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第三章 打掛の用心棒
三の七
差し出された金には手を付けず、小源太は辰平の店をあとにした。
思っていたよりも穏やかなものであったと小源太は思う。
これまでずっと、辰平に再会したらどうしてやろうかと頭に思い描いていた。刀で斬りつけることを何度も想像したし、拳骨で血を吐くまで顔を殴りつけることも想像していた。実際は、衿を締め上げただけであったが、その後はどこか醒めたような気分であった。
辰平の娘の目を見たからだ。
あの娘の目が、悪鬼へと落ちかけた小源太を正気に引き戻したのだ。あの目はかつての自分の目であった。人買いに連れ去られ、不安と恐怖におののいていた幼かった頃の自分の目であった。
神田川を渡ってしばらくすると、道の両側に並んだ店の一軒から着流しに黒い羽織の男が出てくるのが見えた。
北町奉行所同心の香流隼人であった。向こうもこちらに気づいたようだ。端正な顔で、見下したような目でこちらを見つめている。
「なんだ、蝙蝠女か」
なんだと言いたいのはこっちだ、と内心思いながらも、小源太は軽く頭をさげた。香流の脇には御用聞き平助親分の手下、卯之助が従っている。
「どこへいく」と横柄な調子で香流は訊いた。
「久松町へ戻るところです」
「なぜ」
「用心棒をしていますので」
「なんという店だ」
「あの、ここであなたに誰何されるおぼえはないのですが」
「誰を誰何するか、いつ誰何するかは、俺の胸先しだいだ。お前の都合などしったことではない」
「では、さようなら」
小源太は立ち去るのだった。が、香流はあとをついてくる。むっとして小源太は振り返って、
「やめてください。悪いことはなにもしていないのに、あとをつけられるのは、心外です」
「ばか、巡回の順路だ」
言われて、ふんと不満げに鼻をならして、小源太はまた歩き始めた。
久松町までもう三町ばかりに近づいた頃、前から何かから逃れるように、大勢の人達が駈けてくる。なんだろうと思っていると、人人の向こうから、半鐘の音が風に乗って聞こえてきた。
どうも久松町のほうだ、小源太は小走りになった。その小源太を追い抜いて、香流と卯之助が走って行った。
並んだ町家の屋根の向こうから、細い煙が一筋立ちのぼっているのが目に入った。
三波屋に着くと、店はなぜか閉まっていて、くぐり戸を開けて、丁稚小僧の政吉が不安げに火事のほうを眺めているのだった。火事は三波屋の一町ほど東のようだ。
「おい、政吉、何をしている」
小源太が声をかけると、
「火事のようなので様子を見ております」
「そんなことは見ればわかる。どうして店が閉まっているのか訊いているんだ」
「旦様と若旦様は、急な寄り合いで出ております。奥様はお嬢様と連れ立って、親戚のどなたかが怪我をされたと言うので、お見舞いに出かけられました。女中のおかちさんも一緒です」
「お前ひとりを残してかい。物騒だな」
と小源太がくぐり戸をくぐろうとすると、香流と卯之助が引き返してきた。
「ぼやだ、もう火も消し止められている。安心していいぞ」香流が言ったのは小源太にか、政吉にか。
小源太は聞き流して店に入って、奥に進むと、人影が裏の縁側から飛び出していくのが見えた。男が小脇に抱えているのは、あの打掛を丸めたものであろう。
「やられた、待てっ!」
小源太が叫んで追った。
「どうした!?」と後ろで香流が訊く。
「泥棒です!」
香流は店に入って来つつ、「卯之助、裏に回れ」と指示を出している。
まさか白昼堂堂、賊が押し入るとは思いもよらなかった。小源太が店から離れ、しかも、運悪く店の者が皆出払った隙を狙われたのだ。
賊は、ふたり、牢人のような身なりで、ひとりはえらく巨躯な男である。裏長屋の細い路地を肩をぶつけるように並んで駆け抜けていく。
「おい、なんで蝙蝠小町がもう帰っている?」顔の下半分を布でぐるぐるまいて隠しているが、金井半兵衛であった。
「わしが知るか」これも顔半分を布で隠した丸橋忠弥がこたえた。
「横手の話じゃ、夜まで誰も帰らないはずじゃなかったのか」
「策士も溺れる時があるってこった」
「ちぇっ」
というふたりの話から察すれば、小源太が浅草に行ったのも、店の者が出払ったのも、すべて横手という男の策略のようである。おそらく、小火さわぎも、横手が仕組んだことに違いない。
ふたりがしゃべりながら走っている間に、小源太がぐいぐい距離を縮めてくる。
「げっ、えらい足の速い女だ」足音に振り向いて金井が言った。
「若さだな。わしらが歳をとったということじゃ」
