37 / 93
第五章 暗い駕籠
五の一
盆も過ぎて幾日か経ち、夏の暑さは町にしがみつくようにまだそこかしこに残っていたが、通りを吹き抜ける風には、どこか寂しさを含んだ秋の匂いのようなものがした。汗も夏の頃のようなねばりつくようなしつこさはなく、さらりと流れ落ちるようであった。
栗栖小源太は、兄を捜しに芝の辺りをうろうろして来たが、あきらめて帰って来た頃はにもう、陽もずいぶん傾いていて、家家のそこかしこから炊きの匂いがただよっていた。
夏が過ぎ去っていこうとする一抹の寂しさを感じながら、けやき長屋の大家がいとなむ荒物屋の前を通りすぎると、もしもしと小源太を呼ぶ声がする。行き過ぎた足を後ろさがりに戻してみれば、大家の久右衛門が店の奥の居間から手招きをしているのが見えた。
はて、今月の店賃はもうとっくに納めたはずだが、と怪訝に思いながら小源太が店に入っていくと、久右衛門の向かいに、見知らぬ武家の女房と見える二十後半くらいの女が座っていた。
女はわずかに口辺をゆがめて微笑んで、静かにお辞儀をした。ちょっとみると、どこにでもいる牢人の年増妻と言ったふうであったが、よくよく見れば(小源太のような女人が好きな女が見ても)、ちょっと心のどこかがそそられるような色気を持っていた。
色が白い丸顔に二重のぱっちりとした目と、緩やかに曲線を描く鼻にふくよかな唇を持っていて、ほどよく肉づいた胸のふくらみ、くびれた腰、丸みを帯びた尻までの柔らかそうな線。だが、それらの上から生活に疲れた雰囲気がまとわりついて、とばりのようにおおっていて、美しさをくすませている。
「こちらは、湯島にお住まいの、佐山様の奥方で栄枝様とおっしゃいます」
と久右衛門が禿頭をなでながら、ばかに丁寧に紹介をした。がらがら声もなるべくおだやかに聞こえるようにとりつくろっている。
ははあ、この爺さん何かけしからん気があるな、と察しながら、小源太も名乗って座った。
「わたくし」と栄枝が話し始めた。「湯島の和助店に、夫と息子の三人で暮らしております」
人の心をおちつかせるような抑揚の喋りかたである。
そうして、ちょっとの間よもやま話をした。小源太は容姿に見とれ声調にうっとりしながら栄枝の話を、生返事をしながら聞いていた。久右衛門は、はあそうですなあ、いやいやまったく、それはすばらしいなどと、心にも無い合いの手をいちいち入れるのだった。
「とまあそういうしだいでございまして、夫の三郎四郎はなかなか仕官のつてが掴めずにおりました。やがて牢人仲間もできまして、その人達に誘われて、いつしか張孔堂様にお世話になるようになりまして」
「はあ、張孔堂?」
「おや、ご存じない、いけませんなあ栗栖様、それほど世情に疎くては」
大家は、胸を張って、知識をひけらかすように話しはじめた。美人の前で良い所を見せたいようだ。
いわく、張孔堂とは、由井民部之助正雪《ゆい みんぶのすけ しょうせつ》という男が開いている軍学塾で、 古のもろこし(中国)の名宰相として知られる、張良の張と諸葛孔明の孔をとって張孔堂と名付けられた、のだそうな。
由井正雪の名は、小源太でも聞いたことがあった。青山道場の門人達が稽古そっちのけで雑談をしていたなかに出てきたのが耳に入ったのだ。
著名な軍学者で、大名や大身旗本にも講義をするほど武家の間で人気がある。牛込榎町に塾があって、門人が三千人はくだらず、旗本、御家人、牢人、あらゆる身分階層の者が集まり、もはやひとつの藩のようだ、と久右衛門が語った。
栄枝が続けた。
「張孔堂様に家から通っているうちはよかったのですが、しばらくすると帰ってくるのが、一日おき二日おきとなっていき、今ではもう夫は、ほとんど家に帰って来ません」
「ご新造《しんぞ》、帰って来た時のご主人の様子はいかがですか?」
と小源太が訊いたのは、後の世で言う洗脳のようなことを何かされて、性格や思想を強制的に変えられてしまっているのではないか、と考察したからであった。話を訊くに、張孔堂という軍学塾にはそういう、うさん臭さのようなものがまとわりついていて、鼻孔をひりひりとくすぐるのだ。
「それが、以前よりも性格が明るくなって、気持ちも前向きになって、きっと身が立つようになる、いつかなる、そうしたらお前にも楽をさせてやれる、などと私を励ますようなことも言うのです」
ううむ、と小源太はうなった。予想とは違っていた。夫が前よりも陰気になって、何か悪霊に憑りつかれたようにでもなっているのではないか、と想像していたのである。
だが、栄枝も小源太と同じような見方をしていた。
「そのはしゃぎようが、いささか奇妙に思えるのです。夫が明るく振舞えば振舞うほど、私の心は不安になっていくのです」
陽気になっていくのがかえっておかしい、ということだ。
「で、私はいかがいたしましょう」小源太が問うと、
「それくらい、ご自分でお考えくだされ」久右衛門が余計なひと言を返した。
「お手数をおかけしますが、張孔堂様に行っていただき、夫の様子を見てきていただきたいのです。できうるならば、連れ戻してくださいませ」栄枝が答えた。
小源太はうなずいたが、内心ではこれは難しい、と感じていた。三郎四郎が由井正雪の思想にか人柄にか傾倒してしまっているのであれば、岩にしがみついてでも張孔堂を離れようとしないのではないだろうか、そんな気がするのだった。
