16 / 93
第二章 幻の虹
二の七
いつものように、怠惰に寝過ごし、いい加減起きなくては、また長屋のかみさん連中の笑いものにされるぞ、と思いつつも、おしよせる眠気にはあらがえず、小源太は路地ではしゃぐ子供達の声をうるさく感じながらも、夜具にくるまって、うつらうつらとまどろんでいた。
すると、子供達の叫声に混じって、
「ごめん、栗栖殿はご在宅か?」
渋い声で呼びかけながら、長屋の戸を叩く音がする。
はて誰であろうと思うと同時に、栗栖の旦那なら今日もお寝坊ですよ、と隣のおしまの声が聞こえた。
余計なことを言うものだ、と思いながら、小源太は重い体を起こして、
「私ならもう起きておりますよ」
と外に向かって声をかけつつ、小袖に腕を通し、ぐるぐると帯を巻いて、裾をなおしながら土間へ飛びおりた。
「わしじゃ、石上じゃ」
入り口の向こうからそう声がした。
これはいかん、と思いながら水瓶の水をすくって口をすすぎ、顔を洗った。
本当は居留守ときめこみたいところだが、もう手遅れだ。もとより、隠れようにも六畳ひと間の長屋の部屋に隠れる場所などどこにもなかった。
土間から部屋にもどって乱雑に布団をたたむと、隅に押しやって枕屏風で蓋をするように隠した。
「お待たせいたしました」
言いながら小源太が戸を開けると、幸太夫が苛立ち、あきれながら立っていた。
「これは石上様、おはようございます」
「もうこんにちはという時刻だがの」幸太夫は眉間に皺を寄せて言って、入ってもいいかと訊いた。
どうぞと小源太は招き入れた。
座った幸太夫は、ろくに掃除もしていない埃の舞うような部屋を見まわして、
「やはり、おぬしは男として扱うのが正しいようじゃな」
と嫌味をひとつくれた。
「すみません、お茶もありませんで」
「別にいらん」
「して、今日はどのようなご用件で、わざわざご来訪になられたのですか?」
「ふむ」と幸太夫は心を落ち着けるように、ちょっとの間腕を組んで考えるようなそぶりで、「じつはの、先日はああ言ったが、ちと思い直しての」
「とおっしゃいますと?」
「やはり、多嘉殿に会ってみようと思う」
「おお、それは多嘉様もお喜びになられるでしょう。しかし、私などに断りを入れず、直接お会いにゆかれればよろしいですのに」多嘉のも小源太のも、住まいの場所は先日、幸太夫の息子の嫁に伝えておいたのだが、それが幸いした。
「そこは、その」と幸太夫は照れ臭そうな素振りで、「いちおう、仲立ちのような、者がじゃな」
ようは、ふたりきりで会うのが照れくさいのだ。古武士然とした幸太夫にこんないじらしい一面もあったのかと、小源太は内心ほほえましく思った。
「それと、もうひとつ、喜ばしいおしらせがあります」小源太はこぼれ出る笑顔で言った。「お孫さんの市太郎さんが見つかりました」
「なに」と幸太夫がたちまち元の古武士の顔に戻った。
「はい、石上様と多嘉様のお孫さんです」
幸太夫の顔がみるみる上気していって、頭から湯気が噴き出しそうなほど真っ赤に変じた。
「貴公、あれほど念を押したのに、多嘉殿の子供さがしなどしおったのかっ」
「は、はい」と反射的に小源太は頭をさげて、「残念ながら、お子様はもう亡くなっておいででした」
「そんなことは訊いておらん。余計なことをするでないとあれほど申したに」
「石上様はさがすなとおっしゃいましたが、私はやはり、多嘉様は生き別れたお子様にお会いしたいだろうと推察しました。げんに、多嘉様は市太郎さんにお会いになって、大変喜んでおいででしたよ」
「なに、多嘉殿が……。そんな馬鹿な」
「馬鹿なもなにも、事実でございます」
幸太夫は横を向き、まるで壁の汚れを見つめるようにして、黙り込んだ。
「その孫というのは、どこの何者じゃ」
「ところまでは存じませんが……」ふと小源太は、市太郎が大家の善吉に話を聞いたと言っていたのを思い出した。「そうですな、伝通院裏の長屋の大家さんならご存じかもしれません」
「行くぞ」と幸太夫は立ち上がった。