路地を抜けたちょうどその時、小源太が追いついた。手を伸ばして、金井の抱えた打掛をつかんだ。
思っていたよりも穏やかなものであったと小源太は思う。
これまでずっと、辰平に再会したらどうしてやろうかと頭に思い描いていた。刀で斬りつけることを何度も想像したし、拳骨で血を吐くまで顔を殴りつけることも想像していた。実際は、衿を締め上げただけであったが、その後はどこか醒めたような気分であった。
辰平の娘の目を見たからだ。
あの娘の目が、悪鬼へと落ちかけた小源太を正気に引き戻したのだ。あの目はかつての自分の目であった。人買いに連れ去られ、不安と恐怖におののいていた幼かった頃の自分の目であった。
神田川を渡ってしばらくすると、道の両側に並んだ店の一軒から着流しに黒い羽織の男が出てくるのが見えた。
北町奉行所同心の香流隼人であった。向こうもこちらに気づいたようだ。端正な顔で、見下したような目でこちらを見つめている。
「なんだ、蝙蝠女か」
なんだと言いたいのはこっちだ、と内心思いながらも、小源太は軽く頭をさげた。香流の脇には御用聞き平助親分の手下、卯之助が従っている。
「どこへいく」と横柄な調子で香流は訊いた。
「久松町へ戻るところです」
「なぜ」
「用心棒をしていますので」
「なんという店だ」
「あの、ここであなたに誰何されるおぼえはないのですが」
「誰を誰何するか、いつ誰何するかは、俺の胸先しだいだ。お前の都合などしったことではない」
「では、さようなら」
小源太は立ち去るのだった。が、香流はあとをついてくる。むっとして小源太は振り返って、
「やめてください。悪いことはなにもしていないのに、あとをつけられるのは、心外です」
「ばか、巡回の順路だ」
言われて、ふんと不満げに鼻をならして、小源太はまた歩き始めた。
久松町までもう三町ばかりに近づいた頃、前から何かから逃れるように、大勢の人達が駈けてくる。なんだろうと思っていると、人人の向こうから、半鐘の音が風に乗って聞こえてきた。
どうも久松町のほうだ、小源太は小走りになった。その小源太を追い抜いて、香流と卯之助が走って行った。
並んだ町家の屋根の向こうから、細い煙が一筋立ちのぼっているのが目に入った。
三波屋に着くと、店はなぜか閉まっていて、くぐり戸を開けて、丁稚小僧の政吉が不安げに火事のほうを眺めているのだった。火事は三波屋の一町ほど東のようだ。
「おい、政吉、何をしている」
小源太が声をかけると、
「火事のようなので様子を見ております」
「そんなことは見ればわかる。どうして店が閉まっているのか訊いているんだ」
「旦様と若旦様は、急な寄り合いで出ております。奥様はお嬢様と連れ立って、親戚のどなたかが怪我をされたと言うので、お見舞いに出かけられました。女中のおかちさんも一緒です」
「お前ひとりを残してかい。物騒だな」
と小源太がくぐり戸をくぐろうとすると、香流と卯之助が引き返してきた。
「ぼやだ、もう火も消し止められている。安心していいぞ」香流が言ったのは小源太にか、政吉にか。
小源太は聞き流して店に入って、奥に進むと、人影が裏の縁側から飛び出していくのが見えた。男が小脇に抱えているのは、あの打掛を丸めたものであろう。
「やられた、待てっ!」
小源太が叫んで追った。
「どうした!?」と後ろで香流が訊く。
「泥棒です!」
香流は店に入って来つつ、「卯之助、裏に回れ」と指示を出している。
まさか白昼堂堂、賊が押し入るとは思いもよらなかった。小源太が店から離れ、しかも、運悪く店の者が皆出払った隙を狙われたのだ。
賊は、ふたり、牢人のような身なりで、ひとりはえらく巨躯な男である。裏長屋の細い路地を肩をぶつけるように並んで駆け抜けていく。
「おい、なんで蝙蝠小町がもう帰っている?」顔の下半分を布でぐるぐるまいて隠しているが、金井半兵衛であった。
「わしが知るか」これも顔半分を布で隠した丸橋忠弥がこたえた。
「横手の話じゃ、夜まで誰も帰らないはずじゃなかったのか」
「策士も溺れる時があるってこった」
「ちぇっ」
というふたりの話から察すれば、小源太が浅草に行ったのも、店の者が出払ったのも、すべて横手という男の策略のようである。おそらく、小火さわぎも、横手が仕組んだことに違いない。
ふたりがしゃべりながら走っている間に、小源太がぐいぐい距離を縮めてくる。
「げっ、えらい足の速い女だ」足音に振り向いて金井が言った。
「若さだな。わしらが歳をとったということじゃ」
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。