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第七章 正雪は微笑む
七の二
ふと気がつけば、もう太陽は燃えるように真っ赤に色づき、家並みが濃い影を道に描いていた。
筋違橋門がもう道の先にみえているから、もうすぐ神田川に出る。
一日じゅう兄を捜して日本橋から芝の辺りまで歩いていたので、栗栖小源太はすっかり腹も減っていたし、はやく家に帰って飯を炊きたいところであるが、途中で同道することになった大家の久右衛門は別段急ぐふうもなく、埒もないお喋りをだらだらとしながら歩くのだった。久右衛門は趣味の連歌の会で何句もひねってきた帰りなのだそうだ。
「千住の多嘉様はお元気かな」
よせばいいのに、小源太がそう話を向けるものだから、久右衛門のお喋りはとまらない。
「ええもう、以前よりもずっと明るくなられて、よくお笑いになられるようになりました。それにしても、最近は昔馴染みという石上幸太夫様とおっしゃるかたもいっしょに会に出られるようになって、ひそひそふたりで話し合いながら句を考えるものだから、妬ましいやら羨ましいやら」
嫉妬心を素直に出す久右衛門を好ましく思いながら、小源太は歩いた。
と、ちょうど須田町と通新石町の間のかどから手招きしている武家の男がみえた。
北町奉行所町方同心の香流隼人だった。隣にコバンザメのようにくっついているのは、御用聞き見習いの卯之助である。
小源太が小走りに近づき、ちょっと遅れてやってきた久右衛門が香流に頭をさげて、では私はこれで、と立ち去ろうとするのを、すぐにすむから気にするな、と言って香流がとめた。
「久しぶりの蝙蝠羽織だな」
と小源太の格好を品定めするように見た。あいかわらず味もそっけもない、冷淡な物言いをする男であった。
「何か御用ですか」と小源太が訊くと、
「御用ですかどころの話じゃねえよ」と香流が答える。
「え、私は別にお上に目をつけられるようなことはしてませんよ?」
「してるんだよ、この馬鹿たれが」
「人を呼んでおいて、唐突に馬鹿とはなんですか。なんたる侮辱」
「悪いのは、お前だ蝙蝠女」
「私が何をしたと言うのですか」
「お前、最近張孔堂の連中と付き合っているだろう」
「付き合ってるわけではありません。たまに会って話をするくらいです」
「それを付き合っていると言うんだ、馬鹿」
「なんですか、さっきから馬鹿馬鹿と」
「張孔堂がどういう連中の集まりか、お前知ってるのか」
「落魄した牢人達が集まって、この先食べるに困らないよう、職人の技術を身につけたり農耕を学んだりしています。武芸で身を立てたい人は兵法を、学問で身を立てたい人は軍学や儒学などを学んでいます」
「それから?」
「それから?」
「あのな、張孔堂の親玉の由井民部之助ってのは、牢人の庇護救済を題目に掲げながら、陰じゃあご公儀転覆を画策している腹黒い男だ」
「由井先生はそんな人じゃあありません」
「会ったことはあるのか」
「ありませんけど」
「それみろ、どうせ張孔堂の連中の話を鵜呑みにしてるんだろう」
「そういう香流さんは会ったことがあるんですか?」
「会ったかどうかなんぞ、どうでもいい」
「ええっ?ずいぶん身勝手な」
「いいか、蝙蝠女。これ以上、張孔堂とはかかわるな。いいな」
そう投げつけるように言うと、香流は卯之助に行くぞと声をかけ、さっさと日本橋の方向へと去って行ってしまった。
小源太はその憎憎しい後ろ姿を、顔をしかめて見送った。
「栗栖様、町方の旦那の言われる通りですよ」と久右衛門が噛んで含めるような言いかたをした。「由井という人は、表向きは大名や旗本などとも縁のある高名な軍学者として知られていますが、どうも得体のしれないところがあります。張孔堂とのお付き合いはほどほとにしないと、いつか痛い目にあいかねませんよ」
うるさい、と思わず怒鳴りかけて、小源太は飲み込んだ。わかったようなことを言うな、人が誰と付き合あおうが勝手ではないか。金井半兵衛も丸橋忠弥も出会いはたしかに、好ましいものではなかったが、話しをしてみると、ふたりとも気持ちのいい男達だった。その頭領格である由井正雪という男も、きっと悪い人間ではない。
「うわべだけでは、けっして人間の真実の姿は見えません」久右衛門は小源太の心をみすかしたようなことを言った。「張孔堂の人達と付き合うのは、もうおやめなさい」
まるで親が、道を踏みはずしかけた子に諭すような調子で久右衛門は言うのだった。
