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オオカミ男、オオカミ女

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 焼き鳥屋『懐古』に到着したのは予約時間から数分過ぎてからだった。

 目と鼻の先にある焼き鳥屋で、今まで顔をよく見ていなかったが渋くて若い旦那とバイトの大学生二人、計三人で切り盛りしているこじんまりしたアットホームな焼き鳥屋。数分の遅刻も電話一本入れれば快く待っていてくれる。

 棚に並べられたストックのお酒の多さと、狭い店内、そして漂う炭火で焼く焼き鳥の良い匂いに、いつもなら疲れが癒されていく。いつもなら、だ。

「なんかあ、悪い男の匂いがしましたぁ。絶対に、頭がいいですよね」
「……そこが良いなって思ってたんだけどね」
「何か月付き合ってたんですか?」
「に、かげつ?」

 お見合いして、三回のデート内で交際するか決めろって言われたんだけど、一回目にドライブしたときに『一目会った時から決めていました。桃花さんの意見はどうでしょうか』って丁寧に聞いてきてくれたのが嬉しくて、浮かれて大暴走したのは私だ。

 あんな素敵な人に一目会った時から――なんて言われたら舞い上がる。
 それに私ももちろん、第一印象はパーフェクトで心の中で大喝采していたしね。

「で、本題ですよ! どんな悪い別れ方をしたんですか! 悪女!」
「ぶっ ビール吐くからやめて。……その、まあこの傷を見てよ」

 こそこそとセーターを捲ってお腹の横腹を見せた。
 うっすらと浮かぶ傷と、ぽっこり浮かんだ小さな傷を見せる。

「傷って」
「盲腸。ちらすのが面倒だったから切ったんだけどね。まあ、彼との事故で切った傷はここ」
「……うっすらと盛り上がってる場所ですか? これが傷跡?」

 お腹を捲るのをやめて、ビールを一気飲みした。

「盲腸の傷を、事故の傷だと嘘を吐いた」

「ひええー、センパイ、最低じゃないっすか!」

 だって鏡が割れてちょっと切っただけだしもう触らないと分からないと思う。

「……って嘘ついたの」
「?」
「この傷のせいで妊娠できなくなったから、もう女として生きて行かない、仕事一筋で生きたいって……嘘ついたの」

 いざ一年前の罪を懺悔すると背中に冷や汗がどっと噴き出てきた。

「……それは、ちょっと、私も引く」
「だって話し合っても別れてくれなかったんだよ。仕方なかった。もうどうしても彼とエッチしたくなかったんだもん!」

 エッチ、と言った瞬間、狭い焼き鳥屋の中のおじさんおばさんの視線が集中してきた。

「だって私、全然平凡な身体だし! 向こうはイケメンで、え?モデル? え。ダビデ像? 絵画から飛び出したナポレオンって感じじゃん。なのに私は胸もないし」

「オーナー、この人、酔ってるので水くださーい」
「殴られる覚悟はある。最低な嘘だった。殴ってもらって構わない。……なのに、どうしてあんな優しくしてくるのか分からない」


 叔父さんが、おじいちゃんたちと行った海の写真を彼に見せたのだろう。
 そして鏡の傷はあのほぼ消えている小さな部分だと、彼を励ましたのだろう。
 それで聡いかれは全て気づいて――私に精神的慰謝料を要求すればそれでよかったのに。


「別れたくないほど先輩が好きだったってことですよね?」
「……なんで私だったんだろう」
「そりゃあセンパイ、凛としてて綺麗だからじゃないですか?」
「お世辞すぎ」

 私なんて平凡だし、顔は十人並みだし、口は悪いし短気だし面倒くさがりだし。
 泰城ちゃんの方がよっぽど可愛くて頭の回転早いから、会話だってさっきみたいに盛り上がるだろうしね。

「それを聞くためにも、金曜は会わないと駄目ですね」
「やっぱそうなるよね。まずは今日は散々逃げたけど、ちゃんと謝るよ」

 謝るから殴って終わりにしてほしい。
 私はもう、きらきらした恋愛はこりごりだ。

 あんなにはしゃいで振り回して、挙句にケガして。
 私にはあの期間は、黒歴史に近い。

「先輩の、そんな潔いとことか付き合っていて清々しいですけどね、私は」
「私のおごりだからってそんなに気を使わなくていいのよ。ほら、追加は?」

 ビールを飲み干したまま話を聞いてくれていた彼女に、メニューを渡す。
 今夜はほどほどに飲もう。そして金曜に備えるしかない。

「えっと、じゃあ鳥皮とつくねと、あとベーコンと枝豆とぉ」
「チョイスが女子力無くて、本当好き」

  お酒のつまみ感覚で頼んでいるのもいい。
仕事中は面倒な客は私に、ここぞとばかりに後輩面を押し出してくるくせにね。

「……泰城ちゃん、彼氏は?」
「いますよぉ。もちろんです。というか、家に帰ったらお腹を空かせたダーリン待ってます」
「リア充かあ。末永く爆発してください」
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