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第二章 幻の虹
二の一
大家の久右衛門は、坊主頭をつるりと撫でた。髪はもう残りわずかになって、髷も結えなくなったものだから、剃刀で毎日妻のはなに剃らせているのだそうだ。
「また仕事を紹介してくれんかの」
そう面目無げに言う栗栖小源太を、久右衛門は背を丸めて上目づかいに見るのだった。
七十近い年寄りなのに、久右衛門は背丈もあって声音にも張りがあるし、風貌にまるで衰えがみえない。狸のような顔で、むっつりと黙ってじろりと小源太を見る姿は、思わず気おされてしまいそうなほど貫禄があった。
久右衛門は暇つぶしのように荒物屋を商っていて、三間間口の店には、笊やまな板や包丁が雑然と並べられ、草履や草鞋や笠が壁に掛けられ、隅には箒や杖など立てかけられている。
その店の奥の六畳間で、久右衛門の妻のはながいれてくれた茶をはさんで座る小源太と久右衛門は、じっと見つめ合った。
その長い、重苦しい沈黙の時間は久右衛門の吐息で終焉を迎えた。
「先日はたまたま向こうから話が舞い込んできましたから、お暇な栗栖様を繋いだだけでしてね、あたしは本来は口入れ屋じゃないですよ。大家をしているといっても、ご覧のとおり、本業はしがない荒物屋ですから。だいたい、あなたがお了ちゃんの駆け落ちを見逃したことで、私までが玉木屋から小言をあびせられて、なんだか申し訳なくってねえ」がらがらとした声で久右衛門はひとしきり不平を並べたてるのだった。
今度は小源太が頭を撫でた。
「仕事を探してくれんと懐が温まらん。温まらねば店賃が払えぬ。店賃が入らねば干上がるのは誰かの?」
「でしたら出ていっていただくまでです。店子ひとり店賃を二、三カ月ぶん踏み倒されたところで、たいした痛手にはなりません。荒物屋だけでも食っていくくらいは充分できますから」
「食っていけるのだったら、そう店賃店賃と厳しく取り立てなくても」
「なんと、まあ、あきれた御仁ですかな。お侍ともあろうおかたが、そのようないい加減なご了見でなんとしますか。こちらは家を貸す。借りた者はは店賃を払う。これは世のことわりというものです」
「そういけずを言わんと」
「口入れ屋に行ってください。そうして仕事を見つけて、ちゃんと働いて、ちゃんと店賃を払ってください。だいたい、店賃の支払いなんてものは、半年一年も暮らして、だんだん滞っていくものです。それがなんですか、あなたはまだ裏店に住みはじめて三カ月や四カ月なのに、もう支払いに難儀するなんて、前代未聞ですよ」久右衛門は語尾を強くして言った。
「いや、まこと面目ない。我ながら、ここまで粗雑な性格だとは思いもよらなかった。ひとり暮らしをして、はじめてわかったよ」
「それはけっこうでございますな。ついでに口入れ屋まで足をお運びなさればなおけっこう」
「それがそうもいかんのだ」
「なぜです」
「ちょっとその、ひと悶着あっての」
「ひと悶着?」
「口入れ屋の仕事といっても、人足の日雇いばかりだからなあ。たまには侍に適したような用心棒の口ぐらい世話をしろといったら、そう都合よくうまい口があるものか、とこうくるんだな。その嫌味たらしい言いようにいささかかちんとなって」
「ああ、もういいです、その先は聞かなくてもだいたいわかりますから」
「そうか、それなら話ははやい」
「そうはやく話が進むものですか」
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然、と言うではないか。子のために骨を折ってくれ。のう父上様」とせいいっぱいの猫なで声で小源太はねだった。
「都合のいいときばかり親子にしないでください。じゃあ、お聞きしますが、例えば手紙の代筆、書き付けの清書、子供達の手習い、そんなことをしてみたらどうです。でしたらお力になりますよ」
「うむ、私は侍だ。書の練習もずいぶんしたぞ」
「では、ちょっと書いてみてください」
と久右衛門は立って行って、雑紙と筆と硯を持ってきた。硯にはまだ墨が残っていて、小源太が来るまでなにか書き物をしていたらしい。
小源太はさらさらと文字を書いた。
いろはにほへとちりぬるを……。
書いた字を見た大家は眉根をよせて、紙と小源太の顔をチラチラと見比べた。
「ああ、もう書かなくてよろしい。では、お裁縫などは?」
と言いながら、小源太の着ている着物の繕いを見て、見た瞬間溜め息をつくのである。
「他に何ができるんですか?」
「やっとうならそこそこ」
「そう言えば最近、道場の代稽古をはじめたでしょう」
「あそこは道場主がだらしのない人だから。謝礼を支払ってくれるか心もとない」
「女の細腕でまた用心棒でもしますか」
「用心棒、いいね」
「もう宮本武蔵の時代じゃあないんです。どだい、兵法だけで身をたてようというのが浅はかな了見なんです。お侍でも金を儲ける工夫をしなくては生きていけない時代になってきてるんです。だいたい女だてらに……。まあ、それはいいでしょう」
そうして久右衛門は、今日いちばんの深い吐息をついて、
「わかりました、ちょっと知り合いを当たってみますから」
