日日晴朗 ―異性装娘お助け日記―

優木悠

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第五章 暗い駕籠

五の一

 盆も過ぎて幾日か経ち、夏の暑さは町にしがみつくようにまだそこかしこに残っていたが、通りを吹き抜ける風には、どこか寂しさを含んだ秋の匂いのようなものがした。汗も夏の頃のようなねばりつくようなしつこさはなく、さらりと流れ落ちるようであった。

 栗栖小源太くりす こげんたは、兄を捜しに芝の辺りをうろうろして来たが、あきらめて帰って来た頃はにもう、陽もずいぶん傾いていて、家家のそこかしこからかしきの匂いがただよっていた。

 夏が過ぎ去っていこうとする一抹の寂しさを感じながら、けやき長屋の大家がいとなむ荒物屋の前を通りすぎると、もしもしと小源太を呼ぶ声がする。行き過ぎた足を後ろさがりに戻してみれば、大家の久右衛門きゅうえもんが店の奥の居間から手招きをしているのが見えた。

 はて、今月の店賃たなちんはもうとっくに納めたはずだが、と怪訝けげんに思いながら小源太が店に入っていくと、久右衛門の向かいに、見知らぬ武家の女房と見える二十後半くらいの女が座っていた。
 女はわずかに口辺をゆがめて微笑んで、静かにお辞儀をした。ちょっとみると、どこにでもいる牢人の年増妻と言ったふうであったが、よくよく見れば(小源太のような女人が好きな女が見ても)、ちょっと心のどこかがそそられるような色気を持っていた。
 色が白い丸顔に二重のぱっちりとした目と、緩やかに曲線を描く鼻にふくよかな唇を持っていて、ほどよく肉づいた胸のふくらみ、くびれた腰、丸みを帯びた尻までの柔らかそうな線。だが、それらの上から生活に疲れた雰囲気がまとわりついて、とばりのようにおおっていて、美しさをくすませている。

「こちらは、湯島にお住まいの、佐山さやま様の奥方で栄枝さかえ様とおっしゃいます」
 と久右衛門が禿頭をなでながら、ばかに丁寧に紹介をした。がらがら声もなるべくおだやかに聞こえるようにとりつくろっている。
 ははあ、この爺さん何かけしからん気があるな、と察しながら、小源太も名乗って座った。

「わたくし」と栄枝が話し始めた。「湯島の和助店わすけだなに、夫と息子の三人で暮らしております」
 人の心をおちつかせるような抑揚の喋りかたである。
 そうして、ちょっとの間よもやま話をした。小源太は容姿に見とれ声調にうっとりしながら栄枝の話を、生返事をしながら聞いていた。久右衛門は、はあそうですなあ、いやいやまったく、それはすばらしいなどと、心にも無い合いの手をいちいち入れるのだった。

「とまあそういうしだいでございまして、夫の三郎四郎さぶろうしろうはなかなか仕官のつてが掴めずにおりました。やがて牢人仲間もできまして、その人達に誘われて、いつしか張孔堂ちょうこうどう様にお世話になるようになりまして」
「はあ、張孔堂?」
「おや、ご存じない、いけませんなあ栗栖様、それほど世情に疎くては」
 大家は、胸を張って、知識をひけらかすように話しはじめた。美人の前で良い所を見せたいようだ。

 いわく、張孔堂とは、由井民部之助正雪《ゆい みんぶのすけ しょうせつ》という男が開いている軍学塾で、 いにしえもろこし・・・・(中国)の名宰相として知られる、張良の張と諸葛孔明の孔をとって張孔堂と名付けられた、のだそうな。

 由井正雪の名は、小源太でも聞いたことがあった。青山道場の門人達が稽古そっちのけで雑談をしていたなかに出てきたのが耳に入ったのだ。
 著名な軍学者で、大名や大身旗本にも講義をするほど武家の間で人気にんきがある。牛込榎町に塾があって、門人が三千人はくだらず、旗本、御家人、牢人、あらゆる身分階層の者が集まり、もはやひとつの藩のようだ、と久右衛門が語った。

 栄枝が続けた。
「張孔堂様に家から通っているうちはよかったのですが、しばらくすると帰ってくるのが、一日おき二日おきとなっていき、今ではもう夫は、ほとんど家に帰って来ません」
「ご新造《しんぞ》、帰って来た時のご主人の様子はいかがですか?」
 と小源太が訊いたのは、後の世で言う洗脳のようなことを何かされて、性格や思想を強制的に変えられてしまっているのではないか、と考察したからであった。話を訊くに、張孔堂という軍学塾にはそういう、うさん臭さのようなものがまとわりついていて、鼻孔をひりひりとくすぐるのだ。

「それが、以前よりも性格が明るくなって、気持ちも前向きになって、きっと身が立つようになる、いつかなる、そうしたらお前にも楽をさせてやれる、などと私を励ますようなことも言うのです」

 ううむ、と小源太はうなった。予想とは違っていた。夫が前よりも陰気になって、何か悪霊に憑りつかれたようにでもなっているのではないか、と想像していたのである。

 だが、栄枝も小源太と同じような見方をしていた。
「そのはしゃぎようが、いささか奇妙に思えるのです。夫が明るく振舞えば振舞うほど、私の心は不安になっていくのです」
 陽気になっていくのがかえっておかしい、ということだ。

「で、私はいかがいたしましょう」小源太が問うと、
「それくらい、ご自分でお考えくだされ」久右衛門が余計なひと言を返した。
「お手数をおかけしますが、張孔堂様に行っていただき、夫の様子を見てきていただきたいのです。できうるならば、連れ戻してくださいませ」栄枝が答えた。
 小源太はうなずいたが、内心ではこれは難しい、と感じていた。三郎四郎が由井正雪の思想にか人柄にか傾倒してしまっているのであれば、岩にしがみついてでも張孔堂を離れようとしないのではないだろうか、そんな気がするのだった。
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