また今度、会えたら

𝐄𝐢𝐜𝐡𝐢

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 二十歳になったばかりのころ。友人達とあつまって遊んでいたときに、ウォッカやテキーラをがぶ飲みしたことがあった。場の雰囲気を楽しもうとして、僕はそうしたのだ。しかし、お酒が弱かった僕は、泥酔し、色んな人に迷惑をかけ、酒量を調節することの重要性を学ぶこととなった。それでも、お酒を飲む機会がくるたびに、見栄をはっては、いろんな失敗をした。そのたび、僕はなんども学びなおしながら、僕はお酒の楽しみかたを知ったのである。ふと、そのころのことを思い出しながら、ゆらゆらと、僕は店の奥にある廊下を、千鳥足で歩いていた。

「――うぶ――すか――」

 前を歩いている女将さんが振りかえり、何かをいっているが、意識がふわりと宙にういるうようで、会話に集中できず、よく聞きとれない。ただ、歩くたびに、女将さんのはいている草履が、石の床でこすれていて、その音だけが、やたらはっきりと、僕の耳へとどいていくる。

 女将さんは僕の手をとりながら、ゆったりとした歩調で先導しており、僕はその手の暖かさをぼんやりと感じながら、廊下を進んでいく。そして――曇りガラスがはめられた引き戸の前で、足はとまった。

 女将さんは僕の手をはなし、戸に手をかけると、引いてあける。すると、そのさきには、襖で仕切られた部屋があり、その手前には、左右に分かれた板張りの廊下があった。暖色系の明かりに照らされた廊下。色味の深い木材。その場所は全体的に、ほっとするような、寂寥感のあるような、そんな感じの雰囲気がただよっている。そして、ここまでは――一度見た場所であり、前回きたときのことを思いだしながら、僕はその場所に足を踏み入れた。

 そして――ぼやけた視界にうつる、和風の廊下。
 今回は、なにも起こらなかったようだ。足元に視線をうつせば、そこには靴を脱ぐスペースがあり、その両脇には、空の靴箱がある。

「――うぞ――がって――」

 女将さんは何かをいいながら草履をぬぐと、先に廊下のほうへ歩き、草履を靴箱にしまう。それをみて、僕も同じようにぬいだ靴を靴箱にしまった。すると女将さんは、いまだふらついている僕の手をとり、右側の通路へと僕の手を引いて歩き、廊下の奥へと進んだ。

 ……正面の部屋じゃ、ないのか。

 てっきり、目の前の、襖のほうに向かうのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。僕はぼんやりとそんなことを考えながら、前を歩く女将さんの背中を追いかけるように、廊下を進んでいった。

 + + + + + +

 ……これは、どういうことだろう。

 窓のない、暖かな明かりが照らす廊下を、手を引かれるままに進んできたのだが、ここまで、僕は襖で仕切られている部屋を左手に見ながら、左折を四度したのだった。つまり、四方を襖で仕切られている部屋の周囲を――ぐるりと、一周しただけだったのである。

 そして――不可解なことは、それだけではない。
 一周して、先ほどの場所に戻ってきたはずなのだが、靴箱も、お店のほうへとつながる通路も、見当たらなかった。
 僕がぼやけた頭で、そのことに疑問をおぼえていると、

「――うぞ――です――」

 女将さんは左手側にある襖をあけると、どうぞ、といったふうな手振りで、女将さんは僕に部屋へはいるよう促してくる。

 戸惑いながら、僕はその部屋をみた。
 暖色の薄暗い明かりにてらされた六畳一間の和室。その中央には、ぽつんと一人分の布団がしかれており、睡眠をとるためだけにあるような殺風景な部屋が、僕の視界に広がっている。

「――れば――でく――さい――」

 そんな女将さんの声がきこえたあと、僕は手を引かれ、布団のほうへとむかった。
 女将さんは僕の手をはなすと、布団のほうへ、どうぞ、といったふうな手ぶりをする。

 ……ここで休んでいっても、いいのだろうか。

 そうだったら、助かる。今は体がけだるく、少し横になりたい気分だからだ。お酒をのんだときに眠くなる、あの感覚にちかい――気持ち悪さが、僕の胃をやんわりとあっぱくしており、それによる疲労感が眠気を誘発していく。

「――うぞ――らへ――」

 女将さんは僕のほうをみて布団をめくる。ふかふか毛布が誘惑するようだ。
 本当に、横になってしまいたい。

 いや、まあ、そもそもの原因は女将さんにあるのだから、横になることも含めて“サービス”の一環と考えてもいいのではないだろうか。それに、あんなニオイを嗅いで、まともでいられる人はいないだろう――臭いフェチで、耐性があるのならともかく、今は眠って、らくになりたい。今横になれば、眠ってしまう――なんてことはないだろうが、ものすごく心地がよさそうだ。そこまで含めれば、アロマセラピーとして、効果があるのかもしれない、と思う。

