『下品注意』俺のとなりには

𝐄𝐢𝐜𝐡𝐢

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ポーカーフェイスな空間

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「――へ? 今、なんていったの?」

 真面目な表情で、美咲《みさき》が訊いてきた。
 彼女は僕の――。
 まあ、ともかく。
 そんな彼女の問いに、

「だから。おなら、しただろ。って訊いてるんだけど……」

 俺はやれやれと言った風に答える。
 その事件は、今しがた起きたばかりの出来事だった。
 俺はカーペットに座り、ベッドのわきでスマホをいじっており、美咲ははベッドの上を占領し、何かの雑誌を読んでいたのだった。
 そんな時だ。

 ~ ぷう

 俺のすぐ頭の後ろから、その音が鳴った。
 高音で、可愛らしく――下品な、屁の音。
 言い逃れができるような音ではなかった。
 誰がどう聞いても。百人中九十五人ぐらいは、間違いなくそれを――おならの音というだろう。
 だから俺は――『おなら、しただろ』と先ほど訊いたのだ。
 ちなみにその言葉の中には、色んな意味が含まれている。
 例えば、『別に、気にしてないよ』という気持ちだったりだ。堂々言うことで、俺がそれほど嫌悪感を抱いていないということを伝えようと――、

「あれ……? これ、結構……」

 ふと臭いに意識を向けたことで、俺はようやくそのことに気づき始める。
 場には、卵系の、どろっとしたような臭いが漂っており、俺の顔のおさまる範囲に、むわあ、留まり続けている。窓があいていなからだろう。空調の類の電化製品も特につけておらず、空気に動きがないのだ。そして、その黄色くにごったような空気が、俺の鼻を通り抜けるたび、脳を刺激していき――ふわっ、と意識をもっていこうとするような感覚を、俺は覚えた。
 そして、俺は考えを一部改める。
 こんなもん、なんでもない――と。そう思いたかったが、この臭いはさすがに――キツイ。
 別に、許せないっていうのとは違う。
 だが、そうなってくると、今度は――別の問題が発生してくる。

「――どうかした? 健時《けんじ》」

「え? あ、いや……」

 美咲の問いに、言葉を詰まらせる俺。
 つまり、この臭いの中では――ポーカーフェイスを保つのが、難しくなってくるのだ。
 というか、

「つうか、美咲は、大丈夫なのかよ?」

「ん? なにが?」

 彼女も同じ臭いを嗅いでいるはずなのだが、それに対するリアクションが一切ない。やはり、自分のだからなのか。あるいは、嗅覚がおかしいのか。よくわからないが、

「いや……、っていうか――」

 ~ むわああぁぁ……

「――!?!?」

 苦笑いをし、俺は冗談の雰囲気にもっていこうとした――が、そんな俺の鼻を、また“新鮮な悪臭”が襲った。
 どうやら今度は――、

「お、おい。美咲……、おまっ、すかし――っ……」

 あまりの臭いに、喋っている場合ではない。
 俺は言葉を詰まらせつつ、表情はできるだけ変えないように、腹にぐっ、と力を入れ、目だけで美咲に問う。
 すると、

「健時、どうかした?」

「…………」

 このごに及んで、彼女はまだしらを切り続ける気らしい。
 ただ、それにしては、平然としすぎてないだろうか。
 そんな疑問を覚えた俺は、できるだけ呼吸を制御しながら、口を開く。

「まさか……。この臭い、美咲のじゃないのか?」

「いやいや……、そんなわけ――」

 ~ ぷううぅぅ!