栗栖小源太は、兄を捜しに芝の辺りをうろうろして来たが、あきらめて帰って来た頃はにもう、陽もずいぶん傾いていて、家家のそこかしこから炊きの匂いがただよっていた。
夏が過ぎ去っていこうとする一抹の寂しさを感じながら、けやき長屋の大家がいとなむ荒物屋の前を通りすぎると、もしもしと小源太を呼ぶ声がする。行き過ぎた足を後ろさがりに戻してみれば、大家の久右衛門が店の奥の居間から手招きをしているのが見えた。
はて、今月の店賃はもうとっくに納めたはずだが、と怪訝に思いながら小源太が店に入っていくと、久右衛門の向かいに、見知らぬ武家の女房と見える二十後半くらいの女が座っていた。
女はわずかに口辺をゆがめて微笑んで、静かにお辞儀をした。ちょっとみると、どこにでもいる牢人の年増妻と言ったふうであったが、よくよく見れば(小源太のような女人が好きな女が見ても)、ちょっと心のどこかがそそられるような色気を持っていた。
色が白い丸顔に二重のぱっちりとした目と、緩やかに曲線を描く鼻にふくよかな唇を持っていて、ほどよく肉づいた胸のふくらみ、くびれた腰、丸みを帯びた尻までの柔らかそうな線。だが、それらの上から生活に疲れた雰囲気がまとわりついて、とばりのようにおおっていて、美しさをくすませている。
「こちらは、湯島にお住まいの、佐山様の奥方で栄枝様とおっしゃいます」
と久右衛門が禿頭をなでながら、ばかに丁寧に紹介をした。がらがら声もなるべくおだやかに聞こえるようにとりつくろっている。
ははあ、この爺さん何かけしからん気があるな、と察しながら、小源太も名乗って座った。
「わたくし」と栄枝が話し始めた。「湯島の和助店に、夫と息子の三人で暮らしております」
人の心をおちつかせるような抑揚の喋りかたである。
そうして、ちょっとの間よもやま話をした。小源太は容姿に見とれ声調にうっとりしながら栄枝の話を、生返事をしながら聞いていた。久右衛門は、はあそうですなあ、いやいやまったく、それはすばらしいなどと、心にも無い合いの手をいちいち入れるのだった。
「とまあそういうしだいでございまして、夫の三郎四郎はなかなか仕官のつてが掴めずにおりました。やがて牢人仲間もできまして、その人達に誘われて、いつしか張孔堂様にお世話になるようになりまして」
「はあ、張孔堂?」
「おや、ご存じない、いけませんなあ栗栖様、それほど世情に疎くては」
大家は、胸を張って、知識をひけらかすように話しはじめた。美人の前で良い所を見せたいようだ。
いわく、張孔堂とは、由井民部之助正雪《ゆい みんぶのすけ しょうせつ》という男が開いている軍学塾で、 古のもろこし(中国)の名宰相として知られる、張良の張と諸葛孔明の孔をとって張孔堂と名付けられた、のだそうな。
由井正雪の名は、小源太でも聞いたことがあった。青山道場の門人達が稽古そっちのけで雑談をしていたなかに出てきたのが耳に入ったのだ。
著名な軍学者で、大名や大身旗本にも講義をするほど武家の間で人気がある。牛込榎町に塾があって、門人が三千人はくだらず、旗本、御家人、牢人、あらゆる身分階層の者が集まり、もはやひとつの藩のようだ、と久右衛門が語った。
栄枝が続けた。
「張孔堂様に家から通っているうちはよかったのですが、しばらくすると帰ってくるのが、一日おき二日おきとなっていき、今ではもう夫は、ほとんど家に帰って来ません」
「ご新造《しんぞ》、帰って来た時のご主人の様子はいかがですか?」
と小源太が訊いたのは、後の世で言う洗脳のようなことを何かされて、性格や思想を強制的に変えられてしまっているのではないか、と考察したからであった。話を訊くに、張孔堂という軍学塾にはそういう、うさん臭さのようなものがまとわりついていて、鼻孔をひりひりとくすぐるのだ。
「それが、以前よりも性格が明るくなって、気持ちも前向きになって、きっと身が立つようになる、いつかなる、そうしたらお前にも楽をさせてやれる、などと私を励ますようなことも言うのです」
ううむ、と小源太はうなった。予想とは違っていた。夫が前よりも陰気になって、何か悪霊に憑りつかれたようにでもなっているのではないか、と想像していたのである。
だが、栄枝も小源太と同じような見方をしていた。
「そのはしゃぎようが、いささか奇妙に思えるのです。夫が明るく振舞えば振舞うほど、私の心は不安になっていくのです」
陽気になっていくのがかえっておかしい、ということだ。
「で、私はいかがいたしましょう」小源太が問うと、
「それくらい、ご自分でお考えくだされ」久右衛門が余計なひと言を返した。
「お手数をおかけしますが、張孔堂様に行っていただき、夫の様子を見てきていただきたいのです。できうるならば、連れ戻してくださいませ」栄枝が答えた。
小源太はうなずいたが、内心ではこれは難しい、と感じていた。三郎四郎が由井正雪の思想にか人柄にか傾倒してしまっているのであれば、岩にしがみついてでも張孔堂を離れようとしないのではないだろうか、そんな気がするのだった。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。