 卵臭いような臭いが鼻にこびりついていて、鼻腔内に石鹸をぬって水洗いをしたいところだが、それはまあ、ただの比喩であり――ほんとうにそれをしたところで、あまり意味がないことはなんとなくわかている。そんな、なんとなくでしかない話だが、なんとなく――僕は安心感を覚えていた。

 臭いのに、苦しいのに、肩にのっていた重りが外されたような、“くさい”に、もやっとした気持ちが吹き飛ばされたかのような感覚を、僕は感じていたのだ。

 ……女将さんは、本当に人なんだろうか。

 そんな疑問を覚える。たとえば、人の形をしたスカンクだとか、そういったものではないだろうか。だから、こんな変なニオイが出せるのかもしれない。その推測だと、釈然とはしないが、それっぽくはある。それに、消えたり出てきたりする店なんて、普通なはずがなく、ならば、そんな場所で出会った彼女はいったい――

「……あ……っか」

 まあ、いっか。呂律のまわらない舌でそういうと、僕は誘惑に身をまかせ、ふかふかの敷布団のうえで横になることにした。すると、女将さんがやさしく、かけ布団をかけてくれる。

 ふんわりと体を覆う感触。背中にあたる敷布団のやわらかな弾力。そして、畳の香り。まるで、旅館の布団で眠っているかのようだ。しかし、特有のぱりっとした、除菌済み、といった感じはせず、指を滑らせてみると、肌になじむような、程よいなめらかさが、指先に、腕に、伝わってくる。

 僕は目を閉じたままあくびをすると、布団の中で手を滑らせ、さわり心地のよい布の感触に、うつつをぬかす。

 ……
 ……
 ……

 もう少し。
 あと五分。
 そう思って手をさらにすべらせていると――

「お加減は、いかがですか?」

 女将さんの声に、沈みかけた意識が呼び戻される。

「ぁ、いけね……」

 僕は慌てて目を覚ますと、上体だけ起こし、声のしたほう――布団のかたわらへと視線をむけた。するとそこに、座布団をしき、正座をしている女将さんの姿をみつける。

「ああ……そうか」

 いいながら、僕は周囲を見まわす。四方を襖で囲まれた部屋を天井からの豆電球だけが、部屋を照らしていた。

「あ、あの……女将さん。その――」

「月夜」

「へ?」

 突然、なんの話だろう。
 女将さんが口にした言葉に困惑していると、

常木つねき 月夜つくよ。それが私の名前なんですけど、やっぱり、忘れているみたいですね」

「はあ……」

 話についていけず、僕が曖昧な返事をすると、

「“前回”は、自己紹介もしたんですよ。予約だって、星川さんから受けて、楽しみにしていたのですが……」

 残念そうにいう女将さん――もとい月夜さん。

「あ、あの……」

 なんて返すべきなんだろう。僕が言葉につまっていると、

「今日は、何がなんだかわからないっていったようすで、ずっと戸惑ってましたよね?」

「そ、それは……」

「すみませんでした。一週間、せっかく、仕込んできたので、お出ししてみたのですがですけど……」

 そう話す月夜さんの表情はいたってまじめで、言葉のはしばしに、プライドのような気持ちをかんじる。まあそれは、気のせいかもしれないが、いたずらしてやろう、なんていう邪なようすは、僕の目にはいっさい見うけられなかった。

「きっと喜んでいただけるだろうと、私情を多分に挟んでしまいまして……。職人として、失格ですよね……」

 いや、それ以前の問題なのだが、

「いや、まだなにも言ってないですか。嫌だとも、なんにも」

 その気持ちを、そのまま口にしてしまいたくなかった。
 なぜかといわれたら、うまく説明できる気がしない。だが、なんとなくでいうのであれば――気にいっている、というのが感情として近いだろう。この場所の雰囲気にか、美人な女将さんにか、もしくは、そのどれでもないのかもしれないが、なんとなく――気にいっているのである。

 バイト終わりに暇つぶしにくるには、ちょうどいい、くらいにおもっており、悪臭にたいしても、行為が終わってしまったあとでは――どういうわけか、ネックとは思えなくなっていたのだ。

 奇妙なことに、悪臭を嗅いだことへの嫌悪感は、今となってはだいぶ薄れており、むしろ、体が――というか、心が軽くなった気がすることへの興味で、まるで悪夢がぬりつぶされていくような、不思議な感覚を、僕はおぼえていた。