「ないでしょ?」

「か……っ!」

 口から、思わず変な奇声が漏れた。
 俺の問いたいして、美咲は言葉のあいだに、どうどうと屁を挟んだのだ。俺も自分で何言ってるんだろう、と若干思っていたところにその仕打ち。流石にこれは、

「おい。ちょ、やめ――うっ……。く、臭い、だろうが」

「へ?」

「……え?」

 なんだそのリアクション。と、俺はぽかんとする美咲を見て、首をかしげる。
 決して怒っているわけではなく、俺はあまりの臭いに表情を引きつらせながらも笑みを浮かべ、冗談の方向へ話を持っていこうとしたのだが、まさかの美咲の反応に、

「だから……、いや、臭いっていうのは……、じょうだん……」

「……冗談?」

「う、うん。まあ……」

 まるで誘導でもされたかのように、俺はそう答えてしまっていた。
 そして――俺は考えを切り替えることにする。
 そろそろ、いい頃合だと思ったのだ。
 簡単な解決策である――部屋を出る。その行動を放屁音のあとすぐにやってしまえば、その屁をきっかけに部屋を出たと思われてしまうため、できなかったが。もうそろそろいいだろうと、思ったのだ。
 そこで、俺はスマホをデニムのポケットにしまうと、おもむろに立ち上がった。

「どこ、いくの?」

「いや……、普通に……」

「ふーん……」

 なんだか、含みのあるような美咲の問いに、俺は呆然とする。
 ひょっとして、何かを悟られてしまったのだろうか。
 そう思い俺は再び腰を下ろすと、

「や、やっぱ、いいや……」

「ふーん」

 なんてことない相槌、だが、先ほどのとは声音が少し違った。まるで、何かに安堵したかのような。まあ、ただの思い込みに過ぎないのかもしれないが。どちらにせよ、俺は身動きがとれなくない感じになってしまったようだ。
 しかし、それにしても――臭い。
 だいぶ薄まってきてはいるが、なんだかんで、まだ大分残ってしまっている。
 まあ、我慢できなくもないので、俺はスマホ起動させると、適当に気を紛らわせ、臭いが散るのを待つことにした。
 そうして、なんだかんだありつつも、先ほどくつろいでいたときの状態に戻り、そんななか、

 ~ っ――すううぅぅううぅぅ……

 と、背後からの音を、俺は聞いてしまった。
 いかにも、と言った感じの、臭いのキツそうな音。
 どうやら、また美咲がすかしたらしい。
 そこで、俺はもしかして、と口を開いた――、

「なあ、美咲。もしかして、体調がわるかったり……」

 …………。
 心配になったのだ。
 もしかしたら、美咲の体調が悪いのではないかと。
 だがその心配を声にすることはできなかった。
 する余裕が、なくなってしまったからだ。
 あまりにも――臭いが酷く。
 気合を入れていなければ、胃の中のものをぶちまけてしまいそうだった。
 そうして、俺が黙り込んでいると、

「健時? どうかした?」

 何事もないかのように、美咲が訊いてくる。
 体調の悪そうな様子もない。
 なんなら、からかってる様子もなく。
 あまりにも平然としている様に、俺はわけがわからないと、呆然とした。
 すると、

「あれ? 健時……。なんだか、顔色が悪くない?」

「…………」

 この言葉に、俺はどう返したらいいのだろう。
 俺が黙ったままでいると、美咲は心配そうな表情で、俺の横にしゃがみ、

「ねえ、健時。大丈夫なの? ちょっと横になったほうが、いいんじゃない?」

 彼女はそう言うと、俺の身体を支えるようにして、ベッドへと誘導する。そうして、少し強引な感じに、俺はベッドに寝かされ、布団をかけられる。
 しかし、もちろん体調がわるいわけではなく、

「…………」

 とはいえ、喋りたくない。
 できるだけ、呼吸をしたくない。
 ひとまず俺は無言のまま、せめて少しだけ暑苦しく感じる布団を持ち上げようとして――、

「おい……」

 思わず、声が漏れた。
 布団の中で手を動かし、その手が丁度肩のすぐよこまで来たタイミングで、その手の上に――美咲が腰を下ろしてしまったからだ。
 しかし、あいだに分厚い布団を挟んでいるせいか、美咲は気づいていない様子で、ベッドに座ったまま、身体をひねり、上体を少しだけこちらの方へ向かせると、

