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第五章 暗い駕籠
五の五
「どうしてまだお家に帰っていないのですか?」
張孔堂内の長屋に小源太は飛び込むと、佐山に向かって床を叩きながら言った。
「ご新造がさきほど不安げにうちにいらっしゃって、なげいておられました」
佐山は箪笥を組んでいた手をとめ、
「いや、そのう、なんだ、この箪笥が完成したら手土産に持って帰ろうかな、などと考えていてのう」
はははと乾いた声で笑って、おがくずだらけの手で頭を掻きながら答えるのだった。
「でしたら、そういう理由を、いったん家に帰ってご新造に伝えてあげてください」
「う、ううむ」佐山は喉の奥でうなった。
小源太にはわからない。家にちょっと帰って妻とひとことふたこと話せば終わる簡単なことなのに、佐山はどうしてここまで逡巡せねばならないのか。
――まさか。
とは思うのだ。まさか、こんな真面目で誠実そうな男が、浮気などしているのではなかろうか。
佐山は天井を見上げ、今度は脇を手で掻いて、尻を掻いた。
「わしはのう、実は、侍を辞めることを妻に話しておらんのだ。話した時の妻の形相を思い描くと……」
「形相……?」
「それに、これだけ家をあけてから帰ったら、妻がどれほど激怒するか、わかったものじゃない。最初は五日くらい、十日くらい、なんて思っていたが、妻の反応を考えると、恐怖で腰があがらなくなり、さらに一日ふつかと伸びていって、ついには帰るに帰れない心境になってしまったのだ」
「あのう、さきほどから何をおっしゃっているのです、佐山さん。あの優しいご新造がまるで鬼に変化でもするような」
「するんだよ」
「まさか」
「貴公、まだ若いから知らんだろうが、裏と表が黒と白くらいはっきり違う人間なんて、世間にはいくらでもいるんだから」
佐山が膝をぴしりと叩いた。ぱっと木屑が宙を舞った。
「あそうだ。ひとつ思いついたぞ。貴公、いっしょに家まで付いてきてくれないか。あの世間体の塊のような女だ、他人の貴公の前なら包丁を振り回すようなこともあるまい」
「ほ、包丁?」
「あったんだよ、二、三度」
聞いているうちに、小源太もなんだか腰が引けてくるような気分であったが、
「ま、まあ、乗りかかった舟、と言いますか、乗ってしまった舟ですから、流れ着くところまでお付き合いいたしますよ」
「おお、そうか、ありがたい。じゃあ、明後日でも」
「いけません。今すぐ帰りましょう」
ここは押し切らねばならぬ、と小源太は思った。先延ばしにすると、この男はさらに理由をつけて帰らなくなってしまうような気がする。
「え、今からかの?」
「そうです、はやくお支度をなさってください」
「う、ううむ」
そうして、支度をしながら佐山は語るのだった。
「わしはのう、芯から侍という身分は似合わんのだ。剣のほうもまったくでのう、先日の駕籠の護衛の時も、刺客が襲ってきたらどうしようと気が気ではなかった」
藩を追放されたのは、役目で失態があったからだそうだが、そうなってみて、じつは心の中でほっとしたと佐山は言うのだ。
「やっと人間らしい暮らしができるようになったと言うかのう。藩を追われて数年、暮らし向きは食っていくのがやっとではあるが、人としてはどこか充足しているような、そんな心持ちの数年間であった。張孔堂に誘われ、指物師の仕事を教えてくれると知った時、わしは心底喜悦した。やっと心の奥底から寄る辺にできるような仕事に巡り合えた」
そう言えば、と小源太は思い当たった。佐山の妻栄枝は、夫が帰ってくるたびに生き生きとした様子であったと語っていた。
佐山は両刀を重そうに腰に差しながら、
「そんなわけだから、駕籠の護衛の時に襲われても、わしはいないものと思ってくれ。貴公に、ぜんぶ、まかせるからな」
そんなことを付け足すのだった。
湯島の佐山夫婦が住む家は、小源太の住むけやき長屋とどっこいどっこいの、古くて壁板や屋根があちこち痛んだおんぼろ長屋であった。
佐山は、部屋の隅で土下座をしそうなくらい腰をおりまげて、彼の心情と思い描く方途を語った。
聞いて栄枝が怒らないのは、たいして怒ってはいないのか、小源太が佐山の横に付き添っているからだろうか。
「そんなこと、もっとはやくに話してくださればよかったですのに」栄枝はため息まじりに言うのだった。
「いやそれが、箪笥を作り始めたらやめられなくなってしまっての」
「そんなことを言っているのではありません」
ぴしゃりとした栄枝の声の調子に、佐山はびくりと背筋を震わせた。
「侍を辞めたいなら辞めたいで、どうしてもっとはやく私に相談してくださらなかったのですか」
「いや、お前は武家でいたいのであろうと推量してのう」
「勝手な当て推量ですわ。私、武家の身分でいたくてあなたと暮らしているわけではありません。はしたない言いようですが、あなたが好きだから暮らしているのです。あなたが武家を捨てて職人になりたいのなら、私はついて行きますわ」
聞いて佐山は、あんぐりと口を開け、心が抜けてしまったようだ。
「すまないな」しばらくして、ぽつりと佐山が言った。
「あやまらないでください」
栄枝は佐山の前に寄って、手を握りしめた。
小源太は、ここにいてはふたりの邪魔になるような気がして、そっと長屋を後にしたのだった。
