14 / 31
14 涙
しおりを挟む眠りに落ちていく最中、ベッドの上で意識の揺らぎを感じながら深い深い底へと心と体を沈めていく感覚は、水の中にいる時の感覚に似ている。
(今日は、水の中にたくさんいたからかな……?)
目蓋を閉じるだけで昼間の出来事が鮮やかに目蓋の裏側に再生されて、今は柔らかなタオルケットに包まれているはずの肌にも、水の感触が蘇ってくる。
スイミングスクールに通いたいと母に相談してから一週間。ようやく今日、体験レッスンに参加することができたのだ。
母は終始心配そうに見守ってくれていたけど、凛音は特に溺れそうになることもなく、順調にレッスンをこなして終わった。
終わったあとに、別のコースで練習していた類がやってきて『凛音くん、上手いじゃん!』と言ってくれたことでようやく母は安心し、正式な入会手続きをすませてから帰ることになった。
(シュウちゃんには会えなかったけど、次行った時は会えるかな……?)
そんなことを考えているうちに、凛音はいつの間にか完全な眠りに落ちていた。
夢は見なかった。
ただ、眠りの底から呼び戻されて目蓋を持ち上げた瞬間、目元から雫のようなものがぼろりとこぼれ落ちた。
「あれ……?」
さらにぽろぽろと大粒の雫がこぼれて、枕元を濡らす。
指先を目元に伸ばしたら、あたたかな水滴が指先にくっついてきた。
どうやら自分は、寝ている間に涙をいっぱいためていたらしい。
(どうして……?)
悲しいことなんてなにもないのに。
悲しい夢を見たわけでもないのに。
だったら嬉し涙なのかというと、それもまた違う気がする。
どうしていいのかわからず、凛音は涙が止まるまで泣き続けた。
「凛音ーっ!」
ドア越しに、母の声が響いてくる。
時計を見れば、七時をすぎたところだった。
朝ご飯ができたのかもしれない。
泣きはらした顔を見られるわけにはいかなくて、凛音は布団の中にもぐる。
寝たふりを決め込んでいると、やがて階段を昇るスリッパの音が聞こえてきた。
「凛音? まだ寝てるの?」
「…………」
布団越しに、肩のあたりを軽く叩かれるが、凛音は石にでもなったように動かなかった。
そのまま息をひそめていると、やがて母は諦めた様子で階段を降りていく。
「すみません。声をかけたんですが、起きなくて……」
ドアの向こう――おそらく玄関のあたりから、かすかにそんな声が聞こえてくる。
「いえ、大丈夫です。朝早くにすみません」
答える声に、凛音は驚いて目を見開いた。
(シュウちゃんの声だ!)
慌てて飛び起きて、足をもつれさせるほど大急ぎで階段を降りる。
その間に、玄関のドアが閉まる音が聞こえてきたものだから、余計に焦った。
「あら? 起きたの? いま、森倉先生が来てたのよ」
「早く言ってよ!」
「早く言ってもなにも、あんた、寝てたでしょ」
呆れて言い返してくる母に返事する暇もなく、凛音は玄関を飛び出した。
「シュウちゃん!」
声をかけると、すでに十メートルほど離れたところにいた愁が驚いた様子で振り返る。
そして、ぐしゃぐしゃに乱れた髪の毛とパジャマ姿で出てきた凛音の姿を見て、やわらかく微笑んだ。
「悪い、起こしたか」
「大丈夫だけど……なんで急に……? なんか、用事でもあったの?」
愁は基本的に礼儀正しい性格だ。用もなく、早朝にいきなり訪ねてくるようなタイプではない。
「凛音、うちのスイミングスクールに入会したらしいな。昨日の夜、練習に行った時に事務の人から聞いた」
「え……うん」
(昨日、シュウちゃん、来てたんだ)
凛音が行ったのは午前中だ。
会えなくて残念だったけど、同じ場所にいたんだ、と思うと少しだけ嬉しくなる。
「大丈夫か? 無理するなよ」
「なんで……? 前世では溺れて死んだから、心配?」
あまり喜んでくれているわけではなさそうな気配に、凛音はムッとして言い返す。
すると、愁は困ったように視線を揺らす。
「そうだな……心配だ」
嘘が下手で、ごまかすのも苦手な愁は、控えめながらも素直に肯定する。
「もう溺れて死なないように、泳ぎを覚えることにしたんだよ。まだ下手くそだけど……上手くなったら、また一緒に海に行ってくれる……?」
「海は…………ダメだ。悪い」
本当に申し訳なさそうに、愁はキッパリと言い切った。
「そっか……」
それを否定することなど、凛音にはできるわけがなかった。
過去をやり直すことはできても、過去は消えない。
来栖リンネがあの夏、あの海で死んだことは、神様にだって覆すことができない事実だ。
あの夏、一緒にいた友達を海でなくしてしまったという愁の傷を癒やすことは、容易ではない。
「……でも、プールならいいぞ」
沈んだ様子の凛音を見かねてか、愁は代案を出してくる。