「は、いずこへ?」
「その伝通院裏の長屋じゃ、それぐらいすばやく察しろ。ほら、はようしたくせんか」
すると、子供達の叫声に混じって、
「ごめん、栗栖殿はご在宅か?」
渋い声で呼びかけながら、長屋の戸を叩く音がする。
はて誰であろうと思うと同時に、栗栖の旦那なら今日もお寝坊ですよ、と隣のおしまの声が聞こえた。
余計なことを言うものだ、と思いながら、小源太は重い体を起こして、
「私ならもう起きておりますよ」
と外に向かって声をかけつつ、小袖に腕を通し、ぐるぐると帯を巻いて、裾をなおしながら土間へ飛びおりた。
「わしじゃ、石上じゃ」
入り口の向こうからそう声がした。
これはいかん、と思いながら水瓶の水をすくって口をすすぎ、顔を洗った。
本当は居留守ときめこみたいところだが、もう手遅れだ。もとより、隠れようにも六畳ひと間の長屋の部屋に隠れる場所などどこにもなかった。
土間から部屋にもどって乱雑に布団をたたむと、隅に押しやって枕屏風で蓋をするように隠した。
「お待たせいたしました」
言いながら小源太が戸を開けると、幸太夫が苛立ち、あきれながら立っていた。
「これは石上様、おはようございます」
「もうこんにちはという時刻だがの」幸太夫は眉間に皺を寄せて言って、入ってもいいかと訊いた。
どうぞと小源太は招き入れた。
座った幸太夫は、ろくに掃除もしていない埃の舞うような部屋を見まわして、
「やはり、おぬしは男として扱うのが正しいようじゃな」
と嫌味をひとつくれた。
「すみません、お茶もありませんで」
「別にいらん」
「して、今日はどのようなご用件で、わざわざご来訪になられたのですか?」
「ふむ」と幸太夫は心を落ち着けるように、ちょっとの間腕を組んで考えるようなそぶりで、「じつはの、先日はああ言ったが、ちと思い直しての」
「とおっしゃいますと?」
「やはり、多嘉殿に会ってみようと思う」
「おお、それは多嘉様もお喜びになられるでしょう。しかし、私などに断りを入れず、直接お会いにゆかれればよろしいですのに」多嘉のも小源太のも、住まいの場所は先日、幸太夫の息子の嫁に伝えておいたのだが、それが幸いした。
「そこは、その」と幸太夫は照れ臭そうな素振りで、「いちおう、仲立ちのような、者がじゃな」
ようは、ふたりきりで会うのが照れくさいのだ。古武士然とした幸太夫にこんないじらしい一面もあったのかと、小源太は内心ほほえましく思った。
「それと、もうひとつ、喜ばしいおしらせがあります」小源太はこぼれ出る笑顔で言った。「お孫さんの市太郎さんが見つかりました」
「なに」と幸太夫がたちまち元の古武士の顔に戻った。
「はい、石上様と多嘉様のお孫さんです」
幸太夫の顔がみるみる上気していって、頭から湯気が噴き出しそうなほど真っ赤に変じた。
「貴公、あれほど念を押したのに、多嘉殿の子供さがしなどしおったのかっ」
「は、はい」と反射的に小源太は頭をさげて、「残念ながら、お子様はもう亡くなっておいででした」
「そんなことは訊いておらん。余計なことをするでないとあれほど申したに」
「石上様はさがすなとおっしゃいましたが、私はやはり、多嘉様は生き別れたお子様にお会いしたいだろうと推察しました。げんに、多嘉様は市太郎さんにお会いになって、大変喜んでおいででしたよ」
「なに、多嘉殿が……。そんな馬鹿な」
「馬鹿なもなにも、事実でございます」
幸太夫は横を向き、まるで壁の汚れを見つめるようにして、黙り込んだ。
「その孫というのは、どこの何者じゃ」
「ところまでは存じませんが……」ふと小源太は、市太郎が大家の善吉に話を聞いたと言っていたのを思い出した。「そうですな、伝通院裏の長屋の大家さんならご存じかもしれません」
「行くぞ」と幸太夫は立ち上がった。
「は、いずこへ?」
「その伝通院裏の長屋じゃ、それぐらいすばやく察しろ。ほら、はようしたくせんか」
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。