張孔堂内の長屋に小源太は飛び込むと、佐山に向かって床を叩きながら言った。
「ご新造がさきほど不安げにうちにいらっしゃって、なげいておられました」
佐山は箪笥を組んでいた手をとめ、
「いや、そのう、なんだ、この箪笥が完成したら手土産に持って帰ろうかな、などと考えていてのう」
はははと乾いた声で笑って、おがくずだらけの手で頭を掻きながら答えるのだった。
「でしたら、そういう理由を、いったん家に帰ってご新造に伝えてあげてください」
「う、ううむ」佐山は喉の奥でうなった。
小源太にはわからない。家にちょっと帰って妻とひとことふたこと話せば終わる簡単なことなのに、佐山はどうしてここまで逡巡せねばならないのか。
――まさか。
とは思うのだ。まさか、こんな真面目で誠実そうな男が、浮気などしているのではなかろうか。
佐山は天井を見上げ、今度は脇を手で掻いて、尻を掻いた。
「わしはのう、実は、侍を辞めることを妻に話しておらんのだ。話した時の妻の形相を思い描くと……」
「形相……?」
「それに、これだけ家をあけてから帰ったら、妻がどれほど激怒するか、わかったものじゃない。最初は五日くらい、十日くらい、なんて思っていたが、妻の反応を考えると、恐怖で腰があがらなくなり、さらに一日ふつかと伸びていって、ついには帰るに帰れない心境になってしまったのだ」
「あのう、さきほどから何をおっしゃっているのです、佐山さん。あの優しいご新造がまるで鬼に変化でもするような」
「するんだよ」
「まさか」
「貴公、まだ若いから知らんだろうが、裏と表が黒と白くらいはっきり違う人間なんて、世間にはいくらでもいるんだから」
佐山が膝をぴしりと叩いた。ぱっと木屑が宙を舞った。
「あそうだ。ひとつ思いついたぞ。貴公、いっしょに家まで付いてきてくれないか。あの世間体の塊のような女だ、他人の貴公の前なら包丁を振り回すようなこともあるまい」
「ほ、包丁?」
「あったんだよ、二、三度」
聞いているうちに、小源太もなんだか腰が引けてくるような気分であったが、
「ま、まあ、乗りかかった舟、と言いますか、乗ってしまった舟ですから、流れ着くところまでお付き合いいたしますよ」
「おお、そうか、ありがたい。じゃあ、明後日でも」
「いけません。今すぐ帰りましょう」
ここは押し切らねばならぬ、と小源太は思った。先延ばしにすると、この男はさらに理由をつけて帰らなくなってしまうような気がする。
「え、今からかの?」
「そうです、はやくお支度をなさってください」
「う、ううむ」
そうして、支度をしながら佐山は語るのだった。
「わしはのう、芯から侍という身分は似合わんのだ。剣のほうもまったくでのう、先日の駕籠の護衛の時も、刺客が襲ってきたらどうしようと気が気ではなかった」
藩を追放されたのは、役目で失態があったからだそうだが、そうなってみて、じつは心の中でほっとしたと佐山は言うのだ。
「やっと人間らしい暮らしができるようになったと言うかのう。藩を追われて数年、暮らし向きは食っていくのがやっとではあるが、人としてはどこか充足しているような、そんな心持ちの数年間であった。張孔堂に誘われ、指物師の仕事を教えてくれると知った時、わしは心底喜悦した。やっと心の奥底から寄る辺にできるような仕事に巡り合えた」
そう言えば、と小源太は思い当たった。佐山の妻栄枝は、夫が帰ってくるたびに生き生きとした様子であったと語っていた。
佐山は両刀を重そうに腰に差しながら、
「そんなわけだから、駕籠の護衛の時に襲われても、わしはいないものと思ってくれ。貴公に、ぜんぶ、まかせるからな」
そんなことを付け足すのだった。
湯島の佐山夫婦が住む家は、小源太の住むけやき長屋とどっこいどっこいの、古くて壁板や屋根があちこち痛んだおんぼろ長屋であった。
佐山は、部屋の隅で土下座をしそうなくらい腰をおりまげて、彼の心情と思い描く方途を語った。
聞いて栄枝が怒らないのは、たいして怒ってはいないのか、小源太が佐山の横に付き添っているからだろうか。
「そんなこと、もっとはやくに話してくださればよかったですのに」栄枝はため息まじりに言うのだった。
「いやそれが、箪笥を作り始めたらやめられなくなってしまっての」
「そんなことを言っているのではありません」
ぴしゃりとした栄枝の声の調子に、佐山はびくりと背筋を震わせた。
「侍を辞めたいなら辞めたいで、どうしてもっとはやく私に相談してくださらなかったのですか」
「いや、お前は武家でいたいのであろうと推量してのう」
「勝手な当て推量ですわ。私、武家の身分でいたくてあなたと暮らしているわけではありません。はしたない言いようですが、あなたが好きだから暮らしているのです。あなたが武家を捨てて職人になりたいのなら、私はついて行きますわ」
聞いて佐山は、あんぐりと口を開け、心が抜けてしまったようだ。
「すまないな」しばらくして、ぽつりと佐山が言った。
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栄枝は佐山の前に寄って、手を握りしめた。
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