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第四章 男色
四の五
梅雨の、冷たい雨がそぼ降る夜に、脱走計画は実行された。
本所の寮は、飯島も志賀も、目立たぬようにこっそりと見に行って、思っていた通りの家だ、と気に入ってくれた。
日をかけると家族親類に勘づかれてしまう恐れもあったので、出奔決行は寮が見つかってから五日という強行軍のような日程であった。
飯島、志賀、小源太の三人が落ち合う場所を千住にしたのは、あとから追跡された場合に備えて、日光街道を北へ向かったと見せかける足跡を残すためでもあった。だがこれは、のちのち思いかえすと意味があったのかわからない。夜中で雨も降っていて、道行くあやしい人物を見とがめた者がいたかどうか。
小源太は、千住大橋の南側の、町はずれにある神社の杉の大樹の下で、笠をかぶって蓑をつけてふたりを待った。木の根元にうずくまって、じっと待った。冷たい雨のせいで、体から体温がどんどん抜けていくようで、体が小刻みにふるえた。
想定よりも、ふたりの到着が遅い。ひょっとすると、家人に見とがめられたのではなかろうか。そういう不安が小源太の全身を包んでゆく。ただ、ふたりとも、追手の目をくらませる用心のためだけではなく、道道に配された(すでに閉じられた)木戸を避けなければならず、場所によっては大きく迂回しなくてはならないため、時がかかっているのだろうと、小源太は思い巡らし、気を張りなおした。
夜陰のなか、飯島が蓑と笠をつけて東へと通り過ぎていった。提灯も持たず、月の光もなく、小雨の中を、ひたひたと歩いていく。小源太はその通り過ぎた後をじっと見守った。
誰も来ぬ。
飯島は誰にもつけられてはいないようだ。
そして、四半刻ほど経ち、今度は志賀が小源太の前を歩いていく。これも笠に蓑姿で。飯島よりも、志賀のほうが危険度が高く、志賀の謹厳な叔父の目が光っている可能性が高かった。
小源太は志賀が通り過ぎてから、さらに四半刻、杉の木の下でうずくまったままで、追手がいないか、神経をすり減らすようにして暗闇を凝視していた。
息がつまるような重苦しい時が過ぎ、これならまず大丈夫だろうと小源太は腰を浮かせた。
三町(約三百メートル)ばかり隅田川に沿って東へと進む。
道の周りは田畑ばかりで、蛙の鳴き声がかしましく響いていて、耳の奥に刺さるようですらあった。
その中の、道に沿うように点在する百姓家の、その一軒の生垣の脇に、隠れるようにして飯島と志賀がいた。
小源太はふたりに近づくと、誰もあとをつけていないという意味を込めて、大きく首をたてに振った。
それを見て、ふたりはほっと胸をなでおろしたようだ。
三人はうなずきあって、また歩きはじめた。道をはずれて、田畑の間の道を北へと進んだ。すぐに墨田川に出、そこに待たせてあった舟に三人は乗り込んだ。
船頭が舟をだし、水音と雨音が混じりあう川面を、すべるようにして舟は流れていく。
家に着くと、飯島と志賀は感無量といった顔でお互いみつめあった。
そうして、小源太に深深と頭をさげ、大げさなほど丁重に礼を言った。
ふたりを見ていて、小源太は思う。
古来、男色というものはあった。
しかしそれは、本来女性を愛するものが、何らかの要因で年下や部下の男に手を出すものであり、いってみれば成り行き上の行為だったわけである。大名と若衆、僧侶と稚児など。そういう関係を周囲が認知していた場合、陰で笑うことはあっても、それでもある種の理解はあった。
が、飯島と志賀のような、女性に興味を持たず、男どうしで愛し合うというのは、世間から蔑まれる性的指向だった。いわんや、家の存続が生きる目的のひとつであった武家という社会においてをや。
そういう社会通念のなかで、同性しか愛せない人間は、嫌嫌ながら結婚相手と交わるか、世を捨てて人目を忍んで生きていくよりほか、道はなかった。
このふたりは、後者を選んだ。
その行きつく先に、幸せが待ち受けているとはかぎらない。
だが、小源太はふたりの幸せを願わずにはいられなかったのである。
本所の寮は、飯島も志賀も、目立たぬようにこっそりと見に行って、思っていた通りの家だ、と気に入ってくれた。
日をかけると家族親類に勘づかれてしまう恐れもあったので、出奔決行は寮が見つかってから五日という強行軍のような日程であった。
飯島、志賀、小源太の三人が落ち合う場所を千住にしたのは、あとから追跡された場合に備えて、日光街道を北へ向かったと見せかける足跡を残すためでもあった。だがこれは、のちのち思いかえすと意味があったのかわからない。夜中で雨も降っていて、道行くあやしい人物を見とがめた者がいたかどうか。
小源太は、千住大橋の南側の、町はずれにある神社の杉の大樹の下で、笠をかぶって蓑をつけてふたりを待った。木の根元にうずくまって、じっと待った。冷たい雨のせいで、体から体温がどんどん抜けていくようで、体が小刻みにふるえた。
想定よりも、ふたりの到着が遅い。ひょっとすると、家人に見とがめられたのではなかろうか。そういう不安が小源太の全身を包んでゆく。ただ、ふたりとも、追手の目をくらませる用心のためだけではなく、道道に配された(すでに閉じられた)木戸を避けなければならず、場所によっては大きく迂回しなくてはならないため、時がかかっているのだろうと、小源太は思い巡らし、気を張りなおした。
夜陰のなか、飯島が蓑と笠をつけて東へと通り過ぎていった。提灯も持たず、月の光もなく、小雨の中を、ひたひたと歩いていく。小源太はその通り過ぎた後をじっと見守った。
誰も来ぬ。
飯島は誰にもつけられてはいないようだ。
そして、四半刻ほど経ち、今度は志賀が小源太の前を歩いていく。これも笠に蓑姿で。飯島よりも、志賀のほうが危険度が高く、志賀の謹厳な叔父の目が光っている可能性が高かった。
小源太は志賀が通り過ぎてから、さらに四半刻、杉の木の下でうずくまったままで、追手がいないか、神経をすり減らすようにして暗闇を凝視していた。
息がつまるような重苦しい時が過ぎ、これならまず大丈夫だろうと小源太は腰を浮かせた。
三町(約三百メートル)ばかり隅田川に沿って東へと進む。
道の周りは田畑ばかりで、蛙の鳴き声がかしましく響いていて、耳の奥に刺さるようですらあった。
その中の、道に沿うように点在する百姓家の、その一軒の生垣の脇に、隠れるようにして飯島と志賀がいた。
小源太はふたりに近づくと、誰もあとをつけていないという意味を込めて、大きく首をたてに振った。
それを見て、ふたりはほっと胸をなでおろしたようだ。
三人はうなずきあって、また歩きはじめた。道をはずれて、田畑の間の道を北へと進んだ。すぐに墨田川に出、そこに待たせてあった舟に三人は乗り込んだ。
船頭が舟をだし、水音と雨音が混じりあう川面を、すべるようにして舟は流れていく。
家に着くと、飯島と志賀は感無量といった顔でお互いみつめあった。
そうして、小源太に深深と頭をさげ、大げさなほど丁重に礼を言った。
ふたりを見ていて、小源太は思う。
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だが、小源太はふたりの幸せを願わずにはいられなかったのである。
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