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第六章 道場破り
六の一
もう秋もなかばだというのに、大家の久右衛門は額に汗を浮かべている。
栗栖小源太の長屋にあがりこんだ久右衛門は、小源太の話に耳をかたむけながら、時に眉間に皺をよせ、時にあきれて天井を見上げ、時に溜め息とともに虚空に目を泳がせた。
「まったく、あきれるやら情けないやら、あなたのやることは一から十まで気が気でないと申しましょうか、頭痛の種と申しましょうか、とにかく、開いた口がふさがりません」
あきれてと言うより、文句を言い続けるから開いた口がふさがらないと表現するのが正しいだろう、久右衛門は狸のような顔を引きつらせてさらに続けた。
「なんですか、せっかく稼いだ十両という大金を、半分は長屋の連中や道場の門人達と宴会を開いて使ってしまったあげく、残りの五両を、見ず知らずの女にくれてやるとは、聞いてあきれますな。使う前に四百文ばかりの店賃を納めるでもなく、私を宴会に呼んで日頃世話をしているのを慰労するでもなく、たった半月ですっかり使い切るなど、何をお考えになっておいでなのやら。十両というお金がどれほど大切なものか、ひとりで生活をはじめて十月も経てば、おひろ坊ですらわかりそうなものですよ。大枚十両といえば、あなたひとり、店賃を納めても一年は悠悠と暮らしていける金額ですよ。切り詰めれば二年だって食っていけるでしょう。それを、たった半月で、店賃を納めるでもなく、私に一文もくれるでもなく、宴会に呼んでくれるでもなく」
小源太はただうなだれ、支離滅裂になってきた大家の小言を聞き続けるより他なかった。
「その、五両くれてやった女の名と住まいは、ちゃんと訊いてきたのでしょうな」
「いや、それが訊きそびれて」
「な、なんですと!?」
「まあ、まってくれ、ちゃんと私の名前と居所は伝えておいたから」
「お人よしと申しましょうか、生真面目と申しましょうか、それで、本当に返しに来てくれるとお思いですか」
「きっと、いや必ず返しに来てくれる」
「返しに来てくれた時には、店立てをくって放浪していなければよろしいですな」
「そう申すな。しかたないではないか。預かった店の金子を五両、どこかに落としてしまい、店の主に申し訳ないからもう身を投げるしかないと、大川端で実際身投げしかけていたんだから」
「そんなもの、嘘に決まってます。芝居ですよ。なんでそんなもの信用なさるかな。人を見たら泥棒とお思いなさい」
「あ、それはよくないぞ。人を見て泥棒と思うのは、心がいやしい証拠だぞ」
「おだまらっしゃい。まったく、ああ言えばこう言う。少しは反省してくださいませ」
「しておるではないか」
ふくれっ面で小源太が久右衛門を睨んだところへ、入り口の戸ががたがたと音をたてて開いた。
「栗栖先生はいらっしゃいますでしょうか」
と顔をのぞかせたのは、谷中にある青山道場の門人で、太物問屋の吉次であった。
これはよいところに助け船を漕いできてくれたぞ、と小源太は体をかたむけて久右衛門の向こうの吉次を見た。
「おや吉次じゃあないか。どうしたんだい、今日は昼から道場に顔を出すつもりなんだがね」小源太の顔は思わずほころんだ。
「それが、先生、お客さんがいらしてまして」
「出直してもらえばいいのに」
「先生がいらっしゃるまで待つおつもりのようですよ。ですから青山先生が、はやく栗栖先生を呼んでくるようにと」
「客、誰だろう?」
「なんでも、浅草の質屋で児島屋さんとか」
「児島屋……」
辰平ではないか、と小源太はいぶかしむ思いであった。
もと栗栖家の下僕で、小源太と兄の冬至郎を人買いに売って、その金を元手にして質屋を営んでいる男である。その辰平が、どの面さげて、いまさら何の用で小源太を訪ねてきたのか。それも青山道場で小源太が師範代を勤めていることをどうして知っていたのだろうか。
疑念の霧が身を覆うようであったが、久右衛門の小言を聞き続けるよりはましだろう。
「わかった、すぐに行くよ」
と小源太は立ち上がった。
「待ってください」久右衛門が手を伸ばしてとどめようとする。「まだ話は終わっておりませんよ」
