢いよく顔を上げていた。
「僕だよ! 僕が来栖リンネだよ! 今は黒崎凛音って名前で……ええと、女の子でも金髪でもないけど、シュウちゃんの幼なじみのリンネだよ!」
後先も考えずに言い放った声は、ガランとしたロビーに大きく響き渡った。
二人きりには広すぎる空間に、沈黙が落ちる。
何言ってるんだよ、と笑い飛ばされるだろうか。
ちょっと頭のおかしい子だと思われてドン引きされるだろうか。
ハラハラしながらシャツの裾を握りしめ、凛音は愁のリアクションを待った。
「……だ、だよな……!?」
「ふぇ?」
まったく想定していなかった反応に、凛音の口から間抜けな声がこぼれる。
「リンネ、なんだよな?」
背の高い愁は身をかがめて凛音と目線を合わせ、肩を掴んでくる。
まっすぐな眼差しは真剣そのもの。
冗談を言っているようにも、バカにしているようにも、疑っているようにも見えなかった。
「えっと……幼なじみで、同じ幼稚園に通ってて、小学校も同じで……二年生の時だけ別のクラスになっちゃったけど、それ以外はずっと一緒だった……来栖リンネだよ。……わかるの?」
「……うん。だって、声がそっくりだし」
「声?」
確かに女の子みたいな声だって言われたことはあるけど、そうだろうか?
容姿の違いはともかく、声までは比べようがない。
「それに、表情とか、仕草とか……あとなんかよくわからないけど『リンネ』って感じがした」
ずいぶんと適当で曖昧な判断材料だ。
だけど、いかにも愁らしい気がして、凛音はふにゃりと笑った。
「笑いながら泣くところも」
気づいたらまた涙をこぼしていたらしい。
目蓋が熱い。
「リンネ、生まれ変わったんだな?」
頬に落ちた涙を拭う愁の指先は震えていた。
「うん……そうだよ。シュウちゃんに会うために、また生まれてきたよ。……ね? 生き物は死んだらそこで終わりじゃないっていう私の言葉、嘘じゃなかったでしょ……?」
見つめ合っていられたのはそこまで。
「そっか…………そっか」
噛みしめるように呟いたあとに逞しい腕に抱きしめられて、凛音は身動きできなくなる。
肩越しに、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
じんわりと熱いものがシャツに染み込んでくる。
「ずっと、謝りたかったんだ。ごめん……あの時、助けられなくて」
懇願めいた声で謝罪しながら、愁は肩を震わせている。
再会を、もっと喜んでもらえると思っていた。
だけどいま、愁を満たしているのは、深い後悔の念だ。
ああ、そうだ。私たちはあの日、一緒に海に行って……沖に流されたスイカのビーチボールを取るために一人で泳いでいったシュウちゃんを追いかけて、私は溺れたのだ。
シュウちゃんは、『無理だ。諦めよう』と言っていたのに、私が諦めようとしなかったから、シュウちゃんが取りに行ってくれたのだ。
そして、『ここで待ってろ』というシュウちゃんの言うとおりにしなかったから、私は死んだ。
「ごめん、オレが『泳いでみよう』なんて誘ったせいで……」
違う。最初に泳いでみようと言い出したのは私だった。
浮き輪がなくても大丈夫、と言ったのも私だった。
あの時持っていたのは、スイカのボールだけだった。
スイカのボールが流されたのは、私の脚がつったせい。
スイカのボールは、シュウちゃんが持ってきたものだった。
だからどうしても、取り戻したかった。
でも、スイカのボールよりもシュウちゃんが戻ってこなくなる方が怖い、と気づいて追いかけた。
結局、戻ってこれなくなったのは、私だった。
「……スイカのボール、ちゃんと持って帰れた……?」
「そんなのもう、どうでもいいよ」
ぎゅっと抱きしめられて、あのボールが戻らなかったことを察する。
「ごめん……ごめんね。シュウちゃんのせいじゃないよ」
抱き返すこともできずに、凛音はだらりと下げた手で拳を作る。
大好きな人に、消えない傷を刻んでしまった。そんな大事なことに、ようやく気づかされた。
0
あなたにおすすめの小説
離婚を望む悪女は、冷酷夫の執愛から逃げられない
柴田はつみ
恋愛
目が覚めた瞬間、そこは自分が読み終えたばかりの恋愛小説の世界だった——しかも転生したのは、後に夫カルロスに殺される悪女・アイリス。
バッドエンドを避けるため、アイリスは結婚早々に離婚を申し出る。だが、冷たく突き放すカルロスの真意は読めず、街では彼と寄り添う美貌の令嬢カミラの姿が頻繁に目撃され、噂は瞬く間に広まる。
カミラは男心を弄ぶ意地悪な女。わざと二人の関係を深い仲であるかのように吹聴し、アイリスの心をかき乱す。
そんな中、幼馴染クリスが現れ、アイリスを庇い続ける。だがその優しさは、カルロスの嫉妬と誤解を一層深めていき……。
愛しているのに素直になれない夫と、彼を信じられない妻。三角関係が燃え上がる中、アイリスは自分の運命を書き換えるため、最後の選択を迫られる。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
【完結】よめかわ
ariya
恋愛
遊び人として名高い貴族・夏基は、不祥事の罰として「醜聞の姫」白川殿と政略結婚することに。
初夜、暗い印象しかなかった姫の顔を初めて見た瞬間――大きな黒目がちな瞳、薄桜色の頬、恥ずかしげに俯く仕草に、夏基は衝撃を受ける。
(可愛すぎる……こんな姫が俺の妻!?)
亡き恋人への想いを捨てきれず、夫を拒む白川殿。
それでも夏基は過去の女たちに別れを告げ、花を贈り、文を重ね、誠心誠意尽くして彼女の心を溶かしていく。
儚くて純粋で、泣き顔さえ愛らしい姫を、夏基はもう手放せない――
平安貴族の切なく甘い、極上よめかわ恋物語。
※縦読み推奨です。
※過去に投稿した小説を加筆修正しました。
※小説家になろう、カクヨム、NOVELDAYにも投稿しています。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。
朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる