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第二章 幻の虹
二の二
たずねてきた小源太を見て、多嘉は目を丸くした。
「まあ、久右衛門さんには娘をお願いしたのに、孫が来てしまったわ」
そんなことを言いながら、居間まで小源太をいざなったのだった。
「神田明神様のほうからわざわざこんな辺鄙なところまでご足労願いまして、まことに申し訳ありません」
座るなり多嘉は丁寧に頭をさげ、小源太も、いえいえとうやうやしく頭をさげかえした。
家は、千住大橋から東へちょっと離れた田畑と雑木林ばかりの風景のなかに、百姓家が点在するひなびた場所にあって、同じ江戸の市街地からさほど離れているわけでもないのに、神田明神下にある小源太の住む長屋の周りの、ごみごみした風景からは想像もできない、隔絶しているような景色であった。
以前は百姓家であったようで、茅葺きの屋根の家で、開け放たれた縁側の向こうには広い庭があった。庭の片隅には十六、七尺ほどの楢の木がはえて木陰をつくっていて、鶯がとまっているのだろう、鳴き声が心地よく響いてくる。
部屋は小ぎれいで掃除が行き届いて、床板にはほこりひとつ浮いていないし、顔がうつり込みそうなほど磨かれていて、住人の性格がそのまま形になったような家であった。
もとはれっきとした武家だったという多嘉は挙措のひとつひとつに品があって、歳は六十くらいに見えた。久右衛門とは連歌の会で知り合ったそうで、以来茶飲み友達のような関係を続けているのだという。
「まさか」と小源太は言った。「あのいかつい風体の久右衛門どのが連歌などという風雅な趣味をたしなんでいるのも驚愕でしたが、多嘉様という上品な、しかも異性のお知り合いがいらっしゃるというのも驚愕でした」
多嘉は細面で白い肌をしていて、皺も少なく、後ろから見た姿などはうなじに若い色気があって、まだ四十くらいにも見えた。どうみてもあの大家の久右衛門では釣り合いがとれない、品と美しさである。
「ほほほ、久右衛門さんも、ああ見えて、繊細な興懐をお持ちなんですよ」
小源太は、はてそうだろうかと首をかしげるしかない。
そうして久右衛門を話の種にひとしきり盛りあがったあと、多嘉は本題に入った。
「いえね、連歌の会で集まる人達は、いつも子供や孫の話ばかりするでしょう。なんだかもうくやしくて。私も子供がいなかったわけではないの。古い話だけども……」
と多嘉は身の上を話しはじめた。
「私の家は信州松本の石川家の江戸屋敷に仕えていましたの。けれど、今から四十年近く前に起きた大久保長安様の事件に連座して石川家が改易の憂き目にあい、私の家も家族で路頭に迷うこととなってしまいました」
「大久保長安ですか……?」
「あなたの生まれるずっと前の事件ですものね。まあ、つづめて言えば、権力者であった大久保長安様が不正に蓄財していたのが、亡くなったあとに明るみにでて、一族が切腹させられたり、関係があった大名たちが根こそぎ改易になったりしたのです」
こんにち、ちまたに牢人があふれかえっているが、その原因は、関ケ原や大坂の陣での敗北だけでなく、幕府の諸大名取り潰しによるところもあるということだ。
「私にはその時、公儀(幕府)の大御番与力を勤めるいいなずけがあったのですが、あえなく破談となってしまいました」
多嘉は寂しそうに遠い目をした。
「たった一度だけの逢瀬でした。おたがい好きあっていた間柄でしたから、最後に一度だけ、そういう関係を結んだのです。そうして、子供ができたのを知らないまま、私たちは別れ別れになりました」
「さぞ、おつらかったことでしょう」
「ふたりが別れたその日は、空に虹がかかっていました。あの時の、胸を締め付けられるような感覚は、虹を見るたびによみがえってきます」
多嘉は、外に顔を向けた。また虹が出ているのではないかと、不安になったのかもしれない。
「小源太さんは恋をしたことがあって?」
「いえ」と小源太は首を振った。
大叔父の道場には、小源太と同じ年ごろの少年達も通って来ていたが、恋心が動くようなことは一度もなかった。
「恋はいいものよ。心がほかほかと温かくなって、世の中が輝いて見えるの」
その温かさがにじみ出たような笑みを多嘉は浮かべた。そうして話を続けた。
「私の一家は裏長屋に両親、祖母、弟がぎゅうぎゅう詰めに住むような暮らしをしていたものですから、とうぜん、生まれた妙――というのが子供の名前なのですが――妙を育てる余裕などはありはしませんでした。そこで、長屋の大家さんに頼んで、娘を里子に出すことにしたのです。大家さんもどこにあげたかは知らない方がいい、知っていれば思慕の情が湧いてしまう、というものですから、それ以来、いっさいのたよりもなく、今日まで過ごしてきました。もちろん、娘のことを思い出さない日はありませんでした」
小源太は黙念と多嘉の話すのを聞いていた。話には同情の気持ちが動いて胸が詰まるものがあったが、多嘉自身は不幸話をするふうでもなく、世間話をするような調子で喋っている。
「ずっと独り身のままで一生懸命に働いてようやく小金も溜まって、こんな家に住めるくらいの余裕も持てました。そうしたら、先日のことです。連歌の会で皆さんが、子が立派に育ったとか、孫が可愛くてしかたがない、なんて自慢するものですから、つい私も言ってしまったんです。これまで別れ別れに暮らしてきた娘の消息がついにわかった、と」
多嘉は、悲しそうな、気恥ずかしそうな顔をして、ちょっと笑みを浮かべるのだった。
「それで、私が孫のふりをすればよろしいんですか」小源太が訊いた。
「ええ、今度の連歌の会に、ちょっと顔を見せてくれればいいんですよ」
「私なんかでいいんでしょうか。こんな身なりをしていますし」
「女性の着物はお嫌い?」
「どうしても着たくない、というほどではありませんが、男の着物のほうが性に合うのです」と小源太は袴の端をちょっと引っ張って見せた。
「まあ、無理強いはする気はありません。そのほうが面白いかもしれませんね。会の皆の驚く顔が目に浮かぶようだわ」多嘉はいたずらっぽくにっこりと笑った。
「まあ、久右衛門さんには娘をお願いしたのに、孫が来てしまったわ」
そんなことを言いながら、居間まで小源太をいざなったのだった。
「神田明神様のほうからわざわざこんな辺鄙なところまでご足労願いまして、まことに申し訳ありません」
座るなり多嘉は丁寧に頭をさげ、小源太も、いえいえとうやうやしく頭をさげかえした。
家は、千住大橋から東へちょっと離れた田畑と雑木林ばかりの風景のなかに、百姓家が点在するひなびた場所にあって、同じ江戸の市街地からさほど離れているわけでもないのに、神田明神下にある小源太の住む長屋の周りの、ごみごみした風景からは想像もできない、隔絶しているような景色であった。
以前は百姓家であったようで、茅葺きの屋根の家で、開け放たれた縁側の向こうには広い庭があった。庭の片隅には十六、七尺ほどの楢の木がはえて木陰をつくっていて、鶯がとまっているのだろう、鳴き声が心地よく響いてくる。
部屋は小ぎれいで掃除が行き届いて、床板にはほこりひとつ浮いていないし、顔がうつり込みそうなほど磨かれていて、住人の性格がそのまま形になったような家であった。
もとはれっきとした武家だったという多嘉は挙措のひとつひとつに品があって、歳は六十くらいに見えた。久右衛門とは連歌の会で知り合ったそうで、以来茶飲み友達のような関係を続けているのだという。
「まさか」と小源太は言った。「あのいかつい風体の久右衛門どのが連歌などという風雅な趣味をたしなんでいるのも驚愕でしたが、多嘉様という上品な、しかも異性のお知り合いがいらっしゃるというのも驚愕でした」
多嘉は細面で白い肌をしていて、皺も少なく、後ろから見た姿などはうなじに若い色気があって、まだ四十くらいにも見えた。どうみてもあの大家の久右衛門では釣り合いがとれない、品と美しさである。
「ほほほ、久右衛門さんも、ああ見えて、繊細な興懐をお持ちなんですよ」
小源太は、はてそうだろうかと首をかしげるしかない。
