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症状一、自覚症状はなし。

症状一、自覚症状はなし。①

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私は一週間風邪で仕事を休んだ。

正確には『風邪』と嘘を吐いて休んだ。

まだ腫れあがった目を隠すために伊達眼鏡とマスクをして、ホテルの従業員用の裏口からこそこそと仕事場へ向かう。

都内にあるクラシックホテル『シャングリラ』。
老舗と名高いその五つ星ホテルは、入ってすぐのロビーの美しさで有名だ。
ステンドグラスで作られた窓から色取り取りの光が差し込み、二階へ上がる緩やかな螺旋階段の美しい造形。
日本各国は勿論、海外からも御客様が来るために、予約は一年待ちだとか。

そんな老舗の御曹司様が隣に建てたのは大人の隠れ家、大人の遊び場と銘打ったホテル『オーベルジュ』。
ファッションデザイナーや日本画家、CGクリエイター、など様々なクリエイターが部屋をデザインしたお洒落で遊び心一杯なホテル。そんな人気ホテルの中にあるレストラン『ブロン・ロネリ』でウエイトレスとして働き出してもうすぐ二年。
結構最近は失敗も無くなって来たのに、こんな一番忙しい時期に一週間も休んでしまって申し訳ない。

「おはようございます、店長」

おずおずと顔を出すと、店長はもう台拭きを持って中央に置かれたグランドピアノを拭いている所だった。

「おはよう、華寺さん。風邪はもういいの?」
「……はい、大分」

心配してくれる店長に嘘を吐いてしまいズキズキ罪悪感に苛まれる。
うう。本当にごめんなさい。

「まだ目も赤いし、本調子じゃないわね。今日の仕事は無理しないでね」
「すいません」
「いいのよ。それに一番忙しくなる明日に間に会って良かったわ。そうだ、明日の流れを伝えとくわね」
「すぐに着替えて来ますっ」

晴れた目は、パチパチ瞬きしても痛いけれど、今は我慢するしかない。
泣き過ぎて声も枯れていたけれど、それは大分良くなってきたし。

 明日は、とある出版社の有名な賞の授賞式が『オーベルジュ』で行われる。
その会場での流れとか、準備とかで今日もきっと忙しいに違いない。

着替えてホールへ向かうと、出勤してきた先輩ウエイトレスの菊池さんが店長に詰め寄っていた。
「すっごい美形でした! やばいよ、本気でやばい!」

「菊池さん、その言葉使い、仕事中に絶対に出さないでね」

「分かってますって。でも凄い見惚れちゃうようなイケメンが一番上のスイートルームへ行くの見ました。あの人、明日の授賞式の大賞の人ですよね。あんな美形が書く恋愛小説とかもう絶対買いだわ」

「はいはい。貴方が落ちつかなければ明日は連れていけないからね。華寺さん、こっちこっち、厨房でメニュー見せてもらうから来て」
「はーいっ」

先輩に挨拶しつつ、店長の後を着いて行く。
菊池さんも店長も卒なく仕事ができ、綺麗でよくお客様に声をかけられている。
仕事じゃない時の素の二人も、私は飾らないのに綺麗で好きだし尊敬する。

「メニューは以上。で、貴方は主に配膳だから。常にグラスが空になっていないか気を配ってね」

「はい」

「それと、今日今から調律師がピアノを見に来るから、お茶お願いね」

「今から、ですか」

「そ。朝は演奏しないでしょ? お客様がいらっしゃるけど、あのグランドピアノ、とても古いから音がすぐ狂っちゃうの。明日はあれで演奏するらしいし」
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