「確かに、驚きました。……ですが、僕は先週、自分の意思で、予約をしたんですよね?」

 僕の問いに、月夜さんは小さくうなずく。

「はい、この場所で。元の場所へ意識を送る前に……」

「それなら。これでいいと、思うんです」

 その真偽を知ることはできないが、おそらく、嘘はいっていないだろう。予約した日時がちょうどよかったのは、偶然ではないだろうし、またここに来たいと、記憶がないあいだの僕もきっと、そう思っていたはずだから。

「……っていうか、今、意識がどうとかって、言いました?」

 僕がたずねると、月夜さんは苦笑いをうかべた。

「それも、覚えてないんですね」

「はい……すみません」

「いっ、いえいえ、責めているわけではないんです。なんていいますか、その……いや、まあ、その話は置いておきましょう」

「はあ」

 曖昧にうなずく僕に、月夜さんは話をつづける。

「とにかく、帰り方の説明をしますと、一度――意識を飛ばさなければいけないんです」

「……え、いや、何の話ですか? 帰る方法も何も――普通に帰れば……」

「それって――どこからですか?」

「いや……どこからって……」

 僕は部屋を見まわしながら、店と、その奥にある廊下を思いうかべ、出入りできそうな場所を探していく。そして、違和感を覚えた。外の景色が――どこにも見当たらないのだ。
 正面の出入り口は曇りガラスになっていて、外の様子はわからないし、いくつかある窓の外に広がるのは、暗闇だけである。廊下には窓がなく、この和室をでたところにも、窓はない。そして、周囲には、襖がみえるだけであり――

「戸も窓も、外には繋がってないですよ」

「へ? 繋がって……ない、といいますと?」

 月夜さんの言葉に、僕は呆然とききかえす。

「先週、正面から出られなかったのは、覚えてますか?」

「ああ、はい。それで、店の奥に向かったところまでは、覚えているんですけど……」

「なるほど、そのあたりの記憶は、あるんですね?」

「はい。それで、すぐそこの通路に入ったところから、多分、記憶が抜けています……」

 僕は月夜さんのいる方とは逆側――入ってきた方の襖を指差していった。
 月夜さんはちらっと僕が指差したほうをみると、「なるほど……」とつぶやき、僕のほうへと視線をもどす。

「そうだったんですか。……ところで、次回の予約なんですが……その、どうしましょうか?」

「ああ……っていうかその前に、お代なんですけど、あれでよかったんですか?」

 特に何も考えないで買ったものだったのだが、本当に、あれでよかったのだろうか。ふと気になったのできいてみると、月夜さんは、ぱっと笑みを浮かべてうなずいた。

「はい、十分すぎるくらいです」

「へえ……本当に、好物なんですね」

「はい、たまらなく」

「それなら、僕から代金をもらって、自分で買ったほうがいいんじゃないんですか?」

 サービスどうこう以前に、暇つぶしとして――今回は自主的に立ち寄らせてもらったのだから、場所代としていくらか出す分には、やぶさかではない、のだが――

「――出られないので」

 月夜さんはそういって、顔をうつむかせる。

「出られないって、どこからですか?」

 いっている意味がいまいちわからなかったので、僕がききかえすと、月夜さんは顔をあげて、少し寂しそうな表情をうかべていった。

「私は、自由に外へ、出られないんです」

「へえ……」

 やっぱり、ここは普通ではないのだ。
 何が普通ではないのかは、よくわからないが、ここでは常識が――常識ではなく、もしかすると僕は、この場所のそういった部分に――惹かれているのかもしれない。

「なら、また来週……いや、三日後の、七月十七日。時間は今日と同じで、二十一時三十分に、予約できますか?」

「…………」

 僕の声がきこえていないのか、気の抜けた表情で沈黙する月夜さん。

「月夜さん?」

「……ありがとうございます」

 月夜さんそういうと、着ている着物の襟に手をさしいれ、そのから一枚の和紙をとりだした。
 名刺のような、ちいさな紙。月夜さんはそれを――

「それでは、これを」

「……あれ?」

 僕は月夜さんに和紙をわたされ、疑問におもう。

 ……なにも、書かないのだろうか。

 その紙は、財布に入っていたものと同じものであり、だとするなら、そこには予約の日時などを書くのではないのだろうか。しかし、月夜さんは書くものをと取りだすこともせず、なにかを書くそぶりをみせず、何も書かれていないはずのそれを――僕に手渡してきたのだった。

「いや……あの、――ん?」

 僕はもらった和紙に目を落として、違和感をおぼえる。

 ……なにか、書いてないか?