小源太はぷいと振り向くと、ふくれっつらで家に向けて歩きだした。
その姿を、向かいの店の軒下から、暗い目でじっと見つめる骨のような老人がいた。
筋違橋門がもう道の先にみえているから、もうすぐ神田川に出る。
一日じゅう兄を捜して日本橋から芝の辺りまで歩いていたので、栗栖小源太はすっかり腹も減っていたし、はやく家に帰って飯を炊きたいところであるが、途中で同道することになった大家の久右衛門は別段急ぐふうもなく、埒もないお喋りをだらだらとしながら歩くのだった。久右衛門は趣味の連歌の会で何句もひねってきた帰りなのだそうだ。
「千住の多嘉様はお元気かな」
よせばいいのに、小源太がそう話を向けるものだから、久右衛門のお喋りはとまらない。
「ええもう、以前よりもずっと明るくなられて、よくお笑いになられるようになりました。それにしても、最近は昔馴染みという石上幸太夫様とおっしゃるかたもいっしょに会に出られるようになって、ひそひそふたりで話し合いながら句を考えるものだから、妬ましいやら羨ましいやら」
嫉妬心を素直に出す久右衛門を好ましく思いながら、小源太は歩いた。
と、ちょうど須田町と通新石町の間のかどから手招きしている武家の男がみえた。
北町奉行所町方同心の香流隼人だった。隣にコバンザメのようにくっついているのは、御用聞き見習いの卯之助である。
小源太が小走りに近づき、ちょっと遅れてやってきた久右衛門が香流に頭をさげて、では私はこれで、と立ち去ろうとするのを、すぐにすむから気にするな、と言って香流がとめた。
「久しぶりの蝙蝠羽織だな」
と小源太の格好を品定めするように見た。あいかわらず味もそっけもない、冷淡な物言いをする男であった。
「何か御用ですか」と小源太が訊くと、
「御用ですかどころの話じゃねえよ」と香流が答える。
「え、私は別にお上に目をつけられるようなことはしてませんよ?」
「してるんだよ、この馬鹿たれが」
「人を呼んでおいて、唐突に馬鹿とはなんですか。なんたる侮辱」
「悪いのは、お前だ蝙蝠女」
「私が何をしたと言うのですか」
「お前、最近張孔堂の連中と付き合っているだろう」
「付き合ってるわけではありません。たまに会って話をするくらいです」
「それを付き合っていると言うんだ、馬鹿」
「なんですか、さっきから馬鹿馬鹿と」
「張孔堂がどういう連中の集まりか、お前知ってるのか」
「落魄した牢人達が集まって、この先食べるに困らないよう、職人の技術を身につけたり農耕を学んだりしています。武芸で身を立てたい人は兵法を、学問で身を立てたい人は軍学や儒学などを学んでいます」
「それから?」
「それから?」
「あのな、張孔堂の親玉の由井民部之助ってのは、牢人の庇護救済を題目に掲げながら、陰じゃあご公儀転覆を画策している腹黒い男だ」
「由井先生はそんな人じゃあありません」
「会ったことはあるのか」
「ありませんけど」
「それみろ、どうせ張孔堂の連中の話を鵜呑みにしてるんだろう」
「そういう香流さんは会ったことがあるんですか?」
「会ったかどうかなんぞ、どうでもいい」
「ええっ?ずいぶん身勝手な」
「いいか、蝙蝠女。これ以上、張孔堂とはかかわるな。いいな」
そう投げつけるように言うと、香流は卯之助に行くぞと声をかけ、さっさと日本橋の方向へと去って行ってしまった。
小源太はその憎憎しい後ろ姿を、顔をしかめて見送った。
「栗栖様、町方の旦那の言われる通りですよ」と久右衛門が噛んで含めるような言いかたをした。「由井という人は、表向きは大名や旗本などとも縁のある高名な軍学者として知られていますが、どうも得体のしれないところがあります。張孔堂とのお付き合いはほどほとにしないと、いつか痛い目にあいかねませんよ」
うるさい、と思わず怒鳴りかけて、小源太は飲み込んだ。わかったようなことを言うな、人が誰と付き合あおうが勝手ではないか。金井半兵衛も丸橋忠弥も出会いはたしかに、好ましいものではなかったが、話しをしてみると、ふたりとも気持ちのいい男達だった。その頭領格である由井正雪という男も、きっと悪い人間ではない。
「うわべだけでは、けっして人間の真実の姿は見えません」久右衛門は小源太の心をみすかしたようなことを言った。「張孔堂の人達と付き合うのは、もうおやめなさい」
まるで親が、道を踏みはずしかけた子に諭すような調子で久右衛門は言うのだった。
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