29 / 93
第四章 男色
四の一
谷中にある青山道場は暑い。
建物の両側が寺に挟まれているものだから、風通しが悪く、窓はすべて開け放っているにもかかわらず、そよとも風が吹かぬ。
栗栖小源太の住む神田明神下のけやき長屋も年中じめっとしているが、この道場は異常といっていいほどしけっているのだ。
道場主の青山清左衛門などは、単衣の着物の衿をくつろげて、濃い胸毛を丸出しにして、高座で胡坐をかいて、必死に団扇で胸元をあおいで、あおぐ運動でかえって汗をかきそうなほどである。
横目で弛緩しきったその姿を見てなかば呆れながら、小源太は門人に稽古をつけていた。
近所に住む帯刀を許された商人の子弟で、ひょろ長い体をして腰の定まらない構えをして、それでも健気に打ってくる、まったく腕にも腰にも力の入っていない竹刀の一撃を、小源太は軽くさばいて、すっかりがら空きになっている、へっぴり腰を打った。
軽く竹刀で打っただけなのに、門人はよろよとと一間ばかりもよろけて、
「あいたた、栗栖先生は本気で稽古をするから嫌」
ふくれっ面をして、そんなことを言うのだった。
「ここは剣術の道場だから、本気で稽古をするのが当たり前だ」ぴしゃりと小源太が言い返すと、門人は拗ねた顔をして、道場の隅にさがっていった。
「誰か、他にやる気のある者はいないのかっ」
小源太が金切り声で叫んで見まわせば、道場の隅のそこここには、門人たちが何人か集まって、よもやま話に興じている。目が合った門人があわてて視線をそらす。真剣に稽古をしようとしている自分が馬鹿馬鹿しくなってくるほどの、怠惰な空気が道場内を支配していた。普段は女の小源太に稽古をつけられるのを、なかば面白がっている門人達も、今日に限ってはまるでやる気をみせない。
「もういいっ」
ぷんと拗ねた顔をして、小源太は道場を後にした。うしろから、ああ帰っちゃったよ、怒らせたの誰だ、みんなだよみんな、などという揶揄するような声が聞こえ、つづいて声を合わせてどっと笑うのだった。
この新当流剣術を教える青山道場、不思議な道場であった。
谷中などという江戸の北の端では門人は集まらなさそう思えるが、意外にもぽつぽつと人が通ってくる。千駄木、日暮里あたりの、商人や農家の帯刀を許された家の者は、市中の本格的な剣術道場は敷居が高く感じられるようで、こうした小さくて人気のなさそうな場末の道場の方が気安く落ち着けるようだ。武家でも二十半ばや、三十を越えて発起して剣術を習いはじめるような、いわば出遅れた者たちも、入門しやすく居心地もよいのだろう、筋は悪く上達は望めないのに熱心に通ってくる者も(少数ではあるが)いたのだった。
京の大叔父の道場とあまりにも似たような境遇だったので、はじめ小源太は奇妙な親近感を湧かせていたものである。
しかし道場主の青山清左衛門というのが、たいそうな怠け者で、門人の稽古もなおざりだし、いつも高座で怠惰に寝そべって、鼻をほじりながら門人が竹刀を振るのにケチをつけているだけであった。
裏の井戸端へきて、衿をくつろげると、小源太は手ぬぐいを突っ込んで汗を拭いた。稽古で汗を流したわけでなく、ただ、蒸し風呂のような道場の暑さで汗がにじみ出ているだけではあったが。
「あら小源太さん、今日はお早いあがりですのね」
後ろからかけられた声にふりむくと、清左衛門の娘の沙弥が盥に山のような洗濯物を盛ったのを抱えて歩いて来た。
沙弥は清左衛門の実の娘ではなく、最初下働きとして道場に来ていたのを、清左衛門が気性を気に入って養女として迎えたのだそうな。
丸い顔に丸い目をして、ちょっと太めの眉にいささか上向きのだんごっ鼻があって、唇も分厚く、けっして器量良しとはいいがたい顔立ちだが、くるくると目が回りそうなほどよく働くし、陽気で人あたりが良く、門人の誰からも好かれていた。
沙弥は井戸の脇に座ると、せっせと稽古着を洗濯しはじめた。門人の、ひとり者で稽古着の手入れすらしないような連中のものを、洗ってやっているのだ。しかも、その稽古着には、門人の姓名が縫われていて、それを縫い取ったのも沙弥であった。
小源太も、この十六の少女と話していると、なんだか心の芯が温かくほてってくるのだった。
「あ、小源太さん、ごめんなさいね」
「何が?」
「こないだ頼まれたの、なかなか仕上がらないのよ」
過日、盗賊に狙われた打掛が、騒動の折に半分に裂けてしまった話を沙弥にしたところ、それなら衿巻にでも仕立て直してあげましょうか、と申し出てくれ、小源太は厚意に甘えることにしたのだった。
「まだ衿巻って季節でもないしね、ゆっくりやってくれればいいんだよ」
「悪いわねえ。安請け合いしたのはいいんだけど、他に内職の仕立物もしているものだから、なかなか手がまわらないのよ」
「いやいや、悪いのはこちらのほうだよ。面倒ごとを押し付けちゃって」
「あれ、図柄が綺麗でしょ。赤い梅の花が全体に散らしてあって、ひとつだけ白い花が刺繍してあるの。あれなら、衿巻にしても、年寄りくさくも病人くさくもないわ。若い人が巻いてもおかしく見えないんじゃないかしら。ぜったい小源太さんに似合うと思うわ」
そう言って、沙弥は顔をあげて、にっこりとほがらかな笑みを浮かべるのだった。そうして笑うとうわむきのだんごっ鼻も魅惑的にすら感じられる。
その笑顔をみて、小源太はまた胸が熱くなるような気がしたのだった。
建物の両側が寺に挟まれているものだから、風通しが悪く、窓はすべて開け放っているにもかかわらず、そよとも風が吹かぬ。
栗栖小源太の住む神田明神下のけやき長屋も年中じめっとしているが、この道場は異常といっていいほどしけっているのだ。
道場主の青山清左衛門などは、単衣の着物の衿をくつろげて、濃い胸毛を丸出しにして、高座で胡坐をかいて、必死に団扇で胸元をあおいで、あおぐ運動でかえって汗をかきそうなほどである。
横目で弛緩しきったその姿を見てなかば呆れながら、小源太は門人に稽古をつけていた。
近所に住む帯刀を許された商人の子弟で、ひょろ長い体をして腰の定まらない構えをして、それでも健気に打ってくる、まったく腕にも腰にも力の入っていない竹刀の一撃を、小源太は軽くさばいて、すっかりがら空きになっている、へっぴり腰を打った。
軽く竹刀で打っただけなのに、門人はよろよとと一間ばかりもよろけて、
「あいたた、栗栖先生は本気で稽古をするから嫌」
ふくれっ面をして、そんなことを言うのだった。
「ここは剣術の道場だから、本気で稽古をするのが当たり前だ」ぴしゃりと小源太が言い返すと、門人は拗ねた顔をして、道場の隅にさがっていった。
「誰か、他にやる気のある者はいないのかっ」
小源太が金切り声で叫んで見まわせば、道場の隅のそこここには、門人たちが何人か集まって、よもやま話に興じている。目が合った門人があわてて視線をそらす。真剣に稽古をしようとしている自分が馬鹿馬鹿しくなってくるほどの、怠惰な空気が道場内を支配していた。普段は女の小源太に稽古をつけられるのを、なかば面白がっている門人達も、今日に限ってはまるでやる気をみせない。
「もういいっ」
ぷんと拗ねた顔をして、小源太は道場を後にした。うしろから、ああ帰っちゃったよ、怒らせたの誰だ、みんなだよみんな、などという揶揄するような声が聞こえ、つづいて声を合わせてどっと笑うのだった。
この新当流剣術を教える青山道場、不思議な道場であった。
谷中などという江戸の北の端では門人は集まらなさそう思えるが、意外にもぽつぽつと人が通ってくる。千駄木、日暮里あたりの、商人や農家の帯刀を許された家の者は、市中の本格的な剣術道場は敷居が高く感じられるようで、こうした小さくて人気のなさそうな場末の道場の方が気安く落ち着けるようだ。武家でも二十半ばや、三十を越えて発起して剣術を習いはじめるような、いわば出遅れた者たちも、入門しやすく居心地もよいのだろう、筋は悪く上達は望めないのに熱心に通ってくる者も(少数ではあるが)いたのだった。
京の大叔父の道場とあまりにも似たような境遇だったので、はじめ小源太は奇妙な親近感を湧かせていたものである。
しかし道場主の青山清左衛門というのが、たいそうな怠け者で、門人の稽古もなおざりだし、いつも高座で怠惰に寝そべって、鼻をほじりながら門人が竹刀を振るのにケチをつけているだけであった。
裏の井戸端へきて、衿をくつろげると、小源太は手ぬぐいを突っ込んで汗を拭いた。稽古で汗を流したわけでなく、ただ、蒸し風呂のような道場の暑さで汗がにじみ出ているだけではあったが。
「あら小源太さん、今日はお早いあがりですのね」
後ろからかけられた声にふりむくと、清左衛門の娘の沙弥が盥に山のような洗濯物を盛ったのを抱えて歩いて来た。
沙弥は清左衛門の実の娘ではなく、最初下働きとして道場に来ていたのを、清左衛門が気性を気に入って養女として迎えたのだそうな。
丸い顔に丸い目をして、ちょっと太めの眉にいささか上向きのだんごっ鼻があって、唇も分厚く、けっして器量良しとはいいがたい顔立ちだが、くるくると目が回りそうなほどよく働くし、陽気で人あたりが良く、門人の誰からも好かれていた。
沙弥は井戸の脇に座ると、せっせと稽古着を洗濯しはじめた。門人の、ひとり者で稽古着の手入れすらしないような連中のものを、洗ってやっているのだ。しかも、その稽古着には、門人の姓名が縫われていて、それを縫い取ったのも沙弥であった。
小源太も、この十六の少女と話していると、なんだか心の芯が温かくほてってくるのだった。
「あ、小源太さん、ごめんなさいね」
「何が?」
「こないだ頼まれたの、なかなか仕上がらないのよ」
過日、盗賊に狙われた打掛が、騒動の折に半分に裂けてしまった話を沙弥にしたところ、それなら衿巻にでも仕立て直してあげましょうか、と申し出てくれ、小源太は厚意に甘えることにしたのだった。
「まだ衿巻って季節でもないしね、ゆっくりやってくれればいいんだよ」
「悪いわねえ。安請け合いしたのはいいんだけど、他に内職の仕立物もしているものだから、なかなか手がまわらないのよ」
「いやいや、悪いのはこちらのほうだよ。面倒ごとを押し付けちゃって」
「あれ、図柄が綺麗でしょ。赤い梅の花が全体に散らしてあって、ひとつだけ白い花が刺繍してあるの。あれなら、衿巻にしても、年寄りくさくも病人くさくもないわ。若い人が巻いてもおかしく見えないんじゃないかしら。ぜったい小源太さんに似合うと思うわ」
そう言って、沙弥は顔をあげて、にっこりとほがらかな笑みを浮かべるのだった。そうして笑うとうわむきのだんごっ鼻も魅惑的にすら感じられる。
その笑顔をみて、小源太はまた胸が熱くなるような気がしたのだった。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。