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第四章 男色
四の四
久右衛門はさっそく動いてくれた。三日後には連歌仲間のさらに知人が隠居所として使っていた寮(別宅)が本所にあるというのを聞きつけてくるという素早さで、翌日つまり今日には小源太がどんなものか確認に行った。
家は、雑木林に囲まれた、まさしく隠れ家と言った様相で、これなら飯島達も納得してくれるであろう。
じつに条件にぴったりの物件だったので、これでもう仕事は片付いたようなものだ、と小源太はうきうきするような足どりで長屋まで帰ってきた。
そうして家に入ろうとすると、後ろから、
「あ、栗栖の旦那、またやられてるよ」
と声をかけてきたのは、向かいの長屋に住むおけいであった。
その一言で、小源太はなにが起きたのか、すぐに察した。
振り向くと、おけいは恰幅のいい体の丸い顔を気の毒そうにゆがめて、こちらを見ていた。
「すぐに脱ぎなよ。どうせ洗濯中なんだし、ついでに洗ってあげるよ」
「いや、申し訳ないから」と小源太は断った。
「遠慮しなさんな。さ、はやく脱いでくださいな」
家に入って着物を脱ぐと、背中に、唾を吐かれたあとがあって、まだ乾いていない汚れが、くっきりと残っていた。
江戸に出て来てから、もう三、四度、こんなことがあった。
すれ違いざまに鼻で笑われたこともあったし、女のくせにみっともない、と吐き捨てるように言われたこともあった。そうあからさまでなくとも、相手のちょっとした視線や眉の動きや身ごなしで、毛嫌いされているとわかる時もあった。
――女が、男のように生きようとしているだけで、なぜこのような仕打ちをされねばならないのか。
小源太の腹の底に、もやもやとした重い憤りの塊がわきだしてきた。
こういう嫌がらせに会うと、飯島と志賀が、世間から隠れて暮らしたいと思う気持ちがよくわかるのだ。彼らは、けっして、親族の手から逃れるためだけに隠遁しようとしているわけではなかった。自分たちとは異なる性質を持った人間を、侮蔑し疎外しようとする市井の目から逃れたいと思っているに違いない。
――そんな馬鹿なことはない。
と小源太はつぶやいた。その声が小刻みに震えた。
ちょっと目色毛色が違うだけで、なぜ、差別や侮辱の対象にならねばならぬのか。
――そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。
男どうし愛し合っているだけの飯島と志賀も、女であることに違和感を感じる小源太も、ただそこが違うだけの、皆と同じ市井の人間ではないか。人を傷つけるようなことは何もしていない。いっぱしの大人の顔をして、他人を平然と苛む者だっている、妻を持ち子を作り一人前の人間のに見えて精神年齢の低い者だっている。そんな人間より、同性を愛してしまう者が劣っているなどということは、けっしてない。
「道を歩くときくらい、女のなりをすればいいんですよ」着物を持っていくとおけいが言うのだ。「男すがたは家にいる時だけにすればいいんですよ。それくらいの折り合いをつけなくっちゃ、この先、生きていけませんよ」
そうできたらいい、と小源太は思う。
だが、常人が同性どうしで愛しあうことに嫌悪を感じるように、飯島達は異性を愛することに嫌悪を感じてしまうのだ。小源太だって、嫌悪までは感じないにしろ、男性を好きになった経験がないし、青山道場の沙弥に心をときめかせてしまう。身なりだけは、女物の着物を無理に着て過ごせたとしても、そういう本能的な感情はどうしようもないのだ。
しかし、世の中は侮蔑する人ばかりではなかった。
小源太の性的、外見的指向を理解してくれる兄のような人もいるし、理解できないまでも放っておいてくれる大叔父のような人もいるし、あきれながらも普段通りに接してくれる長屋の皆のような人達もいる。今は、そういう人人を心の支えに生きていくしかない、と小源太は思うのだった。
家は、雑木林に囲まれた、まさしく隠れ家と言った様相で、これなら飯島達も納得してくれるであろう。
じつに条件にぴったりの物件だったので、これでもう仕事は片付いたようなものだ、と小源太はうきうきするような足どりで長屋まで帰ってきた。
そうして家に入ろうとすると、後ろから、
「あ、栗栖の旦那、またやられてるよ」
と声をかけてきたのは、向かいの長屋に住むおけいであった。
その一言で、小源太はなにが起きたのか、すぐに察した。
振り向くと、おけいは恰幅のいい体の丸い顔を気の毒そうにゆがめて、こちらを見ていた。
「すぐに脱ぎなよ。どうせ洗濯中なんだし、ついでに洗ってあげるよ」
「いや、申し訳ないから」と小源太は断った。
「遠慮しなさんな。さ、はやく脱いでくださいな」
家に入って着物を脱ぐと、背中に、唾を吐かれたあとがあって、まだ乾いていない汚れが、くっきりと残っていた。
江戸に出て来てから、もう三、四度、こんなことがあった。
すれ違いざまに鼻で笑われたこともあったし、女のくせにみっともない、と吐き捨てるように言われたこともあった。そうあからさまでなくとも、相手のちょっとした視線や眉の動きや身ごなしで、毛嫌いされているとわかる時もあった。
――女が、男のように生きようとしているだけで、なぜこのような仕打ちをされねばならないのか。
小源太の腹の底に、もやもやとした重い憤りの塊がわきだしてきた。
こういう嫌がらせに会うと、飯島と志賀が、世間から隠れて暮らしたいと思う気持ちがよくわかるのだ。彼らは、けっして、親族の手から逃れるためだけに隠遁しようとしているわけではなかった。自分たちとは異なる性質を持った人間を、侮蔑し疎外しようとする市井の目から逃れたいと思っているに違いない。
――そんな馬鹿なことはない。
と小源太はつぶやいた。その声が小刻みに震えた。
ちょっと目色毛色が違うだけで、なぜ、差別や侮辱の対象にならねばならぬのか。
――そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。
男どうし愛し合っているだけの飯島と志賀も、女であることに違和感を感じる小源太も、ただそこが違うだけの、皆と同じ市井の人間ではないか。人を傷つけるようなことは何もしていない。いっぱしの大人の顔をして、他人を平然と苛む者だっている、妻を持ち子を作り一人前の人間のに見えて精神年齢の低い者だっている。そんな人間より、同性を愛してしまう者が劣っているなどということは、けっしてない。
「道を歩くときくらい、女のなりをすればいいんですよ」着物を持っていくとおけいが言うのだ。「男すがたは家にいる時だけにすればいいんですよ。それくらいの折り合いをつけなくっちゃ、この先、生きていけませんよ」
そうできたらいい、と小源太は思う。
だが、常人が同性どうしで愛しあうことに嫌悪を感じるように、飯島達は異性を愛することに嫌悪を感じてしまうのだ。小源太だって、嫌悪までは感じないにしろ、男性を好きになった経験がないし、青山道場の沙弥に心をときめかせてしまう。身なりだけは、女物の着物を無理に着て過ごせたとしても、そういう本能的な感情はどうしようもないのだ。
しかし、世の中は侮蔑する人ばかりではなかった。
小源太の性的、外見的指向を理解してくれる兄のような人もいるし、理解できないまでも放っておいてくれる大叔父のような人もいるし、あきれながらも普段通りに接してくれる長屋の皆のような人達もいる。今は、そういう人人を心の支えに生きていくしかない、と小源太は思うのだった。
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