「……スイミングスクールのプール?」
「いや、ウォータースライダーとかがあるような……遊園地みたいになっているプールがあるだろう? ああいうところなら、安全管理がしっかりした中で遊べるし、ちょうどいいんじゃないのか?」
「それって、デートってこと?」
「な……」
真面目だった愁の顔に、動揺が浮かぶ。
「そういうわけじゃ……いや、そうなのか?」
耳がわずかに赤くなったように見えた。
頭を掻くさまはどう見ても照れていて、この癖は何年たっても変わらないんだな、と凛音はほっとさせられる。
凛音はくすっと笑う。
「どこでもいいよ、シュウちゃんが連れて行ってくれるなら」
気づけば、前世で幾度も口にしたセリフを、凛音は口にしていた。
愁が真顔に戻る。
「これから大学の水泳部の合宿なんだ。五泊六日だから、次に会えるのは約一週間後になる。オレが戻ってくるまで……ここにいてくれるか?」
凛音は今度は苦笑することになった。
「そんなホイホイ何度も死んでられないよ。今のところ旅行の予定も引っ越す予定もないしさ、どこにも行かないって」
当たり前のことを言えば、愁はほっとしたように口元を緩めた。
「お土産、買ってくる。食べ物で、苦手なものはあるか? ……実は、これを聞くためにおまえの家に来たんだ」
愁は相変わらず真面目だ。
「僕が好きな食べ物なら、シュウちゃんが一番よく知ってるでしょ」
「食べ物の好みは……変わっていないということか?」
「味覚はまったく同じじゃないかもしれないけど……変わらないよ。なんにも」
愁が近づいてきて、手を伸ばしてきたかと思ったら、頭を撫でられた。
「わかった。行ってくる。一人で危ないところに行くなよ」
「はいはい」
「なにかあったら連絡しろ」
スポーツバッグの外側のポケットに入っていた紙を渡される。
そこには、愁の携帯端末の電話番号と、ご丁寧に、合宿先の電話番号まで書いてある。
「うん。ありがと!」
ぶんぶんと大きく手を振り回して愁の後ろ姿を見送りながら、凛音はあることを思い出した。
「シュウちゃーん! 今度の花火大会、また一緒に行こうよーっ!」
口元に当てた手をスピーカーのかたちにして、遠ざかっていくジャージ姿に向かって声を張り上げると、振り返った愁は笑顔を見せ、返事のかわりに大きく手を振ってみせた。
「……よし、夏休みの宿題、さっさと終わらせちゃお。シュウちゃんが合宿から帰ってきたら、たくさん会いに行くんだ」
まだ気温の上がりきらない、爽やかな夏の朝の空気のなか、凛音はこっそりと拳を作った。
0
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛
ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎
潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。
大学卒業後、海外に留学した。
過去の恋愛にトラウマを抱えていた。
そんな時、気になる女性社員と巡り会う。
八神あやか
村藤コーポレーション社員の四十歳。
過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。
恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。
そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に......
八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
背徳の恋のあとで
ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』
恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。
自分が子供を産むまでは……
物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。
母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。
そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき……
不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか?
※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる