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第六章 道場破り
六の二
谷中の青山道場の母屋の、辰平が待っている客間へと小源太が入ると、辰平は床に額をこすりつけるほど腰を折り曲げて、深くお辞儀をした。道場主の青山清左衛門が隣にいるのは、話相手にでもなってくれていたのだろう。
小源太が座るのと入れ替わりに、清左衛門が立ちあがろうとするのを、小源太がとどめた。怨恨のまだ晴れきっていない辰平とふたりきりになるのが、ちょっと気まずい気がしたし、ちょっと恐ろしくもあった。何かの拍子に怒りが爆発して、いつかのようにまた、辰平に襲いかかるのではないかという、恐ろしさであった。
清左衛門の義理の娘の沙弥が持ってきてくれた茶をすすって、気持ちを落ち着けているところへ、辰平が恐る恐るという具合に口をひらいた。申し訳なさそうな声音である。
「いまさら、よくも臆面もなく顔を見せられたものだとお思いでしょう。しかし、私も店を守らなくてはならない立場ですし、なにより、家族や店の者達の身を案じれば、恥をかなぐり捨ててでも、お嬢様におすがりするより他なく、こうしてまかりこしましたしだいです」
「お嬢様はやめてくれ」小源太は自分でも冷たく聞こえるほど、冷淡に言った。「今の私は、栗栖小源太という名がある」
「こ、これは申し訳ございません、栗栖様」
辰平は懐紙を出して汗をぬぐった。
小源太は、冷や汗にまみれている辰平をじっと見つめた。以前再会した時は、怒りでほとんど目がくらんでいたといってもよく、辰平の容姿を後になってもはっきりとは思い出せなかったが、あらためて、こうして眺めてみれば、ずいぶん歳をとったな、という印象であった。
辰平と別れて、十三年も経っているし、別れた当時の小源太はまだ五つであったから、辰平の思い出の姿は靄がかかったようにぼやけているが、そのあやふやな心象とくらべても、辰平はずいぶん皺が増えている、という気がした。
辰平の顔色がくすんで見えるのは、負い目のある相手を前にして血の気が引いているからだろうが、金に苦労していないのは、その丸みを帯びた頬とぷっくりと突き出た腹を見れば想像がつく。もう五十は過ぎているだろう、髪には白い物が目立つ。細めの目で上目づかいに、盗み見るように小源太の顔色をうかがっているのは、商人としてのぬかりなさのようなものだろうか。小源太の目の前にいるのは、かつて栗栖家で雑用に追い使われていた下男ではすでになく、今はもう芯まで商人として生きている男であった。
「しかし、どうして私がこの青山道場で教えていると知っていた」
「はあ、商売柄、というほどのことでもございませんが、店をきりもりしていると自然と世間の噂話というものには耳ざとくなるものでございます。先日、谷中の青山道場に男の身なりをした女人が師範代を務めている、という話を耳に挟みました。これは栗栖様に違いないと確信しておりました。それで、剣呑な事態に見舞われましたので、思いきって、こうしてやってきたしだいです」
「剣呑な事態?」
「実は、質屋などを営んでおりますと、中にはたちの悪い客もおるものでございます。つい先日、都合した金額と同額で質草を返せと押しかけてくる牢人者がいました。そんなことを認めては、私どもの商売はなりたちません。お断りすると、人情がないの、阿漕だなどと怒鳴り、暴れるしまつです。それも、ひとりやふたりではありません、ほとんど同じ時期に、六人もの牢人がいれかわりたちかわりやって来ては、同じように脅すのです。これはもう、私どもに対する嫌がらせに他なりません」
「用心棒をしろと言うのか」
「ぜひとも、お願いいたします」
「私にお前を助けなきゃいけない義理があるのか?」
武家と商家という身分の差があるとはいえ、小源太のぞんざいな言いかたに、横で聞いていた青山ははじかれたようにこちらを見た。面食らったという顔だった。青山の印象を悪くしたことに、小源太はしまったと思わぬでもなかったが、後で辰平との関係を包み隠さず青山に話す気でいた。それを聞けば、青山も小源太の冷ややかな態度を納得してくれるだろう。
「口入屋で雇ってみたところで信用できる人が来てくれるとは限りません。実際、以前紹介された牢人は、店の金を持って逐電いたしました。その点お嬢様は人の金に手をつけるような不埒を働くわけもございません。もしどうしても嫌だとおっしゃるなら、どなたか別のかたをご紹介ください。お嬢様のお知り合いでしたら、信用できる人に違いないでしょうから」
小源太は腕を組んで、眉根を寄せて考え込んだ。辰平などどうにでもなれ、という気持ちがあったが、店の者まで危害に合うと言われると迷わざるをえない。特に、以前ちらと見た、まだ幼少の辰平の娘のことを思い浮かべれば、助けてやらねば、と心が動くのをとめられはしなかった。
小源太が座るのと入れ替わりに、清左衛門が立ちあがろうとするのを、小源太がとどめた。怨恨のまだ晴れきっていない辰平とふたりきりになるのが、ちょっと気まずい気がしたし、ちょっと恐ろしくもあった。何かの拍子に怒りが爆発して、いつかのようにまた、辰平に襲いかかるのではないかという、恐ろしさであった。
清左衛門の義理の娘の沙弥が持ってきてくれた茶をすすって、気持ちを落ち着けているところへ、辰平が恐る恐るという具合に口をひらいた。申し訳なさそうな声音である。
「いまさら、よくも臆面もなく顔を見せられたものだとお思いでしょう。しかし、私も店を守らなくてはならない立場ですし、なにより、家族や店の者達の身を案じれば、恥をかなぐり捨ててでも、お嬢様におすがりするより他なく、こうしてまかりこしましたしだいです」
「お嬢様はやめてくれ」小源太は自分でも冷たく聞こえるほど、冷淡に言った。「今の私は、栗栖小源太という名がある」
「こ、これは申し訳ございません、栗栖様」
辰平は懐紙を出して汗をぬぐった。
小源太は、冷や汗にまみれている辰平をじっと見つめた。以前再会した時は、怒りでほとんど目がくらんでいたといってもよく、辰平の容姿を後になってもはっきりとは思い出せなかったが、あらためて、こうして眺めてみれば、ずいぶん歳をとったな、という印象であった。
辰平と別れて、十三年も経っているし、別れた当時の小源太はまだ五つであったから、辰平の思い出の姿は靄がかかったようにぼやけているが、そのあやふやな心象とくらべても、辰平はずいぶん皺が増えている、という気がした。
辰平の顔色がくすんで見えるのは、負い目のある相手を前にして血の気が引いているからだろうが、金に苦労していないのは、その丸みを帯びた頬とぷっくりと突き出た腹を見れば想像がつく。もう五十は過ぎているだろう、髪には白い物が目立つ。細めの目で上目づかいに、盗み見るように小源太の顔色をうかがっているのは、商人としてのぬかりなさのようなものだろうか。小源太の目の前にいるのは、かつて栗栖家で雑用に追い使われていた下男ではすでになく、今はもう芯まで商人として生きている男であった。
「しかし、どうして私がこの青山道場で教えていると知っていた」
「はあ、商売柄、というほどのことでもございませんが、店をきりもりしていると自然と世間の噂話というものには耳ざとくなるものでございます。先日、谷中の青山道場に男の身なりをした女人が師範代を務めている、という話を耳に挟みました。これは栗栖様に違いないと確信しておりました。それで、剣呑な事態に見舞われましたので、思いきって、こうしてやってきたしだいです」
「剣呑な事態?」
「実は、質屋などを営んでおりますと、中にはたちの悪い客もおるものでございます。つい先日、都合した金額と同額で質草を返せと押しかけてくる牢人者がいました。そんなことを認めては、私どもの商売はなりたちません。お断りすると、人情がないの、阿漕だなどと怒鳴り、暴れるしまつです。それも、ひとりやふたりではありません、ほとんど同じ時期に、六人もの牢人がいれかわりたちかわりやって来ては、同じように脅すのです。これはもう、私どもに対する嫌がらせに他なりません」
「用心棒をしろと言うのか」
「ぜひとも、お願いいたします」
「私にお前を助けなきゃいけない義理があるのか?」
武家と商家という身分の差があるとはいえ、小源太のぞんざいな言いかたに、横で聞いていた青山ははじかれたようにこちらを見た。面食らったという顔だった。青山の印象を悪くしたことに、小源太はしまったと思わぬでもなかったが、後で辰平との関係を包み隠さず青山に話す気でいた。それを聞けば、青山も小源太の冷ややかな態度を納得してくれるだろう。
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