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第二章 幻の虹
二の三
「おほほ、大津留屋さんの顔を見た?」
連歌の会からの帰り道、多嘉はいかにも面白くってしかたがない、という調子で言った。
「あなたを目にした時のあの顔ったら、目のたまが飛び出しそうだったわねえ」
集まりは京橋であったため、多嘉は途中まで駕籠に乗っての帰路だったのだが、どうしても小源太と今日の話をしたくなったのだろう、上野あたりで降りてふたりは歩きながら話していた。
「あの大津留屋さんはね、いつも意地悪なことを言うの。まるで独り身の私を見下しているようだったのが、今日はずいぶんおとなしかったでしょう。いい気味だわ」
「あのう」と小源太は話を変えた。「これからも、ご迷惑でなければ多嘉さんの家に遊びに行ってもいいでしょうか?」
それは、ひとり暮らしの多嘉を憐れんでの言葉ではなかった。たしかに、独り身の老人の様子を時時見舞いたいという気持ちはあったが、小源太自身、祖母を知らなかったせいもあるだろう、多嘉に肉親のような情が湧いていた。思えば、小源太は女の肉親と接した記憶がない。母は物心つくまえに亡くなっていたし、育ててくれた大叔父は独身であった。
「まあ、それは願ったり叶ったりよ。私も、あなたのことが本当の孫のように思えてきていたの。これからも、遊びに来てちょうだい」
今にも飛び跳ねそうなほどうきうきした調子で多嘉が答えた。まるで少女のようなはしゃぎようであった。
「ひとつ訊いてもよろしいでしょうか」と小源太が言った。
「なにかしら」
「多嘉さんは、別れたいいなずけのかたやお子さんに、もう一度会いたいと思ったことはありますか?」
「え、うん、そうねえ。子供のほうは、周旋をお願いした大家さんがもう亡くなってしまったし、石上様もまだ生きていらっしゃるのかしら、道でばったり会うんじゃないか、なんていうのはこれまでも想像してはいたけど、会いに行こうとは考えたことはなかったわね」
「お寂しくはないのですか?」
「寂しいと思ったことは一度もないわ。きっとひとりでいるのが性に合っているのね。反対に、夫がいることを思い描くとわずらわしく思えてくるわ」
「そんなものですか」
「そんなものよ。天性の性分なのか、独り身が長かったから慣れてしまったのかは、わからないけどね」
そうして、多嘉を送って行って、長屋へと帰る道すがら、小源太は考えるのだった。
――多嘉は本当に、過去いいなずけだった石上という御家人と会いたいと思っていないのだろうか。子供はどうだろう。腹を痛めて生んだ自分の子への想いを、簡単に切ってしまえるものだろうか。
まだ十八の小源太にはよくわからない。
ずっと独り身で、孤独に生きている老人の気持ちは、今の小源太が察するには遠くにありすぎた。目をこらして見ようとしても、見えそうで見えず、手をのばしても決してつかむことなどできはしない、まるで薄い雲の向こうにあるおぼろな月か星のようなものであった。
――よし。
一度私がいいなずけと子供の行方をさがしてみよう、と小源太は思った。それがお節介でもかまわない。出過ぎたまねだと怒られるかもしれないが、何もしないで見捨てておくことなど、小源太にはできないことだった。
「多嘉さんは口では、寂しいと思ったことは一度もないと言っていた。だけど、ずっとひとりで生きてきて、まったく寂しくないなどということが、本当にあるのだろうか。私だって、ひとり長屋で眠れぬ夜には、兄が恋しく思えてくるし、大叔父の叱る声がなつかしくなってくる。そうだ、一度親子三人顔を合わせてみればいい。きっと多嘉さんの気持ちにも変化が生じるに違いない」
連歌の会からの帰り道、多嘉はいかにも面白くってしかたがない、という調子で言った。
「あなたを目にした時のあの顔ったら、目のたまが飛び出しそうだったわねえ」
集まりは京橋であったため、多嘉は途中まで駕籠に乗っての帰路だったのだが、どうしても小源太と今日の話をしたくなったのだろう、上野あたりで降りてふたりは歩きながら話していた。
「あの大津留屋さんはね、いつも意地悪なことを言うの。まるで独り身の私を見下しているようだったのが、今日はずいぶんおとなしかったでしょう。いい気味だわ」
「あのう」と小源太は話を変えた。「これからも、ご迷惑でなければ多嘉さんの家に遊びに行ってもいいでしょうか?」
それは、ひとり暮らしの多嘉を憐れんでの言葉ではなかった。たしかに、独り身の老人の様子を時時見舞いたいという気持ちはあったが、小源太自身、祖母を知らなかったせいもあるだろう、多嘉に肉親のような情が湧いていた。思えば、小源太は女の肉親と接した記憶がない。母は物心つくまえに亡くなっていたし、育ててくれた大叔父は独身であった。
「まあ、それは願ったり叶ったりよ。私も、あなたのことが本当の孫のように思えてきていたの。これからも、遊びに来てちょうだい」
今にも飛び跳ねそうなほどうきうきした調子で多嘉が答えた。まるで少女のようなはしゃぎようであった。
「ひとつ訊いてもよろしいでしょうか」と小源太が言った。
「なにかしら」
「多嘉さんは、別れたいいなずけのかたやお子さんに、もう一度会いたいと思ったことはありますか?」
「え、うん、そうねえ。子供のほうは、周旋をお願いした大家さんがもう亡くなってしまったし、石上様もまだ生きていらっしゃるのかしら、道でばったり会うんじゃないか、なんていうのはこれまでも想像してはいたけど、会いに行こうとは考えたことはなかったわね」
「お寂しくはないのですか?」
「寂しいと思ったことは一度もないわ。きっとひとりでいるのが性に合っているのね。反対に、夫がいることを思い描くとわずらわしく思えてくるわ」
「そんなものですか」
「そんなものよ。天性の性分なのか、独り身が長かったから慣れてしまったのかは、わからないけどね」
そうして、多嘉を送って行って、長屋へと帰る道すがら、小源太は考えるのだった。
――多嘉は本当に、過去いいなずけだった石上という御家人と会いたいと思っていないのだろうか。子供はどうだろう。腹を痛めて生んだ自分の子への想いを、簡単に切ってしまえるものだろうか。
まだ十八の小源太にはよくわからない。
ずっと独り身で、孤独に生きている老人の気持ちは、今の小源太が察するには遠くにありすぎた。目をこらして見ようとしても、見えそうで見えず、手をのばしても決してつかむことなどできはしない、まるで薄い雲の向こうにあるおぼろな月か星のようなものであった。
――よし。
一度私がいいなずけと子供の行方をさがしてみよう、と小源太は思った。それがお節介でもかまわない。出過ぎたまねだと怒られるかもしれないが、何もしないで見捨てておくことなど、小源太にはできないことだった。
「多嘉さんは口では、寂しいと思ったことは一度もないと言っていた。だけど、ずっとひとりで生きてきて、まったく寂しくないなどということが、本当にあるのだろうか。私だって、ひとり長屋で眠れぬ夜には、兄が恋しく思えてくるし、大叔父の叱る声がなつかしくなってくる。そうだ、一度親子三人顔を合わせてみればいい。きっと多嘉さんの気持ちにも変化が生じるに違いない」
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