 部屋が薄暗いので、はっきりとはわからないが、なにか文字が見えた気がする。目をこらしてみると、そこには――

「――七月の……え?」

 七月十七日、二十一時三十分。
 和紙にはそう書かれていた。

「これって……」

「先ほど予約した、次回の日時です」

「ああ、それは、わかるんですけど……」

「大切にしてくださいね」

「ああ、はい……わかりました」

 僕はあいまいな返事をしながら、デニムのポケットから財布を取りだし、そのなかに和紙をしまう。

「やぶったりしてしまったら、ここにはもう、来られなくなってしまいますので」

「はい。わかりま……へ? それって――」

「さて、それではそろそろ、あなたの意識を元の場所に戻しましょうか」

「ぁ……」

 月夜さんの言葉に、僕は口の動きをとめる。
 そこはかとなく、不安がわき上がってきたのだ。

「それでは――失礼しますね」

「……ぇ?」

 月夜さんのおもわぬ行動に、僕は驚愕する。
 おもむろに、布団のはしを持ち上げた――かと思えば、月夜さんはすっぽりと布団のなかにはいり、上体を起こしている僕のかたわらで、横になってきたのだった。そして、僕のひざの上にかかっている掛け布団を持ち上げると、

「どうぞ――中へ、潜ってくってください」

 疑問の表情を浮かべる僕に、「顔まで、しっかりと潜ってくださいね」と月夜さんはつづける。

「ああ……」

 僕は顔をおおいたくなる。ひどく、嫌な予感がするのだ。というか――苦痛が――下手をすれば――記憶が――意識を――これだけ不穏な言葉をきいて、嫌な予感がしないのなら、そうとうにメンタルが強い人だと、僕はおもう。

 ここは、奇妙な場所なのは、わかった。

 普通の方法でお店からでられないっていうのも、ありえるだろう。それも、わかった。

 けど、そのために、今、布団のなかに潜らなければいけないというのは――

 想像して、体が少し震えた。

 本当に、一瞬なんだろうか。

 もしかしたら、一分、かかってしまうのだろうか。

 そもそも、かかる時間というのは、普通に呼吸をした場合の話だろうか。それとも――

「あの……息は――!?」

 そういっている途中――布団のなかで、何かが動いた。
 もぞもぞと、もふもふと。

「なんだ……これ……」

 何かが布団のなかで動き、僕の足に絡み付いてくる。
 ふんわりと、やわらかな毛のような感触。まるで――尻尾のような――

「こわい、ですか? それでしたら……」

 月夜さんがそういって――すぐだった。

「あ」

 っというまだった。

 ……まっくらで、なにも見えない。

 ……肌に触れる布の感覚、温もり。

 ……そして――においは――

 すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ

 ――
 ――
 ――

 そんな音が部屋に響いたのは、
 僕が布団のなかに引きずりこまれた、
 あとだった。

 + + + + + +

「――は」

 ふ――と、夢が覚めたかのような感覚に、俺は顔をあげる。
 また――意識が途切れたのだ。
 だが今度は、今までよりも――覚えていた。
 ――忘れられていなかった。
 意識が途切れる前に感じた、恐ろしいほどの感覚。
 その感覚を、僕は脳で感じつつも――身体のほうは、今しがた理解した様子で。
 今思い出したかのように――ぶわっ、と汗が溢れてくる。
 怖い夢を見たかのような。
 けど、もう少し見ていたかったかのような。
 不思議な感情が、僕の胸中を満たしていた。
 さて――、

 ……僕はどうするべきなのだろうか。

 そんな風に考えながら、僕はデニムのポケットから財布を取り出す。中には、お札が数枚と、適当に入れているカード類などがある。
 そして、その中にはやはり――月夜さんが受け取った和紙がはいっていた。
 さて――どうするべきだろうか。
 今回はその意味をしっかり理解している。
 その紙があれば、また【握】の暖簾がかかった店に行くことができ――月夜さんに、また会うことができる。
 また悩みごとでも話すのもいいかもしれない。
 あるいは、今度は楽しい話をしてみるというのもいいだろう。
 しかし、そうなると恐らく――。
 僕は微妙にぼんやりとしている記憶をあさりながら、ぞっと、寒気のようなものを感じた。
 恐怖、だろうか。あるいは――。
 僕はその感情がなんなのか、把握しきれないまま、

「……はあ」

 ……まあ、いつまでも何もない路地で悩んでいてもしかたがないか。

 僕はそんな風に思いながら溜息をつくと、考え事にふけりながら、家路へと向かったのだった。
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