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3 あの日
しおりを挟む兄さんと志岐が付き合っていたのかどうかはよくわからない。
ただ、一度だけ、兄さんの部屋で二人がキスをしているのを盗み見てしまったことがある。
当時の私は小学生で、驚きなのか失望なのか憤りなのかよくわからない感情に苛まれて、しばらく二人にどう接していいのかわからなくなったりもした。
兄さんが死んだあとも、私が志岐に二人の関係について問いただしたことはない。
ただ、志岐が兄さんのことを好きだったことは間違いなく、そして、好きな人を見殺しにしてその妹を助けたという事実だけが残った。
七年前の夏。
親戚の集まりに参加した私たちは、山の上のキャンプ場で、バーベキューをしていた。
その最中、私は急に腹痛を起こした。
しばらく休んでもおさまらないので、食中毒の可能性を心配され、山の麓にある病院まで行くことになった。
付き添いを申し出てくれたのは兄だった。しっかり者の兄は大人たちからも信頼されており、任せておけば問題ないだろうと判断された。
ちなみに母は、親戚の幼子の子守を手伝っており、ついてくることはなかった。
かわりになぜか、志岐がついてきた。
山道はカーブが多く、バスに乗っている途中で私は車酔いまで起こし、気持ち悪さをこらえながらずっと俯いていた。
その瞬間、なにが起こったのか、私はあまりよく覚えていない。
反対車線のトラックが居眠り運転で突っ込んできたのを避けようとしたバスが崖から転落したというのはあとから聞いた話で、当時の私たちはわけがわからないまま、気づいた時には割れたガラスが散乱する車内に倒れていた。
何人かは窓を突き破って、外に投げ出されていた。
窓側に座っていた私もその一人。
『さよこ……小夜子!』
何度も声をかけられ、肩を揺さぶられてようやく、痛みの中から意識が戻ってきた。
一瞬、兄かと思ったけど、よく見たら兄とは似ても似つかない従兄弟が目の前にいて、私はガッカリした。
『兄さんは…………?』
私が最初に発した一言は、兄のことだった。
『玲司は……ちょっと待ってろ。それよりも小夜子、頭から血が出てる』
志岐もその時は相当パニックになっていたのだろう。
目の前で怪我をしている人間を放ってはおけないと思ったのか、私の肩を掴んだまま、おろおろとしていた。
その点、私の方がまだいくらか冷静だった。
『兄さんはどこ?』
頭とか、脚とかいろいろ痛い気がするけど、とにかく私は生きている。
さっきまで私を苛んでいた腹痛もまだおさまっていないけど、そんなことはどうでもいい。
兄も同じように生きていることを確認する方が重要だと感じた。
『……っ』
志岐が周囲に視線をめぐらせる。
ガソリンが漏れたのか、バスの方からあがった炎が、あたりの草にまで燃え移りはじめている。
兄は、いた。
割れた窓ガラスの中から上半身だけ飛び出した格好で倒れていた。
『玲司!』
悲鳴のような声をあげて、志岐が駆け寄る。
私もすぐに追いかけようとしたけど、脚がうまく動かなくて、立ち上がることすらままならなかった。
よく見たら、右脚が赤く腫れ上がっていた。おそらく、そばにある木にでも打ちつけたのだろう。
兄さんの体を抱きしめるようにしながら助け出そうとした志岐だが、うまくいかなかったらしく、全身を引っ張り出せないまま、動きが止まる。
途中で意識を取り戻した兄さんと志岐は言葉を交わしたようだが、兄さんの声はか細く、私の距離からでは、なにを言っているのかハッキリと聞き取れなかった。
ただ、兄の言葉を聞いた志岐の表情が絶望に引きつるのだけがハッキリと見えた。
『小夜子』
今度は私の耳にも兄さんの声が聞こえた。
でも、怪我でもしているのだろうか。いつも明瞭な兄の声は掠れ、無理して声を張り上げているかのような様子だった。
『オレはあとから行くから、志岐と先に逃げなさい』
『え、でも……』
『怪我をしているみたいじゃないか。可哀想に……早く病院で看てもらった方がいい。可愛い顔に傷が残ったら大変だ』
優しい声に、涙があふれてくる。
『私の顔なんてどうでもいいわ! 兄さんも早くそこから出てきて!』