「いやあ、客人を待たせるのは礼儀に反するというものだ。では、話は後日聞くからな」
まだぶつぶつと何か言っている久右衛門を置き去りに、小源太は飛ぶように家を出たのであった。
栗栖小源太の長屋にあがりこんだ久右衛門は、小源太の話に耳をかたむけながら、時に眉間に皺をよせ、時にあきれて天井を見上げ、時に溜め息とともに虚空に目を泳がせた。
「まったく、あきれるやら情けないやら、あなたのやることは一から十まで気が気でないと申しましょうか、頭痛の種と申しましょうか、とにかく、開いた口がふさがりません」
あきれてと言うより、文句を言い続けるから開いた口がふさがらないと表現するのが正しいだろう、久右衛門は狸のような顔を引きつらせてさらに続けた。
「なんですか、せっかく稼いだ十両という大金を、半分は長屋の連中や道場の門人達と宴会を開いて使ってしまったあげく、残りの五両を、見ず知らずの女にくれてやるとは、聞いてあきれますな。使う前に四百文ばかりの店賃を納めるでもなく、私を宴会に呼んで日頃世話をしているのを慰労するでもなく、たった半月ですっかり使い切るなど、何をお考えになっておいでなのやら。十両というお金がどれほど大切なものか、ひとりで生活をはじめて十月も経てば、おひろ坊ですらわかりそうなものですよ。大枚十両といえば、あなたひとり、店賃を納めても一年は悠悠と暮らしていける金額ですよ。切り詰めれば二年だって食っていけるでしょう。それを、たった半月で、店賃を納めるでもなく、私に一文もくれるでもなく、宴会に呼んでくれるでもなく」
小源太はただうなだれ、支離滅裂になってきた大家の小言を聞き続けるより他なかった。
「その、五両くれてやった女の名と住まいは、ちゃんと訊いてきたのでしょうな」
「いや、それが訊きそびれて」
「な、なんですと!?」
「まあ、まってくれ、ちゃんと私の名前と居所は伝えておいたから」
「お人よしと申しましょうか、生真面目と申しましょうか、それで、本当に返しに来てくれるとお思いですか」
「きっと、いや必ず返しに来てくれる」
「返しに来てくれた時には、店立てをくって放浪していなければよろしいですな」
「そう申すな。しかたないではないか。預かった店の金子を五両、どこかに落としてしまい、店の主に申し訳ないからもう身を投げるしかないと、大川端で実際身投げしかけていたんだから」
「そんなもの、嘘に決まってます。芝居ですよ。なんでそんなもの信用なさるかな。人を見たら泥棒とお思いなさい」
「あ、それはよくないぞ。人を見て泥棒と思うのは、心がいやしい証拠だぞ」
「おだまらっしゃい。まったく、ああ言えばこう言う。少しは反省してくださいませ」
「しておるではないか」
ふくれっ面で小源太が久右衛門を睨んだところへ、入り口の戸ががたがたと音をたてて開いた。
「栗栖先生はいらっしゃいますでしょうか」
と顔をのぞかせたのは、谷中にある青山道場の門人で、太物問屋の吉次であった。
これはよいところに助け船を漕いできてくれたぞ、と小源太は体をかたむけて久右衛門の向こうの吉次を見た。
「おや吉次じゃあないか。どうしたんだい、今日は昼から道場に顔を出すつもりなんだがね」小源太の顔は思わずほころんだ。
「それが、先生、お客さんがいらしてまして」
「出直してもらえばいいのに」
「先生がいらっしゃるまで待つおつもりのようですよ。ですから青山先生が、はやく栗栖先生を呼んでくるようにと」
「客、誰だろう?」
「なんでも、浅草の質屋で児島屋さんとか」
「児島屋……」
辰平ではないか、と小源太はいぶかしむ思いであった。
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疑念の霧が身を覆うようであったが、久右衛門の小言を聞き続けるよりはましだろう。
「わかった、すぐに行くよ」
と小源太は立ち上がった。
「待ってください」久右衛門が手を伸ばしてとどめようとする。「まだ話は終わっておりませんよ」
「いやあ、客人を待たせるのは礼儀に反するというものだ。では、話は後日聞くからな」
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