「ん? どうかした?」

「い、いや……」

 布団にごしに、じんわりと伝わってくる体温。それが、やけに脳を沸騰させるように、俺の思考を乱していく。
 と――そこへ、

 ~ むぅ――わああぁぁわわぁぁ……

 体温とは違った感じの熱も、布団を通して伝わってきた。
 それはいわずもがな、

「み、美咲……」

「ん? なに?」

 相変わらず何事もないように美咲は首をかしげる。
 だが、こうなってくると、わざとやっているようにしか見えず。しかし美咲は、まだそれを認めるつもりはないようで、

「俺の手の上に――うっ……」

 俺はそれだけ言って、言葉を詰まらせる。
 布団にしみ込んだ美咲のすかしっ屁の臭いが、むわっと鼻先まで届いたのだ。
 そして、せめてもの抵抗だった。
 ここで、下手に手を動かしてはいけない。
 色んな可能性を考えて、美咲にどいてもらうのが一番無難なんじゃないかと思ったのだ。
 しかし、

「手……? どういうこと?」

 言いながら、美咲は自分の尻の下あたりをちらっとみて、視線を戻す。
 やはり――わざとのようだ。
 そこに俺の手があるとわかっていなければ、そこに視線をもっていくなんてことは、しないんじゃないかと思う。

「美咲。ほんと、いいかげんに――」

 ~ む――すううぅぅううぅぅ……

 俺が言いかけている途中。手に伝わってきた熱に、俺は思わず口をつぐむ。
 そうして、俺がさらに黙り込んでいると、

「私? えっと……」

 ~ すかああぁぁああぁぁ……

 美咲は言いながらも、もう一発すかし、座っている位置を整えるように、バサッバサッ、と腰を動かす。

「私が、どうかした? ちゃんと言ってくれないとわからないよ?」

「だから……。――っ!?!?」

 俺は美咲に返事しようと口をひらき――その瞬間。
 嗅覚に衝撃が走った。
 今、美咲が動いたことで、当然布団にしみ込んだ臭いも拡散され、その臭いが――あまりにも酷かったのだ。
 腐った卵のような、腐った大根のような、とにかくそんな感じの臭いをぎゅっと、濃縮したような、そんな臭いだった。
 なんなら、一瞬白目を向いていたかもしれない。
 美咲の身体から出てきたその臭いは、人体が危機を感じるような――毒ガス、といってもいいような臭いであり、そんな臭いを嗅いで、返事をする余裕などあるはずもなく。
 そんな俺の視線の先で、美咲はおもむろに腰を浮かせ、しっかりと、毒ガスの発射口を俺の鼻先へ向けると、

「ほら。ちゃんと言って」

 彼女は無言で首を横に振る俺を見て、笑みを浮べると

「――言えるもんならね」
 
 + + + + + +

 あれからあとのことは、あまり覚えていない。

 ~ ぷううぅぅ

 記憶に、もやのようなものがかかってしまっているのだ。

 ~ ぶっ! ぶびびぃぃ!

 まるで、思い出してはいけないかのように、

 ~ ぼふうぅ!

 その記憶には、鍵がかかっているのだ。

 ~ ばすんっ!

 だからたぶん、

 ~ びっ! ぶびっ!

 それでいい。

 ~ ぷぅ――ぷううぅぅううぅぅううぅぅううぅぅ……

 思い出さないままでいい。

 ~ っ――すううううぅぅ……っ!

 たまに恐ろしい夢をみることがあるが、

 ~ ぶううぅぅっ!

 それはそれ。

 ~ ぶふううぅぅううぅぅ……

 そんなふうにして、俺は何事もない日常を繰り返していく。

 ~ ぷう!

 今日も。

 ~ ぶっ! ぶううぅぅ!

 明日も。

 ~ ぱすううぅぅううぅぅ……

 もしかすると、ずっと先も。

 ~ しゅううぅぅううぅぅ……

 俺の隣には――、

 ~ すっ――かああぁぁああぁぁああぁぁああぁぁ
   ああぁぁああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁああぁぁ
   ああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁああぁぁ
   ああぁぁああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁああぁぁ
   ああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁああぁぁ……
   ………………
   …………
   ……。
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