『ごめん。……脚が挟まって抜けないんだ。僕は救助隊がくるのを待つよ』
私の頭から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
『そんな……救助隊はいつくるの!?』
兄が志岐の顔を見ると、志岐は重い表情のまま、携帯端末を取り出した。
画面を操作しようとして、首を横に振る。
『だめだ……壊れてて動かない』
『なら、山の下まで降りて、誰かにかわりに電話をかけてもらえるよう頼んでくれ』
『兄さんを置いてなんていけないわ!』
『小夜子』
言い聞かせるような声音。私は物心ついた時からずっと、この声には弱かった。
『行きなさい。早く』
『……っ』
最後にぎゅっと兄の頭を抱きしめた志岐は、名残惜しそうに指先だけで兄の頬を撫でながら、そっと離れた。
兄さんの白い頬に、血の跡が残る。
あれは、誰の血だったんだろうか。
こちらに戻ってきた志岐の白いシャツには、さっきまでなかったはずの赤い染みが増えていた。
これは、兄さんの血。それだけはわかった。
『小夜子』
しゃがみこんで、背中に乗れというポーズを見せる志岐。
私は勢いよく首を横に振った。
『嫌よ! 兄さんが一緒じゃなきゃ、どこにも行かない!』
『……』
志岐は苦々しい表情を浮かべ、私を無理やり肩に担ぎあげた。
この時、私は十歳で、志岐は十七歳ぐらいだったはずだから、軽かった私の体はいとも簡単に抱えられてしまい、そのまま志岐は崖を下っていった。
背後から爆発音があがったのはその直後で、爆風に煽られて私たちはバラバラになったけど、すぐにまた志岐が私を背負い直して、歩き出した。
爆発があったのはバスの方だ。
『どうして……どういうこと!?』
どうか、兄さんは無事だと言ってほしい。その一心で問いかけた言葉に、志岐が言葉を返すことはなかった。
ただ、やむなくしがみつく格好で回した私の手に、冷たい涙がぱたりぱたりと落ちてくる感触があった。
その涙に、空から降ってきた雨粒が重なった。
しとしとと降りそそぐ雨はどこか優しく、空が一緒に泣いてくれているみたいだった。
あの日、私たちは、この世でなによりも大切な人を喪った。
*
葬儀のあと、『あんたが兄さんを置いていったせいで兄さんは死んだ!』と罵った私に、志岐はただ黙って頭を下げた。
それから、罪滅ぼしのように、私に尽くすようになった。七年間ずっと。
本当は、誰よりも悪いのは私だってわかっていたけど、私はそれを拒まなかった。
あの日、私が腹痛を起こしてなんかいなかったら、あのバスに乗ることはなかった。
腹痛ぐらい我慢していればよかった。
あるいは、一人で病院まで行けばよかった。
窓際に座ったのが兄さんだったらよかった。
たとえ兄さんの脚を切ってでも、無理やり助けていればよかった。
考えれば考えるほど、後悔はとめどなくあふれてくる。
両親は私よりも兄さんを可愛がっていたはずだけど、私を責めたりはしなかった。
『おまえだけは生き残ってくれてよかった』と優しく抱きしめてくれた。
そんな言葉が欲しいわけじゃなかった。
誰か……誰でもいいから『おまえのせいで玲司は死んだ』と私を激しく罵って、断罪してほしかった。
優しさは甘い毒となって私をじわじわと蝕み、心を麻痺させていった。
うまく笑えなくなったのはその頃から。
兄に甘えてばかりいた元気な少女はもういない。
能面のように同じ表情を張りつかせて、ロボットみたいに淡々と話すようになった私に、多くの友人たちは離れていったけど、朋美だけは残った。
それからまもなくして父の仕事が忙しくなり、母も出かけることが増え、私が高校に上がる頃には二人して海外に行ってしまったけど、身の回りの世話は、志岐がやってくれている。
たくさんのものを失ったけど、私はひとりぼっちになったわけじゃない。
私はまだ恵まれている方だ。
だから、悲劇のヒロインを演じるわけにもいかない。
傲慢にもなれず、悲愴的にもなれず、ただ淡々と、兄のいない世界を生きていくしかなかった。
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