そうして久右衛門を話の種にひとしきり盛りあがったあと、多嘉は本題に入った。
「いえね、連歌の会で集まる人達は、いつも子供や孫の話ばかりするでしょう。なんだかもうくやしくて。私も子供がいなかったわけではないの。古い話だけども……」
と多嘉は身の上を話しはじめた。
「私の家は信州松本の石川家の江戸屋敷に仕えていましたの。けれど、今から四十年近く前に起きた大久保長安様の事件に連座して石川家が改易の憂き目にあい、私の家も家族で路頭に迷うこととなってしまいました」
「大久保長安ですか……?」
「あなたの生まれるずっと前の事件ですものね。まあ、つづめて言えば、権力者であった大久保長安様が不正に蓄財していたのが、亡くなったあとに明るみにでて、一族が切腹させられたり、関係があった大名たちが根こそぎ改易になったりしたのです」
こんにち、ちまたに牢人があふれかえっているが、その原因は、関ケ原や大坂の陣での敗北だけでなく、幕府の諸大名取り潰しによるところもあるということだ。
「私にはその時、公儀(幕府)の大御番与力を勤めるいいなずけがあったのですが、あえなく破談となってしまいました」
多嘉は寂しそうに遠い目をした。
「たった一度だけの逢瀬でした。おたがい好きあっていた間柄でしたから、最後に一度だけ、そういう関係を結んだのです。そうして、子供ができたのを知らないまま、私たちは別れ別れになりました」
「さぞ、おつらかったことでしょう」
「ふたりが別れたその日は、空に虹がかかっていました。あの時の、胸を締め付けられるような感覚は、虹を見るたびによみがえってきます」
多嘉は、外に顔を向けた。また虹が出ているのではないかと、不安になったのかもしれない。
「小源太さんは恋をしたことがあって?」
「いえ」と小源太は首を振った。
大叔父の道場には、小源太と同じ年ごろの少年達も通って来ていたが、恋心が動くようなことは一度もなかった。
「恋はいいものよ。心がほかほかと温かくなって、世の中が輝いて見えるの」
その温かさがにじみ出たような笑みを多嘉は浮かべた。そうして話を続けた。
「私の一家は裏長屋に両親、祖母、弟がぎゅうぎゅう詰めに住むような暮らしをしていたものですから、とうぜん、生まれた妙――というのが子供の名前なのですが――妙を育てる余裕などはありはしませんでした。そこで、長屋の大家さんに頼んで、娘を里子に出すことにしたのです。大家さんもどこにあげたかは知らない方がいい、知っていれば思慕の情が湧いてしまう、というものですから、それ以来、いっさいのたよりもなく、今日まで過ごしてきました。もちろん、娘のことを思い出さない日はありませんでした」
小源太は黙念と多嘉の話すのを聞いていた。話には同情の気持ちが動いて胸が詰まるものがあったが、多嘉自身は不幸話をするふうでもなく、世間話をするような調子で喋っている。
「ずっと独り身のままで一生懸命に働いてようやく小金も溜まって、こんな家に住めるくらいの余裕も持てました。そうしたら、先日のことです。連歌の会で皆さんが、子が立派に育ったとか、孫が可愛くてしかたがない、なんて自慢するものですから、つい私も言ってしまったんです。これまで別れ別れに暮らしてきた娘の消息がついにわかった、と」
多嘉は、悲しそうな、気恥ずかしそうな顔をして、ちょっと笑みを浮かべるのだった。
「それで、私が孫のふりをすればよろしいんですか」小源太が訊いた。
「ええ、今度の連歌の会に、ちょっと顔を見せてくれればいいんですよ」
「私なんかでいいんでしょうか。こんな身なりをしていますし」
「女性の着物はお嫌い?」
「どうしても着たくない、というほどではありませんが、男の着物のほうが性に合うのです」と小源太は袴の端をちょっと引っ張って見せた。
「まあ、無理強いはする気はありません。そのほうが面白いかもしれませんね。会の皆の驚く顔が目に浮かぶようだわ」多嘉はいたずらっぽくにっこりと笑った。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。