ついに根負けしたような具合であった。
「また仕事を紹介してくれんかの」
そう面目無げに言う栗栖小源太を、久右衛門は背を丸めて上目づかいに見るのだった。
七十近い年寄りなのに、久右衛門は背丈もあって声音にも張りがあるし、風貌にまるで衰えがみえない。狸のような顔で、むっつりと黙ってじろりと小源太を見る姿は、思わず気おされてしまいそうなほど貫禄があった。
久右衛門は暇つぶしのように荒物屋を商っていて、三間間口の店には、笊やまな板や包丁が雑然と並べられ、草履や草鞋や笠が壁に掛けられ、隅には箒や杖など立てかけられている。
その店の奥の六畳間で、久右衛門の妻のはながいれてくれた茶をはさんで座る小源太と久右衛門は、じっと見つめ合った。
その長い、重苦しい沈黙の時間は久右衛門の吐息で終焉を迎えた。
「先日はたまたま向こうから話が舞い込んできましたから、お暇な栗栖様を繋いだだけでしてね、あたしは本来は口入れ屋じゃないですよ。大家をしているといっても、ご覧のとおり、本業はしがない荒物屋ですから。だいたい、あなたがお了ちゃんの駆け落ちを見逃したことで、私までが玉木屋から小言をあびせられて、なんだか申し訳なくってねえ」がらがらとした声で久右衛門はひとしきり不平を並べたてるのだった。
今度は小源太が頭を撫でた。
「仕事を探してくれんと懐が温まらん。温まらねば店賃が払えぬ。店賃が入らねば干上がるのは誰かの?」
「でしたら出ていっていただくまでです。店子ひとり店賃を二、三カ月ぶん踏み倒されたところで、たいした痛手にはなりません。荒物屋だけでも食っていくくらいは充分できますから」
「食っていけるのだったら、そう店賃店賃と厳しく取り立てなくても」
「なんと、まあ、あきれた御仁ですかな。お侍ともあろうおかたが、そのようないい加減なご了見でなんとしますか。こちらは家を貸す。借りた者はは店賃を払う。これは世のことわりというものです」
「そういけずを言わんと」
「口入れ屋に行ってください。そうして仕事を見つけて、ちゃんと働いて、ちゃんと店賃を払ってください。だいたい、店賃の支払いなんてものは、半年一年も暮らして、だんだん滞っていくものです。それがなんですか、あなたはまだ裏店に住みはじめて三カ月や四カ月なのに、もう支払いに難儀するなんて、前代未聞ですよ」久右衛門は語尾を強くして言った。
「いや、まこと面目ない。我ながら、ここまで粗雑な性格だとは思いもよらなかった。ひとり暮らしをして、はじめてわかったよ」
「それはけっこうでございますな。ついでに口入れ屋まで足をお運びなさればなおけっこう」
「それがそうもいかんのだ」
「なぜです」
「ちょっとその、ひと悶着あっての」
「ひと悶着?」
「口入れ屋の仕事といっても、人足の日雇いばかりだからなあ。たまには侍に適したような用心棒の口ぐらい世話をしろといったら、そう都合よくうまい口があるものか、とこうくるんだな。その嫌味たらしい言いようにいささかかちんとなって」
「ああ、もういいです、その先は聞かなくてもだいたいわかりますから」
「そうか、それなら話ははやい」
「そうはやく話が進むものですか」
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然、と言うではないか。子のために骨を折ってくれ。のう父上様」とせいいっぱいの猫なで声で小源太はねだった。
「都合のいいときばかり親子にしないでください。じゃあ、お聞きしますが、例えば手紙の代筆、書き付けの清書、子供達の手習い、そんなことをしてみたらどうです。でしたらお力になりますよ」
「うむ、私は侍だ。書の練習もずいぶんしたぞ」
「では、ちょっと書いてみてください」
と久右衛門は立って行って、雑紙と筆と硯を持ってきた。硯にはまだ墨が残っていて、小源太が来るまでなにか書き物をしていたらしい。
小源太はさらさらと文字を書いた。
いろはにほへとちりぬるを……。
書いた字を見た大家は眉根をよせて、紙と小源太の顔をチラチラと見比べた。
「ああ、もう書かなくてよろしい。では、お裁縫などは?」
と言いながら、小源太の着ている着物の繕いを見て、見た瞬間溜め息をつくのである。
「他に何ができるんですか?」
「やっとうならそこそこ」
「そう言えば最近、道場の代稽古をはじめたでしょう」
「あそこは道場主がだらしのない人だから。謝礼を支払ってくれるか心もとない」
「女の細腕でまた用心棒でもしますか」
「用心棒、いいね」
「もう宮本武蔵の時代じゃあないんです。どだい、兵法だけで身をたてようというのが浅はかな了見なんです。お侍でも金を儲ける工夫をしなくては生きていけない時代になってきてるんです。だいたい女だてらに……。まあ、それはいいでしょう」
そうして久右衛門は、今日いちばんの深い吐息をついて、
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ついに根負けしたような具合であった。
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